第七話「沈黙の取引」
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ソフィアが、消えた。
朝起きると、彼女の荷物がなかった。馬車はあった。荷も半分残っていた。しかし、ソフィア自身の荷と、馬が一頭なくなっていた。
書き置きがあった。
「先に行きます。ハッサンに会わなければならない。東の手前の市で待っています。——ソフィア」
「ハッサン」とハルは言った。声に、何かが混じっていた。
「誰ですか」とミナは聞いた。
ハルはしばらく黙っていた。
「東方の金商人だ」とやがて言った。「ソフィアの商会と古くから取引がある。信用できる男だが——」
「だが?」
「ソフィアとの間に、何かある」とハルは言った。
ミナはハルを見た。ハルは書き置きを見ていた。
「心配しているんですか」
「心配というより」ハルは書き置きを折りたたんだ。「ソフィアは何かを隠している。最初からそう思っていた。領主との交渉の時も、私たちの知らないことを知っていた」
「領主の財政状況を見抜いていた」
「そうだ。あれは、事前に調べていた者の目だった」ハルは空を見た。旅の空が、青く広がっていた。「ソフィアがここへ来たのは、私を心配したからだけではない、と思っている。別の目的がある」
「それが、ハッサンに関係していると」
「分からない。だから先に行った彼女を、追わなければならない」
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市は、街道沿いの小さな町にあった。
東西の商人が集まる、中継地点だった。様々な言語が飛び交い、様々な品物が並んでいた。香料、絹、金属器、宝石。そしてその全てを買い取る金商人たちが、市の中心に陣取っていた。
ハッサンはすぐに分かった。
市の中心に、大きな天幕を張っていた。入り口に護衛が二人立っていた。中からは煙草の煙が漂っていた。
ソフィアは天幕の前にいた。
ミナたちの姿を見て、ソフィアはわずかに表情を動かした。驚きではなかった。来ると思っていた、という顔だった。
「説明してもらえるか」とハルは言った。
「中で話しましょう」とソフィアは言った。
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ハッサンは五十代の男だった。
東方の商人の装いで、白いターバンを巻いていた。肌が浅黒く、目が黒く、笑い皺の深い顔をしていた。ミナが最初に感じたのは、この人間は本質的に善良だ、ということだった。損得を計算する目をしていたが、その奥に、人を大切にする何かがあった。
「マティアス様」とハッサンはマティアスを見て言った。「お顔を見ることができて光栄です」
「ハッサン」とマティアスは言った。「久しぶりだ。十年ぶりか」
「十二年になります」
ミナはマティアスを見た。師匠がこの男を知っているとは、聞いていなかった。
「ヴァルター様も」とハッサンはヴァルターを見た。「ご存命でしたか。それは——本当によかった」
ヴァルターは頷いた。「生きていた。息子のおかげで」
ハルをちらりと見た。ハルは何も言わなかった。
「ソフィア」とハルは言った。「なぜここへ先に来た」
ソフィアは茶を受け取りながら言った。「ハッサンに確認したいことがあったから」
「何を」
「金のかけらのことを」
ミナはソフィアを見た。
「あの金のかけらを、ハッサンは見たことがあると、以前言っていた」とソフィアは続けた。「同じものを、東方の市で見たことがあると。だから先に来て、詳しく聞こうとした」
「なぜ私たちに言わなかった」とハルは言った。
「あなたたちに余計な先入観を与えたくなかったから」
「先入観?」
ソフィアはハッサンを見た。
ハッサンが口を開いた。
「私が東方の市で見た金のかけらは、ある商人が持っていたものです」と彼は言った。「その商人は、遠い東の果ての島国から来たと言っていた」
「ジパングから」とヴァルターが言った。
「ジパング、という名かどうかは分かりません。しかしその商人は、東の果ての島で、山から採れる金のかけらだと言っていた」
「同じものかどうか、確認できますか」とミナは金のかけらを取り出した。
ハッサンはそれを手に取った。光に近づけて、しばらく見た。
「同じです」とやがて言った。「成分の違いではなく——何かが同じ。どう言えばいいか、金の性質が同じ」
「金の記憶が同じ、ということかもしれない」とヴァルターは言った。
ハッサンはヴァルターを見た。
「その島の商人は、もう一つ言っていた」とハッサンは言った。「その金のかけらは、山の神殿の近くで採れたものだと。神殿には、古い火が燃えていると」
ミナは、息を止めた。
「古い火」
「消えたことのない火だと、その商人は言っていた」
ミナはハルを見た。ハルもミナを見ていた。
「常火という言葉を知っていますか」とミナは聞いた。
ハッサンは首を横に振った。
「しかし——消えない火というのは、東西の伝説に出てくる」とマティアスが言った。「どこかに、永遠に燃え続ける火がある。その火の傍に、金が生まれるという話が」
「金は星の死骸だが」とヴァルターが言った。「星から降った金が、地に落ちる時に、何かと共鳴する。その何かが、火かもしれない」
「火と金が繋がっている」とミナは言った。
誰も否定しなかった。
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その夜、ミナは宿の外に出た。
眠れなかったからではなく、考えたかったからだった。
金の記憶。砂漠の神殿。血と権力と流通。ヴァルターの眠り。常火という言葉が、なぜか頭の中に浮かんだ。知らない言葉のはずだった。しかし知っている気がした。
「眠れないのか」とハルが来た。
「考えていた」
「何を」
「金が何かを、まだ分かっていない気がして」
ハルは隣に立った。市の夜の明かりが、遠くに散らばっていた。
「俺は商人だから」とハルは言った。「金は手段だと思っていた。何かを動かすための、便利な媒介だと」
「今も?」
「今は分からない」とハルは言った。「父が十五年眠っていた。父を眠らせたのは、金の記憶だ。金が単なる手段なら、そんなことは起きない」
ミナはハルを見た。
「ヴァルターさんが東の記憶で引き込まれた、というのが引っかかっています」とミナは言った。「なぜ東の話で引き込まれたのか」
「東に、何かがあるということだろう」
「それは分かります。でも——東の何かが、そこまで強いのはなぜだろうと」
ハルは少し考えた。
「終わりに近い、ということかもしれない」とハルは言った。「金の記憶に、始まりがあるなら終わりもある。その終わりが、東にある」
「終わりが、黄金の国に」
「あるいは——」ハルは夜の空を見た。「黄金の国というのが、終わりではなく、始まりに戻る場所なのかもしれない」
ミナはその言葉を、胸の中で転がした。
「私には難しいことは分かりません」とミナは言った。「でも、行かなければならないことは分かります」
「俺も同じだ」とハルは言った。
二人はしばらく、市の夜の光を見ていた。
「ソフィアのことが心配か」とミナは聞いた。
「ソフィアは自分で決めたことを後悔しない人間だ」とハルは言った。「昔からそうだった。だから——心配というより、一緒に来てほしいとは思っている」
「言えばいい」
「言える相手じゃない」
「言えない相手だから、ずっと言えていないんでしょう」とミナは言った。
ハルは少しの間、ミナを見た。
「おかしなことを言う」とハルは言った。
「師匠にも同じことを言われます」
ハルは笑った。
今夜で三度目の笑いだった、とミナは数えていた。会ってから日が浅いのに、その笑いの全てを覚えていた。
「明日、ハッサンが東方の隊商を紹介してくれる」とハルは言った。「その隊商と一緒に、東へ向かう」
「ソフィアも一緒に?」
「まだ分からない。彼女が決める」
「決めないかもしれない」
「だとしたら」ハルは市の方を見た。「俺が言わなければならない」
「言います、と約束できますか」
ハルはミナを見た。
「……できる」とやがて言った。「そういう約束は、守らないといけない気がする。なぜかは分からないが」
「なぜか、ではなくて」とミナは言った。「そういうことは、守るもの、です」
ハルはまた笑った。
四度目だった。
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翌朝、ソフィアは自分でハルに言った。
「東まで一緒に行く」と。
「なぜ」とハルは言った。
「あなたが言いに来る前に言った方が、すっきりするから」
ハルは何も言わなかった。
ミナは少し離れたところで、その会話を見ていた。
マティアスが横に来た。
「うまくいっているか」と老人は言った。
「何が」とミナは聞いた。
「全部」
ミナは師匠を見た。
マティアスは柔らかい顔をしていた。遠い目をしていた。何か懐かしいものを見ているような目を。
「師匠は、前にもこういう旅をしたんですか」とミナは聞いた。
「似たような旅を、したことがある」とマティアスは言った。「ずっと昔に。覚えているような、覚えていないような」
「誰かと一緒に?」
老人は答えなかった。
ただ、東の空を見た。
夜明けの光が、地平線の向こうから広がっていた。金色の光だった。毎朝見ている光だったが、今朝はいつもと違って見えた。
まるで、呼ばれているような光だった。
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(第七話 了)




