其之四
――真田屋敷、広間――
男たちがやいのやいのする折、緊張感に満ちた真田の広間に…
なんとも場違いで、そして抗いがたいほど芳醇な「甘い香り」が漂い始めた。
議論が白熱し、昌幸の笑い声が響く中、その香りに全員がふと鼻を鳴らした。
「あ!これは…」
「兄様!これって!」
源四郎と源十郎が鼻をひくつかせ、頬を緩ませる。
「……んぁ? こりゃあ、なんの匂いだ?」
藤五郎が不思議そうに首を傾げたその時、ふすまが静かに開く。
そこに現れたのは、湯気の立つ籠を抱えたみおだった。
「皆様、少し小腹も減られたでしょう? どうぞ食べて下さいませ、源四郎様が薩摩との縁を結び送って頂いた唐芋です♪」
そう言って、愛らしく微笑むみお。
その手が差し出したのは、皮がこんがりと焼け、中から黄金色の熱気が溢れ出す焼き芋。
山育ちの兵たちにとって、その香りは疲れを癒やす何よりの「燃料」であった。
「おぉ!ありがとうみお♫ちょうど腹減ってきてたんだよ♪」
「みお姉さまありがとう♫ほら、しのも」
「はい♫」
「なればわしらも一つ貰おうかの。ほれ喜兵衛。」
「おぉ、ありがとうございまする叔父上」
真田家の面々が嬉しそうに焼き芋を手に取り出す。
「む? 源四郎、こちらの方は?」
左衛門がキョトンとした顔で問う。
源四郎は、先ほどまでの「天下をひっくり返す指揮官」の顔を消し、実に晴れやかな夫の顔を見せた。
「あぁ、藤五郎様と左衛門様は会うのが初めてですよね? こちらがそれがしの妻、みおです♫」
自慢げに紹介する源四郎の態度に、伊達の猛者二人は思わず目を丸くする。
「ほぉ! 政宗様より話は聞いていたが、こちらが……」
「おうおう、源十郎といい源四郎といい……真田の男衆は皆、手が早ぇのか!?」
伊達の二人があっけに取られて顔を見合わせているのを他所に、みおは少しも臆することなく、流麗な所作で丁寧に礼をした。
「伊達藤五郎成実様、鬼庭左衛門綱元様、ですね? 源四郎様の妻、みおでございます。どうぞお見知りおきを」
「これはご丁寧に。鬼庭左衛門綱元でありまする」
「伊達藤五郎成実だ!よろしく頼む!」
二人がみおに礼を返す。
真田の郷では、この唐芋が届くようになってからというもの、時折みおがこうして家中の者に兵や【特務隊】の皆に差し入れとして振る舞うのは最早「お馴染みの光景」となっていた。
兵たちの士気が高い理由の一つには、こうした「美味いもの」を届けてくれるみおの存在も大きかったのだ。
しかし、伊達の二人は驚きを隠せない。
この荒々しい真田の山中にあって、これほど柔らかな空気を纏った女性が、あろうことか「地獄の指揮官」の妻だというのだから。
「……なるほど。腹の虫を抑え、男を立てる。源四郎、おぬしはとんでもない『宝』を妻に持ったものだ」
「そうだそうだ。さて…なら喰ってみっか」
そう言って藤五郎が焼き芋を一つ手に取り、熱さをこらえながらかじりつく。
「あっつ……! なんつー甘さ! 左衛門、お前も喰ってみろって!!」
藤五郎が野性味たっぷりに焼き芋を割り、黄金色の湯気を立てる中身を頬張る。
鬼庭左衛門も「む? どれどれ……熱っ!? なれど……なんと!」と目を丸くし、伊達の猛者二人が揃って焼き芋の虜になる。
それを尻目に、真田家の面々はといえば、もう「お馴染みの味」と言わんばかりに、あちらこちらで焼き芋を頬張っていた。
「かぁ〜、向羽黒山城で腹一杯食ったが……やはり美味いのぉ、源十郎?」
頼綱がニコニコと笑いかけると、隣で源十郎が許婚となったばかりのしのと顔を見合わせ、二人してねっとりとした焼き芋を口に運んでいる。
「うん♫ しの、美味いか??」
「はい、源十郎様♫」
その初々しい光景に、広間の殺伐とした空気はどこへやら。
普段は軍事と謀略の苦い味しか知らない昌幸も、自分の分の焼き芋を手に取り、満足げに噛み締める。
「うむ。やはり甘味はよいな。戦の前に、この甘さがどれほど兵の心を癒やすか……源四郎、おぬしは良いものを持ってきた」
そんな平和な光景の片隅で、ただ一人、鬼気迫る表情の男がいた。
源三郎である。
源三郎は山のように積み上げられた唐芋の在庫数、各所への配分、そして島津から送られてきた輸送コストの算段に追われた日々を思い出し、げんなりとした顔で叫ぶ。
「……それもこれも私と三十郎が薩摩との帳簿をやりくりしたお陰ぞ! 甘味にうつつを抜かしておる場合ではないのだ……! 皆様方、お残しは許しませんぞ! 貴殿らの分も、私が泣きながら勘定したのだからな!」
源三郎の叫びに、源四郎は「へへっ」と苦笑し、手元の焼き芋をもう一つ、手渡した。
「分かってるって、兄上。この唐芋がどれだけ真田を強くするか、兄上が一番知ってるはずだろ? ほら、まずは食ってよ。そうすりゃ数字も自然と合ってくるからさ」
「……うう、分かっているのだが……!」
文句を言いながらも、結局は源四郎のペースに巻き込まれ、焼き芋を一口かじる源三郎。
その顔が、わずかに緩む。
伊達の二人は、この「指揮官と苦労する長兄」の対比を見て、ただの田舎の国衆だと思っていた真田家の内情が、実は極めて高度な「領内統治」であることを肌で感じ取っていた。
そんな折、左衛門が不意に言う。
「これは政宗様と『お方様』……めご様にも食べて頂きたいな」
左衛門が何気なく漏らしたその一言…【お方様】。
「お方様…めご様……!」
源四郎の脳裏に、めごの慈悲深くも凛とした微笑みが浮かぶ。
だが、それと同時にその背筋に冷たい風が吹きすさぶ。
そして源四郎が叫ぶ!
「左衛門様ッ!」
源四郎のあまりの形相に、食べていた芋を喉に詰まらせそうになる二人。
「ん? どうした源四郎、血相変えて??」
「んぁ? 芋に虫でも入ってたか??」
キョトンとする藤五郎と左衛門。
そんな呑気な二人に対し、源四郎は喉の奥から絞り出すように、戦慄の事実を突きつけた。
「お方様の……めご様のご実家! 田村家は、例の【会津国衆合議連】に参加されておるのですか!?」
その言葉が、二人の鼓膜に突き刺さる。
「「!!!!」」
藤五郎と左衛門の顔から、一気に血の気が引いた。焼き芋を手に持ったまま、まるで石像のように凍りつく二人。
「抜かったわ!」
左衛門が叫ぶ!
藤五郎も手にしていた焼き芋を床へ落とし、荒々しく立ち上がる。
その眼光は、先ほどまでの「食いしん坊な猛将」から、戦場の獣へと一変していた。
「あぁ! 田村と伊達の縁を考えれば……万に一つもかの【合議連】への参加なんてねぇ! いや、あったとしても単なる名目上の方便に過ぎねぇはずだ!」
左衛門もまた、額に青筋を浮かべて声を張り上げる。
「だが、それが奴らの目には『伊達の弱点』として映って見える! 畠山の馬鹿共だ、田村が伊達に組みして会津へ背を向けているとなれば、真っ先に田村へ兵を差し向けて『めご様の実家』を人質に取ろうと動くかもしれん!!」
二人が泡を食って狼狽する姿に、広間の空気が沸騰する。
源四郎もまた、事態の深刻さに唇を噛んだ。
会津の連中が田村家を叩く。
それを輝宗、政宗が見逃せば「嫡男が妻の実家を見捨てた冷酷な家」という、あまりに残酷かつ不名誉な烙印を押されることとなる。
それは伊達にとって、精神的な足枷となるどころか、奥州平定…その基盤を揺るがす大失態になりかねない。
騒然とする伊達の二人とは対照的に、真田の面々はあまりにも静かだった。
この者たちにとって、他国の内紛や源四郎の主家の危機など、盤上の駒が一つ動いた程度の「予測の範疇」でしかない。
「……泡を食ってもしょうがあるまい、お二方」
昌幸は焼き芋の皮を丁寧に取り除きながら、せせら笑った。
その姿は、今にも崩れそうな家屋の屋根で優雅に茶を飲む老練な大匠のようである。
「そうですぞ。今すぐ取り乱して出て行ったところで、畠山の兵が既に田村へなだれ込んでいるか、そうでないか…分かりませぬぞ?まずは冷静に米沢へ戻る支度をし、政宗殿へ報告する。それが武士の道理でしょう」
源三郎が淡々と、まるで算盤を弾くような口調で諭すと、藤五郎と左衛門は我に返ったようにハッとした。
あまりに強烈な「真田家の日常」の熱量に、伊達の二人が完全に飲まれていたことに気づいたのだ。
「まったく……青二才どもめ。これしきで驚いていては、奥州の地は渡って行けんぞ」
頼綱が呆れたように鼻を鳴らし、焼き芋をきれいに食べ終えた源十郎の方へ視線を向けた。
「向羽黒山城へもう一度向かうぞ源十郎。おぬし……まさか嫌がるか?」
源十郎は立ち上がり言う。
「へん! せっかくとと様に認めてもらったんだ!! ここで嫌がってちゃ『真田』の名折れってさ! ……しの、したら、あとは頼んだぞ」
源十郎はしのに後を託し、戦場へ向かう覚悟を語る。
しかし、次の瞬間…その場にいた全員の思考が停止する「爆弾」が投下された。
「………嫌でございます。このしのも…連れて行ってくださいまし!!」
静まり返る広間。
しのは、おっとりとした風貌からは想像もできないほどの、強固な意志を宿した瞳で源十郎を見つめていた。
「しの……お前、何を言ってんだよ! 戦場だぞ!?あそこはこちらをぶっ殺そうって連中が蠢く地獄なんだぞ!」
源十郎が慌てて制そうとするが、しのは首を縦に振らない。
「源十郎様の隣がわたくしの居場所です!源四郎様が『知恵』で戦うなら、わたくしは『皆様の帰るお城の留守を預かること』で戦い、源十郎様をお支えいたします!!……それに、戦いつつのお芋の管理、皆様だけではあまりに過酷ではありませんか?」
そのあまりの剣幕と、論理的な(そして少し無理のある)主張に、源四郎に源十郎が思わず「うっ……」と声を漏らす。
昌幸は目を丸くした後、ふっと声を上げて笑った。
「はっは。面白い……おい源十郎、許婚にここまで言われては、男が廃るぞ?」
広間の空気が、またしても真田一族特有の「奇妙な熱気」に包まれる。
伊達の二人は、焼き芋を片手に、ただただ呆然と「真田の女」の凄まじさを見守るしかなかった。
その緊張感が、今度は別種の「凄まじい熱量」によって完全に蒸発した。
「ふふっ♫ 義弟の許婚たるしのにそこまで言われては……わたくしも行くしかありませんよね、源四郎様?」
しのが爆弾なら、みおの放った一言は、源四郎にとって国家存亡の危機をも上回る衝撃を持つ核弾頭だった。
「み、みみみみみ、みお!? 何いってんの!?」
先ほどまで徳川家を出し抜く策を弄し、伊達の猛者を相手に論戦を張っていた源四郎が、床板をぶち抜かんばかりに狼狽する。
源四郎にとって、みおはかけがえのない宝であり、絶対に戦火に晒したくない聖域であった。
しかし、みおの眼差しは揺るぎない。
うっすらと涙を溜めたその目は、かつて源四郎が薩摩へ旅立ち、自分が一人、真田の郷で彼の帰りを待っていた長い日々を思い起こしていた。
「……もう嫌なのです! 薩摩へ赴かれた源四郎様を、ただ空を見上げて待つだけだった日々も! 京から兄上と姉さまを連れ帰った日のように…【化生】に落ちかけた源四郎様を、ただ泣きながら迎えるのも!!」
その声は震えていた。
だが、それは恐怖によるものではなく、あふれ出る想いと、あの時感じた「自分だけが何もできずただ見送り、涙ながらに迎えることしかできない」という無力感への憤りからくるものだった。
「…………っ!!」
源四郎は言葉を失い、身震いした。
自分が良かれと思って隠し、遠ざけていたのは「平穏」ではなかった。
愛する妻に取り残されるという名の【地獄】を強いていたという事実。
指揮官として幾百、幾千もの命を計算し、敵の心理を読み解いてきた源四郎が、一番身近な妻の孤独という「最も深い心理」を読み違えていたのだ。
広間が沈黙に包まれる。
伊達の二人は、このあまりに濃密な夫婦のやりとりに、先ほどの殺伐とした空気も忘れて圧倒されていた。
左衛門は、焼き芋を握ったまま動けず、内心驚く。
(なんと言う……狂おしいまでの夫への【愛】! 敵の策を読み、地獄の如き死線を越えてきた源四郎をして、これほどまでに狼狽させるなど……!)
一方で藤五郎は、もっと野性的な危機感に背筋を凍らせる。
(なんつーなりふり構わなさだよ!? 戦場に連れて行けと直談判する妻など、聞いたことがねぇ! ……いや、それだけじゃねぇ。この真田の女たち…どいつもこいつも眼が据わってやがる。敵に回したら、それこそ伊達も滅ぶんじゃねぇか!?!?)
『真田の女』のガンギマリした【愛】。
それは単なる情愛ではなく、自分の人生を懸けて夫の運命に同乗し、共に修羅の道を往くという【覚悟】であった。
源四郎は、妻と義妹となる二人の瞳を真っ直ぐに見据えた。
そこにあるのは、死を恐れぬ純粋なまでの意志。
それを前にしては、指揮官としての打算も、夫としての庇護欲も、もはや無力だった。
「………分かった。けど、みお。しの。一つだけ約束してくれ」
源四郎の声は低く、しかしその一語一語には決して揺るがない重みが込められていた。
「会津では、俺やじーちゃん、そして伊達の皆の言うことをよく聞き、必ず守ること。いいな?」
その言葉は「従え」という命令ではなく、源四郎なりの「二人を必ず生きて連れ帰るための絶対的な契約」だった。
二人がいかなる修羅場に飛び込もうとも、戦術の要である源四郎が「守る」と決めた以上、それは戦場のルールを書き換えてでも成し遂げるべき優先事項となる。
「「はい!」」
みおとしのは、声を合わせて力強く答えた。
その声には迷いがなく、ただ夫や許婚を支えるという鋼のような決意が宿る。
そのやり取りを目の当たりにした藤五郎は、焼き芋の皮を指で弄びながら、皮肉げに、しかしどこか羨ましそうに溜息をついた。
「……聞いたか、左衛門。真田の男ってのは、命を懸けるべき相手をこれほどまでに頑なに定めておるのだな」
「うむ、全くだ。これでは徳川や会津ごときが、この夫婦らの絆を断ち切ることなど万に一つも叶うまい。……政宗様にも、これくらいの『狂おしいまでの覚悟』、少しは分けていただきたいものだ」
左衛門もまた、先ほどまでの凍りつくような緊張が嘘のように、どこか晴れやかな顔で笑った。
二人の猛者にとって、この「真田の家庭内風景」こそが、伊達家がこれから挑む戦いに必要な「戦う理由」の答え合わせになったのかもしれない。
「……なれば、大叔父上、源十郎、しの、みおは会津へ赴く支度を。兵糧や旅路の路銀などは、すべて私が都合をつけよう」
昌幸の言葉を受け、源三郎が毅然と歩み出た。
先ほどまでの「帳簿地獄に泣く長男」の顔はそこにはない。
家を支える番頭としての覚悟が、その背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。
「……良いのか源三郎? また三十郎共々、終わりの見えぬ【帳簿付け】の地獄が始まるのだぞ?」
昌幸が意地悪げに、しかし慈しむような眼差しで問う。
源三郎は真っ直ぐに父を見つめ返した。
「……覚悟の上です。ここで伊達を支え、会津の火種を消すことこそが、今の真田が選ぶべき、最も険しくも正しい『生き残り』の道と見つけましたゆえ」
「兄上……」
源四郎の胸に、熱いものがこみ上げる。
これまで自分の奇想天外な策に振り回され、苦労ばかりをかけてきた兄。
だが今、源三郎は源四郎の抱く地獄の底のような覚悟を、完全に理解し、共有したのだ。
兄弟の絆が、戦国という荒波を越える錨になった瞬間だった。
だが、源三郎の口から紡がれた次の言葉が、広間の空気を氷点下へと叩き落とした。
「藤五郎殿、左衛門殿、そして源四郎。……三人は『越後』を抜け、そこから米沢へ向かいなされ。そのほうが早い」
「……は? 越後ぉ!?」
源四郎が呆然と声を漏らす。
越後。
そこは伊達家にとって、長年犬猿の仲である上杉景勝の領地であり、敵の懐のど真ん中だ。
「正気か兄上! 上杉の手勢に見つかれば、一溜まりもねぇぞ!」
「大丈夫だ源四郎。お前がいるなら……いや、お前たちが向こうへ着く頃には源次郎が取りなしてくれる」
「え……兄様が?」
源四郎の脳裏に、明るく無邪気だった源次郎の顔がよぎる。
だが、源三郎の瞳は悲痛なまでに冷徹だった。
「源四郎、お前は向羽黒山城から戻ってから、ずっと…なぜ源次郎がいないのか、それに目を背けてきたな……。ならばハッキリ言おう。あやつは今、真田の窮地を救うため、上杉景勝の『人質』となっておるのだ」
広間が死んだような静寂に包まれた。
かつては父のそばで、源四郎と共に笑い合っていた兄、源次郎。
その笑顔が、真田を守るための「贄」として、敵地・越後の深い霧の中に消えている。
源四郎は、自分がどれほど残酷な現実から目を背け、理想郷の構築に夢中になっていたかを突きつけられた。
「兄様が……人質に……」
源四郎の拳が白くなるほど強く握りしめられる。
源三郎は兄としての厳格さをかなぐり捨て、源四郎の肩を力任せに掴む。
その眼光は、いつもの冷静沈着な一家の番頭のそれではなく、戦場に立つ武将そのものだった。
「……だからこそだ!」
源四郎が顔を上げると、兄の瞳が熱く燃えていた。
「だからこそ……徳川を手玉に取り! 会津を平らげんとすお前なら!! 源次郎を上杉より取り戻す!!! それが出来ると踏んだのだ! 私の……お前が常日頃堅物と抜かす私の!! 一世一代の【賭け】だ! それをふいにしてくれるな、源四郎!!!」
静まり返った広間に、源三郎の心からの叫びが木霊する。
常に真田家の帳簿を守り、昌幸の謀略の裏側で泥を被り、弟たちの無茶振りに一番翻弄されてきた【堅物】の長兄。
その源三郎が、誰よりも深く、誰よりも熱く、自分という弟の可能性に…全てを賭けている。
その事実に、源四郎の目頭が熱く焼ける。
嬉し涙が溢れそうになるのを必死に堪え、彼は兄の顔を見つめ返した。
「………分かったよ兄上! とっとと会津平らげて……兄様も取り戻してやる! 大船に乗ったつもりでいてよ!!」
源四郎の言葉には、もはや迷いはなかった。それはただの強がりではなく、計算され尽くした「勝利の予言」のように響いた。
「うむ!!!」
源三郎が満足げに、しかし力強く頷く。
兄弟の視線が交差した瞬間、それまでどこかバラバラだった真田の戦略が、完璧な一枚の地図となって結実した。
広間にいた伊達の二人は、その様子を息を呑んで見守り、藤五郎は拳を合わせ、感嘆の吐息を漏らした。
「かぁ! やっぱ敵わねぇよ我ら奥州者は! この【絆】、本物よな、左衛門!」
左衛門もまた深く頷く。
「うむ! 真田の【絆】、しかと見せてもらったぞ源四郎! 策や力などという小手先の理屈を超えた、魂の結びつき……これを見せられては、伊達の男として奮い立たぬわけにはいかぬな」
広間に漂う、兄弟の和解と確かな信頼の余韻。
二人の伊達の猛者は、ただの同盟相手としてではなく、真田という家の底知れぬ強さの本質をその目に焼き付けていた。
そんな二人の様子を背に、源四郎はスッと立ち上がり、一気に空気を切り替えた。
「お二方……湿っぽいのはこれまで! 行きましょうぞ!」
源四郎は地図を広げ、指先を鋭く走らせる。
「まずは春日山城。上杉が当主……景勝公の元へ。そして……兄様の元へ!」
「「……へ?」」
藤五郎と左衛門が同時に間の抜けた声を出し、口をあんぐりと開けた。
「おいおい源四郎、話が飛躍しすぎてねぇか? 俺達は今から政宗様へこの一件を報告し、田村家救出の策を練るんじゃなかったのか? なんでまた、上杉の城へ直行するんだよ!」
「そうだ源四郎! 越後は敵地、しかも春日山城は上杉の本拠地だ。いくらなんでも、事前のやり取りもなしに飛び込むのは無茶というもの!」
二人の困惑をよそに、源四郎は一切の迷いがない冷徹な瞳で、春日山城の方角を射抜いた。
「会ってみたいんですよ……【義の将】なんて呼ばれる男、上杉景勝という御仁に。それに……」
源四郎は、春日山城の方角へ視線を向けたまま、意味深に言葉を止めた。
「「それに?」」
藤五郎と左衛門が声を揃えて身を乗り出す。
伊達の猛者たちにとっても、上杉景勝は宿敵であり、かつ底が知れない相手だ。
何か決定的な策があるのかと息を飲んで続きを待ったが、源四郎はふっと表情を緩め、わざとらしく肩をすくめた。
「……なんでもありませぬ。ただの好奇心です。さぁ、急ぎ支度を! 善は急げと申しますし、春日山までの道のり、退屈はさせませんよ!」
そう言って背を向けた源四郎だが、彼の腹の底で渦巻く思考は、先ほど語った好奇心とは似ても似つかぬ、極めて冷徹かつ野心的な「奥州再編計画」で埋め尽くされていた。
(……こうなりゃ上杉もまとめて巻き込んでやる!)
源四郎の脳内で、戦国という巨大なパズルが組み上がっていく。
(そうだ。今の上杉にとって最大の腫れ物、弁慶の泣き所である【新発田重家】の反乱……あれを俺が伊達のコネと真田の知略で平らげてやる。そうすりゃ上杉は俺に頭が上がらなくなる。義の将なら、受けた恩は決して忘れまい!)
その恩を利用して源次郎を「人質」から「上杉とのパイプ役」へと引き上げ、強固な繋がりを築く。
さらにその先には、より大きな絵図が見えていた。
(長年の犬猿の仲である伊達と上杉……。この両者を俺と兄様が仲立ちして取り持ち、徳川と北条という外からの脅威を迎え撃つための【同盟】を組ませてやる!)
それは、政宗一人では決して成し得ない、伊達と上杉の「大連合」だ。
もしそれが実現すれば、奥州は徳川、北条の手すら届かぬ「真田・伊達・上杉」による鉄壁の要塞と化す。
源四郎は足早に支度へと向かいながら、内側に燃える炎のような情熱を、軍師としての仮面の下に静かに押し隠した。
二人の伊達者は、源四郎の背中を見つめながら、理由もわからぬまま背筋に戦慄を覚える。
「なあ左衛門……俺の気のせいか? 今の源四郎殿、何かとてつもなく恐ろしいことを企んでるような顔をしてやがったぞ」
「……ああ。あれはただの戦支度ではないな。……どうやらそれがしたちは、奥州がひっくり返る瞬間に立ち会おうとしているらしい」
二人は顔を見合わせ、苦笑しながらもその足取りを強めた。
真田源四郎という若き指揮官の「狂気じみた一手」が、いま春日山城へと向かって動き出した。
出立の準備に奔走する一行を見送りながら、昌幸はどっかと座り、冷えた焼き芋の皮を爪先で剥いていた。
その瞳には、三男坊・源四郎の頼もしい後ろ姿が映っている。
昌幸の口元が、ニヤリと歪む。
「……行け、源四郎」
誰に聞かせるでもない呟きだが、その声には確かな確信が宿っていた。
かつて武田の軍師として名を馳せ、今は真田という小国の命運を背負う謀将。
この男にとって、息子たちの成長ほど面白い見世物はない。
(伊達に上杉……奥州と越後の勇におぬしの策略を見せてやるがよい)
昌幸の胸にあるのは、親心という枠を超えた、戦略家としての「純粋な期待」だった。
(【武田の謀将】と呼ばれるわしの戦術ではなく……おぬし自身が、この乱世の荒波の中で紡ぎ出す策略を! ……かっかっか!!)
昌幸は空を見上げ、腹の底で愉快そうに高笑いした。
かつて自身が歩んできた道は、あくまで「武田」という巨大な影を背負ったものだった。
だが、今の源四郎が切り拓こうとしているのは、伊達や上杉という怪物たちすら飲み込み、盤面そのものを造り変える、未踏の戦いである。
昌幸の手の中で、焼き芋が一つ、真っ二つに割れる。
割れた断面からは湯気が出ないものの…その甘い薫りはこれから激動の時を迎えようとする信濃の風に混じっていく。
「さて……留守を預かる源三郎の方は、そろそろ三十郎と共に血の涙を流している頃か。……真田の、小県の命運を賭けて大博打を打つ兄弟。まったく、我が息子ながら恐ろしい連中よ」
昌幸は満足げにそう呟くと、遠ざかる源四郎たちの背中から目を離し、再び静かに目を閉じた。
真田の郷には、これから訪れるであろう激動の嵐を予感させる、不気味なほどの静寂が満ちていた。
風雲急を告げる事態!
果たして源四郎は田村家の窮地を救い、兄源次郎を上杉の元から取り返せるのか!?
次回を刮目して待て!
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