其之三
――数刻後の深夜――
――向羽黒山城脇の山腹――
夜陰に乗じて小屋の隅で着替えを終えた源四郎が、闇からふっと姿を現した。
その姿は、周囲の茂みと完全に同化していた。
草木染の落ち着いた、深いオリーブドラブに近い色合いの特務隊服。
機能性を極限まで追求したそのシルエットは、戦国の世においては異質極まりない。
背中には真田の誇りである白の六文銭、そして左胸には、ふみをはじめとした郷のかかぁたちが心血を注ぎ仕上げた、【レンジャーき章】が。
源四郎は、いよいよ始まったという高揚感を胸に、頼綱と源十郎の方を向いた。
しかし、そこに返ってきたのは緊張感あふれる言葉ではなく、盛大にずっこけそうなほどの脱力した声だった。
「「……地味ぃ! すっごく地味ぃ!」」
頼綱が呆れ顔で腰に手を当て、源十郎もまた、その「地味さ」を強調するように指を差して首をかしげている。
「戦場だぞ? なにより源四郎、おぬし初陣ではないか。晴れ舞台だぞ、晴れ舞台! 郷のかかぁたちの刺繍した力作だっていうのに、その……なんというか、そこら辺の藪と見分けがつかん! 華がない!」
頼綱は源四郎の【初陣】であることを強調しこきおろす。
源十郎までが追い打ちをかけるように溜息をついた。
「兄様、せめてもっとこう……鮮やかな茜色とか、せめて武将らしい派手な陣羽織とかさぁ。これじゃあ、夜道で迷子になった農夫と間違われるよ」
源四郎の頬が、ピクリと引き攣った。
「……あぁん!?」
ドスの利いた、低い唸り声が小屋の中に響く。
「じーちゃん、源十郎……いい加減にしろよ。これは自己主張のための服じゃねぇ。敵に見つからず、敵の喉元まで音もなく辿り着き、確実に息の根を止めるための道具だ!」
源四郎は自分の胸元にあるレンジャーき章を拳で叩き、二人を鋭く睨みつけた。
「地味? 結構だ。この地味さが明日の朝までに…あの蘆名の500を地獄へ送るための最大の凶器になるんだよ。戦場では目立つ奴から死ぬ……これは絶対の鉄則だ!」
空気が張り詰める。
二人は少し怖じ気づきながらも、源四郎の纏うただならぬ殺気に、ようやく笑みを消して姿勢を正した。
「……ま、おぬしがそこまで言うならそうなんじゃろうな」
「わかってるよ。地味で最高に強そうだよ、兄様」
源四郎は鼻を鳴らし、ふうっと大きく息を吐き出すと、腰の装備を確かめた。
「行くぞ。……城代共の【三途の川の渡し賃】、その支払いは済んでんだ」
――その頃――
――向羽黒山城、郭内――
明かりを落とした広間では、蘆名の城代と中堅の士たちが、酒の肴も尽きたとばかりに投げやりな姿勢で車座になっていた。
「退屈よなぁ……」
「そうだな。山を駆け回る猪の方がまだよほどマシだ」
一人が欠伸を噛み殺すと、もう一人が肩をすくめて応じる。
本来であれば緊張感に包まれているべき最前線だが、彼らの心はすでに戦から遠く離れていた。
「盛氏様がお隠れになってからというもの、どうにも風向きが悪い。とはいえ、我ら蘆名はまだ結束しておる……はずなんだがな」
沈黙の後、誰からともなく主君の名が漏れた。
「……で、今の御屋形、盛隆公は本当に大丈夫なのか? 佐竹がじわじわと勢力を伸ばしておる今、かの家の横槍をしっかり躱せるのかは……ちと不安だな」
その言葉に、誰もが否定しなかった。
むしろ、苦々しい表情で盃を置く者が続く。
蘆名という名門が、いま最大の危機に瀕していることを、彼ら現場の者ほど肌で感じているからだ。
「そもそも……」
誰かが切り出し、全員が顔を見合わせた。
言葉にするまでもない。
いや、言葉にせずにはいられない、主君への【諦念】があった。
「「「色小姓に狂ってるからなぁ」」」
声を揃えた合唱に近い溜息が、夜の闇に吸い込まれていく。
名門蘆名の威信よりも、美少年との遊興を優先する盛隆の噂。
それがどれほど家臣の士気を削ぎ、城下の空気を緩ませているか。
彼らは自分たちの主君への軽蔑と不安を、ただただ酒に溶かして飲み込んでいた。
「御屋形様が男色にふけっている間に、他の大名や近隣の下剋上狙いの国衆どもに食い荒らされなきゃいいんだが……」
皮肉混じりの言葉が、虚しく郭内に響く。
彼らが主君をなじり、酒を煽っているまさにその時。
近隣通り越して…遠く信濃の地からやって来た小県が国衆【真田】が、すでにその傍らにまで音もなく忍び寄っていることに、誰も気づいていなかった。
「うぅ〜…しかしまだ冷えるのぉ。厠行くか…」
一人の兵が夜露に震えながら、腰の刀を預けて立ち上がったその瞬間だった。
ドォーン!
山肌を震わせる低い炸裂音。それは、この夜の死の宴を告げる【鬨の音】だった。
「……なんぞ聞こえんかったか? 今の音……」
用足しに立った兵が振り返る。
残された者たちも困惑し、腰を浮かせた。
「気のせいであろう? おぬし飲みすぎだ。山の獣が落石でも起こしたか……」
否定しかけたその声は、空気を切り裂く鋭い風切音にかき消された。
ヒュュュュウ……ッ!
バンッ!!
城代たちが呆然と見上げるなか、陣屋の屋根に…源十郎が丹念に砲口の位置調整と測距、および導火線の詰めを施し、漆喰で密封した陶器製の焼夷弾が、狙い違わず茅葺きの屋根に正確無比に飛んでいく!
瞬間、砕けた陶器の破片とともに、菜種油をたっぷりと含み火のついたボロ布が、まるで生き物のように陣屋の四方へ散らばった。
その【火種】が、乾燥しきった茅葺きに触れた瞬間……
ゴオォォォォォッ!!
爆発的な火柱が上がった。
枯れ木同然の古びた陣屋が、瞬く間に火の海と化す。
空を焦がすオレンジ色の炎が、冷え切った夜気に鮮やかなコントラストを描き出し、酒盛りの後の緩んだ空気を一瞬で灼熱のパニックへと塗り替えた。
「………は? ………てき……しゅう?」
城代の一人が、手から盃を落として呆然と呟く。
夢か現実か。
信じられない光景に思考が追いつかず、ただただ、燃え盛る天井を見上げて立ち尽くす。
「火事だ! 敵襲だ!!」
誰かの悲鳴が、山中に響き渡る。
しかし、その声すらも、直後に連続して放たれた【竹龍】の轟音によって飲み込まれていった…
――山中の【砲迫陣地】――
山腹に構築された特務隊の陣地は、さながら現代の野戦砲兵陣地のような機能美に満ちていた。
薄暗い月明かりの下、指示が飛び、火薬の匂いが立ち込める。
「初弾命中!次弾装填、弾種焼夷弾!」
源四郎の鋭い号令が響くのと同時に、三班に分かれた砲手たちが獣のような素早さで動く。
「「「次弾装填用意ッ!弾種焼夷弾!!」」」
復唱する声には、すでに躊躇はない。
源四郎は傍らの源十郎に燃え盛る第一陣屋の手前、松明に照らされた薄明りの中の敵予備陣屋へと視線を移させ、即座に弾頭の修正を算出させる。
「…兄様!装薬一つ減らせばちょうどいい!!」
「よし!発射方向、この方向!角度そのまま、装薬減らせ!」
源十郎からの算出結果を元に指揮を飛ばす。
「「「装薬減!型紙装着よし!」」」
砲手たちは慣れた手つきで増強薬(装薬)のドーナツ型火薬を抜き取り、代わりに計算されたスペーサーを差し込む。これで炸薬の爆発力を抑え、飛距離を意図的に落とす。
「導火線詰め!」
「「「導火線詰め……よし」」」
弾尻に合わせ、精密に導火線を切り詰めセットする。
一連の動作には無駄がない。
「各員、退避壕へ!……退避良いか!?」
「「「退避よーし!」」」
砲手たちが一斉に【竹龍】の脇に掘られた地下壕へと滑り込む。
源四郎は指揮所代りの土嚢の裏にしゃがみ、発射統制用の手旗を構え声を張り上げた。
「……【竹龍】、1から3番!射撃よーい!」
「「「射撃よーい!」」」
源四郎の右手が振り下ろされる。
「放て!」
退避壕内に潜む砲手たちが一斉に細引きを引く。
着火装置に設えたフリントロック式の撃鉄が火花を散らし、【竹龍】基部の口薬へとその火を着火させる。
カチンッ。
乾いた金属音の直後、地響きを伴って火薬が咆哮した。
ドォォォォンッ!!
山肌を震わせる轟音とともに、竹龍の焼夷弾頭が夜空を切り裂く。
炎の尾を引き、夜の闇へと一直線に伸びるその光跡は、真田の蹂躙が「技術」と「規律」によって裏打ちされていることを示していた。
着弾地点の陣屋へ、【死の贈り物】が届けられる。
火の手が次々と上がり、麓の敵陣は完全な混沌へと叩き落とされた。
――向羽黒山城郭内――
郭内は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
夜空を焼き尽くす炎の赤と、吹き荒れる煙の黒が、蘆名の兵たちの顔を歪ませる。
「敵はどこの手の者じゃ!? どこから攻めて来よる!?」
「城下の職人やその家族共はどうする!?」
「本城へ逃がせ! 荷など構わん、着の身着のままでも黒川城へたどり着かせろ!」
怒号と悲鳴が入り乱れる中、城代頭は恐怖を押し殺し、血走った眼で叫び続けた。
「動ける者は具足と武器を運び出せ! 特に種子島と火薬だ! あれを失えば我ら蘆名は佐竹の餌食となる。命に替えても死守せよ!」
だが、それは自殺行為に等しかった。
陣屋の至るところで「竹龍」が撒き散らした火が回り、火薬庫への道は既に灼熱の火柱が塞いでいる。
にもかかわらず、混乱の極みに達した彼らは、火薬が誘爆する危険も顧みず、地獄の釜の中へ飛び込もうとしていた。
そこへ、血相を変えた伝令が駆け込んでくる。
「申し上げます!」
「なんじゃ! この大変なときに!」
「そ、それが……『敵の首を取る絶好の機会ぞ!』と功を焦った者たちが……城門に至る坂下の広場に集結してしまっております!!」
城代頭は、耳を疑った。
「な……!?」
坂下の広場。
そこは、遮蔽物のない殺戮の舞台だ。
多数の軍勢が密集して集まるなど、標的としてこれ以上ない格好の餌食…「撃ってくれ」と言っているようなものである。
「……~~~~~~~ッ!! バカモノ共がぁあああああ!」
城代頭の絶叫は、空しく夜闇に消えた。
――山中の【砲迫陣地】――
闇の中で、源四郎は冷え切った眼差しを広場へ向けていた。
松明の灯りがゆらゆらと広場を照らし、死に急ぐ男たちが次々とそこに吸い寄せられていくのが見える。
「……じーちゃん、あいつら馬鹿なのかな?」
源四郎の問いには、自らのいる場所が敵の火砲の射程内と気付かぬ者たちへの、純粋な軽蔑が混じっていた。
傍らに控える頼綱は、これから始まる惨劇の予感に小さく溜息をつく。
「……言うてやるな。あれも、死に場所を自ら選んだ結果というやつよ」
「……撃っていいんだよな?」
源四郎が短く確認する。
頼綱は呆れたように鼻を鳴らした。
「ふん。当たり前じゃ、バカモン。戦場に慈悲を持ち込むなど愚の骨頂よ」
源四郎は迷いなく源十郎を振り返った。
明るいうちに死ぬ気で地形と距離を網膜に焼き付けていた源十郎が、不敵な笑みを浮かべて即座に応える。
「兄様! 読めた! 装薬最大! 砲をちょっと立てれば、ちょうどあの密集陣形の頭上でボカン!鉄礫の雨があいつらの脳天を叩き割るよ!」
「よし! 【竹龍】1から3番は、予備の4から6番へ切り替え! 後方要員は1から3番の砲身交換を急げ!」
「「「了解! かかります!!」」」
陣地は再び、精密な機械のごとく動き出した。
焼夷弾による火災で敵の士気を削ぎ、今度は最大火力の榴弾で密集地帯を一気に壊滅させる。
源四郎の描いた殲滅のシナリオが、寸分の狂いもなく遂行されていく。
広場では松明の薄明かりの中…数多の男たちが鬨の声を上げる準備を整えているようだった。
「さて……その鬨あげは、三途の川への進行の合図だ。皆仲良く………共に冥土へ旅立て」
――城門下の広場――
広場の空気が、一種の異常な高揚感に支配されていた。
死の恐怖を武勇伝への渇望にすり替えた兵たちが、松明を掲げ、所狭しと密集している。
「一番槍は俺が!」
「いや、それがしだ!」
血気盛んな声が重なり、誰一人として、自分たちが立っている場所が、死出の旅への入り口である事に気づこうとしない。
彼らにとって、山腹からの砲撃は遠くで鳴っている雷のようなものだった。
「よぉし! 各々方、【鬨あげ】といこうぞ! この城を守り抜く意志、奴らに叩きつけてやるのだ!」
「「「「「おぅ!!」」」」」
数百の喉から絞り出された鬨の声が、夜空へ突き上がる。
それが自分たちの葬送曲だとも知らず、彼らは力一杯に槍を掲げ、刀を抜き放った。
まさにその時、背後の城門から、青ざめた顔の城代頭が転がり込んできた。
「者どもぉお! 何をやっとるかぁ! 今すぐそこをど……っ!!」
彼の悲鳴にも似た絶叫が、広場に響く。
だが、山腹からの【死の宣告】は、それよりも遥かに速かった。
ドォォォォォンッ!!
山が割れるかのような重低音が、広場の空気を一瞬で圧縮した。
空を見上げた兵たちの瞳に薄曇りの空の下、煌めく何かが映る。
ヒュュュュュウ……という、この世のものとは思えない不気味な風切り音。
バンッ!!
広場の中央、密集した兵たちの頭上で弾頭が砕け散る。
それは火炎ではなく、源十郎が丹念に選別し、紙製弾頭の中に詰め込んだ無数の「鉄礫」だった。
次の瞬間、死の鉄の雨が降り注いだ。
鉄の雨は、一切の慈悲なく密集した陣列を蹂躙した。
空中で炸裂した硬い鉄礫が肉を裂き、頭蓋を砕く。
悲鳴があがる暇さえなかった。
ただ、肉が裂ける鈍い音と、何十…下手をすれば百に迫る生命が同時に物言わぬ肉塊へと至る湿った音が、広場を支配した。
「ぐ、があっ……!?」
先ほどまで「一番槍」を叫んでいた若武者が、首から鮮血を噴き出し、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
その横では、鬨の声を上げようと大きく口を開けたままの兵が、顔面にめり込んだ鉄の礫に魂を食い破られ、黒い泥のように倒れ伏した。
「ぎ、ぎいやぁぁぁあああ!! なにが起きたぁああ!!」
「目! 俺の目はどうなった! 誰か、誰か助け――ぎゃあああ!」
混乱と苦悶が混ざり合う、地獄の合唱。
誰が味方で、誰が敵かもわからぬまま、生き残った者たちが血溜まりの中で泥のように這い回る。
「城代頭! 城代頭さまぁああ!! 助けてくれ! 腹が……腹から臓物が!」
「く、来るな! 寄るな近寄るな! なにがあったんだ! 呪いか!? これは呪いなのかぁああ!!」
城代頭は自身の足元で血の海に沈む部下の顔を直視できず、震えていた。
かつて蘆名の威信を誇った向羽黒山城。
その城門下の広場は、今はただの屍肉の山が広がる【死地】に過ぎない。
「敵はどこだ! 姿を見せろ! 卑怯者め、出てこい!!」
怒り狂う声も虚しく、山腹からは容赦のない冷徹な砲撃の轟音が再び響く。
ドォォン!!
「ひっ……!」
頭上で再び破裂する弾頭の炸裂音。
今度は逃げ惑う者たちの頭上へ、第二波の鉄礫が容赦なく降り注ぐ。
「やめろ……もうやめてくれぇ……!」
「母上……! 母上ぇえええ!!」
かつての勇猛さは見る影もない。
ただの肉片と化した仲間たちの死体にしがみつき、泣き叫ぶ者。
腰が抜け、地に伏し絶望に震える者。
「地獄だ……ここは地獄だぁああ!!」
広場の隅、ギリギリ【竹龍】の射程の外たるその場所で…城代頭の絶叫が夜風に裂かれる。
しかし、その声すらも、次々と降り注ぐ死の鉄の雨に塗り潰され、蘆名の精鋭たちの咆哮は、誰にも届くことのない虚無の断末魔へと変わっていった。
――山中の【砲迫陣地】――
広場から届く断末魔が風に乗って微かに、しかし鮮明に響いていた。
源四郎はその重なり合う死の声に、淡々と耳を傾けていた。
「……やはり呆気ないもんだったな、戦場の【死】って奴は。………そんなモンに慣れてきちまってる俺自身、如何なものかとも思うがね」
自嘲気味に口元を歪めたその時、背後から聞いたことのないほど汚らわしい音が響いた。
「ゔ……っ、おゔぇえええええッ!」
振り返ると、そこには胃液をぶちまけ、全身を震わせる源十郎の姿があった。
弾道計算と測距をし、自らの手で広場を肉塊の山へと変えた事実が…その精神を蝕んでいる。
「…………」
源四郎は表情を変えず、無言で数歩、歩み寄った。
次の瞬間、乾いた音が山中の空気を引き裂く!
パァンッ!!
無情な平手打ちが、源十郎の頬を真っ赤に染め上げた。
衝撃に弾かれ、地面にへたり込んだ源十郎が、涙と鼻水を垂らした顔で兄を見上げる。
「あ……兄様……?」
源四郎は、その至極冷徹で、感情を削ぎ落とした眼差しで、弟を冷たく見下ろした。
その瞳には、幼い弟を慈しむ情など一片も残っていない。
「源十郎。てめぇ、郷で『今、俺とおっかちゃんが生きる世こそ地獄』と宣ったのは、嘘か?」
低く、突き刺すような声が源十郎の心臓を射抜く。
「地獄に落ちた連中を見て、何を吐いてる。……てめぇが選んだのは、地獄の釜から他者を屍にし這い上がる道だ。それともなんだ?自分が手を下す側になった途端、綺麗事にでも逃げるつもりか??」
源四郎は、平手打ちをした自らの手のひらをゆっくりと握りしめた。
「吐くならよそでやれ。ここで吐くのは、俺たちが積み上げたこの【戦果】に対する侮辱だ。……二度と、そんな情けない面は見せるな」
そう言い終えると…
源四郎の顔から氷のような硬さが抜け落ちた。
その変化はあまりに唐突で、そして自然だった。
ニカッと人懐っこい笑みを浮かべ、先ほどまでの【殺戮者】の顔が嘘のように、気のいい兄の顔で源十郎の頭を優しく撫でる。
「つーか郷を出るときに、しのに言われたろ? 『男らしくない殿方は嫌いだ』ってよ。またあいつの…あのデッケェ乳の谷間に顔を埋めたいんだろぉ???」
「う、うん……」
源十郎の顔から気恥ずかしさと高揚が混ざり合い、先ほどまでの嘔吐の汚らしさが消え去る。
源四郎は弟の肩をポンと叩き、とびきりの笑顔で追い打ちをかけた。
「なら気張れよ♫」
「……うん!」
源十郎はパチンと乾いた音を立てて自らの頬を両手で叩き、強張っていた表情を消し去った。
先ほどの罪悪感はどこへやら、兄への信頼と、愛しいしのへの執着が一人の幼子を再び【兵隊】へと戻した。
その一連の変幻自在なやり取りを、数歩後ろで見ていた頼綱は、思わず息を呑んだ。
戦場を支配する冷徹な殺意と、弟を動かすための卑俗で温かな情愛。
その二つが、源四郎という一人の男の中で、何の摩擦もなく同居している。
(……なんと、なんと恐ろしき男になったもんよ、源四郎)
頼綱の背中に、冷や汗が伝う。
先ほどまで、ただ冷酷な戦鬼だと思っていた。
しかし、いま目の前で繰り広げられたのは、それよりも遥かに質の悪い、底知れぬ【化生】の所業である。
(おぬし、その身に【狂気】と【情愛】を同居させておるとは……! まるで毒と薬を同じ盃で呷っておるようなものだ。これが……これが、おぬしが薩摩で体得した【薩摩隼人の信条】とでも言うのか!?)
頼綱は悟った。
この男にとって、戦場の殺戮も、弟への叱咤も、その後の慰めも、全ては勝利という目的のための手段に過ぎないのだと。
源四郎の瞳の奥にある、決して底を見せない深淵に、頼綱は老練な武人として、初めて恐怖を覚えた。
そんな折、突如として、視界の先にある城の郭が光に包まれた。
ドオオオオオン!!
空気を震わせる衝撃波が山腹の陣地まで届き、源四郎の頬を熱風が撫でる。
夜の闇を食い破るかのような凄まじい爆炎。
火薬庫の誘爆だ。
炎はまたたく間に城内に広がり、主要な建物が次々と炎上していく。
「あーぁ、こりゃひでぇな。普請の手間がまた増えちまったぁ……」
源四郎は呆れたように息を吐く。
その目は炎の美しさに魅せられることも、破壊の凄惨さに怯えることもない。
ただ「普請が延びる」ことへの苛立ちがそこにあるだけだ。現代の戦術家として、奪った拠点をどう運用するかという「運営」の視点。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
「敵は山だ! 砲の音はあの山腹からじゃ!」
「ここまでだ、蘆名の武士の意地を見せてやれぇえ!」
かすかに聞こえる城代たちの声。
炎に照らされた城門の先から、松明を掲げた人影の波が押し寄せてくる。
数百という、死に損ないたちだ。
彼らは最早、統率された兵ではない。死を覚悟した、文字通りの【死人】の群れだった。
源四郎は耳を澄ませ、敵の荒い足音を聞き分ける。
数は多い。
だが、密集して松明を掲げているため、その位置は手に取るようにわかる。
「……ま、手間は増えたが、最後の掃除も済ませろってことか。」
源四郎は呆れたように吐き捨てると、陣地を見下ろす高台から暗い山道へと視線を走らせた。
そこには、日中に急造させた、源四郎の合理的な殺戮設計が形となっていた。
本来なら一気に駆け上がれるはずの山道。しかし、源四郎はその道幅を殺すように、互い違いの竹柵を深く、執拗に設置させていた。
その結果、敵は柵を縫うように進むことを強いられ、進軍ルートは強制的に狭いジグザグの動線と化す。隊列は細く伸び、柵の折り返し地点では渋滞が起き、そんな隊列の横腹を突くようにそこかしこへ【真田籠】が仕掛けられている。
その折り返し地点脇の藪の中には掩体壕(有り体に言えば監視要員が隠れつつ身を潜める穴)があり、そこには弥五郎たちが息を潜めて潜伏していた。
真田籠を点火させる細引きを握りしめ、獲物が来るのを今か今かと待ち構えている状態だ。
「源十郎。見てみろ」
源四郎は傍らの龕灯を取り、源十郎の手に握らせた。
「あの柵を見ろ。敵は柵を避けるたびに隊列が細くなり、曲がり角で団子になる。……そこが、俺たちが用意した殺戮の舞台だ。あいつらは、自分たちが誘導されてることにすら気づいていない」
「……全部、兄様の計算通り……」
ゴクリと生唾を飲む源十郎。
「そうだ。いいか、戦場ってのはな、大将が槍を振るう場所じゃねぇ。こういう【情報の網】や【周到に準備した罠】を張る場所なんだよ」
眼下の山道から、松明の灯火が近づいてくる。
蘆名の城代たちが、死に物狂いで山腹の砲迫陣地を目指して突き進んできたのだ。
「道が……なぜこんなに進みにくい! 柵を乗り越えろ!」
「ひるむな! 砲の音はあの先だ!!」
松明を掲げた兵たちが、次々と竹柵の設置箇所に殺到する。
源四郎の設計通り、彼らは柵にぶつかって足を止め、隊列は細く長くなり、押し合い圧し合いとなる。
絶好のキルゾーンだ。
「……弥五郎たちに合図を送れ。モールス信号だ」
源四郎は弟の肩に手を添え、遮光板へ指を這わせるよう促す。
源十郎は一度だけ深く息を吐くと、迷いを消し去った瞳で、闇の中に源四郎から教わっていた光の点滅を刻んだ。
カチ、カチッ、カチカチカチ……。
信号が届いた瞬間、掩体壕に潜んでいた弥五郎たちが、一斉に細引きを引く!
ドオオオオオン!!
竹柵の脇から同時に噴き上がった爆炎と鉄礫が、密集していた侍たちを横からごっそりと刈り取った。
悲鳴すら上げる間もなく人影が闇の中に崩れ落ち、山道は一瞬で「通過不能な死の壁」へと変わった。
「……う、わぁ……」
眼下で繰り広げられる惨劇に、源十郎は震えることなく、ただ淡々とその光景を見つめていた。
「どうだ、源十郎。お前の合図で、敵は全滅した。……これが俺たちの戦い方だ。武士の情けも一番槍の誉れも、この冷徹な計算の前では形無し、だろ?」
源四郎の声は優しく、しかしその眼差しは、弟が完全にのこちら側の人間へと変質したことを確認し、満足げに細められていた。
源十郎は何も言わず、もう一度だけ龕灯の遮光板を握り直す。
その手つきは迷いから解放された…冷酷な【兵隊】のそれだった。
そうして…
――二刻後――
――向羽黒山城、城門下広場――
火薬庫の火の手がようやく衰え、焼け焦げた陣屋が夜風に燻る中、源四郎は陣地から城門下の広場へと降り立った。
周囲には、山中に潜ませていた真田本隊が静かに集結を始めている。
「城門が閉まっている以上、まだ中に残党が潜んでいるだろう。各員、気を引き締め……」
源四郎が部下たちへ掃討の合図を出そうとした、その時だった。
ギィィィィ……
重苦しい音を立てて、城門が内側から開かれた。
現れたのは、煤と血にまみれた城代頭と、その背後に従うわずかばかりの兵たちだ。
彼らの手には、もはや武器は握られていなかった。
「……城代の筆頭殿とお見受けする」
源四郎が冷淡な声で呼びかけると、城代頭はゆっくりと歩みを進め、深々と頭を垂れた。
「いかにも」
源四郎の瞳には、哀れみも、勝利の歓喜もない。
ただ状況を冷徹に処理するだけの、兵器のような静けさがあった。
「既に勝敗は決した。……まだやると言うなら、最後の一兵を斬り捨てるまでお相手致すが?」
城代頭は、その問いを静かに受け止めた。
「その様なつもりはござらん。最早我らは此処に残る二十ほどのみ。なれば、その残りし者共が命……我が首にて、見逃して貰えぬだろうか?」
源四郎は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「……分かり申した。介錯は、それがしが務めましょうぞ」
両軍の兵が見守る中、厳かな空気が場を支配する。
城代頭が座り直し、その身を整える。
そして腹を斬る間際、彼はふと源四郎を見上げた。
「……若武者殿。冥土の土産に、教えて下さらぬか?」
「……なんでございましょうぞ」
「貴殿らは何処の手の者で……そして、あなた様の名は?」
源四郎は表情を微塵も変えず、その問いに淡々と答えた。
「信州信濃は小県が国衆、真田安房守が三男……真田源四郎」
城代頭の目が見開かれる。
「……っ! あの音に聞こえし【武田が謀将】……! なればこの結果も納得ですな。良き土産話ができ申した……しからば!」
グサッ!
鈍い音と共に、城代頭が自らの腹に刀を突き立てる。
死を恐れぬ武士の最期。
源四郎は迷いなく愛刀【不落】を抜き放つと、その介錯の太刀筋に一切の私情を込めなかった。
ザクッ!
空気を裂く一閃が、城代頭の首を落とす。
崩れ落ちる亡骸を前に、源四郎は刀の血を振り払い、静かに鞘へ納めた。
戦国の空に響いた砲声と、死を厭わぬ武士の矜持が交錯した夜。
源四郎の背後では、源十郎がその一部始終を、もはや何も感じないかのような瞳で見つめ続けていた。
向羽黒山城………ここに陥落。
如何だったでしょうか?
さて!次回、いよいよみんな大好き…
若き【奥州筆頭】が登場予定!
次回を刮目して待て!
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