みのむし(下)
第五章「恵子」
亜佐美から連絡が取れなくなって、二日が経った。
最後に話したのは先週の日曜日だった。「ご飯ちゃんと食べてる?」と私が聞き、「食べてるよ」と亜佐美が答えるだけの、いつもの電話。
それが無かった。今週は電話が通じなかった。午後十時を超えても繋がらなかった。
それでも日曜日の内はまだ心配してなかった。大学生なのだから連絡が途絶えることもある。友人の家に泊まることもある。スマホの電池が切れているのかもしれない。そういう言い逃れがまだ頭の中に並べられた。
だが、月曜の夜になるとそんな言い逃れは効かなくなった。
もう何度目かの電話をかける。また留守番電話だった。「亜佐美、お母さんです。心配しています。連絡をください」と入れた。メッセージも送った。既読がつかなかった。
火曜日の朝。いまだ既読が付かないことにいても立っても居られなくなって、車で亜佐美の下宿先に向かった。片道二時間の距離。その間も何度かメッセージを送ったが一度も既読にならなかった。
アパートの前に着いた。部屋の電気は消えている。チャイムを押したが返答もない。同じアパートに住んでいる大家さんに事情を話すと、気の良いご主人はすぐに、部屋を開けてくれた。
「いないですね……」
大家さんの言う通り、そこには誰もいなかった。
「お帰りになられるときに、またお声がけください」
そう言って大家さんは自室に戻っていった。
私は亜佐美の部屋にそっと足を踏み入れる。部屋の中は荒れていなかった。整頓されている。本棚には本がびっしり並んでいた。机の上には卒業論文のための資料だろうか、コピーした論文や書きかけのノートが積まれていた。
亜佐美らしい部屋だと思った。本が好きな子だった。小学校の頃から図書館に入り浸っていた。「どこにいるの?」と聞くたびに「図書館」という答えが返ってきた。
机の引き出しを開けてみる。財布はなかった。スマホも当然ない。持って出ている。亜佐美の最後のメッセージは「友達と卒論のフィールドワークに行ってくる」というものだ。娘はどこに行ったのだろう。
その時、私のスマホが鳴った。
画面に娘の名前が表示されていた。亜佐美からのメッセージだった。
胸の奥で固く結ばれていた紐がほどけた。良かった、無事だった。
震える指でメッセージを開く。でも、文面を見た瞬間、その安堵は崩れた。
「お母さん、助けて」
それだけだった。
亜佐美が書いたとは思えない文面だった。すぐに次のメッセージが届いた。
「このリンクを読んでください」
URLが一つだけ貼られていた。
これは亜佐美ではない、と思った。誰かが亜佐美のスマホを使って送っている。けれど指が勝手に動いた。娘のスマホから送られてきたURLを押さずにいられなかった。
ブラウザが開いた。
「くらやみノベル」というサイトだった。「みのむし」というタイトルの小説が表示されている。私は第一章から順に読んでいく。
嫌な小説だった。
最初の章、「ひまり」。小学五年生の子が誘拐されて、山の中の小屋に連れ込まれて、怖い話を書かされる。書かないとキリで刺されるという内容だ。文章の拙さが計算されたものでなく、本物の子どもの文章に見えた。
次の章、「桜」。次の章、「義男」も同じような内容で、残酷だった。
次の章は「亜佐美」――。
「亜佐美?」
手が止まった。
文学部の四年生。卒業論文のテーマ。篠崎教授。雄太、さおり、蓮という名前の友人たち。
「え、待って……どういうこと?」
それは私の娘の亜佐美だった。
娘が以前から話していた友人たち。その雄太君が死んだ。さおりちゃんが死んだ。蓮君が死んだ。
呼吸が浅くなる。その場にへたり込む。
そこには、亜佐美の告白が書かれていた。
娘が三人を嫌っていたこと。さおりの死を願ったこと。蓮を気持ち悪いと思っていたこと。そういう本心が娘の文章として並んでいた。
知らない娘がいた。
私の中にいた亜佐美は、本が好きで、図書館に入り浸って、毎週日曜日の電話に出てくれる優しい子だった。でも画面の中の亜佐美は、友人の死を願い、人間全般を薄っすら嫌う暗い内面を抱えた娘だった。
どちらが本当の娘なのか。
考えて、頭を振った。
どちらも本当だ。私が知らなかっただけだ。娘には私に見せていない顔があった。そんなものは私にだってある。誰にでもある。それを娘が持っていたからといって、娘の本性が邪悪だったわけではない。
冷たさも、軽蔑も、嫌悪もあった。
それでも、と私は思った。
それでも娘は最後に、母への愛情を書いていた。
「たった一人だけ。心から愛していると言える人が、います」
その一行を読んだ時、息が詰まった。
娘は私だけは愛していた。愛してくれていた。それが私にとっては何よりも大切なことだった。
だから行かなければならない。
私は娘を助けに行かなければならない。私の娘が今、長野の山の中に捕まっている。
私は「みのむし」の最新投稿を確認した。亜佐美の章の後、更新は止まっている。
コメント欄を見た。
最新のコメントが一件あった。投稿時刻は、ついさっき、私がこのサイトを開いたのとほぼ同じ時刻だった。
「渡辺恵子様。娘さんはご無事です。ご返信くだされば娘さんに会う方法をお伝えします」
体が固まった。
この人物は私の名前を知っている。私がここに辿り着くことを、最初から計算している。
亜佐美のスマホからメッセージを送ったのもこの人に違いない。娘のスマホを使って私をここに誘き寄せたのだ。
震える手でコメント欄に書いた。
「亜佐美の母です」
返信はすぐに来た。
「お待ちしておりました」
背筋が冷えた。待っていたという言葉に恐怖を感じた。
「娘さんは今、長野県の山小屋にいます。お会いになりたければいらしてください。ただし、警察には連絡しないでください。連絡した場合、娘さんがどうなるかはお分かりですね」
次のコメントが来た。
「娘さんは今、とても頑張っています。でも、もう長くはありません」
警察に電話すべきだった。それは分かっていた。分かっていたが、もう長くはないという言葉が頭から離れなかった。
私はコメント欄に書いた。
「場所を教えてください」
返信が来た。向坂集落への道順が丁寧に書かれていた。地蔵のこと。細い道のこと。山小屋のこと。まるで客を招くような丁寧さだった。その丁寧さが怒りよりも恐怖を呼んだ。
私は立ち上がり車のキーを取った。そして部屋の施錠を大家さんに頼んで、急ぎ車に乗り込んだ。
本当に行くのか、と自分に問いかける。警察に通報すべきではないのか、と理性がささやきかける。
だが、ここで動かなければ後悔すると思った。娘の危機に動かない親を、親と呼べるだろうか。
娘と会える保証のある今、行くしかない。
山道に入ると舗装が消え、木が迫ってきた。教えられた道の通りに行くと、すぐに地蔵が見えてきた。
車を止めて外に出る。山の空気が冷たかった。五月なのに山の中は冷えている。
地蔵の脇に細い道があった。私は早足で歩き始める。足元が悪い。木の根が張り出していて、何度もつまずく。それでも私は歩く速度を緩めなかった。
十五分ほど歩くと山小屋が見えた。
古い木造の建物だった。黒ずんだ外壁。板で塞がれた窓。扉が閉まっている。
一見すると廃屋のようだ。しかし近づくにつれて、その中から生き物の気配を感じた。使用されている建築物だけが放つ体温のようなものを、その建物は放っていた。
亜佐美が、ここにいる。
そう思った瞬間、足が前に出た。落ち葉を踏む音が、自分のものではないように聞こえた。
扉の前に立った。木の表面に手のひらの跡のような、黒ずんだ汚れがあった。
ゆっくりと扉に手をかける。
その瞬間だった。
背後から腕を掴まれた。振り返る間もなく顔に布が押しつけられる。鼻の奥に染みる臭いがした。
亜佐美――。
目の前が急速に暗くなった。
目が覚めた時、最初に気づいたのは臭いだった。
腐った木の臭い。土の臭い。そして鉄のような生臭い臭い。すぐにそれが血の臭いだと分かった。
体が動かない。手首が縛られている。足首も同様だった。
私は椅子に縛られていた。縄が細く引けば引くほど食い込んだ。
顔を上げて正面を見る。
そこに亜佐美がいた。
向かいの椅子に縛り付けられていた。顔色が悪く、痩せて見えた。いや、憔悴しているのだ。目の下に濃い隈があり、唇が乾いて割れていた。ズボンのあちこちに茶色く乾いた染みがある。血だ。
「……亜佐美」
恐る恐る声をかける。最悪の事態が脳裏をよぎる。
「亜佐美!」
亜佐美がゆっくりと瞼を上げた。目が合った。
「お母さん」
かすれたその声を聞いた瞬間、心が押しつぶされそうになった。週に一度の電話で聞く声とは別の、もっと前の声――小学校の低学年の頃、運動会の練習で転んで泣きながら帰ってきた時の声に似ていた。
涙が溢れそうになるのを、私は必死にこらえた。泣いてはいけない。今、私が泣いてはいけない。
「ごめんなさい」
亜佐美が言った。唇が震えている。
「お母さん、ごめ――」
「ごめん、なんて言わなくていい」
体が動いていたら私は亜佐美を抱きしめていただろう。それくらい愛おしかった。
「全部、読んだから」
亜佐美の目が、わずかに見開かれた。
「あなたが書いたもの、全部読んだよ」
亜佐美が何かを言いかける。
「でも、私はあなたのお母さんだから」
私はそれを遮って言った。
「あなたがどんな娘でも、私はあなたの母親だから。娘が辛いときに傍にいられないなんて、そんなのは嫌だから」
亜佐美の目から涙が溢れた。ぽろぽろと、乾いた頬を濡らしていく。
私の目からも涙が溢れた。
しばらく、私達はそうやって向かい合ったまま声を出さずに泣いていた。
どのくらいそうしていただろう。
亜佐美の涙が先に止まった。乾いた頬を新しい涙が伝うことはなくなった。亜佐美は疲れたように目を伏せ、縛られた体を少しだけ椅子の背にもたれさせた。
その姿を見て私は初めて亜佐美から視線を外した。
外した先に部屋が見えた。部屋は薄暗くランプが一つだけ点いている。そして部屋の隅には三人の若者がいた。三人が椅子に縛られたまま亡くなっていた。
亜佐美の文章に書いてあった友人たちだと分かった。雄太。さおり。蓮。
みんな惨い死に方をしていた。雄太の首。さおりの額。蓮の目と耳。亜佐美が書いていた通りの傷が実物としてそこにあった。
これ以上見てはいけないと思って、私は視線を逸らした。
天井を見る。
袋が四つ吊るされている。大きさがそれぞれ違っている。動いているものは――ない、と思っていた。
「ひっ」
思わず悲鳴を漏らした。その目と、視線が合った。
一番大きな袋だけがわずかに動いていた。麻袋の破れ目から、大きな目が覗いている。
目は瞬きをした。ゆっくりと一度。
生きている。あの袋の中には生きた人間がいる。
亜佐美の文章にも出てきた正体不明の誰か。今もそこにいるのだ。閉じ込められたまま私を見下ろしている。
何かを訴えているようにも見えた。逃げろ、と言っているようにも、助けて、と言っているようにも見えた。でもその目は動くわけではなく、口を開いて叫ぶわけでもない。ただ、破れ目からこちらを見ているだけだった。
「ようこそお越しくださいました」
その時、不意に背後から男の声がした。
首だけ横に向けてなんとか振り返る。すると小屋の入り口に黄色いカッパを着た男が立っていた。
四十代くらいだろうか。背が高く、全体的にがっしりしている。穏やかで、かえって不気味な顔だった。
「お母様ですね」
「……そうです」
私は緊張に震えそうになる声を抑えながら言った。
「ここに来られたということは、もうご説明は不要ですね。私があなたに何を求めているかということも」
男はそう言って私の前にパソコンを置いた。
私は男を見る。サイトを読んだ私には分かる。私は怖い話を書かなければならない。
「亜佐美さんの書かれた文章は見事でした。特に、最後のお母様のくだりは」
男はそう言って、亜佐美の方をちらりと見た。それから懐に手を入れ、キリを取り出した。太い金属の針がランプの光を鈍く反射した。
「そこで恵子さんにも、娘さんへの気持ちを書いていただきたいのです。もし、娘さんへの気持ちが十分でなかった場合は、亜佐美さんにその罰を受けていただきます。恵子さんの思いが文章で測られるということです」
頭が真っ白になった。
私ではなく、亜佐美が罰を受ける? 亜佐美が?
体の芯が抜けたようになった。指先が冷たい。耳の奥で自分の心臓の音がやけに大きく鳴っている。
亜佐美を見た。亜佐美も私を見ていた。亜佐美の目にはもう涙はなかった。怯えもなかった。ただ、私を見つめている。私に対する信頼がある。
この子を、生かしたい。
他のことは、もう何も考えられなかった。私が書けば亜佐美は生きる。それだけだった。
「恵子さんが書いている間は、亜佐美さんには手出しはしません。制限時間内に既定の文字数に達しなかった場合、キリを刺します。……それでは始めてください」
男がエンターキーを押した。画面の数字が動き始めた。
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
何を書けばいい。私は考える。私は亜佐美と違う。書くことがさほど得意ではない。普段書くのは仕事のメールと、たまに亜佐美へのLINEだけだ。文章に慣れ親しんではいない。
でも、娘への気持ちを書けと男は言った。それなら書けることがある。
手紙だ。
私は亜佐美に向けて手紙を書くことに決めた。
亜佐美へ。
お母さんです。今、あなたの向かいに座っています。ここからあなたの顔がよく見えます。よく頑張ったね。あなたはお母さんの自慢の娘です。
あなたが生まれた日のことを覚えています。朝の五時十四分。病院の窓から差し込んでくる光が綺麗でした。あなたは赤ちゃんなのにあまり泣かなくて、目だけがぱちぱちと動いていました。何かを見ようとしていました。
あなたはずっとそういう子でした。本を読んで、考えて、文章にして。好奇心旺盛な子でした。
あなたが三歳の時、お父さんが亡くなりました。
私は一人であなたを育てました。お金が足りない月がありました。参観日に行けない日もありました。運動会に遅刻した年もありました。そのたびにあなたは「いいよ」と言ってくれた。その「いいよ」が私には悲しかった。あなたが我慢していると分かったから。でも、どうしようもなかったの。ごめんね。
私があなたを育てた二十二年間は、私の人生で一番幸せな時間でした。
あなたがいなかったら、私はお父さんが死んだ後、生きていけなかったかもしれません。
私はあなたを愛しています。この世の誰よりも。私自身よりも、あなたのことを大切に思っています。
書き終えた。文字数は二千文字を超えており、時間も制限を超えていない。
しばらくしてタイムアップを告げるアラームが鳴った。
男が私の背後に回り、私の書いた文章を読んでいる。
そして静かに言った。
「駄目ですね」
画面を覗き込んでいた男が、ゆっくりと頭を振った。
「え……?」
「これは、怖い話ではありません。私が求めている文章はこんな手紙ではありません」
私は息を呑んだ。
「では、亜佐美さんに罰を受けていただきます」
亜佐美の顔がさっと青ざめる。
「ちょ、待って、待ってください。娘への手紙ではダメなのですか? 娘への気持ちを書けと――」
私は声を張り上げた。
「気持ちを書けとは言いましたが、読者が読んで怖いと思うものでなければなりません。サイトは見ていただけたのですよね? 趣旨をご理解いただけなかったのは本当に残念です」
男は冷たかった。さっきまでの穏やかさが嘘のようだった。
「お母さん」
亜佐美の声がした。
「大丈夫、私なら大丈夫。お母さんなら次は書ける」
亜佐美が励ましていた。縛られた体で、痩せた顔で、私を励ましていた。
男はキリを手に、亜佐美の方へ歩み寄った。
「やめて! やめてください!」
私は叫んだ。
男は亜佐美の左腕にキリを突き立てた。深くはなかった。貫通はしていない。でもキリはがっちりと腕に埋まっていた。
亜佐美が息を詰めた。声は出さなかった。
男はキリを引き抜いた。
血が垂れた。亜佐美の服の袖が、じわりと赤く染まった。
「亜佐美ッ!」
「大丈夫……」
亜佐美は言った。
「お母さん、大丈夫、書いて。次は書いて」
震える声だった。娘は私を責めなかった。それが一番苦しかった。責めてくれれば、まだ楽だった。
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
カウントダウンが再び始まった。私はキーボードに指を置いた。
怖い話。怖い話を書け。
私は必死に考えた。だが、娘への気持ちと怖い話を両立させる方法が分からない。
だが、書く内容の前提に恐怖が必要であることは分かった。自分の人生で、一番怖かったこととは何だろう。怖かった経験を書けば、それが怖い話になるかもしれない。
思い浮かんだのは、お父さんが死んだ時のことだった。
あの病室。あの夜明け。お父さんの呼吸がだんだん浅くなっていく音。私は病室の椅子に座って、お父さんの手を握っていた。手がだんだん冷たくなっていった。
そのことを書こうとした。書き始めた。
でも、書いているうちに気づいた。
これは怖い話ではない、と。
確かに私にとっては怖い経験だった。夫を失う恐怖。一人で子育てをしていく恐怖。これから先、自分が生きていけるのかという恐怖。全部あった。全部あったのに、でも。
私はそれを乗り越えた。
全て乗り越えた先の今を生きている。
亜佐美がいたから乗り越えられた。亜佐美を育てなければならなかったから、立ち上がった。朝起きて、ご飯を作って、亜佐美を送り出して、仕事に行って、帰ってきた。その繰り返しが、私を生かした。
夫の死は私の中で過去になった。今でも寂しい。でも恐怖ではない。
乗り越えてしまった経験は、もう怖い話にならない。
――私には、書ける恐怖がない。
理不尽だった。
強く生きてきたことが、娘を救う道を閉ざしている。
私は何かを書こうとした。架空の話でもいい。何でもいい。でも、嘘の怖い話を書ける技術が私にはない。文章を書いた経験がなさすぎた。
カウントダウンが進む。残り三十分。残り二十分。残り十分。
タイムアップの音がした。
「足りませんでした」
男はまた亜佐美に歩み寄った。亜佐美が私を見ている。心なしか恨みがましさを感じる。当たり前だ。
「待って、お願い、待ってください!」
男は私の制止を無視して亜佐美の右腕を刺した。今度はさっきより深かった。
亜佐美が声を漏らした。うめき声だった。
「亜佐美!」
「……お母さん」
亜佐美の声に、初めてわずかな変化があった。
「なんで書けないの」
責められた、と思った。
「ごめん、ごめんね、亜佐美、お母さん頑張るから、次は書くから――」
「……」
亜佐美は答えなかった。
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
カウントダウンがまた始まった。
私はキーボードに額を当てそうになった。何を書けばいい。何を書けば亜佐美を救える。娘への愛情だけでは却下される。乗り越えた悲しみも書けない。嘘も書けない。
「お母さん」
亜佐美が言った。私を呼ぶ声に棘を感じる。
「私の章、読んだでしょ?」
「うん」
「私が何を書いたか、覚えてる?」
「うん。覚えてる」
「私は、本心を書いた。嫌悪を書いた。恐怖を書いた。それが怖い話になった。だからお母さんも本心を書けばいい」
私は亜佐美を見た。娘が、母を教えていた。
文才のない母を亜佐美が見かねていた。母としてそれは情けないことだった。だが、今は情けないと思っている時間もない。
分かった。本心を書く。
でも私の本心は、娘への愛情だ。それが本心だと思う。
他に、何がある?
考えた。私の中の暗い部分を底まで覗いた。
夫が死んだ夜、なぜ私一人を残したのかと夫を恨んだこと。三歳の亜佐美が泣くたびに、いっそ私も死にたいと思ったこと。再婚を勧めてきた義姉に本心では惹かれて、しかし押し殺したこと。
これも確かに本心だった。だが、怖い話にはならない。哀しい話にしかならない。
考えた。
もっと暗い、もっと底のものを、と。
――もしかしたら。
頭の奥に、ふいに浮かんだものがあった。
私はこの男を憎んでいる。
心の底から、殺したいほど、憎んでいる。
それなら書ける。
私はキーボードに指を置いた。打ち始めた。
この男への憎しみを。亜佐美をこんな目に遭わせた憎しみを。
言葉が次から次へと出てきた。鬼畜。外道。許せない。地獄に落ちろ。一行書くたびに、また次の罵詈が浮かんだ。書きながら、私は震えていた。怒りで震えていた。これは本心だ、と思った。確かにこれは私の本心だ。
残り三十分。残り十五分。もうじきタイムリミットだ。
書きながら、私は画面を読み返した。そして驚きに手が止まった。
……まるで、怖くなかった。
書いてある言葉を私自身が読んでも、何も感じない。鬼畜、外道、許せない――並んだ言葉はただの罵詈雑言だった。怒りの羅列だった。
怖い話になっていない。
なぜだろう。
憎しみは本心だ。心の底から憎んでいる。なのに書くと何も伝わらない。怒りだけが言葉になってそれ以上のものにならない。
浅いのだ、と思った。
私のこの感情は外に向いている。この男への怒り、敵への怒り。それは私の外側にある。
対して、亜佐美が書いた怖さは違った。亜佐美は自分の中を見つめている。さおりへの嫌悪。蓮への気持ち悪さ。雄太の死を悲しめない自分。それらは全部、自分の中の闇だった。
自分の中の闇――私の文章にはそれがない。
それゆえに浅い。私は自分の闇をまだ捉え切れていない。
残り十分。残り五分。
指は動いていた。動かしていた。書かなければ、亜佐美が刺される。それだけのために、罵詈雑言を打ち続けた。文字数を埋めることだけを考えた。
タイムアップのアラームが鳴った。
男がパソコンを覗き込んだ。しばらく無言で読んでいた。
私は息を詰めて待った。お願い。お願いだから。
「怖くありません。これはただの悪口です」
男は静かに言った。全身から力が抜けた。
男は亜佐美に歩み寄る。
「やめてぇえッ!」
私は叫んだ。縄が手首に食い込んだ。椅子が動かなかった。
男は亜佐美の太ももを刺した。亜佐美が呻いた。今度は呻き声が長かった。
「あ、ああ……」
亜佐美の体が震えていた。血が椅子の脚を伝って床に落ちた。
亜佐美が顔を上げて私を見る。
目つきが変わっていた。
さっきまでの励ます娘の目ではなかった。はっきりとした恨みの目。
「……なんで書けないの?」
亜佐美の声が一層低くなった。
「お母さんは、いつもそう」
「え……」
「いつも、何もできない」
がん、と鈍器で頭を殴られたような衝撃があった。
「運動会、遅刻したよね。参観日も、来なかった日があったよね」
「亜佐美、それは――」
でも亜佐美はいいよって言ってくれた。言ってくれたじゃない。
「『いいよ』って言ったのは、本当に『いい』からじゃない。言っても仕方ないからだよ。お母さん、仕事で疲れてて、責めたら悪いと思ったから、私が我慢すればいいと思って。だから『いいよ』って言ったの」
亜佐美が血を流しながら、言葉を連ねた。
「私、ずっと、お母さんに遠慮してた。お父さんが死んでから、お母さんのためにずっと我慢してた」
亜佐美の体がふるふると細かく震える。
「私は……いつまで我慢すればいいのッ!」
亜佐美の目から涙が流れていた。それは痛みの涙ではなかった。
「なんで書けないの、お母さん!」
私は何も言えなかった。娘の言葉は、全部、本当だった。
「タイムオーバーです」
いつからカウントダウンが始まっていたのかすら分からなかった。気づいたらまたアラームが鳴っていた。男がキリを手に立ち上がる。亜佐美の唸り声が部屋に響く。
男は亜佐美の腹にキリを押し込んだ。
さっきまでの刺傷とは違った。深かった。キリの先端がセーターを、皮膚を、皮下脂肪を、筋肉を、さらにその奥を貫いていた。
ずぶ、という音が聞こえた気がした。到達してはいけないところに到達したのが分かった。
「あああああああッ!」
亜佐美が絶叫した。今までとは違う声。理性が痛みに負けた声だった。
男はキリを捻った。
内臓の中でキリの刃が回る感触が、亜佐美の顔に出る。目が見開かれ、開いた口から粘り気のある唾液が糸を引いた。
男がキリを抜いた。抜ける瞬間、血が噴いた。セーターが腹の一点から一気に赤黒く染まって、その染みが下腹部に向かって広がっていった。
血は止まらなかった。ずっと、ずっと、流れ続けた。
「ああ、あ、あ、あ――」
亜佐美の口から、意味のない音が漏れ続けていた。
「亜佐美ッ!」
私は叫んだ。亜佐美の顔がゆっくりと、私の方に向く。焦点が合っていない。瞳が揺れている。呼吸の度に胸が震えた。痛みで全身が震えていた。
「痛い」
亜佐美が言った。
「痛いよお母さん」
子どもの声だった。
「痛い痛い痛い、お母さん、痛いいいいッ!」
亜佐美が椅子の上で体を捩らせた。何度も体を捩らせた。亜佐美の手首が椅子の肘掛けで擦れているのが見えた。きっと血が滲んでいる。でも亜佐美はそれも感じていないようだった。腹の痛みが、他の全てを塗り潰している。
「亜佐美、ごめん、ごめんね、ごめんね――」
「謝るなよッ!」
亜佐美が叫んだ。子どもの声から、一気に別の声に変わった。
「謝んなよッ! 謝るくらいなら書けよッ! なあ書いてくれよッ! なんで書かねえんだよッ!」
私は硬直した。こんな口調の娘を私は一度も見たことがなかった。
「痛いんだよッ! お母さん分かる? 腹ん中にキリ入れられんの! 捻られんの! 死ぬほど痛いんだよッ!」
「亜佐美――」
「全部、お前のせいだッ!」
亜佐美が私を「お前」と呼んだのは、これが初めてだった。
「お前が書けないからだッ! たかが二千文字、それを一時間で書くだけだろ! なんでできないんだよッ!」
亜佐美は泣いていた。血の涙ではなかった。本物の涙だった。痛みと、怒りと、恐怖と、絶望の、全部が混じった涙だった。
娘の言葉が、私を一枚ずつ剥いでいく。「お母さん」と呼ばれていた皮が剥がれる。「母親」という役割が剥がれる。娘に愛されている自分、娘を守っている自分、娘のために生きてきた自分、全部が剥がされていく。
「書けよッ! 書けッ! 書けッ! 書けって言ってんだよッ!」
残ったのは、娘に「お前」と呼ばれる、無力な五十代の女だけだった。
男はキリを布巾で拭いていた。丁寧に、こびりついた血を落としていた。娘の叫びを男は気にしていなかった。男にとって、娘の痛みも、私の慟哭も同じくらいどうでもいいのだ。
男はキリを拭き終わると、ゆっくりと自分の椅子に戻った。
「では、引き続きお願いします」
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
カウントダウンがまた始まった。もう耐えられない。私は何度娘を見殺しにすればいいのか。
亜佐美の叫びが、まだ耳の中で反響している。何を書けばいいのか、考えようとしても、考えられない。
「なんで書かねえんだよォッ!」
亜佐美がまた叫んだ。
娘の顔色は、もう生きている人間の色ではなかった。白を通り越して、青かった。唇が紫色だった。
それでも娘は叫び続けていた。
叫ぶ体力がまだあった。
叫ぶ体力があるということは、まだ生きているということだった。まだ、刺されれば、痛みを感じるということだった。
「いつもいつも頑張りが足りないんだよッ! もっと頑張れよ……お前はよォッ!」
だが、亜佐美と同様、私の方も限界だったのだ。
……もっと頑張れ?
その言葉が、私の頭に入ってくるまでに、一瞬の時間がかかった。
私は娘を見た。
娘は、憎しみで歪んだ顔で私を睨んでいた。母を睨んでいた。
私の中の芯が、ゆっくりとずれていく。
もっと頑張れ、頭の奥でその言葉が反響した。頑張ってきた。母であるために。父親を失った亜佐美の母であるために。何もかも捨てて、娘のために生きてきた。
なのに、もっと頑張れ?
頭の奥で、細い糸がプツン、と音を立てた。
切れた、と分かった。
夫を失ってから、ずっと張り詰めていた糸だった。
その糸が今、娘の言葉で、切れた。
「ひ」
口から変な声が出た。
「ひ、ひひ」
笑っていた。
自分が笑っているのだと気づくのに、少し時間がかかった。笑い声が自分の口から出ていた。
「ひ、ひっ、ひひひひひひひ」
亜佐美が、泣くのをやめた。
「……お母さん?」
「……頑張ってるよ」
私は呟いた。自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。
「え……?」
「お母さん、頑張ってるよ」
私はもう一度言った。
「ひひ、ひひひ、あはッ、あはははははは」
笑い声が止まらなかった。指が震え始めた。
震えは、指から手首に、手首から腕に、腕から肩に、肩から全身に広がった。全身が震えていた。
「私だって、頑張ってるんだよ」
声が大きくなった。
「頑張って来たんだよッ! 亜佐美ィッ!」
顔を上げた。亜佐美が驚いた顔で私を見ていた。
「お母さんはね、頑張ってるの。ずっと頑張ってきたの。お父さんが死んでから、ずっと、ずっと、あなたのために頑張ってきたの」
「お……お母さん?」
「お金が足りないから、朝から晩まで働いて。参観日に行けなくても、運動会に遅刻しても、お母さんずっと働いてた。あなたのために働いてた。あなたのために、生きてきたの」
言葉が止まらなかった。
口から勝手に言葉が出てきた。何十年も、胸の奥に溜めていた言葉が一気に噴き出してきた。
「あなた、『いいよ』って、言ってくれてたじゃない。『いいよ』って言ってくれてたから、お母さん、頑張れたんだよ。なのに今、違うって言うの? 全部、我慢してたって、言うの?」
「お母さん、私、そんな――」
「私だって、別の人生を生きられたんだよッ!」
言ってしまった。言ってはいけない言葉が、口から出てしまった。
「お父さんが死んだ時、あなたはまだ三歳だった。私、三十二歳だった。三十二歳の未亡人。まだ、再婚できた。子ども一人抱えた女だって、もらってくれる人はいた。実際、いたよ。何人かいた」
亜佐美が息を呑む。
「でもお母さん、あなたを育てるって決めたから。あなたが可哀想だと思ったから。三歳の子に、父親じゃない男をお父さんって呼ばせるのは嫌だと思ったから。だから、諦めたの。私の人生、諦めたの」
心の中の、今までずっと温かった場所が冷えていく。
「違う、違うお母さん、違うの、痛かったから。そんなつもりじゃ、ねえ聞いて、お母さん、お母さん聞いて――」
「なのに、その私を……お前呼ばわりするの? 頑張りが足りないって、言うの?」
言葉が止まらなかった。
「二十二年間、諦めてきた。全部、あなたのために。好きな服も買わなかった。旅行にも行かなかった。友達とも遊びに行かなかった。全部、あなたのため。あなたの大学の学費のために、貯金してきた。あなたが下宿するお金を貯めるために、パートを三つ掛け持ちした」
口が勝手に動いていた。震えが収まらなかった。
「それなのに、今、あなた、私に『書けよ』って。『お前のせいだ』って。今まで私が、あなたのために諦めてきた全部を、あなた、知らなかったって言うの? ずっと、お母さんのせいだって、私を悪者にしてきたの? ひ、ひひ」
また、笑いが出た。
「知らなかったわけじゃ――」
「知らなかったんでしょォッ!」
私は叫んだ。自分の声に自分で驚いた。
「お母さんが何を諦めてきたか、何も知らないで、のうのうと大学に行って、お友達と楽しく過ごして、文学部で本なんか読んで、卒論だなんだって!」
「お母さん!」
私は笑った。笑っていた。泣きながら、笑っていた。
「あなたがいなかったら、私、もっと幸せだったかもしれないね」
言った。
言ってしまった。
部屋から音が失われる。
亜佐美の口が、開いたまま固まった。血まみれのセーターの胸が、浅く、速く、上下していた。
男が、わずかに首を傾けた。興味深そうな顔だった。
「お母さん、今、なんて……」
「あなたがいなかったら、お母さん、もっと幸せだった!」
私は言った。
声が、さっきまでよりも落ち着いていた。壊れた後の静けさだった。
「嘘。嘘。お、お母さん、違う、違うの、さっきのは痛くて、痛くて、本当は――」
「本当も嘘もないよ、亜佐美」
私は首を振った。
「あなたの『本当』は、私にはもう、どうでもいい」
亜佐美が泣き出した。
さっきの子どもの泣き方ではなかった。大人が、何かを失ったことに気づいた泣き方だった。
「あなたが生まれた時間、午前五時十四分だったの」
娘は、血まみれで、青白い顔で、泣きながら私を見ている。
「朝の五時十四分。光がね、病室に差し込んでたの。すごく綺麗な光だったの。その光の中で、お母さん、あなたを抱いてたの。あなた小さくて、赤くて、目がぱちぱちしてて」
私は笑った。
「その時にね――殺しておけばよかったね」
部屋が静まり返った。
「お母さん、お願い、お母さん、私、私――」
「黙れ」
私は言った。
「もう、私に話しかけないで」
私は男を見た。
男は穏やかな顔で私を見ていた。何も言わずに待っていた。
「殺してください」
私は言った。
男が、ゆっくりと首を傾けた。
「どなたを、でしょうか」
男が聞いた。
私は、亜佐美を見た。
娘を見た。
娘は、もう私を見ていなかった。うつむいて、泣いていた。
「……その子を」
私は言った。
「亜佐美を、殺してください」
亜佐美の目から、涙が流れた。静かな涙だった。
「私には、娘なんていませんでした」
私は男に言った。
「お母さん、お母さん、違う、違うお母さん! ねえ、違うよね、お母さん! ねえッ!」
亜佐美が叫んだ。
「その子は他人です。私の娘ではありません。私はずっと、一人だったのですから」
私は振り返らなかった。娘の顔を見なかった。
男はあくまで無表情で言った。
「承知いたしました」
第六章「一成」
六月最初の金曜日だった。
空は朝から薄く曇っていて、風が少し冷たかった。
俺は上がり框に腰掛けて長靴を履いていた。山に入る日は、いつもこの長靴だった。底がすり減って、もう何度も履き替えようと思いながら、結局、同じものを十年近く使っている。
俺は顔を上げた。廊下の先に台所が見えた。綾香が水筒にお茶を注いでいる。最後の一滴まで入れようと、やかんの底を軽く振っていた。その手つきに覚えがあった。結婚前からの綾香の癖だった。十五年経っても変わらないものがある。そのことに、俺は不思議な安堵を覚えた。
「拓海、ちゃんと着いた?」
「うん、さっきお義母さんからLINE来てた。夕方まで預かってくれるって」
「久しぶりだね、二人だけ」
綾香が顔を上げて笑った。目尻に小さな皺ができる。四十を越えてからのこの皺が、俺には好ましかった。若い頃の綾香よりも、俺は今の綾香が好きだった。
長野の山中に入ったのは九時過ぎだった。
俺が学生時代から通っている渓流だった。県境に近い地図にも載っていない沢で、本流から細い林道を一時間ほど分け入った先にある。水が澄んでいてヤマメが出る。人はほとんど入らない。俺が二十代の頃に師匠から教わった場所で「人に教えるな」と言われた所だった。だから俺は、綾香以外の誰にもこの沢を教えていない。
車を林道の終点に停めて、そこから二十分ほど沢に沿って歩いた。沢音が大きくなったり小さくなったりした。綾香は俺の後ろを、足元を確かめながらついてきた。渓流靴のフェルト底が濡れた石の上で滑らないよう、一歩一歩、丁寧に歩いていた。
開けた淵に出た。
大きな岩が二つ川の中に並んでいて、その間が深く淀んでいた。俺が好きなポイントだった。岩に腰を下ろすとちょうど竿を出しやすい角度になる。綾香はその隣の少し平らな岩に座った。釣りはしない。本を一冊持ってきていた。読むわけでもなくただ膝の上に置いて、水面を見ていた。
渓流は標高があるせいか、空気が澄んでいた。風が通るたびに水面に細かい光が走る。鳥の声と、水音と、遠くで木の葉が擦れる音だけがあった。
「ねえ一成さん」
「ん」
「拓海、中学二年生になってから、あんまり喋らなくなったと思わない?」
「思う。でも思春期だろ。そういうもんだ」
「そうなのかな」
「俺もそうだったよ。俺も高校卒業するまで親父と会話らしい会話をした覚えがない」
綾香が笑った。それから少し黙って、また水面を見ていた。
「ありがとうね」
「なにが」
「今日、連れてきてくれて」
俺は曖昧に頷いた。照れくさいので何も答えなかった。代わりに水面に落ちた毛鉤の動きをじっと見ていた。流れに乗って下る毛鉤の白い羽が、岩の影に入って見えなくなる。その瞬間が俺の一番好きな時間だった。
その時だった。
背後で石を踏む音がした。
こんな場所に人が来ることはほとんどない。俺は反射的に振り返った。
「いい天気ですね」
だが、降ってきたのは穏やかな声だった。俺たち以外の釣り人がいたのか、と思って見上げたが、逆光で顔がよく見えなかった。顔の見えない相手に曖昧に会釈した。
その瞬間――後頭部に衝撃があった。
ゴッ、という鈍い音。それから視界に星のような白い光が広がり、水面の光が遠ざかった。
綾香の短い悲鳴が聞こえた気がした。
次に意識を取り戻したとき、最初に感じたのは木の匂いだった。
最初、釣り場で寝てしまったのかと思った。しかし風の音が違う。川から吹く風の音ではなく、木々を通ってくる風の音が聞こえた。それに寒かった。背中から寒さが這い上がってくる。コンクリートでも砂利でもない、土の寒さだった。
瞼を開けた。
薄暗い部屋だった。天井が低く、剥き出しの梁が走っていた。板葺きの屋根の裏側が見えた。壁も板だった。あちこちの板の継ぎ目から、外の光が細い線になって差し込んでいる。それで、ここが建物の中だということが分かった。
次いで、自分が椅子に座らされていることが分かった。
しかし、ただ座らされているわけではなかった。両手首が前で重ねられて縛られ、胴体は椅子の背もたれに、両足首はそれぞれ椅子の脚に固定されている。縄は細く、けれど食い込むように固く結ばれていて、力を入れても緩む気配はなかった。
後頭部がずきずきと痛んだ。だが、触れたくても縛られているので触れられない。俺は意識を外に向けることにした。
部屋を見回した。
誰もいなかった。
俺を殴った男がどこかにいるはずだ。しかし部屋の中に人の姿はない。机が一つ、椅子が四つ、ランプが一つ、それだけだった。机の上にはノートパソコンと小ぶりのナイフが置かれていた。
その時、耳の奥で小さな音がした。
最初、自分の耳鳴りかと思った。長く意識を失っていた後の、血流の音か何かだろうと。
だが、音が続いた。一定の周期で小さな電子音のようなものが、右耳の奥で鳴っている。
俺は首を振った。音は消えなかった。右耳に何かが詰まっていることに気がついた。
「お目覚めですか」
声がした。声は、耳の奥で響いた。
俺の体が固まった。誰の声だ。どこから聞こえている。
穏やかな男の声だった。年齢は判然としない。だが若くはない、ということだけは分かった。声には抑揚がほとんどなく、まるで朗読のような淡々とした調子だった。
イヤホンか。俺は理解した。男はどこか別の場所から、俺の右耳のイヤホンに直接話しかけている。別室にいるのか、もっと遠い所にいるのかは分からない。
どこかにカメラがあるのか?
部屋の四隅を、目だけで素早く確かめた。だがカメラらしきものは見つからなかった。
「そのまま聞いてください。お話があります」
男の声は、俺の動揺を全く気にしていなかった。
「綾香は」
俺は宙に向かって言った。喉が乾いていて、声がかすれた。
「綾香はどこにいる?」
「奥様はご無事です」
声が答えた。
ご無事です。その一言で肩から力が抜けかけた。だが、無事だと男が言ったからといって、本当に無事だとは限らない。
「どこだ。綾香はどこにいる」
「それはまだお教えできません」
「妻はどこだッ! 綾香、綾香ッ!」
俺は叫んだ。叫びながら、椅子の上で暴れた。縄が胴に食い込んだ。胸が圧迫されて、息が詰まった。それでも俺は止まらなかった。
だが、声は変わらなかった。
俺がどれだけ叫んでも、暴れても男の声には微塵も動揺がなかった。
「落ち着いてください」
男は静かに言った。
「奥様を害する意図はありません。少なくとも、今のところは」
今のところは。その言葉が、俺の動きを止めた。
「……どういう意味だ」
「あなたには、手伝ってもらいたいことがあります」
声はあくまで穏やかに続けた。
「今からノートパソコンの画面に奥様を映します。落ち着いてご覧ください」
突然、机の上にあったノートパソコンのスリープが解除され電源が入った。
画像が表示される。
綾香だった。
目隠しをされ、両手を後ろで縛られ、椅子に座らされている。白いブラウスの肩のところに汚れが見える。だが、血ではなさそうだ。他に傷があるようにも見えない。
俺は喉の奥で低く唸った。
「写真は今朝撮ったものです。あなたが言う通りにすれば、奥様はこのまま安全です。もしそうでないのであれば、奥様は別の用途で使わせていただきます」
まるで妻を物のように扱うその口調が不快だった。
「クソがッ!」
俺は叫んだ。叫ぶことしかできなかった。手を伸ばせるなら声の主の喉を掴んでいる。それができないから声だけが暴れた。
「……俺に何をさせるつもりだ」
「順を追ってお話しします。その前にまず、私達の間のルールからお伝えしてもよろしいですか」
ルール。その言葉が頭の中で引っかかった。こいつは自分のしていることをゲームか何かだと考えているのか? 俺が答えないでいると、男は俺の同意を待たずに続けた。
「ルールは三つです」
声が言った。
「一つ。一成さんには行動の自由があります。この部屋から出ることも、山を下りることも、警察に通報することも、お好きにどうぞ。私はそれを止めません」
俺は声に集中した。
「二つ。奥様の居場所を知っているのは私だけです。一成さんが逃げ出した場合、私は奥様への対応を即座に停止します。奥様は誰にも発見されないまま、一日もたずに亡くなる仕組みになっています。私を探そうとしたり、私に手を出した場合も同様です」
「……」
「三つ。私の指示に従っていただいている限り、一日に一度、奥様と電話を繋ぎます」
声は淡々と続けた。
「以上です。これは脅しではありません。あなたには選択権があります。私を信じて指示に従うか、逃げ出して警察に通報するか。何を選んでいただいても結構です」
俺は、しばらく宙を見ていた。
綾香は今どこにいるのか。この声の主は誰なのか。警察を呼んでいいのか。呼んだらどうなるのか。頭の中で様々な問いが空回りした。
だが、それよりもまず確認すべきことがあった。
「綾香の声を聞かせろ」
「……いいでしょう」
声は少し考えるように間を置いた後、頷くような調子で言った。
「その前にまず一成さんの拘束を解きましょう。机の上のナイフをご覧ください」
俺は机の上を見た。果物ナイフのような小ぶりな刃物が置かれていた。柄は木製で刃は短いがよく研がれている。窓から差し込む光に、刃が鈍く光っていた。
「それで縄を切ってください」
最初からそのために置いてあったのだ。
縄を切れば自由になる。自由になれば、声の言う通り逃げることも警察に行くことも可能だった。
だが、そのどれも綾香を見つけることには繋がらないことに気がついた。
声の主にしか綾香の居場所は分からないのだ。
俺は深く息を吸って机に身を寄せた。まずは自由になることが先決だ。縛られた不自由な手でどうにかナイフを手に取ると、手首の縄にナイフの刃を当てた。
縄が切れた。それから屈んで足首も切った。
「結構です」
声が言った。
「机の引き出しを開けてください。食事と水が入っています」
俺は引き出しを開けた。パンと水があった。
「これから落ち着いて話を続けるには、お体に栄養が必要です。どうぞお召し上がりください」
俺は食べた。乱暴に食べた。味はしなかった。ただ顎を動かして、飲み下した。水で流し込んだ。
「召し上がられたようですね。では、早速奥様と通話を繋ぎます。二番目の引き出しにスマートフォンが入っていますので取り出してください」
俺は引き出しを開けた。俺のものではないが、本当にスマホが入っていた。
「それでは通話をつなぎます」
スマホの液晶が明るく光った。呼び出し音が鳴り響く。
二回、三回、四回。
俺は恐る恐る通話ボタンを押す。
「綾香」
俺は呼びかけた。息遣いが聞こえた。
それから、小さな声で、
「一成さん」
綾香の声だった。
間違いなく、綾香の声だった。
「無事か。怪我は」
「大丈夫よ。どこも怪我はしてない」
綾香の声は震えていた。泣いているわけではなかった。泣くのを必死でこらえている声だった。俺にはそれが分かった。十五年連れ添った仲だ。綾香が本当に追い詰められた時にどんな声を出すか、俺は知っている。
「場所は? 今どこにいる?」
長い沈黙があった。
「……言えない」
綾香が言った。
「言ってはいけないって言われてる」
「……そうか」
ここまで用意周到な犯人だ。当然、手を回しているだろうとは思っていた。しかし、綾香を助けるためには、その犯人を俺は出し抜かなくてはならない。
「言わなくていい……。俺がなんとかする」
「だめ」
綾香が、今度ははっきりと言った。
「だめ。お願い、どうにかしようとか思わないで。助けを呼んだりしないで」
「なぜだ、綾香」
「お願い一成さん、お願いだから、言う通りにして。お願い」
綾香の声が震えていた。おかしい。異常に怯えている。
「けど、俺は」
「お願いします」
その敬語が一拍遅れて俺の耳に届いた。
お願いします。そんな敬語は夫婦になって十五年、聞いたことのない言葉だった。
綾香は怯えている。声を出すことすら、怖がっている。
通話が一方的に切れた。
「以上です」
声が言った。俺はしばらく、何もない空中を見ていた。
「明日の朝、また指示を出します。それまでお休みください。隣の部屋にベッドがあります。ご自由にお使いください」
俺は、部屋で一人になった。しばらくその場から動くことができなかった。
翌朝、俺は耳の中の声によって目を覚ました。
「おはようございます」
「ああ」
「机の引き出しに、朝食があります。どうぞお召し上がり下さい」
引き出しを開けると、パンと水とプロテインバー、そしてマルチビタミンのタブレットがあった。ご丁寧に栄養バランスまで考えてくれているらしい。俺はそれを無造作に平らげると椅子に座って指示を待った。
「結構です。それでは指示を出します」
声が言った。
「外に出てください。少し歩きましょう」
俺は扉に向かい手をかけた。扉は鍵すらかかっていない。すんなり開いた。
外は山だった。
空気は冷たく、針葉樹の香りがした。雲海のような朝靄が木々の間に流れている。
道が小屋から下り坂の方向に伸びていた。細く、獣道のような道だったが、人が通った形跡がある。
「もし、ここから去りたいと思われるのであれば、あの道から麓に降りられます」
まるで逃げることを勧めるような口ぶりだった。
頭に血が上った。その余裕っぷりが鼻につく。
俺は奥歯を強く噛んで、苛立ちを表に出さないようにした。男に乗せられてはいけない。男は俺の動揺を待っている。
「本当に逃げても構わないんだな」
声がかすれた。
「はい。ただし、奥様の状況については、以前申し上げた通りです」
あくまで穏やかな声だった。
俺は奥歯を噛んだ。男に振り回されている限り、綾香を救う糸口は見えない。男が何を考え、何を握っているのか、確かめるしかなかった。
俺はイヤホンを外してポケットに突っ込むと、獣道へ向けて走り始めた。
綾香の声が頭の中で繰り返される。「お願いします」という懇願。だが、その願いを聞くわけにはいかない。
俺はお前を助けたいから、お前の言う通りにはしない。
道を下り続けた。
どれくらい走っただろうか。十五分か、二十分か。前方に、道の脇に並んでいる何かが見えた。
地蔵だった。
三体並んでいる。風化した石の地蔵だった。真ん中の一体だけが首から上を欠いていて、断面が黒かった。
通り過ぎようとして、俺は足を止めた。
真ん中の地蔵の欠けた胴にA4サイズの紙が貼り付けてある。クリアファイルに入れて、テープで固定されていた。
嫌な予感がした。
ゆっくりと近づいて、中の紙を見た。
写真だった。
古い白いホーローの浴槽だった。
その中に、綾香が座らされていた。
以前パソコンで見せられた時と同じ下着姿で。
両手首は、浴槽の縁の左右に細い鎖で縛り付けられていた。鎖は短い。立ち上がることも、しゃがむこともできない姿勢だった。
俺の視線が、綾香の首に止まった。
細いワイヤーが、綾香の首にぐるりと巻き付いていた。
ワイヤーは浴槽の向こうの壁の金具に伸びて、固定されている。たるみはない。長さは正確に計算されていた。綾香の頭は、浴槽の中の一点に固定されている。
そして、蛇口が開いていた。
水が糸のように落ちている。
水位はもう綾香の腹のあたりまで来ていた。
俺はこの装置の意図を一拍遅れて理解した。
水は止まらない。少しずつ、確実に、水位は上がっていく。胸を超え、肩を超え、首を超え、顎を超え――やがて綾香の鼻を浸す。
俺は呼吸を忘れていた。
声の主は綾香をゆっくりと溺れさせるつもりだ。
「お分かりいただけましたか」
イヤホンを耳に嵌めると、すぐに声がした。怒りで目の前が白くなる。だが、俺はその怒りをギリギリのところで飲み込んだ。
歯を食いしばって自制する。
戻らなければならない。戻って、この声の言う通りにしなければならない。
俺は麓から目を逸らし、元来た道を登り始めた。
一歩、また一歩。靴の下で枯れ葉が鳴った。さっきこの道を下った時には、希望があった。だが、今登る道には深い絶望だけがある。
ただ、戻るのだ。あの男のところへ。あの山小屋へ。
道は、下ってきたときよりも、ずっと長く感じた。坂は同じ角度のはずなのに、足が重い。
一歩進むたびに、何かを置いて行くような感覚を覚えながら、俺は登り続けた。
「では、指示を出します」
山小屋へ戻ると、耳の中で声が言った。
「机の上のノートパソコンを、見てください」
俺は机に近づいた。ノートパソコンの画面が点いた。画面に女の子の写真が映っていた。
ランドセルを背負った小学生だった。学校から帰る途中の写真らしく、誰かに手を振っている瞬間が切り取られていた。
下に住所と家族構成が表示されていた。父親、母親、弟。家族の名前まであった。父親は既に亡くなっており母子家庭のようだった。
「この子の名前はひまりさんと言います。小学五年生です」
声が穏やかに続けた。
「明日この子をここに連れてきてください」
俺は声の意味を理解しようとした。
「……何?」
「家から連れ出して、車の荷台に乗せて、この小屋まで運んでください。車と道具はこちらで用意します」
誘拐、という言葉が頭の中で組み上がった。その瞬間に俺は咆哮していた。
「冗談じゃない! 俺に子どもを誘拐しろと?」
「はい」
即答だった。
「断る」
俺は言った。
「絶対に、断る」
「断られた場合、奥様への対応をやめます」
脈が乱れた。心臓が一拍、遅れた。
「奥様の浴槽は、毎時間水位が上がります。私が排水しなければ、明日の朝までもちません」
「やめろ」
俺の声がかすれた。
「やめてくれ。頼む」
「奥様を生かすか、子どもを連れてくるか。あなたが決めてください」
男は、それだけ言った。
部屋の中には俺の呼吸音だけが響いている。俺はノートパソコンを見る。画面の中でひまりが笑っていた。
この子を、俺がさらう。車の荷台に押し込んで。
断れ、と頭の中で誰かが言った。
断ったら綾香が死ぬ、と別の声が言った。
二つの声が俺の中でぶつかった。命の選択だった。俺はどちらかの命を選ばなければならなかった。
「……分かった」
俺は言った。
自分の声が自分の声のようではなかった。誰か別の人間の声が、自分の口から出ているようだった。
「ありがとうございます」
声が言った。
「では、明日のための準備を始めましょう」
翌朝、俺は小屋を出た。
声の指示通り、机の引き出しの中にあった黄色いカッパを着た。
車の鍵が机の上に置かれていた。小屋から少し下った場所に軽自動車が停まっていた。運転席には住所と家の見取り図と家族の生活パターンを書いたメモが置かれていた。
全部、用意されていた。
声は最初からこれを誰かに「やらせる」ために準備してきた。俺たち夫婦を拉致し、脅迫し、誘拐を実行させるための全ての段取りを、声はあらかじめ完成させてあった。
俺はその完成された絵図の一部だった。
山を下り車で二時間ほど走った。目的地は郊外の住宅地だった。
住所の家の前に車を止める。
小雨が降っていた。
家を見た。普通の二階建ての家だった。小さな庭がありプランターにチューリップが植えられていた。俺は家の外観を見ながら、この家に住む一家のことを想像した。
五年生になるひまりという子は、どんな子なんだろうと思った。
思ってすぐに打ち消した。やると決めたからにはやるしかない。余計な想像は判断を鈍らせるだけだった。
車から降りた。家に向けて歩く。チャイムを押した。
一回。
反応がない。
もう一回。
また反応がない。しばらく様子を窺う。
家のメモによれば、母親は仕事で夕方まで帰らず、父親は二年前に亡くなっている、とある。
一人だ。家の中には小学五年生の女の子が一人でいるはずだ。
開けないでくれ、と思った。何かの手違いで不在であってくれ、と祈った。
だが、気配があった。家の中で誰かが息を潜めている気配。モニターでこちらを見ているのだろう。俺は玄関のモニターに向かってメモの指示通り話しかけた。
「ひまりちゃんいる? お母さんの会社の同僚で、田中っていうんだけど」
応答はない。
「実は、お母さんが会社で倒れちゃってね。救急車で病院に運ばれたんだ。病院から、ひまりちゃんを連れてきてって連絡があったから迎えに来たんだ」
自分の声が作り物のように優しく聞こえた。俺は子どもを油断させる声を、思いのほか自然に出せた。その事実が胸を焼いた。
扉の内側で小さな動きの気配がした。
「ひまりちゃん、聞いて。お母さん、今、すごく大変な状態なんだ。ひまりちゃんが来てくれるのを待ってる。一緒に行こう! 急ごう!」
扉の内側で、チェーンが外される音がした。
駄目だ、出て来てはいけない。俺はそう思った。出てきてしまえば、もう戻れない。
でも、祈りは届かなかった。
扉が開いた。
小さな女の子が扉の向こうに立っていた。写真で見たひまりだった。だが写真よりずっと小さかった。ずっと幼かった。心配そうな顔をして、靴だけを引っかけて出てきていた。
俺はにっこり笑った。親切な大人の顔を作った。
ひまりが俺の方に一歩、踏み出した。
その瞬間、俺の手が動いた。
ひまりの肩を掴みもう一方の手で口にガムテープを押しつけた。声を上げる前だった。ガムテープを千切る、ぺりっという音がやけに大きく耳に残った。
ひまりの目が見開かれた。俺を見ていた。
その目を俺は見ないようにした。見たら手が止まる。手が止まったら、俺はここで全部を投げ出してしまう。だから見なかった。
抱き上げた。軽かった。
小学五年生の女の子はこんなに軽いのかと思った。腕の中で、ひまりの体は小さく震えていた。温かかった。子どもの体温を感じた。拓海が小さかった頃に抱き上げた、あの時と同じ体温だった。
吐き気がした。俺はそれを飲み込んで、車まで歩いた。雨が顔を打った。
誰か見ていてくれ、と思った。誰でもいい。窓から、庭から、傘の下から、誰でもいいから俺を見てくれ。見て、警察を呼んでくれ。俺を止めてくれ。
誰もいなかった。雨の日の土曜日の昼下がり、住宅街は人の気配がなかった。
俺はひまりを荷台に押し込んだ。押し込む時、ひまりの足が一度、俺の手を蹴った。痛くはなかった。蹴られたという感触だけが、皮膚に残った。
扉を閉めた。雨の音しかしなかった。
その後のことを俺はあまり覚えていない。
思い出したくないものは記憶の表面に出てこない。それが事実であることを俺は初めて知った。
だから俺は、その日の午後の出来事を断片的にしか思い出せない。
車の荷台にその子を入れたこと。荷台の板にその子が当たる音がしたこと。
車を出す時ミラーに映った自分の顔がぼんやりしていて、誰の顔か一瞬分からなかったこと。
山道を登っている途中荷台からくぐもった泣き声がしたこと。
その泣き声を聞きながら、俺は山小屋に向かって運転し続けた。
車を止めて、荷台を開けたとき泣き濡らした女の子と目が合った。
「ごめんな」と言う言葉が喉元まで出かけたが、俺はそれをかろうじて飲み込んだ。
「ごめんな」と言うことは、この子をさらに絶望させる。
自分が敵ではなく、味方であるような素振りを見せることは、この子の期待を作り、その期待を裏切ることになる。
自分はこの子の敵であり続けなければならない。
それが、この子に対する、最小限の筋だった。
――筋だった?
俺は自分の頭にそんな言葉が浮かんだことに愕然とした。
俺は今、子どもを誘拐する「筋」について考えている。そんなもの、この世のどこにもありやしないのに。
子どもを抱えて獣道を歩く。十五分ほどの道のり。ひまりは特に暴れることもしなかった。一歩一歩俺は犯罪者の道を歩んでいた。
山小屋についた。扉を開けた。
扉を開けた瞬間、俺はぎょっとして足を止めた。
天井に何かが吊るされていた。朝出かけた時にはなかったものだった。
茶色い麻袋だった。
人が一人、すっぽり入るほどの大きさだった。天井の梁から太いロープで吊るされている。袋のあちこちが既に破れていた。新しいものではなかった。古い、使い込まれた袋だった。
まるで『みのむし』のようだ。
そう思った。
その破れ目の一つから、目がこちらを見ている。俺は抱えていた子どもを危うく落としそうになった。
声が耳の奥で言った。
「お帰りなさい。驚かせてしまいましたね」
「あれは、誰だ」
俺の声が震えていた。
「私が捕らえてきた別件の方です。あなたとは無関係です」
「無関係って――」
「無関係です」
声は繰り返した。
「今後あの方の存在については質問なさらないでください。手も出さないでください。話しかけてもいけません。あの方はあなたとは全く別の物語に住んでいます」
「手を出すな……だと?」
男の口調にわずかに不自然なものが混じったのを、俺は聞き逃さなかった。
「俺の自由にさせてくれるんじゃなかったのか」
俺は男の動揺を誘うつもりで、そう吐き捨てる。
「ええ。ですが、私にもあなたの奥様を自由にする権利があることをお忘れなく」
男の声に硬さが混じっている。これまで一度も崩れなかった穏やかさに、初めて細い亀裂が走るのを俺は聞いた。
「俺がいない間に、あんたがあれを運び込んだのか」
俺は男の動揺の余韻が消えないうちに、もう一度切り込んだ。
「これ以上の質問にはお答えできません」
だが、男の適応は早かった。男の声は、もう穏やかさを取り戻していた。
「一成さん。あなたが今抱えているお仕事の方が、ずっと大切ですよ。ひまりさんが怯えています」
俺はそれ以上の追及を諦める。男に言われて、抱えていた子どもの体重が急に重く感じられた。
ひまりが俺の腕の中で震えていた。
「ひまりさんを椅子に座らせ、縛ってください」
俺は天井に向けていた視線を戻した。
そして、言われた通り子どもを椅子に縛った。縛っている間、ひまりは泣いていた。ガムテープ越しの泣き声はくぐもっていた。鼻から漏れる息が荒くて、息継ぎのたびに悲鳴のような泣き声を上げた。両手を後ろに回して縛る時も、ひまりの手首は俺の手の中で必死に逃げようとした。
縛り終えてからガムテープを剥がした。剥がした瞬間、泣き声が一気に大きくなった。「お母さん、お母さん」と繰り返していた。「帰りたい」と言っていた。
「お疲れ様でした」
耳の奥で声が言った。
「次の段階に進みます。ノートパソコンの画面をひまりさんに向けてください。投稿サイトが開いています。タイトルは『みのむし』です。あとは、ひまりさんに書かせてください」
「……書かせる、って」
「怖い話です」
言葉の意味が頭の表層を滑った。子どもに怖い話を書かせる? その意図が全く分からない。
「なぜそんなことを」
「質問は受け付けません。一時間以内に二千文字以上の怖い話を書いてもらってください。怖ければ内容は自由です。ただし、文字数が足りなかったり、怖い話ではなかったりした場合は罰があります。罰を与えるのも全てあなたの仕事です」
質問は通らなかった。
「罰を与えるというのは……」
「キリで刺してください。刺す場所、回数は指示します。物は机の引き出しに入っています」
キリ、と頭の中で繰り返した。あの大工道具のキリだ。先の尖った太い鉄の針。
子どもを、それで刺す。
「……本気か」
「本気です」
声に迷いはなかった。
俺は引き出しを開けた。
キリがあった。想像していたよりもはるかに大きい。長さは二十センチ近くある。そしてその三分の一が鉄製の太い針だった。
俺はキリを手に取った。
手のひらに冷たさが伝わった。重みが腕に響いた。鉄の針が部屋の光を鈍く返している。
この針を子どもに刺す、だと?
「俺は……子どもを連れてくるだけだと、聞いていた」
声に出してから、自分の喉がからからに乾いていることに気づいた。声が、舌に貼りついてうまく声が出ない。
「それはあなたの勘違いです。あなたの仕事は、子どもを連れてくることだけではありません」
男は静かに言った。
「できない」
俺は言った。
「子どもを刺すなんて、できない。できるはずがないッ!」
手の中のキリが急に重くなった。鉄の重さではなかった。これから人を傷つける道具を握っているという事実の重さだった。
長い沈黙があった。
「それは――奥様ではなくひまりさんを選ばれるということですか?」
男の声は穏やかなままだった。脅しの響きも、皮肉の響きもない。ただ事実を確認する声だった。
脅しなら抗える気がした。怒鳴ることもできた。だが、これは脅しですらない。断れば本当に綾香を殺す。それだけのことだった。
俺は答えられなかった。
「選ぶのはあなたです」
声は静かに繰り返した。
俺はキリの柄を握り直した。木の柄が汗で湿っていた。
「それではひまりさんに説明をお願いします。準備ができたらエンターキーを押してください。カウントダウンが始まります」
一時間が経った。子どもは何とか怖い話を書き終えた。
さらに一時間が経った。子どもは書くことができなかった。
……だから、ここからの記憶はまた断片的になる。俺の頭が記憶することを拒否したからだ。
俺は抗った、と思う。声の指示に抗った。だが結局、最終的に俺はひまりを刺した。
だから俺はもう人の道を外れてしまった。
「キリで刺してください」
声が耳の中で言った。俺はキリを見ていた。見ているだけで手が震えた。
ひまりが俺を見上げていた。椅子に縛られたまま俺を見上げていた。口が自由になったはずの女の子はそれでも叫ばなかった。叫ばずに、ただ、俺を見ていた。
「お、おじさん」
そこで、初めてひまりが俺に話しかけてきた。
「おじさん、ごめんなさい。書けなくて、ごめんなさい。書こうとしたけど、書けなくて、ごめんなさい」
ひまりは謝っていた。
君は悪くない。悪いのは俺だ。君を刺す俺だ。君を連れてきた俺だ。君を殺すかもしれない俺だ。
「ごめん、ごめんな、ごめんな」
俺は敵であり続けるという筋を通すことすらできなかった。
俺は俺のために謝りながらひまりを刺した。ひまりは体を縮めていた。縛られた体が椅子の上でできる限り小さくなろうとしていた。
「いや、いや、いやです」
泣きながら言った。
「やめて、おじさん、やめてください、痛いのやです、お母さん、お母さぁん」
ひまりの母親はここにはいない。娘の悲鳴も、娘の呼び声も、母親には届かない。
届くのは俺にだけ。卑怯な俺にだけ届いて、その声が届く俺は、これからこの子を刺す。
声の指示は的確だった。
「大腿です。深く入れる必要はありません。表皮と筋肉の浅い部分で、充分に痛みが出ます」
俺はキリを、ひまりの太ももに当てた。
「いやぁあああッ!」
皮膚が裂ける感触が指先から腕まで伝わってきた。その下の組織は柔らかく、キリはすっと入っていった。
「痛いッ! 痛い痛い痛いッ! いたいよぉおおッ!」
子どもの悲鳴だった。
「痛いよぉ、お母さん、お母さん、お母さぁん」
母親を呼び続けていた。俺はキリを持ったまま、動けなかった。
「次は、太ももをもう一度」
失敗するたびに、声が淡々と指示を出した。
「次は、ふくらはぎを」
俺は刺した。
「もう一箇所、ふくらはぎを」
俺は刺した。
刺すたびに、俺の中の何かが少しずつ薄くなっていった。怒り、悲しみ、罪悪感――そういう感情が一回刺すごとに薄れていく。代わりに、作業をしているという感覚が積み重なっていく。木を切る、釘を打つ、料理を切る、それと同じ種類の手の動きとして、刺すという行為が手に馴染んでいく。
「次は、手の甲を」
俺は刺した。
「肩の付け根を」
俺は刺した。
ひまりの声がもう叫び声ではなくなっていた。掠れた、息に近い音になっていた。意識が薄れているのだ。それでも子どもの体は刺すたびに小さく痙攣し、跳ねた。
「最後に首を」
声が言った。俺はキリを構えた。脈打つ血管が、皮膚の薄い層の下で見えた。
俺は刺した。
深く、刺した。
ひまりの体がひときわ大きく跳ねた。それから脱力した。動きが止まった。
ひまりは死んだ。
俺は椅子の後ろに立ったまま自分の手を見た。
手に血がついていた。
手首まで赤かった。袖の内側にも血が染み込んでいた。
その血を俺はしばらく見ていた。
何も感じていなかった。
何も感じていない自分に気づいて、俺は俺の中の何かが壊れたのだと知った。
俺は疲労のあまり、奥の部屋のベッドで横になっていた。
木の梁が見える。隣の部屋にも同じような梁があるはずだった。その梁にひまりが吊るされている。今、この瞬間も。
俺は声の指示で、ひまりの死体を麻袋に入れた。そしてそれを梁に吊り下げたのだ。ひまりの袋と最初からある袋。今頃、隣の部屋ではその二つが『みのむし』になって並んで揺れているはずだった。
俺は布団の中で震えていた。疲れているのに眠れなかった。
ふと、俺は自分の口調を思い出した。
ひまりに話しかけた時の、自分の声。
「書いてください」「文字数が足りません」「次は刺しますよ」
途中から俺は丁寧語になっていた。抑揚のない平坦な話し方になっていた。あれは、俺の喋り方ではなかった。
――あれは、声の主の喋り方だ。
そう気づいた瞬間、ぞっとした。
耳の中から聞こえる声が、自分の口を借りて喋っていた。俺が喋っているのではなく、声の主が俺を経由して喋っていた。そんな気さえする。いつの間にか声の主に侵食されている。体の外からだけではなく、体の内側からも。俺の口、俺の手、俺の動作、全部が、声の主の道具になりつつある。
いや、違う。
その考えは、甘えだ。逃避だ。
俺は、罪を犯しているのが自分だと認めたくないのだ。声の主に侵食された、道具になった、と考えれば、俺の責任は軽くなる。
俺は何て卑怯な男なのだろう。
だが、そう考えでもしなければ……俺の心が持たなかった。
何時間そんなことを考えていたのか分からない。
不意に声が聞こえた。
「電話の時間です。奥様とお話しされますか」
俺は起き上がった。
「……ああ」
隣の部屋の引き出しの中から呼び出し音が聞こえる。俺はスマホを手に取り通話ボタンを押した。
「綾香」
「一成さん」
綾香の声がした。昨日と同じ声だった。
「無事か」
「大丈夫よ。どこも怪我していない」
同じ答えだった。昨日と一言も違わない答え。俺はわずかな違和感を覚える。
「今日、俺は……」
何から話せばいいのか分からなかった。子どもを刺した。子どもを殺した。子どもを袋に入れて吊るした。そういうことを綾香に言えるわけがなかった。
「今日は疲れた」
代わりに俺はそう言った。
結婚して十五年。「疲れた」と言えば、綾香はいつも「何があったの」と聞いてくれた。聞いてくれた上で、俺が話したいなら聞く、話したくないなら放っておいてくれる。そういう女だった。
「そうなの」
綾香が言った。
「疲れたのね」
それだけだった。俺は固まった。二度目の違和感。
何があったの、と聞かない綾香。疲れたと言った夫にその理由を聞かない妻。そんな綾香を俺は知らなかった。
おかしい、と思った。
だが、おかしいと思う理由を俺はうまく説明できなかった。疲れたと言ったら「疲れたのね」と返す。それは受け答えとして間違っていない。おかしいのは、綾香の返答ではなく俺の期待の方かもしれない。
綾香も今、拘束されている。自分のことで精一杯のはずだ。だから普段通りの返答が来るはずがない。
そう、自分に言い聞かせた。
だが、十五年連れ添ってきて、こんなすれ違い方をしたことが俺たちにはなかった。
「綾香」
俺は言った。
「俺は、何があっても、お前を助ける。何があっても」
綾香はしばらく黙っていた。
「ありがとう」
そして通話は切れた。
俺はスマホを持ったまま、動けなかった。
胸の奥で、小さな不安が灯る。だが、それを考えるには今日の俺は疲れすぎていた。今日はもう何も考えたくなかった。
翌日、桜という名の少女が公園に来た。
声の指示通りだった。俺は黄色いカッパを着て、公園のベンチで彼女を待った。桜は一人で来た。小雨の中、傘すら差していなかった。
俺は桜を麻酔で気絶させて、車に運んだ。山に連れて帰って、椅子に縛って、書かせた。書かせて刺した。桜は書きながら何度も天井を見上げた。ひまりの袋を見て泣いた。俺は何も言わなかった。
桜は「ひまりちゃんに会いたい」と言った。声は「生きたまま袋に入れろ」と指示した。楽にさせてやることすら叶わなかった。
桜を袋に吊るした。天井には三つの袋が並んだ。最初からある一つ。ひまりの一つ。桜の一つ。
四つ目の空のフックが既に用意されていた。
「明日、桜さんのおじいさんがここに来ます。名前は義男さん」
俺はもう驚かなかった。
翌日、義男という老人がやってきた。俺は扉の脇で待ち構えて、麻酔で眠らせ小屋に引きずり込んだ。椅子に縛って書かせた。罰として桜の袋にキリを突き立てた。袋の中で桜が短く声を出した。義男が半狂乱になった。
義男は書きながら死んだ。俺が首を刺した。四つ目の袋に入れた。
次は四人の大学生だった。雄太、さおり、蓮、亜佐美。
雄太は首を刺した。オーソドックスで楽だった。
さおりは自分で自分を刺した。俺は何もしなかった。
蓮は両目と耳を刺した。生理的に受け付けない部位だった。だが、所詮は他人の痛みだった。
亜佐美は太ももを何度か刺した。亜佐美は文学部の学生らしい文章を書いた。俺はそれを読んだが特に何とも思わなかった。亜佐美は母を呼んでいた。大学生といえど、子どもなのだなと思った。
ここまでは、いつもの作業だった。
そして、亜佐美の母、恵子が小屋に来た。
俺はいつものように恵子を椅子に縛った。亜佐美は既に向かいの椅子に縛り付けられていた。亜佐美は他の被害者とは違って、母親が到着するまで生かしておくよう指示されていた。
恵子は文章が苦手と口走っていた。それでも娘に向けて手紙を書き始めた。俺はその手紙を後ろから読んだ。
読みながら、自分の目が湿っていることに気づいた。
涙だった。いつの間にか涙が出ていた。
驚いた。特に感じ入ったつもりはなかった。ひまりの時も、桜の時も、義男の時も、亜佐美の時も、出なかった涙。それが、恵子の手紙を読んだ今、なぜか零れていた。
なぜ、と思った。
答えは、すぐに分かった。
恵子の書いている内容が、子どもに宛てた手紙だからだ。
綾香が拓海に対して書きそうな内容だったからだ。
綾香ももし書かされるとするならば、こういうことを拓海に対して書くだろう。
もし、自分が同じ目に遭ったら。
俺は、気づかれないように涙を袖で拭いた。
恵子が書き終えた。俺は画面を読み直した。見事な手紙だった。
「駄目ですね。これは怖い話ではありません」
耳の中で声が言った。
「恵子さんにお伝えしてください。書き直していただきます」
俺は息を呑んだ。これだけの手紙が駄目だと言うのか。愛情は素材にならないのか。この声の主にとって、恐怖以外は本当に価値がないのか。
俺は声の指示通り恵子に伝えた。恵子は絶望した顔をした。
罰として俺は亜佐美を刺した。浅く。声の指示通りに。
亜佐美が息を詰めた。
それから、恵子は書き直すよう指示された。今度は怖い話を書けと。恵子は書こうとしたが、書けなかった。俺は亜佐美の右腕を刺した。恵子はまた書こうとした。また書けなかった。俺は亜佐美の太ももを刺した。
恵子は壊れていった。
俺はその壊れ方を見ていた。ひまりを刺した時も、桜を袋に入れた時も、恵子ほど段階的に壊れていく人間は見たことがなかった。
最初は狼狽えていた。次に泣いていた。次に謝っていた。それから笑い始めた。笑いながら泣いていた。そして叫び始めた。
「私だって頑張ってるんだよッ!」
恵子の叫びが山小屋の壁に反響した。
恵子は娘に怨嗟を吐き始めた。再婚の機会を諦めたこと。二十二年間全てを犠牲にしてきたこと。それなのに娘は何も理解してくれないこと。
「あなたがいなかったら、お母さん、もっと幸せだった!」
亜佐美が母を見上げていた。血まみれの顔で母を見上げていた。
「お母さんね、あなたを産んだ時、五時十四分だったの」
恵子が笑いながら言った。
「その時にね、殺しておけばよかったね」
俺は凍った。
母親が娘にそれを言うのか、と。
俺は自分の息子のことを思った。拓海も、もし綾香が今の恵子のような目に遭ったら、あんな言葉を浴びせられるのだろうか。綾香は俺たちの息子に「生まれてこなければよかった」と言うのだろうか。
考えるな、と思った。考えたら、もう、立っていられない。
恵子が俺に向かって言った。
「殺してください」
俺は耳の中の声を聞いた。指示を待った。
「恵子さんの言う通りにしてください。亜佐美さんの腹を深く刺してください」
俺は、刺した。
亜佐美は絶命するまでに少し時間がかかった。腹を刺されても人間はすぐには死なない。俺はキリを引き抜いて、亜佐美が息を引き取るのを待った。恵子は見ていなかった。娘から目を背けていた。
亜佐美は死んだ。
それから俺は恵子の項にキリを当てた。恵子は目を閉じていた。目を閉じたまま、「ありがとう」と小さく言った。
俺は手を止めた。
誰に向けた「ありがとう」なのか分からなかった。自分に向けたものなのか、亜佐美に向けたものなのか、あるいは俺に向けたものなのか。
俺はキリを刺した。恵子は死んだ。
小屋の中で俺は椅子に座っていた。
遺体を片付け終えた後だった。四人の大学生と恵子。五つの遺体。全員を声の指示通りに、小屋の奥の部屋に運び並べた。血は土に染み込んでいた。
そして、彼らを全員麻袋に入れて天井にぶら下げた。
天井はもう、麻袋で包まれたみのむしだらけだ。
ひまりの袋。桜の袋。義男の袋。大学生たちの袋、恵子の袋。
全ての袋が静かに吊り下げられている。
いや、一つだけ――違う。
一匹のみのむしだけが生きている。揺れている。ゆらゆらと、薄気味悪く。
あの目は今もそこにある。半年間ずっと、こちらを見続けている目。
半年間、俺はあの袋に触れなかった。話しかけなかった。声の指示通り、関わらなかった。
半年間、あの目はずっとこちらを見ていた。
全ての殺人を見ていた。
――見ていて、何も言わなかった。
その事実に、今更気づいた。
ひまりが叫んだ時も桜が刺された時も、袋は揺れるだけだった。義男が孫の名前を叫びながら死んだ時も、大学生たちが悲鳴を上げた時も、恵子が発狂した時も、あの袋は一度も助けを求めなかった。
被害者なら叫ぶはずだった。「逃げろ」と。
それがなかった。半年間一度もなかった。
――あの袋の中にいるのは、被害者ではないのかもしれない。
その考えが、頭の中で形を成した瞬間、俺は立ち上がっていた。
天井の袋に近づく。袋を見上げる。破れ目から目が見えた。その目と視線が合った。
俺は口を開いた。
「あんたは、誰だ」
ひまりが運び込まれた日、口の中だけで呟いた問いだった。今、初めて声に出して聞く。
「あんたは、誰だ」
もう一度聞いた。袋は答えない。ただ目がこちらを見ていた。
「俺は半年間、あんたが誰なのか聞かないでいた。声に『関わるな』と言われたから聞かないでいた。でも、もう我慢の限界だ。あんたは被害者なんかじゃない。あんたは……」
言葉が、口の中で止まった。
言ってしまえば、全てが崩れる気がした。半年間の俺の行為の全てが、別の意味を持ち始める気がした。
それでも、俺は聞かなければならなかった。
「あんたが――」
「やめてください」
声が耳の奥で言った。
「話しかけてはいけないと申し上げたはずです」
「なぜだ」
「奥様と電話を繋ぎます」
何の脈絡もない唐突な提案だった。だが、電話が鳴った。机の引き出しだ。綾香だとしたら出なければならない。俺はいつものように電話に出る。
「綾香」
「一成さん」
綾香の声はいつも通りだった。俺はふと聞いてみた。
「綾香、覚えてるか」
「何を?」
「拓海が小学三年生の時、あいつが熱を出して、俺が夜中に病院に連れて行ったこと」
「……うん。覚えてる」
綾香はそう言った。俺は、息が詰まった。
「あんなに熱出したの、初めてだったから」
綾香は俺の動揺に気づかずに続ける。
「連れて行ってくれてありがとう。本当に助かったわ」
俺は答えられなかった。綾香は訂正しなかった。それどころか『俺が』『拓海を連れて行った』ことを肯定した。
……俺ではない。
俺は呆然と立ちすくんだ。拓海を病院に連れて行ったのは俺ではなかった。俺は拓海を病院へ連れていけなかったのだ。その夜出張で家にいなかった。だから『綾香』が一人で対処したのだ。
綾香は折に触れてはそれを恨み言のように口にし、俺が謝る。それが俺たちのルーティーンだった。
もし通話口の向こうにいるのが綾香なら、必ず気づいたはずだ。
綾香はそんな間違いをしない。
絶対に、しない。
「……綾香」
「うん」
「お前、本当に、綾香か」
「何を言ってるの、一成さん。私だよ」
間髪入れずに返答が来た。声の調子は変わらなかった。怯えも、戸惑いも、混乱もなかった。
俺の目から、涙が零れた。一筋、また一筋。涙が頬を伝った。
「……ごめん」
俺は言った。
「何でもない。疲れてるんだ」
「うん。一成さん、無理しないで」
「ああ」
俺はそれだけ言って、通話を切った。切ったのは俺の方だった。これまで通話を切るのはいつも声の主の方だった。今日初めて俺の方から切った。
涙だけが流れていた。
考えるな、と俺は自分に言った。
考えるな。何かの間違いだ。綾香は脅されている。だから間違えた。今度の通話で確かめれば、綾香はちゃんと「あの夜は私が連れて行った」と訂正する。
駄目だ。と思った。もう自分を騙せなかった。
綾香はそんな間違いをしない。十五年連れ添った綾香を、俺は知っている。
そこから導き出される結論は、たった一つだった。
つまり、もう……綾香は。
俺は顔を両手で覆って嗚咽した。
――綾香はもう死んでいる。
いつからそうだったのか、分からなかった。最初の電話の時からすでに、本物の綾香ではなかったのかもしれない。
声の主は、綾香の声を作ったのだ。今の科学技術ならそれができることを俺は知っている。それを用いた詐欺があるとさえ聞く。
本物の綾香は、もう、この世にいなかった。
膝が折れそうになった。壁に手をついて、体を支えた。
――じゃあ、俺は、誰のために。
頭の中で、全てが一度に押し寄せてきた。
俺が「綾香を助けるため」と自分に言い聞かせてやった殺人の、その全部が、既に死んでいる妻のための行為だった。
綾香を助けられなかった。既に助からなかった。それなのに俺は八人を殺した。
八人だ。
ひまり、桜、義男、雄太、さおり、蓮、亜佐美、恵子。
八人も。
吐き気が込み上げてきた。口の中が酸っぱくなった。俺は壁に手をついたまま、床に吐いた。胃の中のものが出てきた。吐いた後も、俺は立ち上がれなかった。
俺は何のために――。
名前のつかないものが、胸の奥から次々と押し寄せてきた。それに突き動かされるように、俺は立ち上がった。
そして扉に向かって歩いた。
外に出る。雪の上に反射した太陽の光が眩しかった。
外は冬の山だった。俺は小屋の前で空を見上げた。薄い青い空が広がっている。残酷なまでに美しい空だった。綾香が死んだ後も世界は変わらず美しく、俺が八人を殺した後も世界は続いている。
終わりだ。
俺は全てを受け入れた。
受け入れた瞬間、何をすべきかが見えた。
もう、誰も殺さなくていい。
その認識が、ゆっくりと体の中に降りてきた。
綾香を助けるためと信じて殺してきた。だが、その綾香はもういない。声に従う理由も、もうない。
しかし、俺には戻る場所もなかった。
綾香のところには戻れない。綾香はいない。
拓海のところにも戻れない。俺は息子に合わせる顔がない。俺は殺人者だ。存在するだけで息子の人生に害を成す。
普通の暮らしに戻れるはずもない。俺が殺した人たちに申し訳が立たない。俺自身が自分を許せない。
どこにも戻れない男が、そこに立っていた。
俺はポケットからキリを取り出した。
いつも持ち歩いていたキリ。声から渡された最初の道具。八人の命を奪ったキリ。
その先端を見た。血の跡が薄く残っていた。何度洗っても完全には落ちなかった。八人分の血がこの刃に染み込んでいた。
このキリで自分の命を終わらせる。
人を刺し慣れた手だった。頸動脈の場所も、刺す角度も、もう知っていた。
子どもにも老人にも、女にも男にも、分け隔てなく刺してきた手が、最後に自分を刺す。それは順序として正しいことのように思えた。
俺は、キリを両手で握った。
刃先を、自分の首に向けた。
手が震える。情けない。
八人を殺してきた手が、最後に自分を殺すのを、躊躇している。
――その時だった。
木の枝を踏む音がした。俺は振り返った。
拓海が立っていた。
第七章「拓海」
両親が行方不明になって半年が過ぎた。
去年の五月、父と二人で釣りに出かけた両親は、そのまま帰ってこなかった。
警察は両親について「事故の可能性が高い」と言った。渓流で足を滑らせて流された、あるいは崖から落ちたのだろうと。山岳救助隊が二週間ほど捜索したが、何も見つからなかった。
僕は祖母の家に引き取られた。
中学二年の夏休みが始まる前の話だ。夏休みが明けて、二学期が始まって、合唱コンクールがあった。期末試験があって、冬服に衣替えをして、気がつくと長野の山には雪が積もっていた。
僕は淡々と学校に行った。先生も友達も最初の一ヶ月ほどは僕を気にかけていたが、そうやって日常をこなしているうちに元に戻っていった。僕も戻った。そうするしかなかった。
でも、布団に入ってから眠るまでの時間だけは戻れなかった。両親を慕う子どもの僕が顔を出し、その生存に縋った。
スマホで検索した。「長野 渓流 失踪」「山岳事故 行方不明 二〇二五」「柳沢 一成 綾香」。言葉を変え、組み合わせを変え、何度も検索した。ヒットするのは半年前のニュース記事数件と、その転載だけだった。新しい情報はもうどこにも出てこなかった。
それでも毎晩検索した。
二人とも死んでしまったのだろうか。
僕は心のどこかで信じていた。父も母も生きている。いつか二人とも帰ってくる、と。
そう信じていないと、十四歳で何もかも失った事実と向き合うことができなかった。新しい情報は出ないと知りながら、検索しないと眠れなかった。
「みのむし」という怪談に辿り着いたのは、十二月に入ってすぐのことだった。
その夜もいつもと同じ言葉を打ち込んだ。結果の三番目に、見たことのないサイト名があった。「くらやみノベル」。タイトルは『みのむし』。
サイトを開く。黒い背景に白い文字のデザインが深夜の部屋でも目に優しい。「みのむし」という作品のページを開く。章は五つあった。
一通りざっと読んでみる。凄惨な話だった。作り話にしても生々しい。深夜に読むには重すぎる。
結末だけ確認して閉じよう、と思った。画面をスクロールしていくうちに、本編が終わってコメント欄に入った。スクロールの指が止まった。
あるコメントに画像が貼られていた。
「地蔵の脇にこんな写真が落ちてたんだが、関係あるかな?」
現地まで足を運んだ人がいるらしい。
僕は画像をタップした。読み込みに数秒かかった。
画像が表示された。
古い白いホーローの浴槽に、下着姿の女性が座らされていた。鎖で縛られ、首にワイヤー、蛇口からは水。
母だった。
息が止まった。
何度も画像を拡大した。間違いなかった。半年前に失踪した母が、どこかも分からない浴槽の中で拘束されている。
別人かもしれない、そう思おうとした。だが、何度見ても、どう見ても母だった。
僕はコメント欄をさらにスクロールした。
写真の投稿の下にいくつかの反応が並んでいた。「フェイク」「通報しろ」「どう見てもヤバいやつ」。そうしたコメントに紛れて、一件だけ、他とは明らかに質の違う書き込みがあった。
投稿時刻は三日前。
「柳沢拓海様。ご両親は山小屋でお待ちです」
ゾッとした。自分の名前が名指しされていた。
「十二月二十三日の正午、一人でお越しください。警察への通報はお控えください。通報された場合、ご両親に何が起きるかは、これまでの章でお読みになった通りです」
真冬なのに、全身が汗でびっしょりと濡れた。スマホを持つ手が震える。
もう一度読み返した。何度読み返しても同じことが書いてあった。三日前に、この犯人が僕を名指しで呼びかけている。名前を調べ上げて、呼びかけのコメントを書いて、待っている。
桜も、義男も、恵子も、同じように呼び出されていた。そして全員が行った。行って、殺された。
全員罠だと分かっていたはずだ。読み返せば分かる。
行ってはいけない。
そう分かっていた。だが理性と感情は違う。
僕が行かなければ、ほぼ確実に僕の父と母は死ぬ。しかし行けば助けられるかもしれない。
行きたい。助けに行きたい。僕しか助けられないのだから、僕が行かなければ。
警察に行くという選択肢は頭の中にはあった。
だが、警察の対応を待っていたら間に合わない。両親が死んだ後で、犯人だけが捕まったところで、僕には何の意味もない。
行く、と決めた。
罠だと知って、行く。殺されるかもしれない、と思う。思ったけれど本当にそうなる実感はなかった。
自分は両親と合流できる気がしていた。二人で力を合わせれば、犯人から逃げられる気がしていた。
だけど、今なら分かる。この判断は全くの誤りだった。この時の僕の判断は一つ残らず間違っていた。
だから僕はその報いを受けることになる。
「ごめんなさい」
無断で家を出ることへの謝罪を、まだ寝ている祖母に呟いて、僕は玄関を開けた。
外は雪だった。
始発電車は空いていた。窓の外は暗く、駅を一つ通過するたびに空が青みを帯びていく。四つ目の駅を過ぎた頃、雪が強くなった。窓ガラスに粉のような雪が叩きつけられては流れていった。
十二月二十三日。朝の六時過ぎ。
車内で何度も道順を確認した。山小屋への行き方は物語の中に何度も出てきたし、コメント欄にも『行き方まとめ』という書き込みでまとめられていた。
乗り換えを二回した。三本目の電車で乗客は僕と作業着の男性と大きなリュックを背負った老夫婦だけになった。老夫婦は山に登るらしく「今日は雪が深そうだな」と小声で話していた。
終点で降りる。駅前にはバスが一本停まっていた。
運転手に書かれていた地名を言った。運転手は怪訝そうな顔をした。
「そんなところに一人で?」
「親戚の家に行くんです」
嘘は滑らかに出た。自分でも驚くほどだった。
バスは山道を登り始めた。家がまばらになり、やがて家がなくなり、雪に覆われた山と木しかなくなった。道は細くなった。
「次、山道入口」というアナウンスが流れた。
僕はボタンを押した。
バスは本当に何もない場所に停まった。降りると雪と木と風しかなかった。バスは僕を降ろすとすぐに引き返していった。尾灯が雪の向こうに消えるまで僕はそれを見送った。
一人になった。
時計を見た。午前十一時を過ぎていた。
僕はリュックを背負い直して雪に覆われた道を歩き始めた。
一時間ほど歩くと前方に道の脇に並んでいるものが見えた。
三体の地蔵だった。
風化して苔むしていた。石は黒かった。真ん中の一体だけが首から上を欠いている。欠けた断面が周りの風化とは違う色をしていた。
本当にあった。
足が止まる。
小説は本当だった。少なくともこの地蔵は本当だった。だとすれば他の描写も本当なのかもしれない。山小屋も。袋も。黄色いカッパの男も。
僕は地蔵の脇の細い道を探した。すぐに見つかった。雪が積もっていたが、わずかに人の通った跡のようなものが残っていた。最近誰かがここを通った痕跡だった。
僕はその道を歩き始めた。
十五分ほど歩いた。木立の向こうに古い木造の建物が見えた。
山小屋だった。小説に書かれていた通りの姿をしていた。
――小屋の脇に人が立っている。
僕は立ち止った。
距離があった。二十メートルほどだったと思う。雪の中、小屋の外壁を背にするようにして男が一人立っていた。
紺色のダウンジャケットを着ていた。父が釣りに行く時に毎回着ていた、あのダウンジャケットだった。
その男は右手に細く長い銀色のものを持っていた。
「お父さん」
思わず、僕の口からその言葉が出た。自分の声ではないようだった。
男がゆっくりと振り返った。
本当に父だった。
髪が伸びて髭が伸びて、頬もこけている。
だが、その潰れた鼻筋が、ごつごつした顎の形が、太い眉の形が――父だった。
「お父さん!」
「拓海」
その証拠であるように、父が僕の名前を呼んだ。
僕は喜びのあまり、父に駆け寄ろうとして……足が止まった。
少し、近づいて分かった。父が持っているもの……あれはキリだ。父は右手にキリを持っている。どうしてそんなものを手にしているのか。あれは犯人が使っていた凶器だ。父はいったい何をしているのか?
僕は父を見た。目が合った。
その瞬間、息が止まった。
父は力強く、意志の強い目をしていた。その目で見守られるだけで、一歩踏み出せる勇気を貰えた。
けれど、今の父の目には――父がいなかった。
姿かたちは父なのに、まるで見知らぬ人のように見えた。目の印象が全く違う。あれは父の目ではない。
空っぽというのとも違う。何か異質なものが入り込んでいる目だった。
「拓海」
父が、今度は低い声で僕の名前を呼んだ。
「来た道を戻れ。そして警察を呼べ」
父は淡々と口にした。その口調からは再会の喜びなど微塵も感じられなかった。
「この小屋には入るな。絶対に入るな。お父さんの最後のお願いだ」
最後、と父は言った。
「最後のお願いって……何言ってるんだよ! 中に何があるんだよ!」
僕は力を振り絞り、全身で叫んだ
「何も聞くな」
「じゃあ、お母さんは?」
父が一瞬止まった。キリを握る手に力が入るのが遠目にも分かった。
「綾香は……」
父は言葉に詰まった。
「綾香は……」
繰り返した。
また、繰り返そうとして、口を開いて閉じた。
僕は父の顔を見ていた。父は僕の顔を見ていなかった。父の目は雪の上に落ちている。
「お父さん――」
「拓海、頼むから、お父さんのお願いを聞いてくれ!」
父の声が裏返った。叫びに近かった。
それから父は、右手のキリを握り直した。両手でゆっくりと柄を握り、刃先を自分の首に向けた。
「お父さん何してるの! 危ないから、下ろして!」
僕は一歩踏み出した。
「来るな!」
父が叫んだ。
そして父は何も言わずに、キリを握る手の角度を直した。慣れた手つきだった。何度もこの動作をしてきた人間の手つきだった。その手つきが僕の足を止めた。
半年間、父はその手で何をしていたのか。
その答えが、分かってしまった。
「拓海」
父が言った。
「お前は、ここに来てはいけなかった」
父が言った。
「お前は、ここに来てはいけなかった」
父の声は静かだった。叫びの直後とは別人のようだった。
「お父さんはもう戻れない」
父はそこで一度、息を吸った。
「だからここまでだ。……すまない」
父の手が動いた。
刺さる音はなかった。父の喉のあたりで、布が裂けるような小さな音がしただけだった。
父の体が一拍、止まった。それから父はキリを引いた。引きながら首を反対側にひねった。傷を広げるための動きだった。
血が出た。一拍、二拍、噴き出した。
雪が赤くなっていく光景を僕は見ていた。
父が膝から崩れた。
倒れる前に、父の目が一瞬僕を見た。何かを言おうとして、止めたように見えた。
父は前のめりに雪の上に倒れた。
僕は動けなかった。声も出なかった。
どれくらい立っていたか分からない。しかし、気がつくと僕は父のところに駆けていた。
父の肩を掴んで仰向けにした。雪が父の血を吸って、そこだけ赤い泥のようになっていた。
父はまだ生きていた。
「拓海……」
父が僕の名前を呼んだ。
「逃げ……ろ」
父の声は弱かった。血が口の端から流れていた。
「お父さんは、人殺しだ」
僕は父の顔を見た。父の目は僕を見ていなかった。焦点はどこか遠くにあった。
「お父さんを、許すな」
父がそう言った。
「絶対に、許すな」
父の手が動いた。僕の手を探していた。僕は父の手を握った。冷たかった。
父の指が僕の手を握り返した。
弱い弱い力だった。
父が目を閉じた。
「お父さん」
僕は父の頬を触った。温かい。生きている。まだ、生きているはずだ。
「お父さん、お父さん、お父さん」
何度も呼んだ。
父の胸に耳を当てた。心臓の音を探した。あった。とても弱い音だった。だから、鳴っているのが、自分の心臓なのか父のものなのか分からなくなってしまった。
血が雪の上に静かに広がっていく。
僕は父の上で泣いた。
大声で泣いた。誰もいなかったから、大声で泣けた。お父さん、お父さん、と何度も呼んだ。呼べばお父さんが目を覚ますような気がした。
どれくらいそうしていたか分からない。
気がつくと雪が父の顔に降り積もっていた。僕は袖で何度も払った。払っても降ってきた。眉の上にも、鼻の上にも、瞼の上にも、白い粉のような雪が積もっていった。
僕の顔に落ちた雪は溶けるのに、父の上に落ちた雪はもう溶けない。
父の閉じた瞼の上にも、小さく雪が積もっていく。
僕はようやく顔を上げた。
小屋がそこにあった。
黒ずんだ外壁。板で塞がれた窓。閉まった扉。
父は「絶対に入るな」と言った。「最後のお願いだ」と言った。
その願いを、僕は聞かなければならない。父が命をもって頼んだ最後の願いだ。
頭では分かっていた。
父の願いを破ろうとしている自分に、僕は驚いていた。
でも、お母さんが、まだ中にいるかもしれない。
その思いが僕を動かした。
お父さんはお母さんについて最後まで言葉を濁した。生きているとも死んでいるとも言わなかった。それは、まだ生きているかもしれないということだった。少なくとも、僕の中ではそう解釈された。
僕は鞄からナイフを取り出した。アウトドア好きの父が以前僕にプレゼントしてくれたものだった。鞘から抜いた刃が雪の光を映して白く輝いている。
扉に手をかけた。木の湿った冷たさが掌に伝わった。
心臓が、みぞおちの奥で速く打っていた。
僕は扉を開けた。
軋む音がした。古い木が長い時間をかけて吸った湿気の分だけ、重く引き伸ばされたような音だった。扉の隙間から暖かい空気が流れ出た。小屋の中は外より暖かい。ただの廃屋ではなかった。
鉄の臭いがした。
血の臭い。濃厚な、何人分もの血の臭いが小屋の中を満たしていた。
そして、天井から、大小さまざまな麻の袋が吊るされていた。
九つあった。
みのむしは蛾の幼虫だ。糸と糞と木屑で編んだ袋の中で、春まで蠢いている虫。蓑を開ければ、湿った芋虫が出てくる。
でも、この九つの蓑の中身は芋虫ではない。
逃げろ、と体が言った。今すぐ逃げろ。父の最後の願いは正しかった。
扉の枠に背中が当たった。いつの間にか後ずさっていたのだと気がついた。
その時、九つの袋の中の一つ、真ん中あたりの古い茶色い麻袋がわずかに揺れた。揺れているということは、中に生き物がいるということだった。
母かもしれない。
その思いが、足を止めた。
「お母さん?」
僕は呟いた。声が震えていた。
袋の中から返事はなかった。
僕はその袋にゆっくりと近づいた。他の袋より一回り大きく、布は古びて、破れた繊維がささくれのように垂れ下がっている。破れ目がいくつもあった。
その破れ目の一つから、何かがこちらを見ていた。
目だった。
息が、止まった。
お母さんではなかった。
お母さんの目はもっと丸かった。優しかった。見られていると落ち着く目だった。
この目は乾いている。動かない。観察している目だった。
逃げようとした。その足がもつれて、尻もちをついた。腰が抜けている。
袋が揺れた。さっきよりも大きく揺れた。ぶらん、ぶらん、と振り子のように。
破れ目から覗いていた目が、少し引っ込んだ。中で何かが体勢を変えていた。
ビリッ、と音がした。
麻の繊維が縦に裂けた。裂け目から細く白いものが突き出した。
指だった。
人間の指が五本。裂け目の縁を内側から掴んでいる。爪が長く伸びていた。爪の下に黒いものが溜まっていた。
指が裂け目を広げた。布が自重でさらに裂けた。悲鳴のような音が連なった。裂け目から、皺の寄った手首が、痩せた前腕が順番に現れた。
皮膚は白かった。日の当たっていない皮膚だった。ところどころに青黒い痣のような影があった。
腕がだらんと外に垂れ下がった。
次に、頭が出てきた。白髪の交じった髪がぬめりを帯びて頭皮に貼りついていた。額が出た。目が出た。さっき破れ目から僕を見ていた、あの大きな目。鼻が出た。口が出た。口は閉じていた。薄い唇を舌が一度、這った。
肩が出る。胴が出る。男が両手で裂け目の縁を握り、自分の体を外側に押し出している。
びしゃ、と濡れた布が落ちるような音がした。
男が蓑から生まれ落ちた。
ずるりと男の体が袋から完全に抜け出した。男が土の床に両足で立ち上がる。長く屈んでいた体がゆっくりと伸びていく。
背の高い痩せた男だった。
その顔が、静かに僕の方を向いた。
目が合った。
男は、僕を見てゆっくりと微笑んだ。
エピローグ「わたし」
心臓。
わたしの心臓は生まれつき遅い。
心拍数が常人より著しく低い体質。安静時で四十を切ることもある。医師には何度も精密検査を勧められ、ペースメーカーの話も出た。けれどわたしは断った。この心臓はわたしのものだ。遅いなら遅いまま付き合おう。
遅い心臓は喜びに動かなかった。
文学部の教壇に初めて立った日も、学会誌のトップに「篠崎隆弘」の名が載った日も、心拍数は動かなかった。悲しみにも動かなかった。母が死んだ日も父が死んだ日も心臓は同じ速度で血を送り続けた。愛情にも動かなかった。誰かを好きになったことがないわけではない。しかし心臓は知らん顔をしていた。
唯一。
唯一、動いたのは恐怖に触れた瞬間だった。
七歳の秋だった。
裏山で遊んでいた。木の枝にみのむしがぶら下がっているのを見つけた。茶色い蓑に包まれて枝先に揺れている小さな袋。図鑑で読んだことがあった。みのむしは蓑を剥いで色紙や毛糸を与えるとそれで新しい蓑を作るという。
わたしは好奇心旺盛な少年だった。
みのむしを枝ごと折って持ち帰った。自分の部屋の机の上に置いた。引き出しから、はさみを取り出した。蓑を切り開いて中の虫を取り出し、色紙を細かく切ったものを周りに置いてやれば、虫はそれで新しい蓑を編むはずだった。
はさみの先端を蓑の端に当てた。
だがわたしは不器用だった。
蓑は思ったより硬かった。枯れ葉と糸が絡み合った繊維ははさみの刃をなかなか通さなかった。力を入れた。刃が滑った。蓑の中まで刃が入った。
切り開いた蓑の中を見た瞬間、手が止まった。
虫の体が両断されていた。
胴体が二つに分かれて、断面から透明な体液が溢れていた。
それでも虫は蠢いていた。
蓑を失った裸の体を机の上でくねらせた。蓑のない虫は想像より小さく柔らかく頼りなかった。わたしは傷ついた虫が蠢くのを見ていた。
その瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
――怖い。
心臓が速くなった。心臓の高鳴りを自覚した。指先が熱くなり耳の奥で脈拍が聞こえた。
怖かった。しかしそれだけではなかった。怖さの底に別の何かがあった。
興奮だった。心臓が動いている。全力で動いている。生きている。
初めて生きていると感じた。
虫は、じきに動かなくなった。
わたしは裏山で別のみのむしを三つ採ってきた。一つ目は蓑を丁寧に剥いだ。虫は裸になったまま動かなくなった。寒さで死んだのかもしれなかった。二つ目は水に沈めた。泡が二つ浮いて消えた。三つ目は蟻の巣の前に置いた。蓑が黒く覆われた。しばらくして蓑だけが残った。中身は跡形もなくなっていた。
怖かった。それぞれの死に触れるたびに心臓は速くなった。みのむしが感じたであろう痛み、寒さ、息苦しさを想像するだけで震えた。脈拍が上がった。
これは誰にも知られてはいけないことだと思った。七歳のわたしにもそれは分かった。だから誰にも言わなかった。母にも父にも友達にも先生にも。ただ一人で裏山に行き一人で帰ってきた。
すぐに虫では足りなくなった。
次は近所の野良猫だった。怖かった。猫は虫よりずっと大きく、ずっと大きな声を出す。抵抗した。暴れた。逃げようとした。
怖いよね。痛いよね。苦しいよね。もし、そんな苦しみを自分に与えられたらと思うと恐怖でどうにかなりそうだった。
だからこそやらねばならなかった。生きることとは恐怖と対峙し克服することであるから。
心臓は彼らの痛みと苦しみのぶんだけ速くなった。生きていると感じた。
犬も試した。
犬は虫や猫よりずっと賢かった。最初は抵抗し、暴れ、逃げようとした。水に沈めれば水面に浮かび上がろうともがき、縄で首を絞めれば泡を吹きながら爪で縄を引っ掻いた。バーナーで炙れば身を捩って火から離れようとした。
そして諦めた。
諦める瞬間が分かった。抵抗を止め、体が脱力し、瞳孔が何も映さなくなる瞬間が。
まさか、犬ごときがその境地に至るとは思わなかった。動物であっても、死を受け入れる瞬間があるのだ。
心臓が跳ねた。
死と恐怖に触れている瞬間だけ、わたしは生きていた。
だがそれすら物足りなくなった。
人には手を出さなかった。出さなかったのは倫理ではなく計算だった。
捕まれば終わる。終われば二度と恐怖に触れられない。それに対象を人に移したところで刺激にはいずれ慣れる。虫から動物へ移ったように、人もやがて退屈になる。
わたしが求めているのはそんな表層的な恐怖ではなかった。
もっと純粋な、魂を揺さぶる恐怖。
恐怖そのものを抽出した文章だった。
世の中に溢れる怪談の大半はごみだ。恐怖を外側から描写しているだけの文章。そんなものに心臓は反応しない。
恐怖の只中にある人間に、その恐怖そのものを書かせる。これこそが本物の怪談になり得る。
そして事実、彼らが書いた文章は、この半年間わたしの心臓を何度も激しく動かした。
ひまり。桜。義男。亜佐美。恵子。
彼らの書いた物語はどれも本物だった。どれもごみではなかった。
彼らの恐怖を特等席で観劇する。そして、彼らが書き残した恐怖を貪り読む。
これに勝る生の悦楽を、わたしは知らない。
袋の中は暗かった。
半年間、わたしはあの袋の中にいた。破れ目は最初から開けておいた。全てを見、全てを聞き、全てを味わうために。
もちろんリスクは多分にあった。一成が裏切りわたしを殺害するリスク、捜索の手が及び露見するリスク、その他細かなリスクを挙げればそれこそ枚挙にいとまはないだろう。
だが、リスクのない恐怖など存在しない。むしろリスクこそが恐怖の神髄であるともいえる。みのむしの蓑が薄ければ薄いほど、内側に潜む者は本物の恐怖を味わえる。
手元のタブレットには、彼らがパソコンに打ち込む文字がそのまま映った。震える指が迷いながら選ぶ文字を、わたしは同じ速度で追った。誤字を打って消す瞬間。書きかけて止まる瞬間。全てがわたしの手の中で展開された。至福の瞬間だった。
わたしは一成を操った。彼は半年間、自分が何のために動いているのかを正しく理解しないまま、わたしの道具として八人を殺した。自分が誰かの道具だと思えば、罪の意識は軽くなる。一成にとってのわたしは、罪の元凶であると同時に、罪の引受人でもあった。そしてわたしにとっての一成は、もちろん最高の書き手だった。既に殺されている妻のため、奔走する殺人鬼はわたしの胸を最高に揺さぶった。
蓑の中でわたしの心臓はずっと速かった。
ひまりが泣く声を聞いた時。桜が袋に入れられた時。義男が孫の名前を叫んだ時。亜佐美が母を呼んだ時。恵子が娘に「殺しておけばよかった」と告げた時。
とくん。とくん。とくん。
わたしは生きていた。あの袋の中で誰よりも生きていた。
そして今。
少年が目を覚ます。
椅子に縛りつけた少年の頭がゆっくりと持ち上がる。目がまだ焦点を結んでいない。しかしじきに合う。わたしの顔を見る。わたしの目を見る。
恐怖が少年の瞳に宿る。
わたしはノートパソコンの画面を少年の前に差し出す。「くらやみノベル」が開いている。投稿画面が開いている。カーソルが点滅している。
少年がわたしを見ている。
わたしは微笑む。
「書いてください」
画面の隅で数字が動き始める。
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
少年の目が見開かれた。
恐怖。
それは冷たく純粋で幼く本物だった。
わたしはキリを手に取る。
とくん、とくん、とくん。
心臓がスピードを上げていく。
生きている。
わたしは少年に声をかけた。
「怖いですか?」
少年はがたがたと震えて答えられない。
この少年も今、生を実感しているだろう。死に近接するほどに、生は輝きを増す。
その輝きを、わたしだけが見ている。
わたしは言った。
「書いてください。なるべくたくさんの人に読んでもらえるように」
少年がキーボードに指を這わせた。
とくん、とくん、とくん。
わたしは生きている。




