其之五
――朝餉後――
――真田屋敷一室――
昌幸が充てがった奥まった一室。
障子から差し込む陽光は、この部屋の重苦しい静寂をより際立たせていた。
「おっかちゃん……ここはもう安心だよ。だから、返事してくれよ……」
文七がたけの細い手を握りしめる。
返事はない。
抜け殻のように横たわったまま、ただ微かな呼吸を繰り返すたけ。
その姿を障子の外から見守る源四郎の胸には、言葉にならぬ黒い渦が巻いていた。
(俺が安土から戻り、そのトラウマで【不落】を抜けなかった日々……。あの絶望なんて、たけがこの生き地獄で受けた痛みに比べりゃ、マシだったんだな……)
自身の微かな悔恨すら、たけの受けた【地獄】の前では無力でしかない。
そう腹の底で毒づいた時、廊下の向こうから源次郎が静かに近づいてきた。
「……源四郎。父上が呼んでおる」
――昌幸執務部屋――
重厚な沈黙の中、昌幸は静かに口を開いた。
「源四郎。室賀の郷の件……。おぬしの胸の内は察するが、今は捨て置け」
源四郎は奥歯を噛み締めた。
史実をなぞるなら、いずれ父の手で正武は葬られる…だが、今この瞬間、たけがあの有様で眠っていることを思えば、怒りは腹の底で煮え繰り返る。
そんな沈黙を破ったのは、傍らで正座していた文七の、拍子抜けするほど淡々とした声だった。
「……兄ちゃん、オイラ、郷長がどうなろうと別に興味ねぇや」
「……はあ?」
「オイラとおっかちゃんが、今日、腹一杯食えて、夜は安心して眠れる。それさえありゃ、郷長が誰であろうと、あいつがどうなろうとどうだっていいんだ」
文七は、子供らしい純朴な顔で、しかし大人が顔負けするほど現実的なことを言った。
「あいつに仕返しして、結局また食うもんがなくなっちまったら、おっかちゃんがまた苦しむだろ? それは、一番嫌なんだ」
その言葉に、それまで背を向けていた昌幸が、肩を震わせて笑い始めた。
「かっかっか! かっかっかかっ!!」
昌幸は腹を抱えて笑いながら文七を見やる。
その顔には、隠しようもない感心の色が浮かんでいた。
「母や己の仕返しより、明日の飯を選ぶか! こやつめ……この歳でなんとしたたかなことか。……復讐に目が眩んで自滅するような愚か者には到底ならんな。これぞまさに、生き残る者の【眼】よ!」
昌幸は、面白そうに文七の頭を撫でる。
「よかろう。真田の郷にいる限り、おぬしらの飯も、寝床も、安寧も、この昌幸が保証してやる。……室賀の郷がどうなろうと、おぬしらが食いっぱぐれることはない」
その言葉に、源四郎は溜飲が下がるのを感じた。
復讐のために戦うのではない。
真田という【家族】が、たけの安寧を守り抜くために、結果として室賀という膿を出し切る。
「……聞こえたか、文七。父上が保証してくださった。もう、お前が明日を案じる必要はねぇ」
源四郎は、初めて穏やかな笑みを浮かべた。
明日への食い扶持すら危うかった少年に、真田という巨大な器が居場所を与えた瞬間だった。
そこへ…
「舅様、よろしいですか?」
障子の向こうから重なる声。
「…みお?おこう姉さま??」
「む? おこうにみおか、入れ」
昌幸が応じると、おこうとみおが静かに歩を進めてきた。
「文七ちゃんとたけさんの処遇、お話はまとまられたようですね……けほっ」
おこうが小さく咳き込みながら、しかし確かな意志を込めて切り出す。
その傍らで、みおは温かな眼差しで文七を見つめていた。
「うむ……もしやおこう、みお。おぬしら、たけと文七の面倒を見るとでも言うのか?」
昌幸が訝しげに尋ねると、みおは涼やかな顔で微笑む。
「まぁ舅様。お話が早くて助かります」
「え? いいの、おこう姉ちゃん、みお姉ちゃん?」
自分の処遇などどこ吹く風だった文七が、呆気にとられたように目を丸くする。そんな文七へ、おこうは優しく歩み寄って手をとり、自身の経験を語り始めた。
「文七ちゃん。……かつてこのおこう、こうして家中の些事も出来ぬほど身体が弱かった……と言ったら信じますか? ……けほっ」
「え!? そうなの!?!? 普通に炊事や洗濯してるのに!?!?!?」
驚愕し、何度も瞬きをする文七。
おこうは少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「えぇ。ですがそれも、源四郎が言う通りに、日々食べるものに気をつけ、手洗いうがいをし、郷に散歩に繰り出して……を続けたら、このように元気になりました♫ ……けほ。ですから、たけさんもきっと……また笑顔を取り戻せます……けほっ」
その言葉には、源四郎の【現代の知恵(公衆衛生や健康管理)】を信じ、それを自ら体現してきた者だけが持つ説得力があった。
文七の表情が、霧が晴れるようにパッと明るくなる。
たけの【壊れた心】は、きっと治らないと思っていた。
だが、もしおこうが昔の自分と同じように元気になれたのなら、おっかちゃんもまた、温かい飯と穏やかな暮らしで、元に戻れるかもしれない。
「……おこう姉ちゃん、みお姉ちゃん! おっかちゃんのこと、本当にお願いしますっ!」
文七が深々と頭を下げる。
その光景を見ていた源四郎は、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
戦の支度や復讐の謀略ばかりを考えていた自分にはない、この【日常を守るための強さ】。
それこそが、自分の守りたかった真田の姿だったのだ。
昌幸は、そのやり取りを眺めながら、満足そうに髭を撫でる。
「かっかっか! 源四郎、おぬしの周りには頼もしい女たちが揃っておるな。……よかろう。おこう、みお。たけの世話、そなたらに任せる。必要なものは遠慮なく申せ」
こうして、真田の屋敷に【たけの回復】という新たな使命が加わった。
こうして真田の女性陣による【たけの再生】が、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。
そんな折、成り行きを見ていた源四郎が口を開く。
「けどなぁ文七ぃ?」
「ん?なぁに兄ちゃん??」
あどけない顔をして答える文七に…それとは真逆の含みを持った笑みで源四郎は言う。
「働かざる者食うべからず、だぞ?」ニヤリ
「………へ?」
――しばし後――
――郷内、練兵場付近――
源四郎は文七、昌幸、そして途中で捕まえた繁蔵を伴い練兵場へ向かっていた。
そんな一行の前に、思わぬ「闖入者」が現れる。
「あっ! 源四郎様ぁ〜」
諏訪大社(真田分社)の神職の娘、しのである。
「おぉ、しの。どした?」
「父様が【特務隊詰所】のお札が出来たって♫」タタタッ
弾むような足取りで駆け寄ってくるしのの姿に、源四郎は思わず立ち止まった。
歳の割に、いや歳がどうこうという次元を超越した、目を疑うような豊かな膨らみが、彼女の小袖を押し上げている。
源四郎でさえ「信じられない発育具合」と評さざるを得ない、まさに戦国版の【奇跡】だった。
その瞬間、隣を歩いていた文七の足がピタリと止まる。
文七の視線は、もはや獲物を狙う鷹のように、しのが揺らす胸元一点に釘付けとなっていた。
「…………。」
(こ、このガキ……まさか!?)
源四郎は背筋に冷たい電流が走るような直感を得た。
この視線の熱量、呼吸の乱れ、そして何より………あの純粋すぎるほどの執着心。
間違いない、文七は真性のおっぱい星人だ。
「ん? あなた、だぁれ?」
しのが小首をかしげ、文七を覗き込む。
その挙動で再び揺れる胸に、文七の目玉が飛び出しそうになる。
「え、あっ……オイ、オイラ……文七」
文七は顔を真っ赤にし、指先を弄びながら激しくモジモジし始めた。
その分かりやすすぎる態度は、源四郎、昌幸、そして繁蔵……その場にいた男全員の考えを一致させるに十分だった。
(((分かりやすいなぁ、オイ……!!)))
男たちの脳内で、揃いも揃って同じツッコミが木霊する。
「おっ、文七! お前、そんな顔もできたのか!」
源四郎がニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて文七の背中を叩く。
「ち、ちがっ、そんなんじゃっ」
慌てて否定しようとする文七。
が、視線は依然としてしのの胸元に吸い寄せられたままだ。
「ふむ……」
昌幸が髭を撫で、どこか面白そうにその様子を眺めている。
「源四郎。どうやら文七の【眼】は、隔たりの目測に用いる以外にも……鋭いようだな」
繁蔵も「やれやれ」と苦笑いしながら肩をすくめる(普段の浮気性を鑑みれば人のこと言えるような立場にないが)。
緊迫した兵器開発、運用の現場に、思いがけず訪れた甘酸っぱくも生々しい空気に、真田の男たちは爆笑をこらえながらも、次代を担う童のあまりに純真(?)な衝動を見守るのだった。
「……あ、あの。オイラ、その……お名前は?」
文七が勇気を振り絞って問う。
しのは、自分が注目の的になっていることも知らず、無邪気に「しのだよ! よろしくね、文七ちゃん!」と笑う。
その一撃で、文七の理性の防衛線は跡形もなく吹き飛んだのであった。
「………兄ちゃん。」
「ん? なんだよ」
「早く練兵場行こう! ほら、しのちゃんも一緒に!」
文七は背後でキョトンとしているしのの手を引こうと、キラキラと目を輝かせている。
その裏には、「そこへ行けば兄ちゃんが作った凄い武具を操る姿をしのちゃんに見せられる」という、極めて現金な計算が働いているのは明白だった。
「……? いいの?」
まだ状況を飲み込めていないしの。
が、文七の勢いに押されて「う、うん……」と控えめに頷く。
(……しのにかっこいいとこ見せたいってか。現金な奴だな)
源四郎は呆れつつも、文七の横顔を見て苦笑を禁じ得なかった。
かつて自分が、みおの前で無理をして調子に乗り、失敗しそうになった記憶が脳裏をよぎる。
男というのは、いつの時代も、好きな女の前では見栄を張りたい生き物なのだ。
「……まぁ、いいだろう。見学くらいならな」
源四郎がそう言うと、文七は「よしっ!」と小さくガッツポーズをした。
昌幸はそんな二人を後ろから眺めながら、満足そうに鼻を鳴らす。
「かっかっか。惚れた腫れたも、戦の原動力よ。源四郎、おぬしも幼き頃…みお絡みの時はそうやって、この父を苦労させたものだぞ」
「父上、それは昔の話です」
源四郎が照れ隠しにぼやくと、繁蔵もくっくっと笑いながら竹龍の台車を押す。
「いやはや、若さというのは素晴らしい。……文七、よいか? 今から扱うのはただの竹筒じゃないぞ。しのに良いところを見せるなら、着弾の瞬間の風切り音まで計算し尽くすようにな。」
「……わ、分かってるよ繁蔵のおっちゃん!」
「お、おっちゃん!?私はまだ三十にもなっとらんぞ!?」
鼻息荒く、繁蔵をおっちゃん呼ばわりして練兵場へ突き進む文七の背中。
その視線の先にあるのは、竹龍の砲身と、それ以上に魅力的なしのの笑顔。
(……ま、いいか。復讐の鬼になる前に、こういう健全な悩みを持ってる方がよっぽどマシだ)
源四郎はそう心の中でつぶやくと、文七に追い付くように歩調を速めた。
真田の練兵場。
そこでは今日、兵器の実験と共に、一人の少年の「初恋の観測」が始まろうとしていた。
――真田の郷、練兵場――
ドオーーン!
源四郎の試射した榴弾が、空中で鮮やかな火花を散らして炸裂し、土煙を上げる。
その圧倒的な破壊力を目の当たりにし、しのの口から「わぁ……っ!」と小さく感嘆の声が漏れる。
源四郎は顔を拭い、真剣な眼差しで文七に向き直った。
「さて……今の火薬量、導火線の長さでの炸裂の高さ。見たよな文七?」
「うん!」
文七の返事は短く、力強い。
その瞳には、先ほどまでの「恋する少年」の面影はない。竹龍という強大な兵器の構造、弾道、そして火薬の爆発力がもたらす物理的な法則が、その脳内で瞬時に幾何学的な【線】として再構築されていた。
「じゃあ……こんどはあんくらいの所に鉄礫を振り注がせろ」
源四郎が指差したのは、約百十間(約200メートル)先に立てられた、幾体ものかかしの列だ。
最大射程ではない。
だからこそ難しい、中途半端な距離だ。
「砲を立て、増強薬を引っ剝がしゃ射程は縮む。だが導火線も長めに作ってあるから、それに合わせて詰めなきゃならん。なんなら増強薬の代わりにその型紙を使って、基部の底の口薬と導火線の距離を調整してもいい……つまり【弾が至る隔たり(距離)】と【炸裂までの時】の調整だ。やってみろ」
言葉にすれば単純な理屈だが、戦場でこれを瞬時に判断し、最適な組み合わせを導き出すのは至難の業だ。
特に、導火線の燃焼速度と、砲弾が放物線を描いて頂点に達する時間を一致させるには、途方もない経験値が必要となる。
「……分かった」
文七は何も問わなかった。
彼は弾頭の傍らに歩み寄ると、まず導火線の太さを指で確認し、手早く型紙を抜き差しする。
その手つきは迷いがない。
(こいつ……まるで、計算式の答えが最初から見えているかのような動きだな)
源四郎が繁蔵と視線を交わす。
繁蔵もまた、我が意を得たりと頷く。
文七は、空を見上げた。
しのの前でいいところを見せたい、という浮ついた気持ちはもうない。
ただ目の前の【距離】という空間を、己の異能で切り取り、弾道という一本の糸に変換している。
「……ちょっと上げて。導火線は……こんくらい、切る」
文七が呟くと、繁蔵が言われた通りの調整を行う。
緊張が練兵場を支配する
。離れた場所で、しのすらも息を飲んでその光景を見守っている
そうして退避壕に入った文七が細引きを引いた。
ドォォン!!
鈍い音と共に、竹筒から放たれた弾丸が美しい軌道を描く。
放物線の頂点。
計算の狂いなど一切ない、完璧な位置で……
榴弾がその火花を散らした。
パララララッ……!
炸裂と共に降り注ぐ無数の鉄礫が、百十間先のかかしを一網打尽に打ち抜く。
土煙が晴れたとき、そこには粉々に砕け散ったかかしの残骸だけが残されていた。
「……やった……!」
しのの歓声が上がる。
源四郎は静かに拳を握りしめ、昌幸は満足げに目を細めた。
「……合格だ。文七、オメェの【眼】は、戦の景色を変える」
源四郎の声は低く、しかし確かな熱を帯びていた。
文七は照れくさそうに頭をかき、しのに向かって「へへっ」と笑う。
そこから更に…
練兵場の土埃が舞う中、試射のたびに巻き起こる鉄礫の咆哮は、もはや実験の域を超えていた。
どれほど距離を変え、位置を弄ろうとも、文七は淀みなく計算を弾き出す。
「今の風なら、あと一寸右。爆発は……今!」
その言葉と共に、敵兵に見立てたかかしの頭上わずか数尺で炸裂する榴弾。
まるで空中に見えない定規を当てているかのような、神業に近い精度。
「わぁああ! 文七ちゃんすごーい♫」
しのが無邪気に両手を叩く。
その無垢な称賛を受け、文七は真っ赤になりながらも、背筋を伸ばして得意げに胸を張る。
「見事! 文七、おぬし真の【千里眼】を持っておるな♪」
昌幸は膝を叩き、豪快に笑った。
これほどまでに計算が正確であれば、これから対峙する敵がどれほど堅牢な構えを見せようと、遠距離から一方的に無力化できる。
真田の戦力図が塗り替わる瞬間を、謀将は肌で感じ取っていた。
(父上の心象も最高潮だな……なれば)
今この瞬間の高揚感こそが、文七を単なる【保護対象】から【真田の身内】へと引き入れる最高の追い風になる。
源四郎は決意を固め、静かに文七の側へと歩み寄った。
「文七」
兄のような、あるいは戦友のような響きを込めて呼ぶ。
「ん? なに兄ちゃん?」
文七はしのの手前、少し格好をつけて澄ましているが、その瞳には源四郎への絶対的な信頼が宿っている。
源四郎は一瞬だけ、かつて戦場で死線を超えた者同士だけが持つ静かな眼差しで文七を見据え、そして直球で問いかけた。
「おめぇ……俺の隣で、【武士】になる気はねぇか?」
練兵場が水を打ったように静まり返った。
それは単なる誘いではない。
一人の少年を食い扶持を求める迷い子から、真田の剣となり盾となる【武士】へと引き上げる……重い、あまりに重い問いかけだった。
文七の瞳が、驚きで見開かれる。
隣にやって来ていたしのの表情も、何が起きているのかを察してか、期待と緊張の入り混じった顔で固まった。
そうして源四郎は、先ほどまでの兄貴分の顔を霧散させた。
練兵場の空気が、一瞬にして凍りつく。
源四郎の瞳から一切の温度が消え失せ、かつて安土からの死線で幾多の命を刈り取ってきた源四郎だから放てる、あの底知れぬ【死の圧】が周囲を支配した。
「けどその為にゃ……俺と共に【屍の山】を築かなきゃならん」
源四郎は一歩、文七に詰め寄る。その歩調は静かで、しかし重い。
「一度武士の道に入れば、逃げ場はない。敵を殺し、友を看取り、そして自分もいつ死ぬか分からぬ泥沼に浸かることになる。……俺の横に立つということは、そういうことだ。お前に、その覚悟はあるか?」
ギンッ、と源四郎が文七の瞳を射抜くように見つめた。
その殺気に、しのが悲鳴を上げて座り込み、繁蔵は顔色を青ざめさせて数歩後ずさる。
謀将と称される昌幸でさえ、眉間に深く皺を刻み、ただ黙してこの試練を見守っていた。
練兵場が沈黙に包まれる。
源四郎の放つ圧は、文七という少年の精神を粉砕するのに十分な破壊力を持っていた。
しかし。
文七は、逃げなかった。
その細い肩を震わせながらも、濁りのない真っ直ぐな視線を源四郎へと返し、静かに、しかし断固たる響きで口を開いた。
「………大丈夫だよ、兄ちゃん」
「むっ……?」
源四郎の鋭い視線に、文七は怯むどころか、かえって一歩、源四郎の懐へ踏み込んだ。
その瞳の奥には、子供には早すぎるほどに冷徹な、しかし情熱的な決意が燃えていた。
「兄ちゃんは、オイラが【地獄】に落ちやしないか心配してんだろうけど……」
文七は、空を見上げた。
あの日、たけが変わり果てた姿で見つめていたであろう虚空を。
「これまで…おっかちゃんと冷飯を食って、隙間風ふくあばら家で夜を明かしてきた……そんな世こそが、オイラには【地獄】だ。……そう考えたらオイラもおっかちゃんも……もうとっくに足まで浸かってる」
文七は、拳を強く握りしめる。
その指が白く変色するほどの力で。
「そっから連れ出してくれるなら!……敵を殺すのも、屍の山を築くのも、どこだろうとオイラ行くよ!!!」
その叫びには、迷いも、恐怖もなかった。
あるのは、地獄の淵から己とたけを救い出してくれる「唯一の光」………
源四郎という導き手への、全幅の信頼と誓いだった。
「!!!!」
源四郎の背筋に、衝撃が走った。
それは目の前の童が…自分が安土で、この乱世という地獄を終わらせるために抱いた、あのどうしようもなく痛切な願いをした時と同じ眼をしている様に見えたからだ。
周囲の時が止まったかのような静寂。
源四郎の放っていた凄まじい死の圧が、ふっと溶けて消えた。彼は少しだけ驚いた表情を見せた後、ゆっくりと目元を和らげ、吹き出した。
「……は。……あはは、ははは!」
乾いた笑いが練兵場に響く。
源四郎は腰の【不落】の柄に手をかけたまま、文七の肩にずしりと手を置いた。
「……合格だ。お前は、確かに真田の【眼】だ。……地獄へ行こうが、屍の山を築こうが、お前のその【眼】が俺たちの進むべき道を照らしてくれるなら……俺の隣、喜んでくれてやる!!」
源四郎の背後に立ち込めていた殺気が、温かな兄貴分の気配に戻る。
だが、その瞳の奥には、少年と交わした残酷なまでの「誓い」が、深く刻み込まれていた。
その時だった。
「なれば源四郎…此奴を本当の家族とするのはどうだ?」
傍らで事の成り行きを見守っていた昌幸が口を開く。
「…父上?」
――数刻後――
――真田屋敷、居間――
真田屋敷の居間は、突如として放たれた昌幸の爆弾発言により、静寂と喧騒が入り混じる奇妙な空間となっていた。
「「「「「文七を【養子】にぃいいい!?」」」」」
家中の者たちが顔を見合わせ、ざわめきが広がる。
源四郎は、その狂騒の輪の中で、最も警戒していた人物へと視線を走らせた。
(……母上、家格がどうこうとか、出自がどうとか……こだわるだろうからなぁ)
薫という女性は、真田の血筋と誇りに誰よりも固執する。
そんな母が、血筋のハッキリしない【忌み子】を真田の血縁に迎えるなどと言い出せば、どんな波乱が起きるか。
源四郎は眉間に皺を寄せ、最悪の事態を想定していた。
しかし、その杞憂はあまりに呆気なく、そして劇的に霧散した。
「文七。こちらへ」
薫が、珍しく柔らかい声で少年を招く。
文七は警戒心もなく、てくてくと歩み寄った。
「ん? なぁにおばちゃん」
「これ! この子は! ……こほん」
「おばちゃん」という、あまりに無邪気で残酷な呼びかけに、薫のプライドが僅かにピクリと反応する。
しかし、彼女はそれを飲み込み、震える手で文七の両手をそっと包み込んだ。
「これまで……これまでよく、ご母堂と共に艱難辛苦を乗り越えてきましたね……」
ポロリ、と…薫の目から、真珠のような涙がこぼれ落ちる。
それは打算も誇りも何もない、ただの慈愛の涙だった。
「ですがもう大丈夫! 今日よりあなたは【真田の子】です! この薫をもう一人の母と思い、甘えてよいのですよ」
源四郎は、あんぐりと口を開けたまま固まった。
(まぢかい母上。俺がどれだけ覚悟を決めていたと思っているんだ……)
だが、安堵したのも束の間だった。
薫という存在が、そう簡単に「ただの優しい母親」で終わるはずもなかった。
その顔に、いつもの、あの「京の貴族も顔負けの強引さ」が戻ってくる。
「ただし! この先……【嫁御探し】は任せなさい!! この薫がきっと、京よりふさわしい良き嫁を……」
「だあああああ! それは間に合ってるから!」
源四郎が慌てて制止し、しのとの出会いと文七の初々しいやりとりを説明する。
すると薫は、とたんにパァッと表情を輝かせた。
「まぁ! お諏訪様(諏訪大社)の縁者たるしのを見初めるなんて!! 文七、あなたは見る目がありますね♫」
(なんちゅー現金な母親だよ、全く……)
源四郎は深い溜息をつき、頭を抱えた。
文七の苦労、その出自を問わず【真田の血】として受け入れた母の器は本物だ。
だが、その恩を売るように「孫(嫁)選び」の権利を速攻で奪い取りに来るあたり、やはり薫は薫である。
隣では、しのとのことを褒められて顔を真っ赤にしている文七と、そんな初々しい童を微笑ましく見つめる薫の姿がある。
(まあいい。この騒がしさこそが、文七にとっての地獄からの脱出だっていうなら……)
源四郎は、ニヤリと笑う昌幸と視線が合う。
真田という巨大で、少し面倒で、しかし何よりも温かい【家】の中に、文七という異能の眼が完全に組み込まれた瞬間であった。
居間の空気がふっと落ち着いたところで、それまで静かに成り行きを見守っていた源三郎が、やおら口を開いた。
「なれば、父上……」
「ん? なんぞあるか源三郎」
と髭をイジりながら応じる昌幸。
「いや、ともすれば文七に……【名】をば与えてやるのはいかがかと」
その言葉に、部屋中がハッとする。
真田の家名(名)を与えるということは、正式に真田の血族として認め、世に知らしめるということだ。
「ふむ。おぬしならそう言うと思って、既に考えてある」
昌幸はニヤリと不敵に笑うと、文七を見据えた。
「……【源十郎】という名をな」
「【源十郎】……」
文七がその響きを口の中で反芻する。
かつての蔑まれた【忌み子】から、真田の【眼】として、そして一人の武士として。
【源十郎】という勇ましくも重厚な名は、その心に大きな火を灯した。
文七の瞳が、これまでにないほど強く輝きだす。
「源十郎……」
だが、その感動の余韻を、次の瞬間、源次郎の冷静な問いが切り裂いた。
「源十郎……。末子たる源四郎の【四】から随分飛びましたな、父上。……その心は??」
確かにそうだ。
「真田の嫡男は死にやすいゆえに嫡男然としない名を」と言う由来の長男源三郎、「次男だから」と言う由来の源次郎はともかく末子(四人目の子)は源【四】郎。
間を大きく飛ばしたこの名には、何か深い意味があるのではないか。
全員が、次代を担う真田の戦略的意図が語られるのを待った。
昌幸は、まるで当然のことを聞くかのように、あっけらかんと答える。
「ん? これ以上子が増えても敵わんからよ! はっはっは!!」
ズルッ!!
盛大な音を立てて、源四郎、源三郎、そして家中の者たちが一斉に床に転がった。
あまりの身勝手かつ、あまりに昌幸らしい「命名の理由」に、居間の空気は完全に弛緩する。
源四郎は立ち上がりながら、天を仰いで苦笑した。
(結局、父上にとっての名付けなんて、そんなもんなんだよな……!)
しかし、文七……いや、源十郎は、キョトンとしながらも、その名を慈しむように何度も繰り返し口にしていた。
「源十郎……源十郎……。いい名だ。……兄ちゃん、これからよろしくな!」
満面の笑みを見せる源十郎。
その姿を見て、源四郎もまた、毒気を抜かれたように笑い返す。
こうして真田家に、新たな家族……真田源十郎が正式に誕生した。
名付けの理由は極めて適当であったが、その名は、やがて来る大名たちとの戦、そして乱世を駆け抜ける真田の新たな【眼】として、歴史に深く刻まれることとなるのである。
――第六章、完――
やはり昌幸はテキトーだった!
そして薫もこの夫にしてこの女房過ぎw
さて次章より新展開!
次回を刮目して待て!
※作者からのお願い※
幸いなことに今や本作は平均PV(日間)900を超えるようになりました!これもひとえに読者の皆さんのおかげ…ですが!
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