其之二
――真田屋敷、広間――
春先の雪解けが、屋敷の軒先から水滴となって静寂を刻んでいた。
しかし、いま広間を支配しているのはそんな穏やかな調べではない。伊達の使者、藤五郎と左衛門が持ち込んだ奥州の冷気と、それに対峙する真田の張り詰めた殺気である。
押し黙った一同の中で、やはりと言うべきか…源四郎が口を開いた。
「……な、なれば藤五郎様」
ゆっくりとその顔を上げる。
かつて真田の郷を飛び出した「風来坊」の面影はそこにはない。
薩摩の火山灰にまみれ、島津の烈風を浴びてきた男の瞳には、かつてない熱気が宿っていた。
「奥州とは、常々身内で殺し合いをし! 都合のいいときだけ、今回のように徒党を組む! そんな土地なのですか!?」
「「!!!」」
あまりに露骨な核心。
藤五郎と左衛門の表情から、瞬時に血の気が引く。
それは彼らが奥州の者として抱え続け、しかし誰にも指摘されたくなかった「業」そのものだったからだ。
広間に広がるのは、図星を突かれた者特有の重苦しい沈黙。
だが直後。
その沈黙を切り裂き、源三郎が源四郎を諌め、二人に頭を下げた。
「ばっ!? 口が過ぎるぞ源四郎!!申し訳ありませぬお二方! こやつめは修行先たる薩摩! 島津家の者どものあの気性に当てられ、少々馬鹿を申すことがございまして…何卒ご容赦を!」
源三郎の必死の取り成しに左衛門はふっと肩の力を抜いた。
そのまま自嘲気味に口元を歪め、源三郎を制する。
「……良いのです、源三郎殿。……源四郎の言うことは、紛うことなき事実でありまする」
場に冷ややかな静寂が戻る。
左衛門は膝をついたまま、虚空を見つめるように問いかけた。
「……源四郎。おぬし、流石に奥州藤原氏は知っていよう?」
いきなりの問いに、源四郎は眉をひそめて頷く。
「流石に、それは……」
「ならば話は早い」
左衛門は膝をついたまま言葉を紡いだ。
「奥州が『血縁』。そのことの始まりは、藤原氏が鎌倉公に討ち滅ぼされた時まで遡るのよ」
彼の声は低く、淡々としているが、その背後には数百年の怨念と執着が淀んでいるように響いた。
遥かな歴史の奔流を語る左衛門の姿に、源四郎は言葉を失う。
そこに、横に控えていた藤五郎が野卑な笑みを浮かべ、あけすけに言葉を継いだ。
「おぅ。そこから奥州の武家は混迷極める世を生き残る為、あの手この手で血を残すべく各地で婚姻を結び、今日に至るんだ」
藤五郎は無造作に床を指で弾き、あきれたように鼻を鳴らした。
「だいたい四百年だぞ、四百年? そんな時を経れば……言い方が悪いが、上辺だけの血の繋がりなんて薄っぺらいものが出来上がるのも必定よ。自分に都合のよい時だけ親戚面して寄り集まる、そんな滑稽な付き合いにもなるだろ…」
藤五郎の突き放すような物言いに、広間にはさらに重苦しい空気が漂った。
それは藤原の血を引く者たちが、皮肉にも「生き残る」ために自らの誇りを削り続けてきた、哀れな証明のようでもあった。
「滑稽……か。我ら伊達の者すらそう自嘲せねばならぬのだから、薩摩は島津家に身を置いていた源四郎なれば……なおのこと理解できぬのも仕方あるまい」
左衛門が藤五郎の言葉を継ぎ、沈痛な面持ちで静かに口を開く。
「かの家、そしてその家臣たちの結束の固さは、遠くこの奥州の地にまで広く伝わっている」
左衛門は、かつて見知らぬ異国の物語でも語るかのような憧憬と、得られぬものへの諦念をその瞳に浮かべた。
「血の繋がりなどなくとも強固な和合を以て敵を討ち滅ぼさんとし、時には命をなげうち主君を逃がす……音に聞こえた【捨て奸】。そんなものを間近で見聞きし、その理を肌で感じたおぬしであれば、我らのこの歪な関係がいかにも無様に映るはずだ」
左衛門は、源四郎の若くも鋭い瞳を射抜くように見据える。
それは問いかけであり、同時に、薩摩で何を見てきたのかを問う告白でもあった。
源四郎は逃げずにその視線を受け止め、ゆっくりと口を開いた。
「……その通りでございまする、左衛門様」
源四郎の声は静かだった。
だが、そこに込められた重みは、広間の空気を震わせた。
源四郎は、薩摩の荒波の中で叩き込まれた、あの日々の記憶を手繰り寄せる。
義弘の巌の如き威厳と、又七郎と共に笑い合った谷山の夕暮れ…
それらを胸に続けて言う。
「藤五郎様、左衛門様。島津には代々伝わる『郷中教育』なる教えがありまする。その委細は秘中の秘ゆえ詳しくは教わらねど……その根幹を成す三つの教えを、それがしは義弘公と、わが終生の友たる又七郎より教えて頂きました」
「郷中教育、とな?」
左衛門が眉をひそめる。
武門の誉れ高き島津家の教育。
伊達の重臣として耳にしたことはあるが、その実体は謎に包まれている。
藤五郎は興味津々に身を乗り出した。
「ほぉ〜……で源四郎? それはいかなる教えなんだ??」
二人の視線が源四郎に集中する。
奥州の複雑な利害関係に雁字搦めになっている彼らにとって、南の異端たる島津の教えは、あまりに遠く、かつ眩いものに思えた。
源四郎は、あの日、又七郎から教わった言葉を、まっすぐな瞳で言い放つ。
「簡単でございます。『嘘をつくな』、『弱い者をいじめるな』、『負けるな』。……これだけです」
「「は?」」
広間に、間の抜けた声が重なった。
あまりに単純、あまりに直球。
まるで幼子に説くようなその教えに、藤五郎と左衛門は拍子抜けし、呆気にとられたように顔を見合わせた。
「……源四郎。おぬし、本気で言っておるのか? そんなものが、あの島津家の鬼神の如き強さを支えておると?」
左衛門の問いに、源四郎は微塵の揺らぎも見せず、静かに深く頷いた。
「笑ってしまうほどに簡単な教えでありましょう? ですが左衛門様、島津の恐ろしさは、これを皆が一丸となって守り抜くことにありまする」
源四郎はまるで遠い空を眺めるような穏やかな眼差しで、しかしその裏に隠しきれない刃のような鋭さを滲ませて続けた。
「ともすれば、掟を破る者が現れし時はその当人だけでなく、周囲の仲間までもが連座して責め苦を受ける。誰か一人が不義を働けば、その隣にいる友も、父兄も、皆が責任を負う……それこそが、あの強固な和合を、鋼よりも強靭な結束を生むのでありまする」
源四郎にとっては、ごく当然の摂理であった。
これは単なる武家の掟ではない。
前世の記憶が色濃く残るその魂に、理不尽なほどまでに骨身に刻まれている【連帯責任】という名の重い呪い……いや、最大の武器そのものだった。
「誰かの失態は、皆の失態。誰かの名誉は、皆の誇り。……島津が『捨て奸』で味方を見捨てず、最後まで戦場に留まれるのは、帰るべき場所の全員がその掟を命懸けで共有しているからに他なりませぬ」
広間の空気が、さっと引き締まる。
先ほどまで「幼い教え」と侮っていた藤五郎と左衛門の表情から、軽薄な笑みが消えた。
彼らはようやく、源四郎の言葉の真意にたどり着いたのだ。
「……なるほど。嘘をつき、弱者を虐げ、己が勝利を信じれん者は、最初からその輪に入れぬということか」
左衛門が拳を握りしめ、低く唸る。
「連座の恐怖を分かち合う……それは、ただの親戚付き合いとは対極にある、凄惨なまでの『狂気の輪』だ」
藤五郎もまた、源四郎を見る目が変わっていた。
もはやこの男は、一介の風来坊ではない。
薩摩の地で、恐ろしいほどの重圧を互いにかけ合い、その身だけでなく魂を支え合って生きてきた【化生】だったのだ。
「……源四郎。おぬし、奥州をそんな島津のような場所にするつもりか?」
左衛門の問いに、源四郎は薄く笑みを浮かべた。
「えぇ。それが、奥州の薄っぺらな『血の結束』を叩き壊すための武器になる、それがしはそう信じておりまする。」
源四郎が浮かべたその笑みは、もはや青年武者のものではなかった。
かつて前世において…極限の疲労と空腹の中にある訓練に参加した学生たちに地獄のような試練を課し、心身を限界まで追い込んだ「レンジャー教育助教」の、あの鬼のごとき面構え。
左衛門たちが口にする「奥州の絆」とは、結局のところ、都合のいいタイミングで他家の人間を丸め込み、利害で結びついただけの脆い仮面に過ぎない。
(そんなものに……俺の、俺たちの!連帯責任に裏打ちされた結束が負けるわけがない!!)
かつて【練馬の営庭】や【東富士】で鍛え上げた、真の連帯責任。
一人に負荷をかければその相方…【バディ】が、ゆくゆくは戦闘隊全員がその重圧を分かち合い、這い上がり、強くなる。
その過酷なまでの【バディ制】というシステムを知る源四郎にとって、奥州の利己的な徒党はあまりに低レベルな遊戯に見えた。
(いや、負けてたまるか)
ふつふつと湧き上がるプライドが、源四郎の血を熱くさせる。
己の人生を賭けて培ってきた「組織の運用法」が、戦国という泥沼の盤面において、最強の兵器になり得る。
その確信が、源四郎の瞳に揺るぎない自信の光を宿らせた。
「……随分と物騒なことを言うな」
左衛門が思わず息を呑む。
源四郎の纏う空気が、あまりに冷徹で、かつあまりに重いからだ。
「ですが」と源四郎は一歩前へ出た。
「俺がかの地で戦う以上、薩摩の、そして俺の培ってきた全てを懸けて、奥州に……真の結束を叩き込んでみせまする」
その言葉は、もはや説得ではなかった。
圧倒的な格の違いを見せつける、宣戦布告に近い宣言だった。
そんな中、その場の張り詰めた空気を、昌幸の低く、しかし愉悦を含んだ声が塗り替えた。
「ふっ……。まさか源四郎。おぬし、まずは伊達の軍勢や此度受け入れた蘆名の敗走兵どもに【特務隊】に課した【レンジャー教育】を施すつもりではあるまいな?」
昌幸の不敵な笑みに、源四郎は呆れたように肩をすくめて見せた。
「まさか! レンジャー教育は心身を極限まで削る苛烈極まる……時に死者すら出る教育。精鋭を育てるならともかく、烏合の衆に今すぐ施すものではありません」
源四郎は一度言葉を切り、鋭い眼光を広間に巡らせた。
「まず施すのは、兵としての最低限の生存能力と規律を叩き込む【新兵教育】……新教にございまする」
そう返す源四郎の腹の底では、静かな炎が燃え盛っていた。
(そうさ。まずは土台だ。なんたって【規律】と【連帯責任】を叩き込むだけなら、あの新隊員教育前期のカリキュラムで十分だ……)
脳裏に蘇るのは、かつて新入隊員として教育を施された【武山】の訓練場。
泥にまみれ、区隊長の号令一つで全員が一つとなって目標に突き進む光景。
個人の我を殺し、組織の歯車として、しかし組織全体を動かすエンジンとして機能させる。
そのための基本動作や基本教練、報告・連絡・相談、そして何より「連帯責任」という概念を、刀や槍を手に突っ込む事しか知らぬ敗走兵達に刻み込む。
(あいつらは戦を知らぬのではない。勝つための「組織の動かし方」を知らぬだけだ。その常識を俺が矯正してやる。……真田の軍勢が、ただの寄せ集めから『軍隊』に変わる瞬間だ)
源四郎は、再び昌幸と視線を合わせた。
そこには、小県が国衆の男児でも、薩摩の烈風を纏う猛者でもない…【鬼の指導者】としての冷徹な意志が宿っていた。
広間の空気が研ぎ澄まされたその時、勢いよく障子が開き、源十郎がしのを伴って転がり込んできた。
「父上ぇえ! 兄様ぁあ!」
「む?」
昌幸がその騒がしさに眉を寄せる。
源四郎は呆れ果てた溜息をつき、弟を嗜めた。
「んだよ源十郎? 今、伊達から藤五郎様と左衛門様がお見えなんだぞ? 挨拶もしねぇのか」
源四郎の言葉に、源十郎は「あっ」と我に返る。
つい数ヶ月前まで、落ちぶれて山中で礫打ちし、野鳥を落としては糊口を凌いでいたはずの少年とは思えぬほど、その背筋を正し、淀みのない礼儀作法で一礼した。
「藤五郎様、左衛門様! しばらくぶりでございまする」
隣に控えるしのの所作もまた、諏訪の神職の家の娘らしく清廉で、一糸乱れぬ美しさがあった。
藤五郎、左衛門も、そのあまりの美しい所作に目を丸くしている。
「……んで? 何があったってんだ? ……まさか、お前……しのを傷物に……?」
源四郎は思わずそう口走った。
だが、それは源十郎の年齢(数え十歳)を鑑みれば、あまりにも突拍子もなく、そして無礼な危惧であった。
ゴスッ!
……鈍い音と、源四郎の「痛ってぇえええ!」という悲鳴が広間に響く。
「……んな訳があるか、たわけが!!」
源三郎の拳骨が、源四郎の頭頂部を正確に捉えていた。
源三郎は顔を真っ赤にして拳を振り上げたまま、弟を睨みつける。
「何を血迷ったことを抜かす! お前は薩摩で何を学んできたのだ! そんな下卑た疑いを、あろうことか公の場で口にするか!」
「ほんの茶目っ気だろうに!……いってぇ〜……」
源四郎は頭頂部の熱を抱え、涙目になりながら兄を見上げた。
そこへ、世間知らずを絵に描いたような無垢な瞳をパチクリとさせ、源十郎が首を傾げる。
「……なぁ、兄上。兄様。傷物ってなんだ? ?」
「「げっ」」
源三郎と源四郎が、見事なまでに声を合わせて青ざめた。
伊達の使者たちの前で、十歳の弟に何を説明しろというのか。
二人は顔を見合わせ、即座に身を寄せ合ってヒソヒソと口論を始める。
「ほれ見たことか! お前が余計な藪を突くからだぞ、源四郎!」
「兄上が過剰に反応して拳骨を落とすからでしょうが! 落ち着いて誤魔化せば済んだ話です!」
「何を! お前が下品な問いを放たねば誤魔化す必要すらなかったのだ!」
互いの首根っこを掴みそうな勢いで睨み合う二人。
その様子は、数々の修羅をくぐり抜けてきたはずの源四郎も、ゆくゆくは真田家を統べる長男の源三郎も、この家の中にあってはただの「血の繋がった喧嘩腰の男たち」に過ぎないことを証明していた。
まさに、真田兄弟名物・【目くそ鼻くそ】の言い争いである。
伊達の藤五郎は、開いた口が塞がらないといった様子で左衛門の袖を引いた。
「おい左衛門……これが、噂に聞く真田の結束か?」
「……どうやら、薩摩の『捨て奸』とは別の意味で、崩すのが難しそうな連中だ」
彼らはもはや、言葉を失い苦笑するしかなかった。
戦場では鬼神のごとき源四郎とその兄弟が、こんな些末なことで子供のように言い争っている。
その滑稽さは、かえって彼らに「この家は、外から何を言おうと揺るがない」という奇妙な確信を与えていた。
そんな騒ぎを、腕組みをして冷ややかに眺めていた頼綱が、しびれを切らしたように鼻を鳴らした。
「……全く、騒々しいわい。いつまで子供じみた真似をしておる。落ち着かぬか、源三郎、源四郎」
二人の襟首を掴んで引き剥がすような威圧感で二人を黙らせると、頼綱は視線を源十郎へと移した。
「して源十郎、いったい何があったのじゃ。わざわざ大声で駆け込んできて」
頼綱の落ち着いた問いかけに、源十郎はパァッと顔を輝かせた。
「ん? あぁ、じーちゃん! 聞いてよ!! 俺……しののおとっつぁん、清永殿に【許婚】として認めてもらったんだ!」
その瞬間、広間が異様な静寂に包まれた。
「「「「「へ?」」」」」
源三郎、源四郎、そして伊達の使者たる藤五郎と左衛門まで。
その場にいた全員の思考が数秒間停止し、広間はまるで時が止まったかのような沈黙に支配された。
数秒の後、源四郎が引きつった笑顔で源十郎の肩を掴み、揺さぶる。
「……源十郎。お前、今なんて言った? 『正式な挨拶』をしてきただと? 確かに朝からみおや姉上、おこう姉さまに母上の手まで借りて小綺麗な身なりにしてるなと思えば…」
「え、だって大事なことじゃん!」
源十郎は至極もっともらしい顔で頷くと、数刻前に清永の家で起きた顛末を、まるで英雄譚を語るかのように話し始めた。
――数刻前――
――真田の郷内、諏訪大社分社――
諏訪大社の分社、その厳かな鳥居の前に、源十郎は立っていた。
数え十歳という年齢を考えれば、背伸びしすぎた格好が初々しい。
周囲を何度も確認し、心臓の音を鎮めるように大きく息を吸い込む。
「……ふぅーーーーーーーーーーっ」
肺の中の空気をすべて吐き出し、源十郎は腹の底で自らを鼓舞するように毒づく。
(兄様だって、八つの時にみお姉さまを娶ったんだ……! ……俺だって、負けていられるか!!)
源四郎がかつて見せた「早熟な決断力」が、源十郎にとっては唯一無二の到達目標となっていた。
兄ができるのなら、自分にもできる。
その純粋すぎる、そして少々歪んだ対抗心が、源十郎の背中を強く押す。
勇んで鳥居をくぐる。
社の奥には、しのの父であり、真田の郷でも一目置かれる宮司・諏訪清永の住まいがある。
(しののおとっつぁん……清永殿。最初は怖い顔をするかもしれない。けど、俺の誠意を見せればきっと……!)
源十郎の心臓は、先ほどまでの「戦場へ向かう高揚感」とは全く別の、甘酸っぱくも鋭い緊張で高鳴っていた。
石畳を踏みしめるその足音は、真田の郷に響く静寂の中で、まるで少年が大人への階段を駆け上がる鼓動のように響いていた。
これから待ち受ける「清永との謁見」という名の難敵を、源十郎はまだ知る由もない。
ただ、ただ真っ直ぐに…少年は愛を誓うため(と、兄への対抗心を燃やすため)に突き進んでいった。
しかし…
――真田分社、社家前――
社家の玄関前に立った源十郎は、先ほどまでの「兄に続け」という猛り立つような気概が、まるで陽炎のように消え失せていることに気づいた。
「ご、ごめんくだされ〜……」
蚊の鳴くような、尻切れトンボの声。
自分でも情けなくなるほど頼りないその声が、静寂に包まれた境内に虚しく響く。
源十郎は己のあまりの腰抜けっぷりに、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
だが、そんな弱気な源十郎を救うように、奥から現れたのは、神の社の清浄な空気をそのまま形にしたような、清々しくも厳かな男だった。
「おや? なんとお若いお武家様。真田家の方ですかな?」
その声は滑らかで優しげな響きを帯びていた。
源十郎は呆気に取られ、口を半開きにしながらも、持ち前の勝気さでなんとか姿勢を正す。
「しののお父上、清永殿とお見受けいたしまする。それがしは真田が末子、源十郎と申しまする!」
源四郎の振る舞いを真似し、喉元まで出かかっている恐怖を無理やり飲み込んで、精一杯背伸びをする。
だがその腹の中は…やっぱり恐怖で張り裂けそうだった。
(うわぁ、言っちゃったよ! 『……あぁん? 貴様がしのに近寄る悪い虫かぁ!』 とか言われて、今すぐ追い返されたらどーしよおおおおお!!)
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が止まらない。
ところが、清永の反応は源十郎の予想を遙かに裏切るものだった。
「おぉ! 貴殿が源十郎殿か!! しのより話は聞いておりますぞ。ささっ、中へ上がりなされ」
清永は、まるで可愛い孫を迎えるような、慈愛に満ちた柔らかな笑顔を見せたのだ。
「……へっ?」
源十郎の思考が、一瞬にして停止した。
怒鳴られることも、冷たい視線を向けられることもなく、あまりに穏やかな歓迎を受けたことに、源十郎はただただ呆気にとられ、きょとんとした顔で立ち尽くすしかなかった。
――社家、居間――
通されたのは、神職の家らしい、質素ながらも手入れの行き届いた居間だった。
畳の香りとともに、しのと、その母・おたねが源十郎を迎える。
「あ! 源十郎様!」
しのの声には隠しきれない喜びが滲み、その横で、おたねが興味深げに源十郎を観察するように目を細めた。
「まぁ、あなたが源十郎殿ですか。しのからお噂はかねがね聞いておりますよ」
その穏やかなおたねの瞳に、源十郎は毒気を抜かれそうになる。
だが、今ここでたじろぐわけにはいかない。
背筋をピンと張り、武家の嫡男を意識して低く構えた声を絞り出した。
「あ……しのの御母上様にあらせられますか。それがしは真田が末子、源十郎と申しまする!」
「あらあら……♪」
おたねはクスクスと肩を揺らして笑い、それに釣られるようにして、しのまでもが頬を赤くして微笑んだ。
「無理をして源四郎様の真似なんてなさらなくても……ふふっ、いつもの源十郎様でよろしいのに」
その優しい指摘に、源十郎は全身から力が抜けるような感覚を覚えた。
兄の背中を追うあまり、自分自身を見失っていたことに気づかされる。
……その時、部屋の襖が静かに開いた。
先ほどまでの柔らかな表情とは打って変わり、背筋を伸ばし、一足歩ごとに威厳が立ち昇る。
そうして源十郎の正面に座した清永は言う。
「さて、源十郎殿。先ほどの話の続きだ。本日はどのような用向きで参られたのかな?」
清永の瞳が真っ直ぐに源十郎を射抜く。
先ほどのような愛嬌は消え、そこには厳しい現実を映す鏡のような眼光があった。
源十郎は、唇を噛んだ。
(兄様のように、なんて格好つけた考えは捨てろ……。俺はただ、俺の言葉で伝えに来たんだ!)
迷いは消えた。源十郎は拳を畳に突き、清永の目を真っ直ぐに見据えた。
「えぇい、ままよ!!」
腹の底から、絞り出すような叫びが飛び出す。
「なれば……この源十郎! しのを嫁に貰いたく、馳せ参じました!!」
静まり返った居間に、源十郎のまっすぐな声だけがこだました。
おたねが驚きに目を見開き、しのが俯いて胸元で手を組む。
清永は静かに目を閉じ、一呼吸置いてから源十郎を射抜くような鋭い眼差しを向けた。
「……ふむ。流石は源四郎様がその才を見抜き、喜兵衛めが家族として迎えたことはあるな、大した度胸だ」
その言葉に、しのとおたねは顔を見合わせた。キョトンとした表情には、隠しきれない困惑が浮かんでいる。
「え……家族として迎えたって、どういう……?」
「清永様? 源十郎殿は昌幸様の、どこか遠方からのお方との……ご側室のお子様では?」
二人の無垢な問いかけに、源十郎の背中を冷や汗が伝う。
(……どーしよ。言わなきゃならないのか、ここで? いや、でも……嘘をついてまで、しのを娶る資格があるのか俺に……!?)
源十郎の心臓は、戦場の先陣に立つときよりも激しく鼓動を打っていた。
喉元まで出かかった「ただの側室の子だ」という嘘が、猛烈な重圧となってその身を縛り付ける。
その時…源十郎の脳裏にあの日、里山で手を引いてくれた源四郎の姿が浮かんだ。
いついかなる時も己の生き方、生き様を貫き、強き意志で道なき道を切り拓いてきた誇り高き兄。
(……そうだ。兄様なら……兄様ならこんな時でも逃げ隠れせず、真っ向から事を成す。……俺も、そうありてぇ!!)
兄の背中を追うのではない。
兄の横に並び立つ者として、今ここで一人の男として立つ。
源十郎は意を決し、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
「……それは、俺の口から委細話させて頂くゆえ。皆様、聞いてくださいませ」
静まり返った居間に、源十郎の独白が始まる。
室賀の郷で受けた屈辱、母たけの悲劇、そして自分が「忌み子」として真田に拾われたという、その凄惨な出自の全てを。
隠す必要などない。
これが今の俺の全てだ。
源十郎が淡々と、しかし一点の曇りもなく自らの過去を語る中、清永は一度も表情を崩さず、ただ静かに聞き入っていた。
しのの手がかすかに震え、おたねが小さく息を呑む。
源十郎は言葉を切り、清永の反応を待った。
張り詰めた空気の中、源十郎は覚悟を決めてその男の表情を見つめる。
そして清永が口を開く。
「………よくぞ話してくださった、源十郎殿。さて、しの」
静かな呼びかけに、しのが小さく背を伸ばす。
「……はい」
「今の話を聞いて……源十郎殿を『忌み子』と蔑み、嫌うか?」
清永の問いは、源十郎の心臓を鷲掴みにした。
これが世間の常識だ。
これが「武士」や「神職」の血筋を守る者たちの判断基準なのだろう。
源十郎は身を強張らせ、しのが自分から視線を逸らすのを、ただただ覚悟して待っていた。
だが、しのは視線を逸らさなかった。
それどころか清永の目を真っ直ぐに見据え、その凛とした声を部屋中に響かせた。
「馬鹿を言わないでくださいまし、父様!」
「!!!」
清永が驚きにわずかに目を見開く。
しのはその怒気を孕んだ声のまま、一息に言葉を畳み掛けた。
「そんなことで、このしのが何故源十郎様を嫌いになりましょうか!? もし嫌いになるなら、とっくの昔に嫌いになっております!」
源十郎はポカンと口を開ける。
しのは顔を真っ赤にしながらも、源十郎を睨みつけ、さらに言葉を続けた。
「常日頃から、ひとの乳の谷間に顔を埋めるような甘ったれなのですから!」
「……あ、甘ったれって……」
源十郎の全身から力が抜け、腰が砕けそうになる。
緊迫した空気が、しのの容赦ない一撃によって、一気に日常の恥ずかしさへと変貌した。
清永の問いに自分の身の振り方を必死に考えていた源十郎は、あまりの殺し文句に半べそをかきながら座り込む。
「そ、そんな……まさか今ここで言わなくたって……」
源十郎が狼狽して顔を覆う横で、清永は一瞬ポカンとし、そして…次の瞬間、腹を抱えて大爆笑した。
「かっかっか! なに、しのの胸の谷間に顔を埋めるだと? ……源十郎殿、貴殿はとんでもない武勇伝をしのの胸に刻んでおったようだな!」
清永の豪快な笑い声に、おたねもまた「あらあら、しのったら……」と口元を隠してクスクスと笑い出した。
部屋の張り詰めた空気は、しのの愛らしい、しかしあまりにも破壊力のある「暴露」によって、完全に霧散してしまったのであった。
更にしのは続ける。
「ですが……しのは知っております」
しのは先ほどまでの怒気をすっと消し、今度は源十郎だけを真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、源十郎が日々流してきた汗と、折れそうになりながらも立ち上がってきた強さへの敬意が宿っている。
「そんな源十郎様も、兄である源四郎様の横に並び立つ立派な武士になるべく、人知れず研鑽を積んでいることを。……その勇ましきお姿を見たゆえ、しのは源十郎様を好いているのでございます」
「しの……」
源十郎の声が震えた。
自分の中にある、まだ誰にも認められていない「武士としての誇り」。
その端緒を、しのだけはずっと見つめていてくれたのだ。
「忌み子」という過去を清永が寛容に飲み込み、そして「甘ったれな現在」をしのという存在が温かく包み込む。
源十郎の胸の奥で、張り詰めていた重い重石が溶けていくのがわかった。
その傍らで清永は笑いの余韻に浸りながらも、再びその眼光を静かなる「親のそれ」へと変え、源十郎を真っ直ぐに見据えた。
「ふむ。しのの気持ちは分かった。なれば源十郎殿、私から最後に一つ問いたいことがある。よろしいか?」
「はっ!」
どんな峻烈な試練が課されるのかと、源十郎は反射的に身構えた。
武芸の心得か、あるいは真田家としての覚悟か。
しかし、清永の口から出たのは、意外なほど素朴で、それゆえに根源的な問いだった。
「源十郎殿、貴殿はお諏訪様を信奉しておられるか?」
「……へ?」
拍子抜けするような問いに、源十郎は一瞬きょとんとした。
だが、脳裏をよぎるのは、荒涼とした室賀との境で命を拾い、温かな真田の飯を食らい、そしていま、しのの隣に座っている今の自分だ。
「そりゃ、もちろん! お諏訪様の御縁があったからこそ兄様に拾われ……こうしてしのとも出会えたと思っておりまする!!」
飾る言葉など何一つない。
源十郎が清永を真っ直ぐに見据えて放ったその言葉には、己の数奇な運命をすべて肯定するほどの熱がこもっていた。
清永は満足げに目を細め、再び豪快に笑い飛ばした。
「はっはっは! なればこの清永、何の文句も言いますまい!!」
清永は膝を叩き、源十郎に言う!
「源十郎殿……いや、源十郎! 今日よりそなたは我が息子、しのの将来の夫、【許嫁】よ!」
「えっ……いいのですか、清永殿……俺は……」
源十郎は自分の耳を疑った。
未だに消えない「忌み子」という烙印が、その言葉を信じることを躊躇わせる。
しかし、清永の目は一切の濁りもなく、ただ源十郎という一人の若者だけを射抜いていた。
「さきほども申したであろう? そなたの父・昌幸、喜兵衛とは共に一徳斎様……そなたの祖父のもとで戦場を駆けた仲! そんな喜兵衛が家族として迎えたのであれば、何も言うことはないのだ!! おのれを卑下するでないわ!!」
その叱咤は、源十郎の胸の奥で固く凝り固まっていた楔を砕き去った。
真田の家に、伊達や周囲の者たちに支えられてきたこれまでとは違う。
ここは、武家の理屈を超えた「人」としての絆が結ばれる場所だった。
「清……永……どの」
源十郎の視界が歪む。
溢れ出したのは、武士の矜持でも、兄への憧れでもない。一人の男として、この地に根を下ろすことを許されたことへの、純粋な喜びの涙だった。
清永とおたねが温かな眼差しで見守る中、しのが恥ずかしげに、しかししっかりと源十郎の袖を引く。
こうして源十郎は、何よりも大切な家族という名と、しのという最愛の伴侶を得たのであった。
おっぱい星人、信濃の地に散る(≧Д≦)
さて、話し合いの場はまだまだ続きます。
次回を活目して待て!
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