とある老人の昔語り
翌日、フィルはタウべ山脈でリンゴを取っていた。
山の下の方もリンゴの木はあるが、実はなっていなかった。道のない急な斜面を息を切らせながらしばらく登ると、実をたくさんつけた木がいくつもあった。
フィルは背負いカゴに木からもいだリンゴを次々と入れていった。カゴがいっぱいになったのは、あっという間だった。重いカゴを背負い直すと、足を滑らせないように注意しながら、ゆっくり山を降りて行った。
小麦畑では伸びた小麦が色づき始めていた。里の南にある物見櫓の側では、一人の老人が幼い子供たちに囲まれていた。木の箱に座っていて、風車小屋を小さくしたような玩具を持っていた。老人が羽根に息を吹きかけると、羽根が回った。子供たちはそれぞれ、笑ったり玩具に手を伸ばしたりしていた。
老人は子供たちに玩具を渡し、遊ばせた。しばしば喧嘩になりかけたが、その度に「順番じゃぞ」や「喧嘩はいかん」と、諭すような落ち着いた声がしていた。
最後に遊んだ女の子が老人の手に玩具を渡すと、ねだるように言った。
「イーヴォおじいちゃん、アレ見たい」
「わかった、わかった」
イーヴォと呼ばれた老人は、風車を持っていない方の手を風車の羽根へ向けた。すると、息を吹きかけるよりも速く、玩具の羽根が回った。
見ていた子供たちは「おお」と言って風車に釘付けになった。
「おじいちゃん、どうやってやったの?」
「お前さんたちが大人になったら出来ることじゃよ」
「大人にならないと出来ないの?」
「うむ。お前さんたちの父さんや母さんもできるがのう……とても疲れるんじゃ。ご飯をお腹いっぱい食べたかったら、遊んでほしかったら、やってほしいとワガママ言ってはいかんぞ」
「はぁい」
子供たちは元気よく返事をしていた。
「相変わらず上手いな、イーヴォじいさん」
「おお、フィルか。いつからそこにいたんじゃ?」
「子供たちに玩具を渡したところから。何人かは俺を見たけど、遊ぶのが優先だったらしい。それよりも手を貸した方がいいか?」
「少し休めば大丈夫じゃよ。それよりもそのリンゴ、一つくれんか?」
「いいよ」
フィルは後ろに手を回してカゴのリンゴを摂ると、イーヴォに渡した。
「うむ、美味い。さっきから腹が減っておったんじゃよ」
「それなら帰って何か食べれば良かっただろうに」
イーヴォはフィルに顔を向けた。顔にも手にも年相応に皺が刻まれていた。
「幼子の元気な姿を見るのが楽しみでな。さっきまですっかり忘れておったんじゃ」
里で最高齢のイーヴォは、腰が曲がっていて、歩くには杖が必要となっていた。それでも天気のいい日には欠かさず里の中を散歩して、たまに子供たちと遊んでいた。玩具を使うこともあれば、お伽話を話すこともあった。
フィルはイーヴォの手にある玩具に目を落とした。
「懐かしいな、それ」
「風車か。お前さん、弓の練習ができるようになったら、ずっとやってて、あまり来んかったからのう……」
「あの時は一日でも早く、ディー兄と狩りに行けるようになりたかったから」
「お前さん、矢が全て的に命中しても得意げな顔をせんかったのう。せめて、わしには自慢してほしかったのう」
イーヴォは寂しげな顔で、ため息を吐いた。
「お前さんがわしの子なら、みんなに自慢しとるぞ」
「わしの子って歳が離れすぎだろう」
「なら、孫か? わしには子がおらんから、孫は違うかと思ったんじゃが……」
「じいさんって一人だったよな?」
「結婚して、すぐに亡くなった。再婚は考えられんかったから、しとらんよ」
「良い人だったんだな」
「ドナは優しくて情熱的で……あのような燃える恋をしたのは、後にも先にもなかったよ」
その時、きゃあと子どもたちの声がした。二人が声の方を見ると、四人の幼い子が鶏を追いかけていた。捕まえようとしたが、逃げられたらしい。
「そう言えば……大人になったら風が使えると言うのは、いつからなんだ?」
「お前さんも気になっとったか」
「気にならない奴がいるか? 俺、今度の誕生日で成人だし」
「もうそんな歳だったか……月日が流れるのは早いのう」
イーヴォは感慨深げに、鎖骨まで伸びた顎髭を撫でた。
「で、じいさん」
「うん? ああ、そうじゃった。これは、塔に行った時から使えるようになったんじゃよ」
「塔って、西にあるとか言う?」
「アムゼル村に行く時に見えるじゃろう」
「じいさん、俺はアムゼル村に行ったことがなんだが」
「そうか……」
イーヴォはシワだらけの手で西を指差した。
「ここからは見えんが、あっちにとても高い塔があってな。そこには風の精霊様がいると言われとってのう。ここらで生まれた者が精霊様の下へ行くと、祝福を授かることができる、とな」
「その祝福が、それか?」
「そうじゃ。まぁ、子供たちと風車で遊ぶ以外、使い道はないがのう……ああ、天気の悪い日に洗濯物を乾かせるくらいか」
「大人は誰も使えるのに使おうとしないよな。疲れるからか?」
「そりゃあ野良仕事が大変なのに、わざわざ疲れることはしたくはなかろう? まぁ、空が飛べるのなら、やってみたかもしれんが」
空を見上げたイーヴォにつられてフィルもそちらに顔を向けた。小鳥が気持ちよさそうに里の上を横切って行くのが二人の目に映った。
「今でこそ成人の時しか行けなくなったが、昔は子供でも入れたんじゃよ。わしも子供の時に授かってな。イタズラをしては母親に洗濯物を乾かせと、よく叱られておったよ」
「じいさんにもそんな時があったのか。想像できないな」
ほっほっほ、とイーヴォは笑った。
「だけど、昔は子供でも入れたって……何かあったのか?」
「ふむ……お前さんにこの話をしたことはなかったか……モーリッツという名に聞き覚えはあるかの?」
「いや、ないな」
「昔、あれはまだわしが十歳になった頃じゃったか。モーリッツが『この力があれば、帰らずの森から帰って来れるんじゃないか』と言い始めたのじゃ。モーリッツは面倒見が良くて責任感も強くてのう。里長になると誰もが思っておった」
「そんな奴がどうして……」
「エルスター大森林に行ったきり帰らなかった者は時折おった。後で知ったことじゃが、モーリッツのじいさんも、その中の一人じゃった」
「それでずっと気にしてて、風を操れるようになったから、奥地へ行っても帰って来られるんじゃないかって言ったのか?」
「おそらく、そんなところじゃろう。落ち着いて考えてみれば、帰らなかった者の中には風を操れたのもおったはずなんじゃがの。行方知れずになった者たちは、遺体がないから墓を作っておらん。もしかしたらモーリッツは、遺体か遺品を持ち帰って、墓を作ってやりたかったのかもしれん」
イーヴォは悲しそうな顔をした。
「お前さんにとってのデリックのように、わしにとってモーリッツは頼れる兄貴分じゃった。ある日、モーリッツは歩ける者たちを連れてエルスター大森林の奥へと向かった。わしも一緒に行ったから、よう覚えとる。霧の壁の前に着くとモーリッツは『じゃあ、行ってくる』と言って、まるで散歩でもしに行くかのように霧の中へと歩いて行った。それが、わしらがモーリッツを見た最後じゃった」
「ところで、モーリッツはどれくらい風を吹かせることが出来たんだ?」
「わしらと同じくらいのようじゃ。かつては鳥のように空を飛ぶことが出来たそうじゃが、わしが幼い頃にはそれほど風を操れる者はおらんかった。モーリッツも、それくらいのことが出来たなら、わしらの前で見せてくれたと思うが……」
麦の揺れる音がして、強い風が吹き抜けた。イーヴォの手にある風車の羽根がカラカラと回った。
「モーリッツが霧の中へと消えた、その日も、その次の日も、そのまた次の日も帰って来んかった。モーリッツの友だちで風の能力を得ていた者らが相次いで霧の向こうへと消えた。能力を得ていなかった者らは、こぞって塔へ行った。そして能力を得ると次々と森へと入っていった。もちろん止めたがの。森の奥へ行った者らは帰らなかった。モーリッツの友だちの中で、塔へ行っても能力を得られなかった何人かが霧の近くで何日も待っていたそうじゃ」
イーヴォはため息を吐くと、半分ほど残っていたリンゴを再び齧った。しゃくしゃくとリンゴを食べる音がしばらくの間していた。
「精霊様はこの辺りで起きたことは全て知ってると言われておる。そして、人が好きだとも。モーリッツたちがいなくなったあと、塔の周りには嵐のような強風が吹き荒れ、誰も近づけんかったらしい」
「それが今は成人の時だけ行ける、と」
「当時の里長が塔の前で拝み倒したのか、精霊様が一度くらいはと思ったのか……本当のところは分からんがのう。あの時はモーリッツは何でもできる勇敢な男に見えとったが……今思えば、単なる向こう見ずじゃな。戻らなかったことで、友だちがどういう行動に出るか考えてなかったのじゃから」
木製の風車のおもちゃって、初めて知りました。




