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黄金伝――砂の唄  作者: Kentarou Tou / Kentarou Theater


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第二話「錬金術師の遺言」


---


マティアスは、その夜から変わった。


変わった、というのは、分かりにくい変化だった。食事の量は同じだった。寝る時間も同じだった。机に向かって羊皮紙を読む姿も変わらなかった。しかし何かが違った。ミナは三年間師匠の隣にいたから、その違いが分かった。


師匠は、急いでいた。


これまで急いだことのない人間が、急ぎ始めていた。


「師匠、何を読んでいるんですか」と翌朝ミナは聞いた。


「これか」マティアスは羊皮紙を示した。「錬金術の古い文書だ。アラビア語で書かれている。ジャービル・イブン・ハイヤーンという男が九世紀に書いたものだ」


「ジャービル?」


「錬金術の父と呼ばれた男だ。金について、こう書いている。『金は完成した金属である。他の全ての金属はその完成へ向かう途中にある。金は宇宙の完成の象徴であり、それを手にした者は宇宙の秩序の一端に触れる』」


ミナは老人の横に立って、羊皮紙を覗いた。アラビア語の文字が流れるように並んでいたが、読めなかった。


「それが、昨日の封印と関係があるんですか」


「ある」とマティアスは言った。「昨日のあれは、ジャービルの系譜に連なる錬金術師が刻んだものだ。イスラムの錬金術がヨーロッパに伝わった頃、十一世紀かそこら。誰かがこの坑道の最深部に、何かを閉じた」


「何を」


マティアスは少し間を置いた。


「金そのもの、ではないと思う」と老人はやがて言った。「金の記憶、と言えばいいか。あるいは、金の本質に触れる何かを」


ミナには意味が分からなかった。しかし師匠が確信を持って言っているのは分かった。


---


ハルは、村を出なかった。


三日が過ぎても、まだそこにいた。宿の主人によると毎朝早くに出かけ、夕方に戻るという。どこへ行っているのかは分からなかった。


四日目の夕方、ミナは村外れの丘でハルと出くわした。


ハルは丘の上に立って、廃坑の方向を見ていた。ミナが近づいても振り向かなかった。


「何を探しているんですか」とミナは聞いた。


「ここから坑道の入り口が見える」とハルは言った。「あの封印の岩が気になって」


「商人が錬金術に興味を持つとは思えない」


「俺が探しているのは人間だ」ハルはようやく振り返った。「父親を探している。父は錬金術師だった。十五年前に失踪した。最後に残した手紙に、この村の名前が書いてあった」


ミナは黙っていた。


「名前は」とやがて聞いた。


「ヴァルター。ヴァルター・フォン・ブルクという」


ミナはその名前を知らなかった。しかし師匠なら知っているかもしれないと思った。


「師匠に聞いてみます」


「聞いても出てこないと思う」とハルは言った。「父の名を知っている人間は、みな口を閉ざす。なぜかは分からない。ただ、誰もが何かを知っていて、語りたくないという顔をする」


丘の上で、風が吹いた。荒地を渡る乾いた風だった。


「あなたの師匠は、あの坑道で何を見つけようとしているんですか」とハルは聞いた。


「金の本質を、と言っていました」


「金の本質」ハルはその言葉を繰り返した。「父も同じことを言っていた。子供の頃に一度だけ、父が酔って話してくれたことがある。金は単なる金属ではない。何か別のものの——容れ物だ、と」


ミナは空を見た。夕暮れが西から広がり始めていた。オレンジ色が、荒地を染めていた。まるで地面が金色になるような、その一瞬の光だった。


「容れ物」とミナは呟いた。


「あなたの師匠の言う金の本質というのと、同じことかもしれない」


「かもしれません」


二人はしばらく、黙って夕暮れを見ていた。


---


夜、ミナはマティアスにハルの父親のことを話した。


老人は羊皮紙から目を上げ、ミナを見た。


「ヴァルター・フォン・ブルク」とマティアスは繰り返した。声が、かすかに変わった。


「知っているんですか」


「知っている」とマティアスは言った。「わしの同僚だった。いや、師と呼んでも良かった男だ」


ミナは息を止めた。


「師匠の師匠が、ハルの父親なんですか」


「そう呼べるかもしれない。彼は錬金術師の中でも群を抜いていた。金の本質に、最も近づいた男だった」


「失踪したのは」


「この坑道のせいだ」マティアスは羊皮紙に目を戻した。「ヴァルターはこの坑道を最初に見つけた男だった。封印の岩を見つけ、それを解読し——そして姿を消した」


「解読した?」


「封印の岩には、開く方法が刻まれていた。ヴァルターはそれを解読した。そしてその先へ行こうとした」


ミナは老人の横顔を見た。


「師匠はそれを知っていて、ここへ来たんですか」


「ヴァルターが残した記録を、長い時間をかけて集めた。彼が何を見たか、何を知ったか。そしてなぜ消えたか」


「なぜ消えたんですか」


マティアスはしばらく黙っていた。


燭台の炎が揺れた。部屋の影が、壁の上で大きく動いた。


「金には、代償がある」と老人はやがて言った。「その本質に触れようとした者は、必ず代償を払う。ヴァルターが消えたのは、その代償だったかもしれない」


「師匠も、代償を払うつもりですか」


マティアスはミナを見た。


老人の目に、何か穏やかなものがあった。悲しみのようにも見えたし、覚悟のようにも見えた。


「わしはもう年だ」とマティアスは言った。「払える代償が残っていれば、の話だが」


「そんなことを言わないでください」


「ミナ」老人は静かに言った。「お前に一つ、頼みたいことがある」


「何ですか」


「ハルをここへ連れて来い。明日の朝、三人で話をしたい」


---


翌朝、三人は机を囲んだ。


マティアスはハルに、ヴァルターのことを話した。ハルは黙って聞いた。時々、顔に何かが過ぎった。驚きと、怒りと、悲しみが混ざったような、複雑な表情だった。


「父は今もあの坑道の中にいるということですか」と話が終わってからハルは言った。


「分からない」とマティアスは正直に言った。「封印の先に何があるのか、まだ分からない。ヴァルターの記録もそこで途切れている」


「俺は、父に会いたい」


「そうだろう。だからこそ、お前が来た意味がある」


ハルはマティアスを見た。「どういう意味ですか」


老人は羊皮紙の一枚を取り出した。ハルの前に置いた。


「これはヴァルターの最後の記録だ。この坑道の封印について書いてある。その中に、こう書かれている」マティアスは指で一箇所を示した。「『この封印は、一人では開かない。二人が揃わなければ、岩は動かない。そして二人は、同じ問いを持っていなければならない』」


沈黙があった。


「同じ問い」とミナは言った。


「そうだ。錬金術師ヴァルターが見つけたこの封印は、知識で開くものではなかった。金に対して、同じ問いを持つ二人が揃って初めて開く」


ミナはハルを見た。


ハルもミナを見た。


「あの坑道で、二人が同じ感覚を持ったのは偶然ではなかった」とマティアスは言った。「同じ問いを持つ者は、金の匂いに同じ反応をする」


「俺たちが、その二人だということですか」とハルは言った。


「ヴァルターの記録には、こうも書いてある」マティアスは羊皮紙を示した。「『必ず来る。何度でも来る。忘れていても、必ず来る』」


ミナはその言葉を聞いた瞬間、昨日の夕暮れを思い出した。丘の上で、ハルと並んで夕陽を見ていた時の感覚を。


初めて会った人間の隣に立っているのに、ずっと昔から知っていたような気がした、あの感覚を。


「師匠」とミナは言った。「もう一つ教えてください。封印の先に、何があるんですか」


マティアスは立ち上がった。窓の方へ歩いた。外では、朝の村が動き始めていた。


「金の歴史だ」とやがて言った。「人類が金と共にあった時間の、全てが」


ミナには意味が分からなかった。


しかしハルが、静かに言った。


「金が、何であるかを示すものが、ということですか」


マティアスは窓の外を見たまま、頷いた。


「ヴァルターはそれを見た。だから消えた。見た者は、元には戻れない」


部屋が静かになった。


朝の光が、斜めに差し込んでいた。机の上の羊皮紙が、黄ばんで光を受けていた。まるで古い金のような色で。


「行きましょう」とミナは言った。


ハルを見た。


「行くか」とハルは言った。問いかけではなく、確認として。


「行きます」


マティアスは振り返った。老人の顔に、あの穏やかなものがあった。


「三人で行く」とマティアスは言った。「わしが最後に見届けたいものが、そこにある」


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(第二話 了)


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