第29話:気のせいだと思うことにしました
(ど、どうしてこうなっているの?)
驚き過ぎて頭が真っ白になっていた。それでも頭の片隅は冷静だったみたいで、息を殺して状況を思い出そうとしていた。意識が失う前って……寝台の傍で椅子に腰かけてフィンの看病をしていたわ。うん、それは間違いない。その時にお祖父様の研究内容が手掛かりになるかもしれないと思いついて、先生のお名前をお借り出来ないかと……それでお祖父様の夢を見て……って、眠っていたのね、いつの間にか。
だけど、あの時は椅子に座っていたわ。どうしてこうなっているの? もしかして、寝ている間に勝手に寝台に入り込んだ? いえいえ、それはあり得ないわ。いくら寝ぼけてもそれはさすがに……
混乱していると後ろから抱きしめていた人物が寝返りを打って拘束が解けた。目を覚ますかと息を殺して身を固くしていたけれど、暫く待っても動く気配はなかった。そっと身を返して問題の人物の方に視線を向けた。そこにいたのは……予想した通りフィンだった。彼の部屋だから当然といえば当然なのだけど……どうしてこんなことに?
自分で寝台に乗ったとは思えないから、そうとなればフィンが? でも、どうして? 仮に私が傍で寝ていたってこうはならないわ。熱で意識が朦朧として無意識に? それにしたってこの体勢はないわよね。だったら……誰かと間違えた? 恋人や婚約者はいないようだけど……それでも好きな人がいても、おかしくない、わよね……その可能性に行きついて、急に身体の中心から全身に冷たい何かが広がっていった……
居たたまれなくてそっと寝台から抜け出し、床に座って身を屈めて息を殺した。抜け出したことでフィンが目覚める気配がなかったことにホッとする。動く気になれなくてそのまま膝を抱えて顔を埋める。胸の奥がもやもやして身体が床に沈んでいくような気がした。何がこんなに心を憂鬱にさせるの? 自分のことなのに、わからないことが増えたわ……
「……ん……ル、カ……」
微かな呻き声が聞こえて心臓が止まりそうになった。今、名を呼ばれた? 目が覚めたの? 立ち上がらなきゃと思うけれど、何をしていたんだと尋ねられたら何て答えればいいの? それを思ったら動けなくてただ息を殺して耳を澄ませた。暫く待っても次の声はなかった。だったら寝言? そっと覗きあげるとこちらを向いて掛け布を抱いて眠るフィンがいた。よかった、あれは寝言だったのね。そのまま足音を忍ばせて部屋を出た。名を呼ばれた気がしたけれど、きっと気のせいよね……
「びっくり、した……」
自分の部屋に戻ったら酷く疲れた気がして、寝台に転がった。途端にフィンに抱きしめられていた感覚が蘇る。熱のせいでいつも以上に熱かった身体と背に感じた筋肉質の胸、耳元に掛かる熱の籠った息に、お腹に回された大きな手。思い出したら一気に心臓が撥ねて顔が赤くなった気がした。な、何を意識しているのよ。あれは誰かと間違えただけなのだから……横になっていられなくて起き上がって頭を振ったけれど、顔が火照って冷えてくれない。暫く外に出られないわ。こんな顔、誰にも見せられないもの……
それでも……熱のあるフィンを一人にしておくことも出来ない。先生は書庫に籠られたままだし、ロイは家のことをするのに忙しそうで看病まで頼むのは申し訳ない。となれば私が看るしかない。両頬を叩いて気合を入れてフィンの部屋に戻った。フィンは熱もあったし眠っていたから覚えていないはず。だったら何もなかったのよ。
「フィン、入るわよ」
気を取り直して扉を叩くと返事がなかった。そっと部屋に入ると掛け布を抱きしめたまま眠っているのはさっきと変わらなかった。その姿勢に胸が痛む。誰を抱きしめているつもりなのかしら。
それからも熱が上がったり下がったりを繰り返し、フィンが熱を出してから五日が経った。昨日はその前日よりも熱が高い時間は短かったから回復に向かっていると思いたい。
「フィン、気分はどう?」
いつものように呼び掛けると、瞼がゆっくりと持ち上がって紫瞳が現れた。宝石みたいなそれに胸が跳ねて一昨日のことが思い出された。小さく頭を振ってその記憶を振り払う。今は平常心!
「目が覚めたのね? 気分はどう?」
気を取り直していつも通りに声をかけた。声、高くなっていないわよね?
「あ、ああ。すまないな、ルカ」
「気にしないで。呪いを解いた反動だって先生も仰っていたわ。熱は、どう?」
そう言いながら額に手を当てた。前髪の間から紫の瞳が見えて心臓が撥ねた。本当に綺麗……じゃなくて。今は熱よ、熱。
「熱も大分下がったわね。まだ少し高いけれど」
「そう、か。面倒を掛けたな」
「フィンのせいじゃないって言っているでしょう? 悪いのは呪いをかけた方、フィンは被害者なのよ。気に病むことはないわ」
務めて明るい声でそう告げた。実際そうなのだからフィンが責任を感じる必要はないわ。昨日よりも顔色もよくなっているし、峠は越えたのかしら?
「体調はどう? どこか痛みや不快なところはない?」
「そう、だな。ちょっと怠いが痛みなどはないな」
だったら峠は越えたと思ってよさそうね。疲れもあったでしょうし、気が緩んだのもあるだろうと先生は仰っていた。だったら大丈夫かしら。そう願いたい。
「どれくらい、経った?」
「熱が出てから? そうね、今日で五日になるわ」
「五日……そんなに?」
フィンの自覚では一、二日だったらしい。それならずっと意識は朦朧としていたのね。幸いにもその日を最後にフィンの熱は下がってくれた。よかったわ、水と薄めた果実水くらいしか口にしていなかったから。いくら身体が丈夫でも何も食べなかったら身体が弱ってしまうもの。
それから五日も経つとフィンの体調はすっかり良くなっていた。さすが騎士だけあるわね、三日目には剣を手に鍛練を始めた時には驚いたけれど。フィンが回復し始めてからは私も先生の調べ物の手伝いに入った。あの二十ほどの文字列を解明しないと呪いが解けない。命の期限は一年ほどだけど、あれから二月近くが過ぎているわ。呪いの進行の早さに決まりはないから、呪いの浸食が深まれば深まるほど加速する可能性もある。今はフィンの体力と魔力耐性が進行を押し留めているけれど、それもいつまで持つかわからないわ。今回の発熱で体力が落ちたのは間違いないし。
「先生、祖父の研究が、役に立つ可能性はあるでしょうか?
夢に出て来たお祖父様。あの時何を言いかけていたのかは今もわからない。何か重要な手掛かりになりそうな気がするのに……
「ロルトの研究か……」
先生が腕を組んで考え込んでしまわれた。先生はあれからずっとあの術式を解く鍵を探してくださっているけれど、今のところ有力な手掛かりはない。もし何らかの突破口になるものがあるといいのだけど……
「そう、じゃな。ロルトの研究はわしとは少し方向性が違ったが、もしかしたら手掛かりがあるやもしれん。よし、フェルザー伯爵に話をしてみよう」
出て来た名前に思わず身体が強張った。いえ、先生から取り成していただくつもりではあったけれど。
「ロルトが住んでいたのは王都外れの別邸じゃろ?」
「え、ええ」
「そこならわしも何度か滞在したことがある。勝手も知っているからちょうどいい。早速伯爵に頼んでみよう」
「あ、ありがとうございます」
父への不安が増すけれど、これで何かが掴めるかもしれないと思うと気が急いた。別邸は王都の傍だからまた半月近く旅をすることになるのね。いえ、今回は先生も一緒だから、馬車だと二十日はかかるわね。
先生は早々に父に連絡を入れてくださって、翌日には訪問を歓迎するとの返事が父から届いていた。
「もう父から返事が?」
「うむ。魔術師が使う連絡網を使ったんじゃ。魔術で送るから早いもんじゃ。いやはや、こういう時は筆頭の肩書が役に立つのう」
先生、それは越権行為では……そう案じる私に先生は、元が付いても一度でも要職に就いた者は万が一の際に出た招集令を拒否することは出来ないのだという。そのため、現役時に使えた権利は半分ほど残されるのだとか。そういえば……衰えて筆頭魔術師を下りたのではないと仰っていたわね……
「筆頭を下りても魔術師を引退はしておらんぞ」
それってつまり、今でも現役の魔術師ということで……それじゃ、こちらに移り住んだのは、ザクサーで隣国に目を光らせるため?
「最近は隣国も大人しいし、暫く離れても問題ないじゃろ。息子もいるしな」
そう仰ると先生は嬉々としてロイに旅の支度を頼んでいた。どうやらお祖父様の別邸は先生にとっても思い出深い場所らしく、久しぶりに墓参りにも行けると大層ご機嫌だった。
「さぁ、お前さんたちも一緒に行くぞ」
「え? 私たちも、ですか?」
王都までは一緒に向かうけれど、別邸に行くのは先生とロイで私たちは別行動だと思っていたけれど……
「どうせ伯爵は来んじゃろう。まぁ、来ても構わん。フィン殿は辺境伯家の護衛、アレッサはわしの弟子に扮して行けばいい」
「バレませんか?」
「わしが認識阻害を掛ければ伯爵は気付かんだろうて」
そうね、筆頭を務められるほどの先生の術が父に破れるわけがないわね。父は残念ながら筆頭を務めるほどの力はないもの。フィンは髪色を変えればいいし、私もローブを被って顔を隠したら気付かないわね。だったら大丈夫かしら?
「さぁ、荷物をまとめたら直ぐに行くぞ」
「先生、今すぐですか? でも、もうすぐ夕刻ですわ。明日朝一番で出た方が……」
荷造りだって出来ていないし、夜の移動は危険すぎるわ。
「そんな悠長なことを言っている余裕はないじゃろ」
「ですが……」
「これで行くから時間なんぞ関係ない。荷物も最小限でいい。向こうに必要なものはすべて揃っているからの」
そう仰ると先生は首に掛けた鎖を引いて服の下から何かを引き上げた。出てきたそれは手に乗るほどの大きさの平べったい鏡のようなものだった。
「これがあるから心配無用じゃ」
そう仰って先生が人好きのする笑顔を浮かべた。




