フィル
まずい、こんなところまで来てしまった。
フィルは少し焦っていた。
目の前には濃い霧が、まるで白い壁のように立ちはだかっていた。
エルスター大森林。
フィルの暮らしている風の里から歩いて一時間ほどのところにある森である。里の子供たちも枝拾いに度々訪れていた。見守る大人たちから「気をつけて」と言われる他に、もう一つ、きつく言われることがあった。
「森の奥地へ行ってはいけない」
大森林と呼ばれるほど広大な森。木だけでなく、怪我をした時に使う薬草も豊富にあり、鹿や猪なども生息している。里の男たちが家の材料や薪にするための木を切ったり、力のない子供たちが枝を拾う。
狩人であるフィルは、森で猪や鹿を仕留めていた。鳥も仕留めるが、猪などの大型の獣は分けれる肉が多いので里の人たちに喜ばれた。鳥なら一人で運べるが、猪などは難しい。それらを狩る時には、同居人のデリックと森へ入る。ただ、この日は念の為弓矢やナイフは持っているものの、狩りが目的ではなかった。
ここ半月ほど、鹿が仕留められる事が多かった。
女たちは大喜びだった。食卓に上る量が増えるだけでなく、保存にも回せるのだ。普段狩りに失敗することが多い男たちも成功したことで、いつになく褒められていた。
そうなると気になるのは森の様子だ。獣たちが移動してしまい、普段狩りをする辺りにいなくなっているのではないかと心配になったフィルは、畑の水撒きを終えると森へと向かったのだった。
森の中をしばらく歩くと、子供の猪を見かけた。ウリ坊と呼ばれるような体の縞模様は消えているものの、まだ大人ほど大きくはない。近くには鹿もいた。
普段の狩り場ではないものの、獣たちがいることにフィルは、ほっと息を吐いた。
その時である。目の前に白い霧が現れた。それまで霞のようなものも全くなく、見通しは良かった。霧は壁のように立ちはだかっていて、その中を一切見せようとしない。
大人たちが森の奥地へ行ってはいけないと言う理由は、この霧にある。
この霧のある場所は里の人々から”帰らずの森”と呼ばれていた。
かつて何人もが霧の中へ行ったものの、戻った人は一人もいない。子供が、親が、霧の向こうへ行ったと聞いた家族が、探しに霧の中へと入っていった。しかし、その人たちも戻ることはなかった。
亡くなっているわけではないので、里の北側にある墓地にその人たちの墓はない。言い伝えに詳しい年寄りが「行ってはならぬ」と恐ろしい顔で子供たちに言い聞かせていた。霧の中に消えた人たちは、霧で道が分からなくなったという話もあれば、霧の中にいる怪物に食べられたという話もあった。
そんな場所が手を伸ばせば触れられるほどの距離にある。霧の中はどうなっているんだろうという好奇心も僅かにあったが、それよりも帰れなくなるかもしれないという恐怖の方が大きかった。
早く戻らなければ。
そう思った時、背後からガサガサと物音が聞こえてきた。
フィルは反射的に跳び上がり、近くの枝に捕まると、そのまま上へとよじ登った。枝の上で地面を見下ろすのと、三人の少年がフィルが先程いた場所で立ち止まったのは、ほぼ同時だった。
「こっちに来たはずなのに」
「バイロンのせいで見失ったじゃないか」
細い少年が小太りの少年を小突いた。
「僕のせいなの?」
「他に何がある。お前がもっと速ければ、あいつを見失わなかった」
「でも……」
「もういい!」
体格の良い少年が、苛立った声で遮った。
「お前たちが言い合ったところで、あいつがのこのこ現れると思うか?」
「ううん。僕だったら出てこないと思う」
チャドと呼ばれた小太りの少年は首を横に振った。
「ザカリー、戻らないか? きっと、もうここにはいないよ」
細身の少年は体格の良い少年に言った。
「そ、そうだよね。バイロンの言うとおりだよ。戻った方が良いよ」
ザカリーは濃い霧の壁をじっと睨んでいた。
「まさか、この中に……」
今にも入って行きそうな様子のザカリーに二人は顔を見合わせると、頷いた。
「ザカリー、戻れなくなっても良いのか?」
「僕たちが行っても、誰も助けには来てくれないよ。それにフィルがこの中にいた方が良いんじゃない? ほら、入ったら帰ってこれないって言うし」
「それは里の連中が言ってるだけだろう。それに、あいつが一人でいるこの機会を、みすみす逃せと?」
「ザカリー」
「ごめん」
バイロンとチャドは、今にも霧の中に入って行きそうなザカリーの腕を両側から抱えると、引きずるようにしてその場を後にした。
ザカリーが「放せ」と喚く声が段々遠ざかり、聞こえなくなった頃、フィルは木から静かに降りた。三人が去った方を見ながら、左腕を胸の前まで上げた。前腕の肘の近くに包帯が巻かれている。先日ザカリーに襲われた時に出来た傷だった。
「……デリックと一緒に来れば良かったかな」
ポツリと呟き、三人とは別の方向へ歩いて行った。
森を出ると、目の前には川が流れており、その向こうには高い山々が聳えていた。
右を向くと川の向こうに草原が広がっていた。太陽は大地の向こうにどっぷりと沈み、地平線近くの夕焼け色が徐々に薄くなっていく。吹き渡る少し温めの風が、膝丈まで伸びた一面の草を揺らした。
傍にある川、リベレ川は北西に向かって流れている。フィルのいる場所の北には幅の広い橋があった。フィルが橋へ向かう時、急いで渡り草原を走っていく三つの人影が見えた。顔は見えないが、人数と体型からザカリーたちだと分かった。
フィルは橋を渡ると、そのまま西へ歩いていった。
「……また、叱られるだろうな」
ザカリーは日頃の行いが悪く、父親に叱られてばかりだった。昨日も、山や森へ行っても夕方には戻って家の手伝いをするようにと言われていた。聞く気はなかったが、あまりにも大きな声だったので、フィルの耳にも入ってきた。
また父親から雷を落とされるのだろう。
しかし、フィルは同情するつもりは全くなかった。
そんなことを考えていたら、腹が鳴った。昼食を食べてないので早く戻るはずが、ザカリーたちのおかげで余計な時間が掛かってしまった。怒りが再燃しかけたが、再び腹が鳴った。
早く帰ろう。
星々が瞬く空の下、フィルは家路を急いだのだった。
「ただいま」
家の玄関を開けると、暖炉の前にいた精悍な顔の青年が振り返った。
「おかえり」
フィルは身に着けていた弓と矢筒、ナイフを壁際の台に置くと、暖炉に近づいた。青年はお玉で鍋のをかき混ぜていた。
「遅くなってごめん。手伝うよ」
「それなら食器棚から皿を持って来てくれ」
ナイフなどを置いた台の隣には棚が置かれていた。皿やカップなどの食器が、フィルの目線より少し下の高さの段に置かれている。その下には壺が並んでいて、それぞれ食品を塩漬けにしたり、薬草をオリーブオイルに入れたりして保存していた。
青年はフィルから皿を受け取ると、鍋のスープをよそった。スープの汁気より多いニンジンとキャベツ、大きめに切られた肉が皿の中で主張している。
食事をするためのテーブルが、暖炉の手前にある調理台の隣に置かれていた。テーブルの上には丸いパンを薄切りにしたものが入ったバスケットがあり、それぞれの席にスープの皿を置くと、青年が二人分のスプーンを持ってきた。
「さ、食べようか」
フィルはスープの具材を口に入れ、リスのように頬張るとパンに手を伸ばした。保存のために水分をできるだけ抜いたパンは硬いので薄切りにしたり、スープに浸したりして食べていた。
普段以上の勢いで食べるフィルに青年は目を丸くした。
「そんなに腹が減っていたのか?」
「昼を食べ忘れたんだ」
「そうか。それならたくさん食え」
言われずとも、といった様子でフィルは手と口を動かした。満足した顔でスプーンを置いたのは、おかわりしたスープを平らげた後だった。
食事を終えると使った食器をすぐに洗い、片付けた。暖炉では薪がパチパチと軽い音を立てて燃えていた。
ゆらゆらと揺れる火を、フィルはぼうっとした顔で見つめた。
「何かあったのか?」
「何でそう思うんだ?」
「帰って来た時、暗い顔してるような気がしたんだ」
「そんな顔してたか?」
「他の奴なら気づかなかっただろう。俺はお前と暮らし始めて長いから」
「……ディー兄には隠し事はできないな」
青年の名はデリック。
六歳の時、母親を亡くしたフィルと暮らし始めた。
家族を失い、幼い子供だけ残された時、面倒を見るような施設は風の里にはない。当時デリックは十四歳だったが、家族を亡くし一人で暮らしていた。大人たちと狩りに行っていたし、料理や洗濯など最低限の最低限のことは出来ていた。幼い子供たちの世話もよくしていたこともあったからだろう。フィルと暮らすことに反対する大人はいなかった。
フィルは諦めたようにため息を吐くと、森でのことをデリックに話した。
「ザカリーの奴、まさか襲うつもりだったとは」
「一応聞くが、俺が嘘をついてると思わないのか?」
「可能性の一つとして考えないではない。けど、お前はそんな嘘を言わないって知ってるし、ザカリーが未だ他の子供に石を投げてるの見てしまったし」
フィルは呆れるのを隠せなかった。
「まだそんなことをしているのか。畑の水やりをしてた時、アントンおじさんの怒鳴り声が聞こえたから、クリスタかネイトをいじめているんだとばかり」
クリスタはザカリーの妹で、ネイトは末っ子の弟だ。二人とも小さい時からよく泣いていた。
「クリスタもネイトも、あんなのが兄貴では可哀そうだ」
「アントンとマーサは甘やかしているわけではないのに、何でああなるんだか」
ザカリーの両親、アントンとマーサは良いところは褒めるし、悪いところは叱る、親としてはごく普通の人たちだった。
「アントンおじさんは里長だから。きっとザカリーは、次の里長は自分だって思ってる。そんな気がする」
「あいつは無理だぞ」
デリックはきっぱりと言い切った。
「前の里長はアントンの父親だ。しかし、息子だから選ばれたわけじゃない。里のみんなの信頼があったからだ。信頼が全くないあいつがなれるはずがない」
「そう言えば弓は? まだやりたいって言ってるのか?」
里の子供たちは、小さな弓を玩具として与えられる。ただ、矢を使うことは八歳にならないと出来なかった。
弓矢の練習は強制ではない。狩りに行くのは基本的に男だけだが、女もいざという時のためにと練習をしていた。男の子にとって、弓で猪などの獣を仕留める狩人は一種のステータスだった。家を作ったり直したりする大工とも違う格好良さがあり、よく練習をしていた。
フィルは、時間さえあれば練習に明け暮れていた。ザカリーはフィルと同い年で、練習を許されたのも同じ日だった。
「ああ。だが、アントンが許すはずがない」
ザカリーが弓矢の練習を禁じられたのは、練習の初日。
フィルと他に何人かの子供たちと一緒だった。弓矢と的が用意され、そこへ向かって矢を放つ。危ないので、弓矢の練習は里の外れで外に向かって矢を放つ。もちろん、その先にある畑に人がいない時、あるいは弓を向ける方向に人がいない場所を探して。
フィルたちの練習に付き合ったのはデリックだった。子供たちはデリックの言う通りに弓を弾き、矢を放った。初めてなので的から大きく外れたり、思うように飛ばなかったりした。渡された矢を全て放つと、デリックの合図で拾いに行った。フィルが矢を拾った時、後ろで何かが落ちる音がした。何だろうと振り返ると、デリックがザカリーを殴っていた。
「危ないじゃないか」
デリックは怒鳴った。しかし、ザカリーは何で叱られるんだと不満そうな顔をしていた。
騒ぎを聞きつけて駆けつけたアントンにデリックが事情を話すと、アントンは目を吊り上げた。アントンはザカリーから弓矢を取り上げ
「今後ザカリーに持たせないでくれ」
と言ってデリックに渡した。その日以来、ザカリーが弓矢を練習する子供たちを恨めしそうな顔で見ていたのはフィルも知っているが、弓矢を持っているのは見た事がなかった。
フィルは、不満を募らせたザカリーに襲われることが多かった。他の子供たちも殴られるが、ずっと多い。
「気に入らない」「なり損ないのくせに」などと言われ、毎日のようにいじめられた。
しかし、フィルもやられてばかりではなかった。やり返すともっと殴られるので、ひたすら避けた。気配に少し敏感になり、それが狩りに活かされるようになるとは、フィルも思っていなかったが。
「髪がみんなと一緒なら、あれほどザカリーに絡まれなかったかな」
フィルは前髪を摘んだ。
「ディー兄やみんなと同じ、緑色だったら……」
日の光の下では輝くような銀色の髪は、暖炉の火に照らされて橙色に見えた。
風の里のほとんどは緑色の髪をしている。黒髪もいるが、銀色の髪をしているのはフィルだけだった。
「綺麗だし、いいと思うけど」
「目立つから嫌なんだが……ま、気にしても髪の色が変わるわけでもないしな」
鏡はなく、自身の姿が見れるのは、ぼんやりと映った家の窓くらいのものだった。フィルは綺麗な顔立ちをしているが、自分ではわからなかった。
そのまましばらく二人は暖炉の日を見つめていた。フィルは調理台にもたれ、白湯を飲んでいた。フィルもデリックも紅茶は得意でないので、沸かした湯をそのまま飲むことが多かった。暖炉の火が小さくなってくると、灰を被せ、二人はベッドに入った。
デリックはベッドに入るとすぐに寝息を立て始めた。フィルも疲れていたが、なかなか寝付けなかった。ザカリーのことは気にしていないが、何かを間違えたような漠然とした不安が脳裏にこびりついて離れなかった。




