みのむし(上)
投稿小説サイト「くらやみノベル」。
カテゴリ「ノンフィクション」。
タイトル『みのむし』。
プロローグ「拓海」
読んで。
読んで読んで読んで読んで。
読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで読んで!
お願いします。読んでください。この小説を。
お願いします。怖いです。絶対に怖いですから。このお話ほど怖い話を、僕は知りません。だから読むのを止めないで。
あ、ああ。駄目駄目! そんなことをしないで!
書いてます! 今書いてますから!
死んじゃう! 死んじゃうよぉおお!
あああああッ!!
痛い。痛い。痛い。文字数が足りないと、キリで――。
キリで刺されます。だから書きます。
父さん、ごめんなさい。
言いつけを守ればよかった。そのまま帰ればよかった。そうすれば、こんな、こんなことには!
父さんがどうしてそんなことをしたのか、どうして死ななければならなかったのか、何も分かりません。ただ、ただ怖いです。
僕の選択は間違いだらけでした。
もう母さんも死んでるって、本当は気づいてたのに。
縋ってしまった。生きてるかもしれないって。ひょっとしたらって。
間違えちゃったよぉ!
【残り文字数:287 残り時間:12:08】
お願いです。
この投稿を見ている方。
助けてください。
僕の名前は柳沢拓海。中学二年生、長野県松風町に住んでいます。母の名前は柳沢綾香。父の名前は柳沢一成です。
警察を呼んでください! 早くしないと殺される! 嫌だ、死にたくない!
これは小説じゃありません。
『みのむし』は、最初から、ぜんぶ――本当のことです。
第一章「ひまり」
私の名前はひまりです。小学五年生です。今、これを書かされています。
今日は土曜日でした。朝から雨が降っていました。
お母さんは仕事で夕方まで帰りません。お父さんは二年前に病気で亡くなりました。だから今日は一人でした。
土曜日はいつも親友の桜ちゃんと近くの公園に行きます。あおい公園。ブランコのとなりにある大きな木の幹に、桜ちゃんと二人でこっそり彫った「ひまさく」という文字が今もあります。「ひまり」と「さくら」を二文字ずつ取って作った言葉です。二年生のときに二人で考えました。ポケットナイフで彫るのに三十分かかりました。桜ちゃんは手が痛いと言って途中でやめようとしたけれど、私が応援して最後まで一緒にやりました。
今日も桜ちゃんと遊ぶ予定でしたが、桜ちゃんが風邪をひいてしまったため来られませんでした。「ごめん、熱出た。今日行けない。また来週遊ぼう」というLINEが朝届いていました。スタンプは泣いている犬でした。私は少しがっかりしながらも「うん早く治してね」と返しました。
一人の土曜日はいつも長いです。お父さんが生きていた頃は、雨の日はよく三人でカルタをしました。お父さんはわざと負けてくれていたような気がします。でも本当は分かりません。お父さんに会いたいです。本当に本当に、助けに来て欲しいです。お父さん。お願い。助けて。助けて。
お昼にカップラーメンを作って食べていたとき、チャイムが鳴りました。
ピンポン。
一回だけなら宅配便かもしれないと思いました。でも続けて鳴りました。ピンポンピンポン。お母さんには言いつけられています。一人の時は絶対に出てはいけないと。でも止まらないのです。ピンポンピンポンピンポン。今度は扉を叩く音まで聞こえてきました。コンコン、コンコン。雨の音に混じって、規則正しく叩く音が続きます。
怖かったけれど、インターホンのモニターだけ確認しました。
映っていたのは、黄色いカッパを着た男の人でした。
見た瞬間に、胃のあたりがぐっと縮むような感じがしました。
知らない人でした。黄色いカッパのフードを深くかぶって、真っすぐにこちらを見つめていました。まるで、私がモニターを見ていることを知っているみたいでした。
モニター越しにその人が声をかけてきました。
「ひまりちゃんいる? お母さんの会社の同僚で、田中っていうんだけど。実は、お母さんが会社で倒れちゃってね。救急車で病院に運ばれたんだ。病院から、ひまりちゃんを連れてきてって連絡があったから迎えに来たんだ」
胸が冷たくなりました。お母さん。救急車。病院。その言葉が、順番に私の中に入ってきました。
「嘘、嘘」
私は小さく呟きました。
「ひまりちゃん、聞いて。お母さん、今、すごく大変な状態なんだ。ひまりちゃんが来てくれるのを待ってる。一緒に行こう! 急ごう!」
男の人の声は優しく聞こえました。心配そうに聞こえました。
気づいたら私は玄関に飛び出し、ドアのチェーンを外していました。扉を開けていました。
男の人はにっこり笑って、私が外に出るのを待っていました。
黄色いカッパに水滴がついていました。普通の顔でした。
お母さんのところへ連れて行ってくれそうな、親切な大人の顔でした。
私は、お財布も持たず、家の鍵も閉めずにスマホだけを持って外に出ました。お母さんのところへ早く行かなきゃ。それしか考えられませんでした。
男の人は私の肩に手を置きました。
突然、口にガムテープを貼られました。両手を後ろに回されて縛られます。
それでも私は、お母さんのところに連れて行ってくれるのだと、少しだけ信じていました。
でも車の荷台に無理やり乗せられた時、全部が嘘だったと分かりました。
車が走り出しました。近所の人が見つけてくれないかと思いましたが、誰もいませんでした。雨の音しかしませんでした。
荷台の中は古い段ボールの臭いがしました。暗くて何も見えません。体が揺れるたびに頭が壁に当たりました。痛いより怖い方が大きくて、泣き声も出せなくて、お母さんのことだけ考えていました。お母さんが帰ってきたら私がいなくて、どれだけ怖い思いをするだろう。どれだけ私を探すだろう。そう思ったら初めて涙が出てきました。
どのくらい走ったか分かりません。一時間くらいだったかもしれないし、もっと長かったかもしれません。
車が止まりました。
荷台から引き出されると、木の匂いがしました。雨がまだ降っていました。山の中でした。木が多くて、空が見えませんでした。引きずられるようにして小屋に入れられました。
古い山小屋でした。
中はランプが一つだけ灯っていて薄暗く、床は土でした。木が腐ったような湿った臭いがして、雨が屋根を叩く音がずっと聞こえていました。窓には板が打ち付けてあって、外は見えませんでした。
椅子に座らされて、手足を縛られました。ロープが手首に食い込んで痛いです。逃げようとしましたがびくともしませんでした。
天井辺りで何かが動いた気がして、私は上を見上げました。そして、見なければよかったと思いました。
大きな袋が吊るされていました。ざらざらした茶色い袋です。縦に長くて、人が一人すっぽり入れるほどの大きさがありました。
袋は動いていました。
ゆらゆらと。風もないのに。
破れた穴が一か所ありました。そこから何かが覗いていました。
目でした。
大きな目が、じっとこちらを見ていました。
頭が真っ白になりました。声も出ませんでした。体の芯から冷えていく感じがしたと思ったら、足の付け根がじわっと温かくなりました。それに気づいて、恥ずかしくなって、涙がぶわっと出てきました。
「怖いですか?」
私はこくこくと頷きました。
男の人の声は静かでした。怒っていませんでした。
そして何かを取り出しました。木の柄に針がついています。先が細くて、銀色でした。長さは筆箱に入る定規くらいあります。でも、その三分の一くらいが針でした。
それを見た瞬間に鳥肌が立ちました。
「これはキリという道具です」
男の人が図工の先生のようなことを言いました。
「叫んだらこれで刺します」
額がすうっと冷たくなりました。
そして、ガムテープをはがされました。私は叫びませんでした。叫べませんでした。
男の人が目の前にパソコンを置きました。「くらやみノベル」という有名な小説投稿サイトが開いてあります。私も知っているサイトです。しかし、怖いお話ばかりが載っているので私はあまり読んだことはありません。クラスの男の子は時々読んだりしているようでした。
「ひまりさんの今感じている恐怖を物語としてここに投稿します。何を書いても構いません。助けを求めても構いません。もし助けが来れば助かります。むしろ助けを求めた方が切実で、色んな人が読んでくれるかもしれません。物語は読んでもらってこそ意味があります。なるべくたくさんの人に読んでもらえるように書いてください」
男の人は少しの間を置きました。
「ただし、文字数が足りない場合、または私が怖くないと判断した場合は、同じように刺します」
男の人はキリを持ったまま椅子に座りました。パソコンの画面に数字が出ていました。
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
「その文字数が最低投稿文字数。表示されている時間がそれを書くまでのタイムリミットです」
突然吐き気がこみあげてきて、私は床に吐いてしまいました。けれど男の人は全く動じません。ただ静かな声で、
「それでは書いてください」
そう言って、エンターキーを押しました。
カウントダウンが始まりました。私は震える手でキーボードを打ち始めました。
私の名前はひまりです。小学五年生です。今、これを書かされています。
誰に向けて書けばいいか分かりません。やっぱり、お母さんに向けて書こうと思います。でもお母さんの顔を思い浮かべると、泣きそうになって文字が打てません。
だから桜ちゃんに書くことにしました。
たすけて、桜ちゃん。
私は今、山の中の小屋にいます。変な男の人にさらわれました。黄色いカッパを着た人です。椅子に縛られています。天井にみのむしが吊るされています。これはいたずらじゃありません。本当のことです。
桜ちゃんにもう会えなくなっちゃうよ。お願い桜ちゃん。このお話に気づいて。あおい公園のブランコに、もう乗れないかもしれない。運動会で一緒に走れないかもしれない。中学生になってもずっと友達でいようねって約束したのに。
なぜかお父さんの顔が浮かびました。お父さんが死んだとき、私は怖かったです。
怖い、という言葉が合っているかどうか分からないけど、他に言葉がありません。お父さんがいなくなってしまうということが、実感できませんでした。いなくなった後も、しばらくは夜中に目が覚めるたびにお父さんのことを考えました。今どこにいるんだろう、と思いました。今も、たまに思います。
もし私がここで死んだら、お父さんに会えるのかな。お父さんが迎えに来てくれるのかな。
「あ、あ、あ」
熱い。痛い。痛い痛い痛い痛い。
太ももを刺されました。
本当に刺されました。
声が出ました。叫ばないようにしようと思っていたのに、出てしまいます。すごく痛いです。
「次は頑張ってくださいね」
男の人の声は変わりませんでした。怒ってもいません。でもそれがとても怖いです。
怖い。怖い。怖いよぉ。
桜ちゃん!
私を助けて!
お父さんのこと。お母さんのこと。桜ちゃんのこと。ひまさくのこと。あおい公園のこと。書けば書くほど怖いものが出てきました。怖いから書きたくないのに、書かないともっと怖いことが起きるから書きました。涙で画面がにじんで見えなくなるたびに、手の甲で目をぬぐいました。
「上手に書けてますよ」
男の人は投稿ボタンを押しました。それから、私のスマホを取り出しました。
「この物語を、大切な人に送ってあげましょう。助けてくれるかもしれません」
男の人はスマホの画面を私に見せました。連絡先の一覧が表示されていました。
「誰がいいですか?」
桜ちゃんの名前が見えました。
「さ……桜ちゃん」
男の人は頷いて、桜ちゃんに私が書いた物語のリンクを送りました。
「伝えておきましたよ」
私は混乱しました。助かるかもしれないことは嬉しい。
でも桜ちゃんが読んだら、来てしまうかもしれない。
桜ちゃんは怖いものが嫌いだけど、私のことになったら無茶をします。
何も考えず来てしまうかもしれません。
もし来たら、来たら――。
「帰れますか」
と私は聞きました。
「帰れるといいですね」
男の人は言いました。
桜ちゃんのことを思い浮かべました。あおい公園で転んで泣いていた桜ちゃんを、私がハンカチで拭いてあげた日のことを。二人でブランコをこいで、どっちが高く飛べるか競争した日のことを。桜ちゃんの方が遠くに飛んで、それが鳥みたいで――。
『桜ちゃんはふわって飛ぶね! すごいね』思わずそう言うと、桜ちゃんは照れくさそうに笑っていました。
だから、来ないでって書きました。
桜ちゃん、来ないで。
この文章を読んだとしても、来ないで。私のことは諦めていいよ。今まで友達でいてくれてありがとう。桜ちゃんが友達でいてくれて、私は本当に幸せでした。
諦めてほしいわけじゃなかった。でも本当のことを書かないといけない気がしました。
男の人は私の文章を読みながら、静かに頷いていました。
「いいですね」
どのくらい時間が経ったか分からなくなりました。
私の足は穴だらけです。太もも。ふくらはぎ。手の甲、肩。痛みに慣れてきたのか、泣いてもどうしようもないからか。最初よりも涙は出なくなりました。
外の雨音が少し弱くなりました。
私はキーボードを打ち続けました。
手が疲れて、指が痺れてきても、打ち続けました。
何を書いているのか自分でも分からなくなってきました。
指が動かなくなってきました。
最後に一言だけ打ちました。
ごめんなさい。
誰に向けて書いたのか、自分でも分かりませんでした。
私は天井を見上げました。
みのむしが静かに揺れていました。
破れた穴から、大きな目がこちらを見ていました。
ただ、私を見ていました。ずっと、見ていました。
第二章「桜」
土曜日の朝、目が覚めると体がだるかった。
頭の奥がじんじんする。熱を測ったら三十七度八分もある。
お母さんに体温計を見せると「今日は大人しくしていなさい」と言われてしまった。
ひまりちゃんと遊ぶ約束をしていたから、私はすぐに連絡した。
「ごめん、熱出た。今日行けない。また来週遊ぼう」
返信はすぐに来た。
「そっか。ゆっくり休んでね。来週絶対行こうね」
スタンプは泣いている犬だった。私も同じスタンプを返した。残念だったけれど、熱がある以上仕方がない。ひまりちゃんに移してもいけないし。
来週晴れたらあおい公園に行こう、と思いながら私は布団に潜った。
外は雨だった。窓を叩く雨音を聞きながら、うとうとした。目が覚めたら昼過ぎで、体が軽くなっていた。
夕方、「熱下がったよ」とひまりちゃんに送ったが、返信はなかった。少しだけおかしいなと思った。ひまりちゃんは家に一人でいることが多くて、スマホをいじっている時間が長い。だから、返信はいつも爆速なのに。
私はスマホを放り投げ、また目を閉じた。熱が下がったとはいえ、まだ喉も痛いし動き回るほどの元気もない。そうして目を閉じているうちに、私は再び眠ってしまった。
次に目覚めたときは完全に日が暮れていた。スマホを確認すると午後六時、やはり返事はない。既読にすらなっていない。そういうこともあるかと思い、私は晩御飯を食べた。
そうして食器を片付けていると、突然お母さんのスマホが鳴った。
相手はひまりちゃんのお母さんからだった。私はお母さんの顔がみるみる青ざめていくのを見た。
「桜、ひまりちゃんがいないそうなんだけど、何か知らないかって」
頭が真っ白になった。
夕方帰ったらひまりちゃんがいない。靴もスマホもない。友達のところかと思ったけれど、六時になっても帰ってこない――そういうことだった。
お母さんが私を見た。
「心当たりはないのよね?」
「ない。今日は遊べなくなったから、朝LINEして……その時は返信があったけど、それからは返事がないの」
お母さんの顔がさらに強張った。電話口に向き直って「すぐに警察に連絡した方がいいと思う」と言った。
電話が切れた後、お母さんは私に「もう一度LINE確認してみて」と言った。確認したが、やはり返信はなく既読にもなっていなかった。
夜中、眠れなかった。ひまりちゃんのことが頭から離れない。どこに行ったんだろう。
ひまりちゃんは怖がりだ。一人でどこかに行くような子じゃない。布団の中で目を閉じても、昼間に寝すぎたせいで全然眠くならなかった。寝返りばかりを打っているうちに、夜中の一時を過ぎていた。
突然スマホが光った。
画面を見る。ひまりちゃんのアカウントからだった。
メッセージは一言だった。
「助けて桜ちゃん」
最初、冗談かと思った。ひまりちゃんはたまに突拍子もないことを言う。でも夜中の一時過ぎに、こんなメッセージを送ってくるひまりちゃんを私は知らない。
メッセージにはリンクが貼られていた。
胸の奥がざわついた。私は画面をタップしてリンクを開いた。
小説投稿サイトだった。「くらやみノベル」というサイトで、ホラー小説を専門に扱っているところだった。私は怖い話が苦手だから、ほとんど読んだことがなかった。
タイトルは「みのむし」。
作者名は「ひまり」。
ひまり……? 読み始めた瞬間に手が止まった。
「私の名前はひまりです。小学五年生です。今、これを書かされています」
ひまりちゃんだ、と分かった。
うまく説明できないけれど、分かった。文章の癖が、言葉の選び方が、ひまりちゃんだった。さらに「ひまさく」という言葉が出てきた。あおい公園のこと。ブランコの隣の木のこと。二人でポケットナイフで彫った文字のこと。それは私とひまりちゃんだけが知っていることだった。
読み進めた。手がしっとりと汗ばんできた。
ひまりちゃんは山の中の小屋に連れていかれた。黄色いカッパを着た男に。椅子に縛られて、天井には吊るされた大きな袋。その袋の中に、何かがいると。人が入れるほどの大きさの袋が動いていると。そうひまりちゃんの文章で書いてあった。
読みながら私は布団の中で膝を抱えた。体が冷えていた。熱が下がったせいだけじゃなかった。
キリで刺される場面があった。太もも。肩。文章が途切れ途切れになっていった。後半は漢字の間違いが増えた。痛みで集中できなかったのかもしれない。泣きながら打っていたのかもしれない。
どちらも想像できた。
ひまりちゃんがどんな顔で、どんな気持ちで、あの文章を打ったのか。想像したら、涙が出てきた。止めようとしたけれど、止まらなかった。
最後に「ごめんなさい」とだけ書いてあった。
誰に向けた「ごめんなさい」なのか。
私に向けたものなのか、お母さんに向けたものなのか、それとも文字数が足りなかったことへの謝罪なのか。
画面を閉じることができなかった。ひまりちゃんの「ごめんなさい」を何度も読んだ。
どうしたら……と、私は考えた。
とてもこれが創作だとは思えなかった。
ひまりちゃんが悪戯でこんなことをする理由がない。それに、ひまりちゃんは実際に行方不明になっている。
震える手でコメント欄をタップした。
「ひまりちゃんですか」
気がついたときには、そう書き込んでいた。
「桜さんですか?」
返信がすぐに来た。背筋が冷えた。
監視していたの? 私が書き込むのを?
冷たさが、背中から足先まで広がっていった。
「あなたはひまりちゃんじゃないですよね? 警察に通報します」
脅しのつもりで書いた。
「そうですか」
間髪入れずに返信があった。予想とは全く違う答えだった。
「ただ、警察に言ったらひまりちゃんとは永遠に会えませんよ」
血の気が引いた。永遠に、という言葉が頭の中でこだました。
「ひまりちゃんと会いたければ、明日の放課後、あおい公園に一人で来てください。もし来なかったら、同じく永遠にひまりちゃんには会えません。桜さんは友達を見殺しにしたとずっと苦しむことになるでしょう」
スマホを持つ手が止まった。
行ってはいけない。頭の中で警告の声が聞こえた。罠だ。ひまりちゃんを餌にして私をおびき出そうとしている。
小学五年生でも、それくらいは分かった。
でも分かっているのに『行かない』という決断ができない。
スクロールして、ひまりちゃんの文章に戻る。ひまりちゃんが書いた「ごめんなさい」がまだそこにある。あの文字を打っている時のひまりちゃんを想像した。どんなに痛かっただろう。どんなに怖かっただろう。どんなに心細かっただろう。
行ってはいけない。分かっていた。
でも、行かなかったら。
ひまりちゃんは一人で、この山小屋で――。
私はコメント欄に書いた。
「私とひまりちゃんに何かあったら、すぐ警察に伝えます」
そう書けば、犯人が私たちに手を出しづらくなると思った。そして書きながら、これでもう引き返せない、と思った。書いてしまえば、行くしかなくなる。私は自分に逃げ道を残したくなかった。
それきり犯人からの返事はなかった。
眠れないまま朝になった。行かなければ、という声と、行くべきじゃない、という声が交互に聞こえた。どちらも本当だった。どちらかが嘘なら楽だった。
家族と朝ご飯を食べた。それから私は自分の机の前に座って、メモ帳を開いた。
「ひまりちゃんを助けに行ってきます。私が帰らなかったら警察に電話してください。私とひまりちゃんはこの小説に書かれている場所にいると思います」
メモの下に「みのむし」のURLを書いた。
書き終えてからどこに置くか考えた。お母さんの目につく場所に置けば、すぐに見つかる。でも見つかれば止められる。公園に着く前に呼び戻されるかもしれない。
私は勉強机のカバーの下にメモを挟んだ。お母さんは少し遅れて気づくだろう。私がいなくなって部屋を探せば、きっと見つけるはずだ。
家を出た。
あおい公園は家から歩いて十分かからない。日曜日の朝だったから、公園には誰もいない。
雨上がりで地面が濡れていた。ブランコがきいきいと嫌な音を立てて風に揺れている。
ひまりちゃんと二人で彫った「ひまさく」の木は見に行かなかった。見たら泣いてしまいそうで、泣いたら怖くなって引き返してしまいそうで。
視界の端に風景にそぐわない色が見えた。ベンチに黄色いカッパを着た男が座っていた。
男は私を見るとゆっくりと立ち上がった。
「桜さんですね」
声は穏やかだった。普通の声だった。怒っているわけでも、興奮しているわけでもなかった。ただ穏やかで感情が分からない。
それが逆に怖すぎた。
やっぱり、来ちゃいけなかったんだ。
男が立ち上がっただけで私の足が動かなくなった。大きかった。ただそれだけのことなのに、子どもと大人の差がこんなにも大きいのだと、私は今初めて体で理解した。
画面の中の文章を読んでいた時とは、全部が違った。アニメだったら、最後には悪人をやっつけることができる。でも、これはアニメではなかった。私は友達を助ける主人公ではなかった。私はただの子どもだった。
逃げようとした。けれど遅かった。男の方が速い。
腕をつかまれた瞬間、病院のような臭いのする布を口に押し当てられた。
思わず吸ってしまった。
視界が歪む。手足の力が抜けていく。意識が遠くなる前に、最後に見えたのは木の枝の隙間から覗く青空だった。
目を覚ました時、世界は真っ暗だった。
頭が重い。口の中が乾いている。喉の奥がひりついていた。
手足を動かそうとして、動かないことに気づいた。手首が後ろで縛られていた。足首も縛られている。布のような何かが頬に当たっていた。段ボールの臭いがした。
ここがどこか私は遅れて理解した。車の荷台だった。
ひまりちゃんの文章に書いてあった通りだった。
ひまりちゃんも、こうやって運ばれたんだ。
その事実が分かった瞬間、ひまりちゃんの感じた怖さがそのまま私の体に流れ込んできた。ひまりちゃんはこんな真っ暗な場所で、一人で捕まっていたのだ。
涙が出てきた。声を出してはいけないと思った。男に気づかれたら何をされるか分からない。でも涙は止まらなかった。私は唇を噛んで声を殺して泣いた。
車は走り続けていた。
タイヤの音が変わった。最初はアスファルトの平らな音だったのが、いつの間にか砂利を踏む音になっていた。舗装が途切れたのだ。山道に入ったのだと分かった。
エンジン音が低く唸るように鳴る。登っている。カーブのたびに体が壁にぶつかり、肩や頭に痛みが走った。
どれくらい走っているのか分からなかった。三十分かもしれないし、一時間かもしれない。時間の感覚が、揺れと暗闇の中で分からなくなっていた。
お母さんは、もう私がいないことに気づいただろうか。
考えても答えは返ってこなかった。
やがて、車が止まった。荷台が開いて光が差し込んだ。引きずり出されると山の冷たい空気が頬に当たった。雨上がりの土の匂いがした。
道の脇に三体のお地蔵様が並んでいた。黒い石だった。真ん中の一体の首が欠けている。
私はその地蔵を目に焼き付けた。覚えておかなければ。これが手がかりになるかもしれない。
地蔵の横の細い道を歩かされた。木が両側から覆いかぶさるように迫っていて薄暗い。
十五分くらい歩いただろうか。木立の向こうに古い建物が見えた。
……思わず足が止まった。
山小屋もひまりちゃんの文章に書いてある通りだった。黒ずんだ外壁。板で塞がれた窓。ひまりちゃんが怖い思いをしながら書いていたあの場所が、本当にここにある。
男が扉を開けた。中に押し込まれた瞬間臭いが来た。腐った木の臭い。そして、もう一つ別の臭い。嗅いだことのない、体が受け付けない臭い。
私は呼吸を浅くしながら天井を見た。
袋が二つ吊るされていた。大きいものと、小さいもの。
大きい方はゆっくりと揺れている。破れ目から目が覗いている。じっとこちらを見ている。やたらと黒目が大きくて、人の目ではないみたいだ。
小さい方は動いていなかった。袋の下から何かが垂れている。長い、黒い髪だった。
見覚えのある髪だった。
「ひまりちゃん!」
私は思わず叫んでいた。
私が何度も編んであげたことのある髪。二年生のとき、サイドで編み込みをして二人で登校したら、先生に「かわいいね」と言ってもらったあの髪。
その髪が袋から垂れていた。
動いていなかった。
「うそ……うそ……」
頭からざぁっと血の気が引いていくのが分かった。
ひまりちゃんが死んでいた。
足から力が抜けた。男の人に腕を引かれていなかったら、その場に崩れていたと思う。
「椅子に座ってください」
男の人の声は相変わらず穏やかだった。
私は引っ張られるようにして椅子に座らされた。体に力が入らない。その脱力した手足をロープで縛られた。目の前で起きていることの全てが、ガラス一枚向こうの出来事のように感じられた。
男の人がパソコンを机に置いて、画面を私に向けた。
画面には文章を打つためのページが開かれていた。タイトル欄には「みのむし」という文字。投稿サイトの画面だった。
ああ……と私は思った。ひまりちゃんが書いていた文章は、この画面の中で生まれていたのだ。震える指で、ひまりちゃんが一文字ずつ打っていたのだ。
今度は、私が打つ番だった。
「人生で一番怖かったことを書いてください」
男の人が言った。
「色んな人に読んでもらえるように、できるだけ怖く。何を書いても構いません。助けを求めてもいいです。場所を書いてもいいです。誰かに伝えたいことがあれば書いてください」
男の人の声は、お話の読み聞かせをしているみたいに穏やかだった。
「ただし、決められた時間内に決められた文字数を書かないといけません。書けなかったり、怖くない内容だったりした場合は、罰があります」
「ばつ……」
私は声を出した。声を出してはいけないと思っていたのに、出てしまった。
「キリで体を刺します。ひまりさんと同様に。あなたも、それを文章で読みましたよね」
体の芯が、冷たくなった。
今度は、私が刺される番なのだ。
「それでは桜さん。よろしくお願いいたします。期待していますよ」
そう言って男はエンターキーを押した。
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
画面の数字が減っていく。59:11、59:10、59:09――。
私はぼんやりとその数字を見つめていた。何も考えられない。ひまりちゃんの髪が頭から離れない。あの黒い髪。動かない袋から垂れていた、あの髪。
数字が少しずつ減っていく。
時間が減っていることは分かった。減っているということが何を意味するのかも、分かっていた。書かないと刺される。書かないと、ひまりちゃんと同じになる。
分かっているのに、何もできなかった。手が、人形みたいに動かない。
ふと、視界の端で男の人が懐からキリを取り出すのが見えた。
その動きを見た瞬間、心臓がどくんと強く動いた。書かなきゃ。書かなきゃ、本当に刺されちゃう。
助けを呼ぶ文章を書こう、と思った。読んだ人が分かるように、ちゃんと私の名前と場所と。
その思いつきが、私の指をようやく動かした。
震える指で、私はキーボードを打ち始めた。
私は小松桜と言います。小学五年生です。今、長野の山奥の小屋に捕まっています。
来る途中に三体並んだお地蔵さんを見ました。その先に私とひまりちゃんが捕まっています。助けてください。お願いです。時間がありません。
ここまで打って、私の指が止まった。
怖い話にしなきゃいけない。助けを求めるだけじゃ怖くならない。でも怖い話って、一体何を書けばいいんだろう。
今が一番怖い、と思った。今この瞬間が私の人生で一番怖い。ならこれを書けばいい。
でも、書こうとしても言葉にならない。怖い、という言葉だけが頭の中をぐるぐる回ってその先が出てこない。何が、どうして、どれくらい怖いのか自分でも分からない。この怖さに名前をつける方法を私は知らない。
書かなきゃ。何でもいいから、書かなきゃ。
指を動かそうとした。動かなかった。
頭の中が真っ白で、何も浮かばない。
なんで書けないの。
私は心の中で叫んだ。私は作文の宿題が得意だった。学校でも作文の発表をよくした。なのに、今、何も書けない。
こんな時のために本をたくさん読んできたんじゃないの。こんな時のために作文を書く練習をしてきたんじゃないの。
でも、違った。今までの読書も作文もこんな時のためじゃなかった。明るく、きれいで、正しい作文の書き方は何の役にも立たなかった。
画面の数字が減っていく。残り五分もない。
02:14、02:13。
もう、間に合わない。
私はキーボードに突っ伏した。涙がキーの上に落ちた。
タイムアップのアラームが、鳴った。
「残念でしたね」
男の人の声が頭の上から落ちてきた。
顔を上げられなかった。上げたら見たくないものが見える気がした。
男の人が、立ち上がる気配がした。机の向こうで椅子が軋む音がした。
足音がこちらに近づいてくる。一歩、また一歩。土の床を踏む音がする。
私は顔を伏せたまま、息を止めた。息を止めれば、男の人が消えるんじゃないかと思った。
子どもみたいな考えだ。でも、子どもだから、そんな考えしか浮かばなかった。
足音が私の前で止まった。
男の人がしゃがむ気配がした。膝が床につく音。私の目線の高さに男の人の顔があった。
恐怖のあまりめまいがした。
太ももに何かが触れた。
ズボンの布越しに、硬くて、細くて、冷たいものが押し当てられた。金属だった。それは金属の冷たさだった。まだ刺さっていない。ただ当てているだけ。なのに、体が硬直して息ができなくなる。
「まずは足から始めましょう」
そう言った瞬間に、その針が押し込まれた。
最初の一秒は何が起きたか分からなかった。
布を突き抜けて、皮膚を突き抜けて、何かが体の中に入ってくる感覚。
それから熱さが来た。焼けるような熱さが太ももの一点から広がって、一瞬遅れて、痛みに変わった。
「ああああッ!」
声が勝手に出た。止められなかった。
ずずっという振動とともにキリが引き抜かれる。抜かれた瞬間の感触がまた怖気を誘った。刺さった時とは違う、えぐられるような痛みだった。
胃の中のものが全部せり上がってきた。床に吐いた。止められなかった。涙と鼻水がぐちゃぐちゃに顔を濡らしていた。
吐いても痛みは消えなかった。太ももがずきずきと脈打っている。脈打つたびに、刺された場所から血が滲んでくるのが分かった。
痛い。
それが全てだった。
この痛みに……ひまりちゃんは何度も耐えたの?
吐いた物の上に頭を垂れたまま、私は言葉を失った。一度でこんなに怖いのに。一度でこんなに痛いのに。ひまりちゃんはこれを、何度も、何度も。
耐えられない。耐えられそうもない。この痛みは、この怖さは――とても言葉では言い表せない。
「書いてください」
男の声が、当たり前のように二回目のカウントダウンを始めた。
太ももの傷が脈打つたびに、次のキリが迫っていることを思い出させる。次が来る。また刺される。その予感が、ぼんやりしていた頭を無理やり起こした。
書くしかない。書かなければ次のキリが来る。
今度は、何を書こう。
怖い話。怖い話。私の人生で一番怖いのは、今この瞬間。でもさっき書こうとして書けなかった。
別の怖さなら……書けるかも。
ひまりちゃんを失う怖さ。ひまりちゃんが、もう、いない怖さ。
ひまりちゃんのことを書こう、と思った。
あおい公園のブランコで一緒に遊んだ日のこと。「ひまさく」を木に彫った日のこと。ひまりちゃんが私のリボンを編んでくれた日のこと。
書き始めた。
涙がぽたぽたとキーボードに落ちた。
楽しかった記憶を打ち込んでいるのに、打ち込むほど怖くなった。なぜだろう。なぜ楽しかったことを思い出すと怖くなるのだろう。
分からないまま、書き続けた。指が震えた。それでも書いた。
書きながら、少しずつ分かってきた。楽しかったことを書くと、それが『もうない』ということが、本当になってしまう。書けば書くほど、ひまりちゃんが遠くなる。
書くことは、お別れすることに似ていた。
お別れなんかしたくない。でも書かないと刺される。
だから、書いた。
ひまりちゃんとお別れしながら、書いた。
数字が減っていく。
涙でキーボードがぼやけるたびに、目を擦って書き続けた。
アラームが鳴った。
今度は文字数が足りていた。
書き終わった瞬間、力が抜けた。私はキーボードに突っ伏した。生き延びた、と思った。とりあえず、生き延びた。
男の人が私の背後に回り込んで、画面を覗き込んだ。しばらく無言で読んでいた。
その間、私は息を止めていた。読まれている。私の文章が。
ひまりちゃんとの大切な思い出が。
汚されているような気がした。
でも、合格しなければ刺される。だから、合格してほしかった。
「良いですね」
男の人が言った。私はかすかに息を吐いた。ひとまず、刺されない。
それから、男の人が私のスマホを取り出した。
「続きを読んでもらえるよう、大切な人に送りましょう。誰がいいですか?」
連絡先の一覧がスクロールされていく。
お母さんの名前が見えた。
お母さん、と心の中で呟いた。お母さんに送りたい。お母さんが一番心配してくれている。お母さんが一番私を探してくれている。お母さんならお母さんなら。
でも、お母さんではこの場所が分からない。
お母さんに送ったら、お母さんは泣くだけだ。お母さんは地理に詳しくない。三体の地蔵がどこか分からない。私が捕まっている場所に辿り着けない。
ごめんね、お母さん。
心の中で謝った。
画面がさらにスクロールされる。
おじいちゃんの名前が目に留まった。
「おじいちゃんに送って」
私は言った。声がかすれた。
おじいちゃんなら、分かる。おじいちゃんは郷土史家だ。三体の地蔵の場所も、長野の山奥のことも、おじいちゃんなら知っている。知っているはず!
「分かりました」
男の人は何の感情も見せず、おじいちゃんに私の小説のリンクを送ったようだった。
メッセージを送る場違いに軽やかな音が部屋に響いた。
おじいちゃんが私の文章を見つけてくれる。読んでくれる。助けに来てくれる。
そう考えると、少しだけほっとして涙が滲んだ。
私は気持ちを静め、次に書くべき話を考える。それまでは耐えるんだ。絶対に生き残る。
そのためには、もっとおじいちゃんに呼びかけないと。この場所と私の状況を伝えないと。
おじいちゃんなら、きっと来てくれる。
第三章「義男」
孫の桜が失踪して、丸一日が経った。
「お父さん」
娘の美沙のその声色だけで、何かあったと察しがついた。声の中の張り詰めたものが受話器越しに私の胸に届いた。
「桜が、帰ってこない」
私は受話器を握ったまま言葉が出なかった。
「朝、家を出てから帰ってこないの。連絡もつかない。スマホも鳴らない。既読もつかない」
美沙の声が早口になっていく。
「警察にも電話したんだけど」
「警察は何て」
「家出って」
美沙が絶望的な声色で言った。
「桜の友達のひまりちゃんも、昨日いなくなってるんですって。仲の良い友達同士の家出は珍しくないって」まさか、と一瞬息が止まった
「桜が、家出?」
「するわけない……。あの子が家でなんて! お父さんも分かるでしょ?」
「ああ」
「あの刑事、何度も同じこと聞いてくる。手紙はなかったか、置き手紙はなかったか、計画的な家出の可能性は、って」
桜を知る者なら誰にでも分かる。
計画的な家出など、やはりあるはずがなかった。
「お父さん」
美沙が言った。
「桜に何かあったら……何か、悪いことに巻き込まれてたらって……私そう考えると怖くて……怖くて」
その問いに、私は答えられなかった。
答えられないまま、受話器の向こうで娘が泣き始めた。
子どもが心配で、だが泣くことしかできることのない母親の泣き声だった。
私は何度も「大丈夫だ。きっと大丈夫だ」と繰り返した。それしか言えなかった。
電話を切ってから、私は事情を妻の幸江に伝えた。幸江はその場で崩れ落ちた。私もほぼ同じようなものだった。よろめきながらなんとか居間の椅子に座った。立っていられなかった。
桜の顔が浮かんだ。最後に会ったのは正月だった。「おじいちゃん、また来年も来るね」と、玄関で手を振っていた桜。
あの桜が、いま、どこにいるのか分からない。
その夜、私は一睡もできなかった。
丸一日、何も分からなかった。
庭の梅の木が見えた。桜が小学校に上がった年に一緒に植えた木だった。今年も白い花をつけた。桜はその木が咲くたびに「桜みたいだね」と言った。
幸江は台所にいた。何かを作っている音がした。幸江は桜が失踪したと聞いて以来、ずっと台所に立っている。何かしていないと、どうにかなってしまうからだと私には分かった。
自分も同じだった。ずっと同じ本を開いている。一ページも進んでいない。それでも本を開いて座っていた。
その時、私のスマートフォンが鳴った。LINEの通知音だった。
LINEは連絡用にと美沙に勧められて入れたアプリだった。しかし私はあまり使っていなかった。来る通知のほとんどが業者の広告だったからだ。今回もそうだろうと思いながら、画面を開いた。
桜からだった。
心臓が跳ねた。
慌てて画面を開いた。メッセージはなかった。ただ青いURLだけが貼られている。
LINEを使い慣れていない私でも、これが普通のメッセージではないことは分かった。
胸の奥に、嫌な感覚が広がった。
私はURLをタップした。
小説投稿サイトだった。「くらやみノベル」という名前のサイトだった。黒い背景に白い文字。ホラー小説を扱っているサイトらしかった。
私はホラー小説を読まない。七十年近く生きてきて、小説の中に怖いものを求めたことがなかった。
なぜ桜が、こんなサイトのリンクを送ってきたのか。
画面をスクロールした。
リンクされていた小説のタイトルは「みのむし」というものだった。章立てで構成されている物語だった。
第一章は「ひまり」。
ひまり、と私は心の中で繰り返した。同時に失踪しているという桜の友達の名前ではなかったか?
そして、第二章のタイトルは「桜」だった。
その文字を目にした瞬間、息が浅くなった。指が冷たくなり、握っているスマホが滑り落ちそうになった。
ひまりと桜。いなくなった二人の名前が並んでいる。
これが偶然であるはずがない。私は急いで桜の章を読み始めた。
「おじいちゃん、読んでますか。桜です。三体の地蔵、石が黒くて、真ん中だけ欠けてるやつ。おじいちゃんなら絶対知ってると思う」
文章の向こうに桜がいた。
文体、語彙の選び方、句点の打ち方。それよりもっと深いところで、これは桜だと分かった。
私は震える指で画面をスクロールし、桜の訴えを聞いた。
桜は捕まっていた。山奥の小屋に。男に。脅されて、書かされて――キリで刺されていた。
キリで刺されている。
キリ? あの大工道具のキリか?
読んだ瞬間は全く実感がわかなかった。だが、その言葉の意味が、ゆっくりと頭に染み込んできた。
桜が。私の桜が。
あの、生まれた時からずっと見てきた、私の孫が。
私の膝の上に座って、絵本を読んでとせがんだあの桜が。
先月私の家に来た時、新しいリュックを見せてくれたあの可愛い桜が。
キリで刺されている、だと?
息ができなかった。
胸を押さえた。心臓が、激しく打っていた。手が震えていた。スマホを持っていられなくなって、机の上に置いた。それでも画面の文字は、目に焼き付いて消えなかった。
立ち上がろうとした。立ち上がって、何をするつもりだったのか、自分でも分からなかった。ただ、桜のところへ行かなければ、と体が動こうとしていた。でも、立ち上がれなかった。膝が震えて立てなかった。
どのくらい放心していたか分からない。
しかし、不意に我に返った私は画面に目を戻し、意志の力で続きを見た。
「おじいちゃん、読んでますか」
桜の声が、文字の中から聞こえた。
私は、画面に向かって頷いた。
読んでいる。読んでいるぞ、桜。
おじいちゃんはここにいる。今、お前の文章を読んでいる。
私は立ち上がった。膝が一瞬よろけたが今度は立ち上がる。ここで折れている時間はなかった。
台所に行った。幸江が振り返った。私の顔を見て手を止めた。
「どうしたの」
「桜から連絡が来た」
「え」
「桜から、連絡があった。場所が分かった」
私は努めて落ち着いた声で言った。声が震えないよう腹に力を入れて話した。
「警察に電話する。場所を伝えてくれ。俺は行く」
「あなた、待って。一緒に――」
「時間がない」
私は遮った。
「桜が……」
刺されている、と言いそうになって、私は言葉を呑んだ。心配性の幸江にそれを言うわけにはいかなかった。聞けば卒倒するかもしれない。どこまでが事実か、私自身が確信を持って言えないうちは、伝えるわけにはいかなかった。
「桜が、急ぎなんだ」
私は短く言い直した。
「向坂集落だ。廃村で地図には載っていない。警察は探すのに手間取るだろう。私の方が先に着けるかもしれない。お前は警察に連絡してくれ」
「大丈夫なの?」
幸江が私の目を見た。私も幸江の目を見た。四十三年連れ添った妻の目だった。
大丈夫だ、と言いたかった。安心させてやりたかった。だが、嘘はつけなかった。私は答えあぐねて、黙った。
幸江は、その沈黙を受け止めた。長い結婚生活で何度も繰り返してきたように、夫の沈黙の意味を汲み取った。
「気をつけて」
幸江はそれだけ言った。それから、受話器を取った。
私は玄関に走った。
軽トラに乗り込んで、エンジンをかける。
二十五年前の記憶を辿りながら走った。
あれは私が四十二歳の頃だった。郷土史の調査で長野県の廃村を巡っていた。飛騨から信州にかけての山間部には、高度成長期以降に急激に過疎化した集落が点在していた。私はそれらを記録に残す仕事をしていた。
向坂集落、という場所があった。
向こうの坂、と書いてムコウザカと読む。長野県の山奥、車で行ける道の終点からさらに山道を二時間歩いた先にある集落だった。最盛期には三十世帯ほどが暮らしていたというが、私が訪れた年、そこに住んでいるのは七十代の老夫婦一組だけだった。
翌年、その夫婦も麓に移り、向坂集落は完全な廃村となった。
集落の入り口近くに、三体の地蔵が並んでいた。
風化が進んで、どれも顔の判別が難しかった。しかし真ん中の一体だけ、顔が欠けていた。
私はその地蔵を写真に収め、資料にまとめた。それきりだった。二十五年間その場所のことを思い出したことも訪れたこともない。
桜はまだ、生きているのか。ハンドルを取る手のひらが汗でぬめる。
考えて答えが出るはずもない。私にできることは可能な限り早くそこへたどり着くことだけだ。
山道に入り、舗装が途切れる。轍の跡がある未舗装路になった。軽トラのサスペンションが悲鳴を上げた。
記憶を辿りながら軽トラを走らせる。
一時間ほど走り続けると地蔵が現れた。記憶と一致した。三体並んでいた。真ん中だけ欠けている、黒い地蔵。
ここだ。
軽トラを止め、エンジンを切った。外に出ると山の空気がした。針葉樹の匂い。土の臭い。静かだった。風の音しかしなかった。
地蔵の脇に細い道がある。獣道のような道だ。二十五年前は集落へと続いていた道。だが、今やそれは半ば自然に飲み込まれている。そうと知らなければ道だとも思わないだろう。
その道を歩いた。
十五分ほど歩くと、木立の向こうに古い木造の建物が見えた。
山小屋だった。外壁の板が腐りかけて、あちこちが黒ずんでいる。窓には板が打ち付けてあって、中の様子はうかがえない。
私はゆっくりと扉に手をかけた。
その瞬間だった。
背後から気配がした。だが、それに気づいたときにはもう遅かった。振り返ろうとした体が、腕をつかまれた衝撃で止まる。黄色いカッパを着た男の腕。指が太く、かなりの膂力だった。老いた体では振り払えない種類の力だった。
次の瞬間、顔に布を押し付けられた。油のような臭いがする、と思ったら膝から力が抜けた。地面が傾いた。いや、自分が傾いているのだ。男の腕の中に崩れ落ちていく。
幸江の顔が浮かんだ。気をつけて、と言った顔が。
駄目だ、と思った。次の瞬間には意識を失っていた。
目が覚めた時、最初に感じたのは頭の鈍い痛みだった。どこかに頭をぶつけたらしかった。
体を動かそうとして、手首が縛られていることに気づいた。椅子に座らされている。縄は細かったが固く、引けば引くほど食い込んだ。
部屋を見る。ランプが一つだけ灯っている。天井が低く、床は土だった。木が腐ったような湿った臭いがした。外の音は聞こえない。窓に板が打ち付けてあって、光も入らなかった。正面にはパソコンが置かれていた。
ふと、天井で何かが動いた気がして、私は天井を見上げた。
最初、何が見えているのか分からなかった。目が暗さに慣れていなかったからかもしれない。あるいは、見えているものを信じたくなかったからかもしれない。
大きな袋が三つ吊るされていた。
一番小さい袋に目が吸い寄せられた。子どもが入るくらいの大きさだった。動いていなかった。全く動いていなかった。袋の下から長い黒い髪が垂れている。
まさか――。私は息を呑んだ。
落ち着け。冷静になれ。あれは桜ではない。桜の髪はもっと短い。会っていない期間に伸びたとしてもあんなに伸びはしない。
だが、だとすればあの髪は誰のものなのか。
思い当たる節は一つしかなかった。
……あの髪の持ち主こそ、ひまりちゃんではないのか。
背中を汗が伝った。
では桜は――。
「桜」
隣の袋を見た。一番小さい袋より少し大きいもの。動いていない。
「桜!」
思わず声が出た。自分でも驚くほどの大きな声だった。
私の声に反応して袋が揺れた。激しく揺れた。動いている。
「おじいちゃん……」
かすれた声だった。喉が潰れかけているような、弱い声だった。だが聞き間違えるはずがなかった。桜の声だった。
目を閉じた。膝の上で、両手が震えるのが分かった。
生きている。桜は生きている。
「おじいちゃん! おじいちゃん!」
「桜……よかった。生きていた」
それだけで、体に力が戻ってきた気がした。私はつかの間の安堵の息を吐いた。
だが、この袋の中にいるのが桜であるとすれば、やはり――。
私は、黒い髪の毛が垂れている一番小さな麻袋に目を向けた。
……ひまりちゃんは間に合わなかった。
すまなかった、と私は心の中で言った。
ひまりちゃん、すまなかった。
私は頭を下げた。だが、長くそうしている時間はない。我々を捕らえた犯人がすぐそばにいるはずだ。
私は桜の袋を見上げる。
桜だけは、なんとしても助けなければ。
「一人で来ちゃ……駄目じゃない……おじいちゃん」
袋の中から桜のくぐもった声が聞こえた。小さな破れ目から桜の目が覗いている。その目は涙で濡れていた。
「孫が助けを求めているのに、動かない爺がどこにいる」
声が震えそうになった。だが、腹筋に力を入れて震えさせなかった。
桜の濡れた目が私を見た。その視線が一瞬、私の顔ではなく――横に動いた。
私は桜の視線を追った。
そこには、残されたもう一つの袋があった。
それは吊り下げられた三つの袋の中で一番大きく、あちこちが破れていた。そして……その裂け目から、一対の目が覗いていた。
ぎょっとした。
その目は動かなかった。ただじっと私を見つめていた。
何者だ?
あの小説は二章までしかなかった。他の被害者の描写はない。他にも誰か捕まった者がいるのか?
「義男さんですね。桜さんのおじいさんでいらっしゃいますか」
突然の生じた人の気配に私は驚き振り向いた。
男がすぐ後ろに立っていた。黄色いカッパを着た、四十代くらいの男だった。
「貴様……よくもこんな真似を……」
男は眼鏡をかけており、黒ずんだ顔に表情がなかった。言葉は丁寧だが、その丁寧さには何の温度もない。
「桜を解放しろ」
私は言った。
「警察はもうここを知っている」
言いながら、私自身が分かっていた。これは強がりに過ぎない。
幸江がいくら警察に電話しても、あの担当の刑事が動くまでには時間がかかる。私がここに辿り着けたのは、桜の小説を読み、地蔵の場所がすぐに分かったからだ。だが警察には、それを読む発想すらないだろう。
助けは来ない。少なくとも、今すぐには。
それを分かっていながら、私は男に向かって警察を持ち出した。他に脅しの材料がなかった。
「そうかもしれませんね」
私の虚勢を見抜いているのか、男は全く動じなかった。ノートパソコンが私の前に押し出される。
「既に――桜さんが書いた物語を読まれているのでご存じかとは思いますが、義男さんにも怖い話を書いていただきます」
画面には「くらやみノベル」の投稿画面が開かれていた。
タイトル欄には『みのむし』とあり、桜の章で読んだ通りの構造だった。
「この年でもう怖いものなぞありはせんわ! 誰が貴様の言うことなど――」
「そうでしょうか」
男の声はどこまでも穏やかだった。
「あそこにいらっしゃるのは桜さんです。お孫さんに何かあったら、怖くはありませんか」
頭の奥が熱くなる。孫を。この男は孫を引き合いに出した。
怒鳴りつけてやろうと口を開いた。だが、声が出なかった。
男がキリを手に立ち上がっていたからだ。男はそのまま、桜の袋へと歩いていく。
一歩。二歩。
「やめろ」
私は声を絞り出した。だが、男は止まらなかった。男はキリの先端を桜の袋の生地に押し当てた。
「やめてくれ」
私は懇願した。懇願していた。さっきまで啖呵を切っていたのに今は懇願している。
不様だった。それでも構わなかった。桜が刺されないなら何度でも頭を下げる。
「書く。書くからやめてくれ」
男は手を止めた。キリの先端は桜の袋に触れたままだった。
「書いていただけますか」
「書くと言っている。そのキリを下ろしてくれ」
「分かりました」
男はキリを下ろした。だが、桜の袋から離れたわけではなかった。男は袋のすぐそばに立ったまま私を見た。
「時間内に書ききれなかったり、怖くなかった場合は刺します。よろしいですね」
男はキリを軽く持ち直した。「いつでも刺せる」という構え方だった。
「では、お書きください」
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
私はキーボードに手を置いた。指が震えていた。老眼の目で画面を睨んだ。
何を書けばいい。
怖い話。怖い話。
私は怖い話など、書いたことがない。郷土史の論文なら何十本も書いてきた。だが、怖い話は別物だ。物語を構成する技法など、私は持ち合わせていない。
書けるのか、私に。
桜の袋をもう一度見た。袋は静かに揺れていた。中で桜は、私が書くのを待っている。
書くしかない。書けなくても、書くしかない。
私は書き始めた。
長野県の向坂集落をご存じだろうか。
南信州の山間に位置するその集落は、昭和五十年代に廃村となった。最後の住人が麓に移ったのは、私が調査で訪れた翌年のことだった。今から二十五年前。集落への道は長く、車で入れる終点から徒歩で三十分程度を要する。
その集落の入口付近には、三体の地蔵が並んでいる。正確な建立年は不明だが、様式から見て江戸後期から明治初期のものと推察される。風化が著しく、像容の識別は困難な状態である。三体のうち真ん中の一体は首から上が欠けており、残された胴体部分の石が独特の黒みを帯びている。
書きながら、天井を見た。
桜の袋が揺れていた。桜はまだ生きている。大丈夫だ。
目を戻し、指を動かした。
私はその地を今、再び訪れている。孫の桜が誘拐犯にさらわれ監禁されたためだ。そして、残念ながら孫を助けに来たはずの私も犯人に捕まってしまった。この文章を読んでいる方がいれば、警察に通報してほしい。長野県、向坂集落、三体の地蔵のそば、集落手前の山小屋の中。犯人は黄色いカッパを着た四十代の男――。
場所と犯人の情報を書いた。できる限り詳しく書いた。
書きながら、時計を確認した。三十分が経っていた。文字数を確認した。千二百字を超えていた。
このまま書けばタイムリミットには十分間に合う。
私はキーボードを打ち続けた。指の動きが少しだけ慣れてきていた。郷土史の論文を書くのと同じだ。場所を書き、状況を書き、起きたことを書く。それを続ければ、二千字は埋まる。
残り十分。残り五分。
書き終わった時、文字数表示は二千百十二文字だった。
タイムリミットのアラームが鳴った。
「お疲れ様でした」
男は私の背後に回り込み、画面を覗き込んだ。しばらく無言で読んでいた。
私は待った。男が何と言うか。それが気がかりだった。
だが、文字数制限を満たし、時間内に書き上げている。問題はないはずだった。
「義男さん」
男が、画面から目を離して私を見た。
「これでは駄目です」
私は声を荒げた。
「なぜだ! 言われた通り書いている。文字数も足りている! 何がいけない!」
男はゆっくりとかぶりを振った。
「あなたが書いているものには恐怖がありません。これは物語ではない。単なる説明文、報告書です。あなたは今、恐怖を書いていない」
私は男を見た。
「読者の心を動かすのは恐怖です。場所や状況の情報は恐怖ではない。つまり義男さんはまだ恐怖を感じていないのです」
男はそう言って、立ち上がった。キリを手にして桜の袋へと歩いていく。
「やめろ! やめてくれ! 書き直す。書き直すから――」
だが、男は躊躇しなかった。キリが桜の麻袋を突き破った。
袋の中から声が聞こえた。短い、くぐもった声だった。
「桜!」
私は立ち上がろうとした。縄が手首に食い込み、立てなかった。椅子ごと前に倒れそうになって踏みとどまった。
「なんてことを……なんてことをッ!」
桜が刺された。目の前で、本当に。
「頼む、医者を呼んでくれ。後生だ! 今すぐ呼んでくれ!」
男はキリを引き抜いて椅子へ戻った。そして腕を組み、真正面から私を見据えた。
「怖いですか?」
男の声は変わらなかった。穏やかだった。まるで私が言っていることが聞こえていないかのようだった。
袋の布に、黒い染みが広がり始めていた。
「怖いですよね。私が欲しいのはその感情です。それを書いてください」
親指の爪ほどの大きさだった染みが、見る間に広がっていき止まらない。
「頼む。このままでは死んでしまう。子どもだぞ。まだ十一歳だぞ」
「あなたに許されていることは物語を紡ぐことだけです。桜さんが助かるように物語を描けば良いのです」
男は言った。
「そして書かなければ、確実に助かりません」
男はそう言って、カウントダウンをリセットした。
私は男を見る。駄目だ。この男の目にはやはり何もない。怒りも、罪悪感も、躊躇も。
ただ、私が書くかどうかを待っている目だった。
――書くしかない。
「この、下衆が!」
私は吐き捨て再度キーボードに向かった。
今見えているものを、そのまま書く。奴が言った通り、それが私の恐怖そのものだったからだ。
ぽたり、ぽたりと桜の血が床に零れ始める。
袋が揺れている。
だが、もう弱い。こちらの呼びかけに揺れて答えた桜の袋が、今は重力に従うだけの揺れになっていた。
桜が死ぬ。
その思いが、頭の中で繰り返された。書きながら繰り返された。桜が死ぬかもしれない。桜が死ぬかもしれない。桜が――
「桜?」
呼んだ。
袋が止まっている。
「……桜」
動かない。
「医者を呼んでくれ」
私は男に懇願した。
「頼む。私は死んでも良いから、書き続けるから、この子に処置を――」
「医者を呼べるのは、あなただけです」
男は繰り返した。人間の言葉が、この男には何も届かない。
「医者を呼べぇッ!」
叫んだ。声が割れた。
椅子ごと体を揺すった。縄が足首に食い込んだ。食い込んで、皮膚が裂ける感覚があった。血が出ているのが分かったが、どうでもよかった。
桜が死ぬ。
その事実だけが頭の中にあった。他の全てが消えた。まだ十一年しか生きていない子どもが、目の前で死のうとしている。そんな理不尽があるか。そんな馬鹿なことがあってたまるか。
暴れても戒めは解けない。椅子も壊れない。
涙で目の前が滲んだ。
男の足音が背後に回った。肩越しに私が書いた文章を読んでいる。読んでいる。
私が桜の死に怯えながら書いた文章を、この男は今、読んでいる。
味わっているのだ。
理解した瞬間、腹の底から怒りが突き上げた。これまで感じたことのない種類の怒りだった。
桜が死に近づくほど、私が恐れるほどこの男の中で何かが満たされていく。私の恐怖がこの男の糧になっている。孫の命がこの男にとっての食事なのだ。
――殺してやる。
六十七年間の人生で、初めて感じた本当の殺意だった。
殺してやる。この男だけは絶対に道連れにしてやる。絶対に、絶対に――。
「桜」
声が出た。
揺れなかった。
「桜!」
揺れなかった。
「桜ァッ!」
六十七年生きてきた。
怖い夜は何度もあった。父が炭鉱の事故で生死の境をさまよった夜。娘が遊具から落ち頭を打った日。自分が心臓を患い手術台に上がった朝。どれも怖かった。あの怖さが人生で一番だと、それぞれの時に思った。
違った。
今だった。
今、この瞬間だった。
孫が目の前で死にかけている。自分は縛られて何もできない。できることは文章を書くことだけで、その文章が孫を救う可能性は限りなく低い。救えないと知りながら書き続けるしかない。
血が滴る音がした。袋から、床に。ぽた、ぽた、と。
その音がだんだん遠く、遅くなっていく。
桜の心臓が――。
「桜」
袋は揺れない。
「桜ぁあッ!」
私は、叫び続けることしかできなかった。
第四章「亜佐美」
篠崎教授がそのテーマを提示したのは、四年生になって最初のゼミの日だった。
四月の、まだ空気が冷たい午後だった。文学部の三号館、四階の小さなゼミ室。窓から見える桜はもう散りかけていて、風が吹くたびに花びらが舞い上がった。私はその窓際の席に座っていた。
篠崎教授はいつも少し遅れて来る。廊下からスリッパの音が聞こえて、扉が開いた。
六十代の後半に差しかかった教授は、背が高く痩せている。白髪交じりの髪を後ろに撫でつけていて、いつも同じような紺のジャケットを着ていた。顔の輪郭がはっきりしていて、目が大きい。笑うと目尻に深い皺が寄った。学生の間での評判は「面白いけど変な人」で、私もそう思っている。
教授はおっとりとした足取りでマグカップにインスタントコーヒーを淹れると、それをテーブルに置き椅子に深々と腰を掛けた。
「今日は卒業論文のテーマについて話しましょう」
「私のテーマですか?」
「はい。渡辺さんに書いてもらう論文のテーマです」
教授は椅子の背に深く体を預けた。そして、いつもの少し試すような口調で言った。
「その前に、渡辺さんに一つ聞いておきたいことがあります」
「はい」
「渡辺さんは、文学の本質は何だと考えていますか?」
即答できなかった。文学部に四年いて、それでも答えに詰まる問いだった。
「……読む人の心を動かすもの、でしょうか」
考えた末に口から出たのはありきたりな答えだった。
教授は頷いた。
「では、何が人の心を最も動かすと思いますか?」
今度は「感動」という言葉が真っ先に浮かんだ。美しい音楽、優れた絵画、心を打つ物語。それらが人を動かす。
「感動、でしょうか」
私が答えると、教授はゆっくりと首を振った。
そして、
「恐怖です」
教授は静かに言った。
「恐怖の宿った文章だけが、人の心を動かすことができます」
教授は机の上のコーヒーに口をつけ、一口飲んだ。
「喜びでも、悲しみでも、愛情でもなく、恐怖が人の心を最も深く動かす。これは文学的な命題であると同時に、心理学的な事実でもある。人間は恐怖から逃げられない。その前では、理性も知識も一時的に機能を止める。だからこそ恐怖を書いた文章は強い」
しばらく沈黙が落ちた。
教授は私を見た。
「渡辺さんは怪談が好きでしたね」
「好き、というか……怖いものが気になる方ではあります」
「怖いものに引き寄せられる人間は、恐怖の本質を知りたがっている」
そう言って教授は、薄く笑った。
「だから渡辺さんには、このテーマで書いてほしいのです。――恐怖の言語化と読者の共感反応。真偽不明の体験談が持つ文学的効力について」
「難しいテーマですね……」
私は苦笑した。
「私に書けるでしょうか」
「書けますよ」
教授は当たり前のように言った。
「まずは、ネット上に投稿される真偽不明のホラー体験談、怪談、都市伝説などを調べてみてください。そしてそれらがなぜ人を引きつけるのか。どのような文章が本物の恐怖を宿しているのか。それを分析して私に提出してください」
私は内心でため息をついた。確かに怖い話には人を惹きつける何かがある。しかしそれを分析して論文にするとなると、なかなか骨が折れそうだった。
私が困った顔をしていると、教授は朗らかに笑った。目尻に皺の寄った、いつもの笑い方だった。
テーマを受け取ってから、私はネットを漁り始めた。
「くらやみノベル」という投稿サイトに「みのむし」という作品を見つけたのは、それから一週間ほど経ってからのことだった。
最初はタイトルに引っかかった。みのむし。蓑虫。袋の中にいる虫。牧歌的なイメージもあるが、実際は蛾の幼虫だ。虫嫌いの私にとっては十分に気持ち悪い。
読み始めて、手が止まった。
複数の語り手がいた。最初に「ひまり」という小学五年生の章があった。文章が拙く漢字の間違いもある。文体も崩れていて小学生っぽい書き方だった。それが計算された書き方だとすれば、うまく書けていると思った。
続いて「桜」という章を読んだ。そして「義男」という章も読んだ。
読みながら、体が冷えていった。
……凄惨な内容だった。
内容がいやに真に迫っていた。まるで本当にあったことかと錯覚するほどに。
もしかしたら本当かも、と思って登場人物の名前を検索してみた。
すると。
「嘘……」
思わず声が漏れた。
ひまりという小学五年生の失踪事件が実際にあった。長野県。今年の春。そのニュースを開いて、ひまりという子の顔写真を見た。小説に書かれていたひまりと年齢が一致していた。
次に桜という少女を検索した。出てきた。同じ時期に失踪。小学五年生。
さらに義男という老人の行方不明も出てきた。場所も長野だった。
鳥肌が立った。画面から目が離せなくなった。
――怖い。
この怖さは何だろう、と思った。小説を読んだだけなら怖いと思わなかったかもしれない。けれど、事件が実在すると知った今、本当か嘘か、その境界が曖昧なことがこんなにも怖い。
これだ、と思った。
これが篠崎教授の言っていた「真偽不明の怖さ」だ。論文のテーマとしてこれ以上のものはなかった。
けれど、論文にするには現地を確認しておきたかった。
教授も「現地の空気を吸ってきなさい。それが論文の説得力に繋がります」とよく言っていた。
小説に書かれている場所が実在するのか。地蔵は本当にあるのか。山小屋はあるのか。自分の目で確かめれば、論文にも厚みが出るはずだ。
現地に行こう、と私は決めた。
私は雄太に連絡した。
雄太は同じ大学の友人で、車を持っている。論文などの調査に付き合ってもらうのは今までにも何度かあった。雄太は陽気で誰にでも親切で、誰の頼みも断らない男だった。だから私も気軽に頼める相手だった。
「長野まで付き合ってほしいんだけど。卒論のフィールドワークで」
LINEを送ると、雄太はすぐに「いつ行く?」と返してきた。いつも通りの気軽な反応だった。私は雄太に小説のURLを送った。
返信は、五分後に来た。
「これ本気で行くの? ほぼ心霊スポットじゃん」
雄太はちゃんと小説を読んでから返信してきた。
「うん。だから誘った。本気」
「俺一人じゃ危ないかもしれないから、さおりと蓮も誘わね?」
雄太の言葉に私は頷いた。四人なら大丈夫だと思った。何かあっても、四人いれば対処できる。そう思ったのだ。
私はさおりに電話した。
「え、そんな場所に行くの? 私怖い所って苦手なんだけど」
「教授に卒論のテーマを指定されちゃって……雄太と二人だと……ほら、ね?」
さおりは一瞬きょとんとしたが、すぐに口元がゆるんだ。
「雄太も来るんだ」
「うん」
「ふうん……じゃあしょうがないか……」
そう言いながらも、さおりは嬉しそうだった。
「でも私、本当にそういう場所好きじゃないんだからね。一つ貸しだよ。蓮には私から連絡しておくね」
「……分かった。ありがとう」
電話を切ってから、私はさおりの最後の言葉を反芻した。さおりは怖いものが嫌いだった。それでも来てくれるのは、雄太がいるからだった。
けれど、今になって思う。さおりが感じていたものが正しかった。
私達は遊び半分でそんなところに行くべきじゃなかった。
現地に向かったのは、五月の連休明けだった。
雄太の車で高速を使って三時間半、そこから山道をしばらく走った。カーナビに向坂集落は載っていなかった。だから義男さんの投稿に書いてあった道順を参考にした。
「あ、ちょっと待って! あれじゃない?」
地蔵は思っていたより簡単に見つかった。
山道の脇に三体並んでいた。苔むした黒い石だった。真ん中の一体が首から上を欠いており、断面が周囲の風化とは違う色をしていた。意図的に壊されたような鋭い断面だった。
「本当にあった」
蓮が言った。
「写真撮ろうぜ」
雄太がスマホを取り出し、地蔵を背景に自撮り写真なんかを撮っている。
さおりは地蔵から少し離れたところに立って「なんか気味悪いなぁ」と呟いている。確かにあまりいい雰囲気ではない。うっそうと木々が生い茂り、ほとんど自然に侵食されている。天気も良いはずなのに高く伸びた植物のせいで辺りは薄暗い。
そんな地蔵の脇には義男さんが書いていた通り細い道があった。獣道というほど細くはなく、人が通った跡があった。
「この道の先にあるって書いてあった」
私は言った。
「それじゃ行くか。車はこのままで大丈夫かな?」
「こんなところ誰も来ないっしょ」
「それもそうだな」
四人で細い道を歩いた。
木立の中を十五分ほど歩くと、古い山小屋が見えてきた。
「あった」
蓮の声が弾んでいた。
「ほんとにあった……」
私は山小屋を見た。
古い木造の建物だった。平屋で思っていたより小さかった。外壁の板があちこちで黒ずんで腐りかけていて、屋根の一部が歪んでいた。窓には全て板が打ち付けてあり、中の様子はうかがえない。
扉は閉まっていた。一見すると、もう何年も人が立ち入っていない廃屋のように見えた。
しかし近づくにつれて、何か得体のしれない気味の悪さを私は感じ始めていた。強いて言えば、それは温度の違いのようなものだった。
建物の周囲の空気だけが、周りと違う密度を持っている。そんな気がした。
「入ってみよう」
蓮が扉に手をかけた。私は、待って、と思わず言いかけ口を閉じる。
しかし、ここまで来て引き返したら、何のために来たのか分からない。論文のため。卒論のため。教授のため。そんな言葉が頭の中で自分を急かす。四人もいるのだから大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。
扉を開けた瞬間、視線が天井に吸い寄せられた。
四つの袋が吊るされていた。それぞれ大きさが違う。小さいものが二つ。大きなものが二つ。
「これって……」
雄太の声が硬くなった。
小説「みのむし」に記載がある通りだった。そして、記載の通りであるならば。一番大きく、袋のあちこちが破れているあの袋の中には――。
「ひっ……」
破れ目から一対の目が、こちらを見ていた。
さおりが悲鳴を上げた。
四人とも、その場に縫い止められたように動けなかった。
袋の中に誰かがいる。いや、何かというべきか。人だとしたら、どうして。
私達が呆気に取られて固まった、まさにその時。背後で微かな足音がした。
振り向こうとした瞬間、鼻と口に布が押し当てられた。ツンとした刺激臭が一気に肺に入ってきた。
視界の端で、蓮が崩れ落ちる。雄太の声が途中で。さおりの、悲鳴が。
――視界が急速に暗転した。
気づいたときには椅子に縛られていた。
雄太も、さおりも、蓮も、それぞれ椅子に縛られていた。どのくらいの時間が経っているのか分からない。
部屋の隅に黄色いカッパを着た男が立っていた。四十代くらいに見える。背が高く、全体的にがっしりしている。そして感情をそぎ落としたような顔をしていた。
その顔を見た瞬間、「みのむし」の文章に書いてあった男だと分かった。
「ようこそお越しくださいました」
ネット怪談の中にしかいないはずの男が、今ここにいた。
「お一人だけかと思っておりましたが、随分とお仲間が多いようですね」
まるで私たちが来ることを知っていたかのような事を呟いて、男は私達を眺めた。値踏みするような視線だった。
「誰だてめぇ! こんなことしてどうなるか分かってんのか!」
雄太の声は上ずっていた。
「俺たちが……ここに来ること、家族に言ってあるからな。帰る時間だって。戻らなかったら……警察が来るぞ」
嘘だった。少なくとも私は誰にも言っていない。雄太もさおりも蓮も下宿している。いちいち家族にここに来ることを伝えたとは思えない。
「そうですか」
男は言った。一ミリも動じていない。
「ところで……この中で、一番文章がうまい方はどなたですか」
そして、唐突にそう言った。その言葉の意味があのサイトを読んだ私には分かる。
怖い話を書かされるのだ。
雄太の目が咄嗟に私を見た。さおりも私を見た。蓮も私を見ている。
三人が同時に私を見た。
私はうつむいてテーブルを眺めた。三人の視線から逃げたかった。でも逃げ場などなかった。
「渡辺さん、ですね」
男が私の名前を口にする。どうして名前を知っているのか、と思ったが怖くてその問いを発することはできなかった。
「では、あなたが書いてください」
男はパソコンを私の前に置いた。
「今感じている恐怖を制限時間内に二千文字以上で書いてください。小説として投稿します。読者を引きつける文章をお願いします。怖ければ何を書いても構いません。書けなければ刺します」
「くらやみノベル」で読んだ、あの文言を男がそのまま口にする。恐怖で肺が動かない。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、私の口が空気を求めて喘いだ。
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
「質問はよろしかったですか?」
全員固まっていた。当然だ。刺すと言われて冷静に対応できる方がおかしい。
「では、始めます。文学部の方が書かれる恐怖小説、期待しています」
男は平坦な声でそう告げるとエンターキーを押した。
カウントダウンが動き出した。減っていく。一秒ごとに、私の残り時間が削られていく。
私はキーボードに手を置いた。書かなければ。だが、指が動かない。自分の指のはずなのに、他人の手を眺めているようだった。
「早く書け。なにしてんだよ」
雄太が言った。声が震えていた。さっきまでの威勢のいい雄太ではなかった。
書かないと刺される。頭の中で言葉が暴れて文章にならない。
怖い。怖い。怖い。
それだけだった。
言葉にならない原始的な恐怖が、胸の中で渦を巻いている。だが、それを文章に変換する手順が、どうしても組み立てられなかった。
文学部で四年間、文学部の課題を書いてきた。レポートも、論文も、創作演習も指が止まったことは一度もなかった。
なのに今一文字も打てない。
どの文字を選べばよいのか分からない。
「亜佐美?」
さおりの声がした。
顔を上げられなかった。三人が私を見ている。私の指がキーボードを叩く瞬間を、待っている。
「亜佐美、書けるだろ。お前、文章書くの好きじゃんか」
蓮の声が、私のすぐ後ろから聞こえた。励まそうとしていた。だが、その声には焦りが滲んでいた。励ましの形をした催促だった。
画面のカーソルが点滅している。時間だけが減っていく。
書ける。書けばいい。それなのに指が動かない。
残り三十分。残り十五分。残り五分。
数字が減っていくのに文字は増えなかった。
タイムアップのアラームが鳴った。
「残念です」
男が言った。
「どうして書かないんだよ亜佐美……」
雄太が愕然とした口調で言った。
「書かなきゃ刺されるんだぞ! 何ぼーっとしてんだよ。ふざけんなよッ!」
雄太が私に向けて怒鳴る。もっともだ。だが、その理由が私にも分からない。
ゆっくりと男が立ち上がった。手にはいつの間にか馬鹿みたいに大きなキリを携えている。そしてそれを手にしたまま悠然と雄太の方へ歩み寄る。
「え、俺?」
雄太がきょとんとして言った。
「俺を刺すの? なんで?」
「お友達を刺した方が、より怖いお話を書けるかと思いまして」
男が真摯に質問に答える。雄太の顔がみるみる青ざめていく。
私は言った。
「や……やめてください」
そして懇願した。
「次は書きます。だからやめて……」
でも声は届かなかった。届いていたとしても、男は止まらなかったと思う。
男は雄太の背後に回り込むと、左腕で雄太の頭をしっかりと抱え込んだ。
「おい、やめろ! ふざけるな、手を放せ!」
雄太が喚きながら椅子を揺らす。でもどうにもならない。雄太の首が男の腕の中にがっちりと固定される。
「クソッ! やめろって言ってるだろうがッ!」
私は雄太を見ていた。見ていることしかできない。
雄太と目が合った。
雄太は助けを求めていた。暴れながら、喚きながら、その目だけはまっすぐに私を見ていた。亜佐美、助けろ、と目が言っている。
でも、どうやって? 私は動けない。
キリが振り上げられた。嘘だと思った。
だが、キリは首に刺さった。本当だった。頸動脈のあたりだった。
雄太の口が、何か言いかけた形のまま開いた。声は出なかった。代わりに、刺した穴から心臓の鼓動に合わせて血が溢れる。一拍、二拍、三拍。雄太の体が痙攣している。両手が宙を掻いていた。何かを掴もうとして、何も掴めない。
男がキリを引き抜いた。血がより勢いよく噴き出した。
男のカッパに、床に、私の顔に。
「いやぁああああっ!」
さおりの悲鳴が弾けた。降りかかった血が頬を伝う。温かい。鉄臭い。
雄太の血だ……そう理解した途端、胃液がこみ上げてきた。横を向いて盛大に嘔吐する。止めようとしても止まらなかった。胃の中のものが全部出た後も、胃液だけが出続けた。
涙で滲む目を上げると、雄太の目がまだ私を見ていた。何かを言おうとしている。しかし、キリは気道に達しているようでゴボゴボという音しか聞こえない。
雄太の唇が動く。
亜佐美、と言っているように見えた。何度も、何度も。
噴き出していた血が、勢いを失っていく。脈拍に合わせた噴水がただ溢れるだけの流れに変わっていく。
やがて血は止まった。
雄太は死んだ。
相変わらず現実感がない。昨日まで隣の席でコーヒーを飲んでいた男が、今、目の前で死んでいる。そんなことがあるだろうか。
「自分の代わりにお友達が害される……本当に恐ろしいことです。その感情を亜佐美さんに是非書いていただきたいと思います」
男は静かに言った。そして軽やかにエンターキーを押す音。
カウントダウンが再び始まった。
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
私はそのカウントダウンを信じられない気持ちで見つめた。数字が減っていく。目の前で雄太が死んだのに、時間だけは何も気にせず進んでいく。
そして雄太が死んでいるのに、私は怖い話なんかを書かなければならないという。
怖い話? ああ、でも今なら書けるじゃないか。今なら、雄太の死が目の前にある。これを書けばいい。この恐怖を書けばいい。
そう頭では分かった。分かっているのに指が動かない。
書こうとするたびに、雄太の血が飛んだ場面が蘇った。私の顔にかかった温かい液体。鉄の臭い。「亜佐美」と動いた唇。
書かなければ、と自分に言った。雄太のことを書こう。一番鮮烈だから。読んだ人が一番怖がるから。男もそれを望んでいる。
雄太のことを思い出そうとした。
だが、最初に浮かんだのは雄太の顔ではなかった。
雄太を見つめるさおりの顔だった。
大学一年のサークルの飲み会。私の隣に座ったさおりが、斜め向かいに座っている雄太をちらちら見ていた。雄太が面白い話をするたびに、さおりが他の誰よりも大きく笑った。
その時、私は気づいた。ああ、さおりは雄太が好きなんだ、と。
三年生の春、雄太が彼女と別れた時。さおりが真っ先に雄太に連絡を取って、慰め役に回っていた。「友達として心配してるだけだよ」と私には言っていた。嘘だと丸わかりだった。さおりは雄太を狙っていた。出会ってから、ずっと。
本当は気づいていた。さおりが「雄太の前の可愛い自分」を演じるために、私を引き立て役として連れていることを。
文学部の地味な友人。さおりより一段下のポジション。
その役を私は受け入れていた。受け入れながら、実はさおりを軽蔑していた。頭の軽い、馬鹿な女だと。
――指が止まっていた。
雄太のことを書こうとしたのに、さおりのことばかり浮かんでくる。雄太の人柄を思い出そうとしても、雄太とさおりの関係ばかりが出てくる。私にとっての雄太が出てこない。
悪い人間ではなかった。でも特別好きでもなかった。ただ、四人の中心にいた男、というだけだった。その中心がいなくなった今、さっきまで見えていた「雄太の死への悲しみ」が、急に薄っぺらく感じられた。
雄太の死を悲しんでいるふりをしていないか。
頭の中で、その問いが立ち上がった。
慌てて否定した。悲しんでいる。当然悲しい。友人が死んだのだから。
でも、それは本当の悲しみなのか。
私は雄太を失ったことを悲しんでいるのか。それとも、人が目の前で殺されたという事実に悲しんでいるのか。
区別がつかなくなって、指が一層重くなった。
「亜佐美! なんで書かないんだよ!」
蓮が叫んだ。
「書けって、文学部だろ? 書かないとヤバいって! マジでヤバいって!」
蓮の顔が近かった。縄で縛られているのに、上体を必死に前に倒して、私に顔を近づけてくる。汗と、動物的な匂いがした。
「お願い、亜佐美」
さおりも言った。
さっき雄太の死体を見て弾けた悲鳴。あの悲鳴の響きを思い出した。恋人を失った女のようだった。友人を失った女の声じゃなかった。
一瞬、強烈な嫌悪感が走った。
すぐに打ち消した。打ち消そうとした。こんな状況で嫌悪感を覚える自分の方がおかしい、と思い直そうとした。でも嫌悪感は消えなかった。胸の奥に泥のように残った。
残り三十分。二十分。十分。
時間だけが減っていく。指は動かない。三人のために書くこと、それ自体を私の中の何かが拒絶していた。
「俺が代わりに書く!」
蓮が叫んだ。
「駄目です。……書き手として亜佐美さんを選んだのは、あなたたちですよね?」
蓮の顔が歪んだ。
画面のカウントダウンは残り十秒を切っていた。
【残り:1589文字 残り時間:00:09】
指が動かない。キーボードに置いた手が凍りついたように重い。
書けない。書けないのに、数字だけが減っていく。
電子音が鳴った。
音はそれほど大きくなかったのに、部屋の空気がその音に凍りついた。
「――残念です」
男が、心底残念そうな声で言った。
「次は……あなたにしましょう」
男の視線がさおりに向いた。助けを求める目で私を見た。
男がゆっくりとさおりに近づいていく。そして、さおりの両腕を縛っていた縄を解いた。解かれた腕が震えながら宙に浮く。
男はその手にキリを握らせた。
さおりの指は握ることを拒むように開いたままだった。けれど男がその細い指を一本ずつ柄に巻きつけていった。
そして言った。
「自分で刺してください」
さおりは目じりが裂けそうなほど大きく目を見開いて、男を見た。
「や……や……」
「自害してください。よろしくお願いします」
言葉にならない音がさおりの喉から漏れた。
「そのキリで、ご自分のお腹を刺してください」
男は静かに続けた。
「ここを、深く」
男はさおりの右脇腹を指でなぞった。さおりの脇腹がその指の動きに合わせて震える。
「一度では足りないかもしれません。何度か刺していただくことになるかと思います」
さおりの全身が小刻みに震えだした。キリを握らされた右手が、自分の意思とは関係なく痙攣している。
「もし自分でできないようであれば、お手伝いいたします。ただ、私は入念に実行するタイプなので、過剰に刺してしまうかもしれません。ご自分でやったほうが楽だと思います」
男はどこまでも穏やかに説明した。
さおりは泣いた。
「やだ」
と言った。
「やだ、やだ、やだ」
そう言い続けた。幼児みたいな声だった。さおりの中で何かが壊れていくのが見えた。大学四年生の女性が、今、泣きじゃくる子どもに戻っていた。
男はキリを握らせたままのさおりの手首を下から持ち上げ、先端をさおりの右脇腹に触れさせた。
「ここです。この奥には肝臓があります。時間は少しかかりますが、死ねます」
男が静かに言った。
さおりの呼吸が荒くなった。キリの先端がセーター越しにさおりの腹を押しているのが見える。
「やだ、やだ、やだ、やだ……」
さおりの泣き声が、だんだん小さくなっていく。
だがその声のトーンが、込められた感情が……不意に変わった。
「……亜佐美の、せいだから」
男の手が止まった。握らせていたさおりの手首を、そっと離す。
「……亜佐美のせいだから!」
さおりがもう一度言った。
「だから来たくなかったのに。あんたが行こうって言ったから。私、本当に、行きたくなかったのに」
さおりが私を睨みつけている。さっきまで泣いていた顔が、今は歪んでいる。背中の毛が逆立つような、恐ろしい形相で私に憎しみの目を向けている。
「恨むよ、亜佐美」
さおりの言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが蠢いた。
……恨む……だって?
黒い感情が、腹の底からゆっくりと持ち上がってきた。
あなたが、私を恨むというの?
だが、私はその感情から目を背けた。考えることを拒んだ。これ以上考えたら、気づいてはいけないことに気づいてしまいそうだった。
さおりは膝の上のキリを凄まじい形相で見つめている。一分か二分。もっと長かったかもしれない。その間、さおりの呼吸だけが聞こえていた。早くて、浅くて、不規則な呼吸だった。
不意にさおりの手が動いた。
キリを右脇腹に当てた。手が震えていた。キリの先端がセーターに触れ、そのまま埋まった。
さおりが声にならない低い声を出した。
「もう一度」
と男は言った。
さおりは歯を食いしばって二度目を刺した。
「うぉぁあああっ!」
今度は叫び声が長くなった。血がセーターに染みて、広がっていく。
「まだです。その程度では死ねません。頑張ってください」
さおりの顔が、瞳がランプの灯を反射して赤く光っている。地獄絵みたいだった。
「ああああっ!」
さおりは三度目を刺した。四度、五度目も連続して刺した。だが、刺しているのはキリで、刺している部位も脇腹だ。男の言う通りいずれ死に至るのかもしれないが、すぐに死ぬわけではない。痛みに喘ぐさおりの絶叫だけが部屋に響き渡る。
私は、それを見ていた。
――もっと。
突然、私は自分が何を考えているかに気づいた。
――もっと。
さおりの目が再び私を捉えた。恨んでいた。怒っていた。凄まじい形相だった。刺すたびに私を見た。刺すたびに、恨みの目を向けた。
もっと苦しめばいい。
「痛い……もう無理……無理ィィッ!」
何回刺しても死にきれないと悟ったのだろう。さおりの動きが不意に止まった。
キリを握った手が宙で震えていた。脇腹からの血がもう何もかも染め尽くしていた。セーターは赤く重く椅子の下に血だまりが広がっていた。
さおりは荒い呼吸を繰り返す。そして何か考えるように中空を見つめた。その視線が不意に移る。
自分の手の中のキリ。それから、机。そしてさおりは自分の額に触れた。
まさか、と思った。
さおりがゆっくりとキリを持ち上げる。そしてその針の先端を自分の額に当てた。
私は思わず体を縮めた。さおりが何をしようとしているのか分かった。想像するだけで恐ろしい方法だった。
さおりが両目を閉じる。そして顔を、ゆっくりと後ろに引いた。机との距離を測っているのだと分かった。
さおりが大きく息を吸った。その音が、止まる。そして目を見開いた。
「恨むぞ、亜佐美ィッ!」
さおりは頭を思い切り打ちつけた。
ゴスン、と鈍い音がした。木のテーブルにキリの柄がぶつかる音。そしてキリの刃が頭蓋骨にめり込む音だった。
さおりの額に太く長いキリが根元まで突き刺さっている。眉間の少し上。キリの持ち手だけが外に出ていた。
さおりは机の上に倒れ伏した。そしてそのまま動かなくなった。血が額から流れ落ちて、机に小さな水たまりを作っていく。
さおりは死んだ。私が望んだ通りに。
胸の奥が、冷える。
さおりの最後の言葉は「恨むぞ、亜佐美」だった。
その言葉は、正しかった。
さおりは最後に私の本性を見抜いたのだ。私がさおりを嫌っていたことに。だから死ぬ間際に、あの顔を私に向けた。
お互いに、嫌い合っていた。
それが、私とさおりの四年間だった。
「鬼気迫る、とはまさにさおりさんのためにある言葉ですね。人の本性はかくも恐ろしい。亜佐美さんにはそんな人間の本質を描いてもらいたいものです」
男は原稿を読み上げるような口調で言った。
「では、続きをお願いします」
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
男はエンターキーを押すと椅子に戻った。
さおりの死体は、額からキリを生やした姿勢のまま残された。血が机を伝って床に滴り落ち、その音が、ぽた、ぽた、と規則的に響いていた。
「亜佐美」
蓮が私を見た。
「頼む頼む! 死にたくない。俺は死にたくないッ!」
蓮の声は裏返り、鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。上体を前に倒して、縄が許す限り私に近づこうとしている。椅子ごと傾いていて今にも倒れそうだった。
「だからお願いだ。頼む。書いてくれ。次は書いてくれよ」
蓮が繰り返す。私は蓮を見る。その卑屈な顔に嫌な思い出がよみがえる。
去年の夏のバーベキュー。川沿いで四人と他のゼミの友人たちで集まった。水着を着た私の腰に、蓮が「危ないから」と言って手を回してきた。川に入ろうとした私を支えるふりをしながら。
私は笑って受け流した。角を立てたくなかったから。
冬の飲み会。酔った蓮が私の肩に手を回してきた。「亜佐美、顔赤いぞ」と言って耳元で笑った。私は身を引いた。蓮は「冗談だよ」と言った。冗談の範囲で蓮は何度も私に触れてきた。
気持ち悪いと思っていた。
でも指摘したら場の空気が壊れる。四人の関係が壊れる。だから受け流してきた。
「亜佐美、頼むぞ。書けるのはお前だけなんだ。亜佐美だけが頼りなんだ」
蓮が卑屈な顔で言った。
蓮は自分が死にたくないから私に頼っている。私を心配して頼っているわけじゃない。自分のために私を使おうとしている。
もう一度、蓮の目を見た。
恐怖で見開かれた目。けれどその奥で、いつものようにぎらついている。
生きたい、という欲望。剥き出しの欲望。
あの夏に見た光が、今、蓮の目の奥から私を見ていた。
……気持ち悪い。
死にたくないと叫ぶ蓮が、本当に気持ち悪い。
私はキーボードから手を放して天井を見上げた。
「亜佐美ッ! 何してんだよ、おいッ! おいぃッ!」
蓮が絶叫した。
書けるわけがない。だって嘘だから。
雄太の死への悲しみを書けば嘘になる。さおりへの友情を書いても嘘になる。蓮を救うための物語も嘘になる。
そして、嘘の物語をこの男は通さないだろう。だからと言って本当の物語を書けば――私は友人の死すら望む浅ましい自分に直面することになる。
書きたくない。ああ本当に、書きたくない。
残り二十分。残り十分。残り五分。
指は動かなかった。動かさなかった。
電子音が鳴った。
「なんで書いてくれねぇんだよぉッ!」
蓮の絶叫が響いた。
男はキリを手に蓮の前に立った。そして蓮の顔を両手で挟み、ぐっと持ち上げた。
蓮の目が大きく見開かれる。
「や、やめ――」
キリがその目に突き刺された。
一瞬だった。左の眼球にキリの先端が入った。蓮の口から声にならない音が漏れる。眼窩の内側からじわりと暗い赤が滲んでいく。
「いやぁああ」
蓮が甲高い悲鳴を上げた。自らが軽く扱ってきた女のような声だった。
それでも蓮は生きていた。片目を失った程度で人は死ねない。だから次は右目だった。
男はキリを引き抜き、蓮の右の眼球にも同じことをした。
「あやぁああ」
悲鳴すら気持ち悪かった。両目を失った蓮の顔から、二筋の血が涙のように頬を伝って流れた。
蓮は声を上げ続けた。視界を失った頭が、闇の中で何かを探すように左右に振られた。
男は蓮の頭を両手で押さえ、動きを止めた。それからキリの先端を今度は蓮の左耳に当てた。
「あぐっ」
蓮の耳にキリが吸い込まれていく。くぐもった声を上げて、蓮の体が止まった。
キリの先端が脳に達したのか。蓮が前に傾いた。机に倒れる。
蓮が死んだ。
……三人とも、死んだ。
私が書かなかったから死んだ。
書けなかったから、ではない。
書かなかったから。
その区別が、初めてはっきりと頭の中に立ち上がった。
書けなかったのならそれは私の罪ではない。能力の問題だから。
でも書かなかったのなら、それは私の選択だ。選択の結果、三人が死んだ。
書かなかった理由を私はもう誤魔化すことはできない。
私は三人のために書きたくなかった。
できなかったのではない。しなかった。
胸の中で蓋をしていた感情が、全て解き放たれた瞬間だった。
男がパソコンを私の前に押し直した。
「最後です。今度は亜佐美さんご自身の命がかかっています。覚悟を決めてください」
【残り:2,000文字 残り時間:60:00】
カウントダウンが始まった。
私はキーボードに指を置く。不思議と手の震えは止まっていた。
私は書き始めた。
最初の三行は、ホラーレポートのような文体で書いた。
長野県の廃村に、実際の失踪事件に基づく怪談の舞台が存在することを確認しに来た大学四年生が、そこで捕まった――そういう書き方だった。
三行書いて、手が止まった。
嘘だ、と思った。
文体が嘘をついている。ホラーレポートのような文体は、恐怖を外側から見ている文体だ。しかし私は今、恐怖の内側にいる。外側から見ているふりをすることで、内側にいる事実から目を逸らそうとしている。
事実から目を逸らした文章は書いてはいけない気がした。
全文を消し、また書き始める。
――あなたたちが嫌いでした。
素直に内面を書こうと思ったら、そんな言葉が自然と出てきた。
自分でも驚いた。
私はあなたたち三人が嫌いでした。だから書きませんでした。死んでもいいと思っていました。むしろ死んでほしいと思っていました。
指が、驚くほど滑らかに動いた。書けないと思っていた文章が、堰を切ったように出てくる。嘘で書こうとすると止まる。本心で書こうとすると動く。私の体はそういう風にできていた。今まで知らなかっただけだった。
でも、そう思うのは私だけですか?
嫌な人に会った時、その人が不幸になればいいと、心のどこかで思ったことのない人がいるでしょうか。
邪魔な人間の失敗を、必要以上に誰かに話したくなったことはないでしょうか。
自分を嫌っている人間が不運に見舞われたとき「いい気味だ」と感じたことのない人が本当にいるでしょうか。
誰かを祝福する言葉の裏側で、その幸福が長く続かないことを願ったことのない人が、本当にいるでしょうか。
私たちは皆、口にしないだけで、そういう小さな殺意を毎日のように抱いて生きているのではないでしょうか。
ただ、口にしないことで、文章にしないことで、それをなかったことにしているだけではないでしょうか。
私もずっとそうしてきました。言葉にしなければ、私の中にそんな感情はないのだと思っていられました。
でも、文章にしてみると、それは確かに私の中にありました。私の中にずっとありました。私はその感情を、自分のものとして引き受けてこなかっただけでした。
だから今、私は書いています。書きながら、自分がどんどん嫌いになっています。
私は嫌な人間です。だから……たぶん、これから苦しんで死ぬのだと思います。
指が止まった。
「いいですね」
背後で男の声がした。いつもの声だった。雄太の時と、さおりの時と、蓮の時と、同じ声だった。
その声を聞きながら、私は自分が書いたものをぼんやり眺めた。文字が画面に並んでいた。私の本心が並んでいた。
顔を上げると天井の袋の目と視線が合った。篠崎教授の言葉が不意に蘇る。
「本物の恐怖が宿った文章だけが、人の心を動かすことができます」
私の文章はあなたの心を動かすことができていますか?
私が書いた文章をあなたはどう思いますか?
怖いと思いますか?
怖い話とは何か、と私はずっと考えていた。
ネットの怪談を読んで鳥肌が立った経験がある。あれはなぜ怖かったのか。
死が描かれていたから? 悍ましい描写があったから?
いや、それだけではない。
あの文章を読んだ時、私は一つのことを考えていた。
これを書いた人間は、いったいどういう人間なのか、と。
どういう気持ちで、これを書いたのか、と。
それこそが恐怖だった。
怖い話が怖いのは、そこに痛みがあるからではない。怪異があるからではない。死があるからでもない。
それを書いた人間の闇が恐ろしいからだ。
文章の向こうに、書いた人間の内側が透けて見えるからだ。
その暗さの深さ、残酷さに、背筋が凍るのだ。
篠崎教授が言いたかったのは、そういうことだったのかもしれない。
普段笑顔で接しているその人のその顔の後ろに、恐ろしいほどの悪意が、狂気が、醜悪さが、残忍さが渦を巻いている。それが怖いのだ。
それでは――これを読んだあなたはどうですか?
私の内面が怖いですか?
私は三人の死を望みました。今も、心のどこかで、どこかの誰かの死を望んでいます。
私は、人間全般が薄っすら嫌いなのです。今これを読んでいるあなたのこともです。
あなたは安全な場所からこれを読んでいる。私が今こうして殺されようとしている私の文章を、コーヒーでも飲みながら、面白半分に追っている。あなたが私の死を娯楽として消費していることに、私は気づいています。
あなたの代わりに、私が死ぬのです。
なぜですか。
なぜあなたではなく、私なのですか。
あなたが私の代わりに死ねばよかった。今、これを読んでいるあなたが、私と入れ替わればよかった。それが正しい配置だったのではありませんか。
あなたが私の代わりに死ねばいいのに。
私はそう願っています。心の底から、静かに、はっきりと、そう願っています。
――それでも、たった一人だけ。
私が心から愛していると言える人が、います。
母です。
お母さんごめんなさい。あなたが愛情をかけて育ててくれた娘はこの程度でした。
お母さんは仕事が忙しかった。私が大学に入ってからは、顔を合わせることも減った。でも毎週日曜日に電話をくれた。「ご飯ちゃんと食べてる? 病気はしてない?」と必ず聞いてきた。私は毎週「食べてるよ」と答えた。たまに嘘だったけど。
あの電話が、今は恋しかった。
お母さんの声が聞きたかった。
「ご飯ちゃんと食べてる?」
と聞いてほしかった。
そう聞いてもらえるということが、自分のことを心配している人間がいるということが、それがどれだけ当たり前のことで、どれだけ大切なことだったか、今になって分かった。
「お母さん……」
知らず知らず声が出ていた。
「ごめんね」
ごめんなさい、こんな娘で。ごめんなさい、こんなふうに捕まって。ごめんなさい、こんな所で死んで。
いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
泣いているとは思わなかった。
私はキーボードから手を離した。打つことをやめた。ただ、手をそこに置いたまま、男がやってくるのを待った。
男はキリを拭いていた。布巾で。丁寧に。こびりついた血を落としていた。
「もう、書かないのですか?」
私は頷いた。
「死ぬことになりますが、怖くはないのですか?」
怖かった。今までで一番怖かった。雄太が死んだ時よりも、さおりが死んだ時よりも、蓮が死んだ時よりも。
男が私の隣に立った。しばらく画面を見下ろしていた。長い沈黙の後、ため息をついた。それから静かに言った。
「あなたは今日、とても良い文章を書きました」
私は目を閉じる。
「だから、そのことをあなたのお母様に伝えておきますね」
男の声がすぐ耳元で聞こえた。
電気を落としたように視界が暗くなっていく。
お母さん、と私は心の中で呼びかける。
日曜日の電話が鳴っている気がした。
遠くで。
とても遠くで。




