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信濃の修羅〜現代人の俺、存在しないハズの真田の三男坊として転生す〜  作者: ギュネイ山本
第六章【雌伏の時。源四郎、郷にて力を蓄えるの段】

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其之四

――真田屋敷、居間――

屋敷の居間は、重苦しい沈黙に包まれていた。

昌幸が郷の有力者との会合で不在の中、源三郎を中心に家中の面々が揃っている。

その中央に、場違いなほど無邪気に文七が座っていた。

「……どーしたの皆? 辛気臭い顔して??」

周囲の緊張感など知らぬげな文七の問いに、源四郎は指先が白くなるほど拳を握りしめていた。

みおの裸を見られた怒りではない。

それは、もっと深い、魂の根源から湧き上がるような()()からだった。

「……みお。湯殿で、何を見たんだ?」

源四郎の問いに、青ざめた顔のみおが震える声で頷く。

そして文七の肩にそっと手を置き、言った。

「文七ちゃん、いいかしら? ……あの、着物を……」

「ん? うん。いいよ。減るもんじゃないし」

文七は素直に、みおから借りた源四郎のお古の上着を脱ぎ、上半身をはだけた。

居間に、凍りつくような息の音が漏れる。

「っ……!」

文七の背中や脇腹には、まるで獣に食い荒らされたかのように、おびただしい数の古い傷と、新しい青痣が刻まれていた。

鞭で打たれた跡、焼き鏝の痕……九つの子供の肌とは思えない惨状だ。

「こ、これは……」

源三郎が絶句する。

温厚な源次郎すら、その凄惨さに「……惨い」と唇を噛み締めて目を伏せた。

茂誠は我慢できず、思わず文七の肩に触れようとして「い、痛くないか文七?」とその痛みがいかばかりかと逡巡し、手を宙に止めた。

女性陣のすすり泣く声が、静寂の中に響く。

源四郎の脳裏には、レンジャーとして派遣された紛争地域…【イラク】で見てきた、理不尽に踏みにじられる【市民】の姿が重なった。

弱い者が理不尽な暴力に晒される世界。

それを許してはならないという、かつて誓った自衛官としての誓約が、魂の奥底で爆発する。

源四郎はゆっくりと立ち上がった。

その目は、先ほどの【湯殿騒動】の浮ついた怒りではない。

静かに、しかし確実に、相手を狩るための獣の眼だ。

「……文七ぃ……」

源四郎の声は、低く、湿り気を帯びていた。

「それ、誰にやられた!?」

屋敷の空気が、凍りつくのを通り越して、鉛のように重く沈み込んだ。

「…室賀の郷のみんな。それから郷長とその手勢」

文七の口から出た言葉は、あまりに淡々としていた。

その残酷な事実に、居間にいた真田の男たちは息を呑む。

源三郎は呆然としながらも、文七の澄んだ瞳を見つめた。

これまで幾度となく修羅場を踏み、様々な者共を見てきた真田家嫡男として見ても……この少年には悪意の欠片も見出せない。

「な、なぜおぬしが室賀殿から直接責め苦を!? 狼藉など働きそうにないおぬしのような童が!?」

その問いに、文七はただ、床の木目を眺めている。

源四郎は、爪が食い込み血が滴らんばかりに拳を固めていた。

自身の内なる【自衛官としての倫理】と、戦国の世の武士としての【怒り】が混ざり合い、言葉にならぬ熱量となって腹の底で渦巻く。

「文七、ここは真田。誰かに命ぜられ郷に害なすことをやらされていると言うのであれば遠慮なく言え! この源次郎、助力いたす!!」

「おおぅそうじゃ! おぬしのような無垢な童を犬畜生以下として扱う者がおれば成敗してくれるわ!!」

源次郎、そして茂誠の怒号が響く。

源四郎は、拳を解くと震える手で文七の肩に触れた。

「……聞いたか文七? 【真田家】はお前に助力すると決した。安心していい。さぁ…何故お前がそんな責め苦を受けなきゃなんねぇんだ?」

怒りに飲み込まれるな。

冷静になれ。

源四郎がそう自分を律したのも束の間、文七が発した一言が、すべての思考を爆発させた。

「………よく分かんないけど、オイラ……()()()なんだと」

「………は?」

「おっかちゃんが……郷長と手勢に、()()()()……出来たんだと」

静寂。

居間を支配していた空気が、完全に断絶した。

源四郎の脳裏で、何かが決定的に壊れる音がした。

一言で言えば()()()()()()

ただ純粋な、人間の尊厳を踏みにじった【邪悪】に対する、理屈抜きの殺意。

源四郎の視界から、部屋の壁も畳も消えた。

その目には今、真田領のすぐ隣で、自分たちが守ろうとしていた【民】の中の汚濁が、膿のように見えている。

(……回された?女を、子供を、道具のように……)

源四郎の血管が、怒りで浮き上がる。

腰の【不落】が、まるで主の殺意に共鳴するかのように、鞘の中で低く鳴った気がした。

「……文七」

源四郎の声は、あまりに低く、そして静かだった。

「……あとは任せろ。」

その目は、もはやこの時代の武士のものではない。

かつて無辜の民ため、国の為に盾となり戦うと誓った、【防人】の、()()()宿()()()瞳だった。

「兄ちゃん……?」

文七が不安げに見上げる。

源四郎は、傍らのみおの方を一度だけ見た。

みおは泣いていた。

しかし、その手は静かに源四郎の刀の柄へ、力を添えるように重なっている。

行ってください…という無言の意志。

「………奴らは【蛆】だ。【蛆】など………【根切り】だ!!!」

源四郎の口から漏れたのは、低い、呪詛のような響きだった。

家中の誰もが、その言葉の重みに息を呑んだ。

【根切り】。

男も女も、老人から赤子まで、家系を絶やし、集落そのものを地図から消し去るという、乱世においても忌むべき皆殺しの戦法。

「ね、【根切り】……? げ、源四郎、おぬし、【根切り】とは如何な意味か分かっておるのか!?」

源三郎の問いかけには、明確な拒絶と恐怖が混じっていた。

武士として戦場で戦うことと、根切りをすることの間には天と地ほどの開きがある。

しかし、源四郎は一歩も引かなかった。

「分かってるに決まってんだろうが!!」

張り裂けんばかりの咆哮。

そして瞬間、源四郎の脳裏に【魂の片割れ】の背が浮かぶ。

薩摩の熱気を帯びた風と、火薬の匂いの中で過ごした日々。

あの、誰よりも無骨で、誰よりも純粋だった親友…

又七郎が、その日々の情景と共に蘇る。

(なぁ、又七郎。お前ならどうする?人の皮被った蛆虫どもが、罪のない童を、その母を……守るべき【民】を壊したとしたら。お前なら、どうやってケジメをつける?…いや、聞くまでもなかったか!)

源四郎の心の奥底に、あの豪快かつ真っ直ぐな叫びが響く!!

『蛆虫ば首などいらん!一匹残らず命だけ刈り取る!!それだけじゃっど源四郎!』

そしてその瞳に宿る色が、完全に変わった。

最早、源四郎の眼には、【修羅の巷が最前線たる薩摩】で培った【薩摩隼人(さつまへご)】の理屈しか映っていなかった!

「文七を人とも思わず、蛆がたかるが如く執拗に嬲った連中だぞ!そいつらに情けをかける必要がどこにある!?奴らこそ人に非ず!これは【蛆虫退治】だ!!!」

周囲の空気がビリビリと震える。

それは、ただの激情ではない。

薩摩の地で叩き込まれた、【苛烈なる殺意】の具現化。

敵とみれば全てをかけて…時に命すら投げ出して殲滅する、精神性。

それを今、源四郎は体現している。

その威圧感に、武勇に秀でた源次郎や茂誠ですら、一瞬だけ背筋を凍らせて硬直した。

が…

源三郎は冷静(?)だった!

「なればこそ……なればこそ落ち着かぬか、このたわけがあああああああああ!」

源三郎の怒声が、屋敷の天井を突き抜けるほどに響き渡った。

源四郎は、兄が自分の【根切り】という過激な主張に同調してくれるものとばかり思っていただけに、ポカンと口を開けて固まる。

「今……ここ信濃はどのような場になっておる!? 言うてみよ、源四郎!」

源三郎の瞳には、弟を叱り飛ばす長兄の威厳と、真田の家を守らねばならぬ重圧が渦巻いている。

源四郎は、その怒気に気圧されながらも、今の信濃の情勢を吐き捨てた。

「あぁ!? 勝頼公が果てて、狸(家康)と猫まんま野郎(氏政)と、内ゲバも収められねぇマヌケ(景勝)に囲まれてる()()じゃねぇか!」

源四郎が「()()」と言い放ったその瞬間、居間の空気が凍りついた。

源三郎の顔から血の気が引き、代わりにどこぞの()()もかくや…な怒りが込み上げてくるのが誰の目にも明らかだった。

「……………な・に・が! 『だけ』、じゃ! こんダボおおおおおおおおおおおおお!」

源三郎の変貌は早かった。

優雅な立ち振る舞いは消え失せ、源四郎との兄弟喧嘩でいつの間にか体得していた()()()が、迷いなく炸裂する!

ドスッ!!

「ぐへっ!?」

源三郎の完璧な【ドロップキック】が、源四郎の鳩尾に突き刺さる。

床板の上を華麗に転がり、壁に激突する源四郎。

不意を突かれたのは「兄上なら言葉で説教してくるだろう」という油断をしていたからだった。

「お主は……お主はあの強大なる大名家に囲まれている今を、その程度の考えで見ておるのか!! 家の存続! 領民の安寧! それらすべてを背負っておる真田の、【次】を担う者が!!」

源三郎は【ドロップキック】を決め、華麗な受け身をとると、足で源四郎を踏みつけんばかりの勢いで詰め寄る。

その姿は、先ほどまでの「冷静な源三郎」ではなく、真田の家格を守るために手段を選ばぬ、荒ぶる長兄そのものだった。

「……ぐっ、痛ぇ……兄上、いつの間にそんなキレのある【ドロップキック】を……」

「ふん!お前が幾度となく私に喰らわせて来た技だ! 身体が覚えたわ!」

その惨状を見て、源次郎は頭を抱え、茂誠は天を仰ぎ、薫と松は「「もう、二人とも!」」と嘆き、おとりは「源四郎、油断しすぎです」と源四郎を諌め、おこうは「まぁ♪源三郎様、お見事です!」と夫たる源三郎を褒め、みおは……なぜか源四郎の心配よりも、源三郎のドロップキックの切れ味に感心したような表情を浮かべていた。

文七は、ただ呆然と「……この家、怖い」と呟き、身を縮こませるしかなかった。

そして源三郎は続ける!

「話を戻すが…そんな信濃の内にて国衆同士が今いがみ合い、最悪郷と郷の戦となれば大名共が付け入る格好の隙となろうぞ!なぜ分からぬ!?」

「はん!国衆!?蛆虫の集まりを【人】として扱えってか!兄上は随分お優しいんだな!」

「こやつ!まだそのような減らず口を!」

「あんだ!?やんのか!」ガッ

「やってやるわ!このボケナス!!」ガッ

怒り狂って掴み合い、まさに兄弟喧嘩ラウンド2のゴングが打ち鳴らされようとしたその時だった。

「…何を騒いでおる?」

重厚な、しかしどこか飄々とした声が居間に響いた。

郷の有力者たちとの会合を終え、昌幸が帰って来たのだ。

その背後に控える気配だけで、源三郎と源四郎の掴み合いがピタリと止まる。

「よぉもまぁ兄弟喧嘩ばかりしおって。飽きぬのか、まったく……まぁ、座れ」

昌幸は事もなげに居間に腰を下ろすと、二人を促した。

その態度はあまりに泰然としており、今の今まで「根切り」だの「ボケナス」だの叫んでいたのが嘘のような空気になる。

源三郎と源四郎は、気まずそうに互いの襟首を正し、正座した。

そこへみおや源次郎たちから先ほどの間者との死闘、文七の身の上や【眼】、そして源四郎の提案した「根切り」まで…委細が報告される。

居間の空気が再び重く、冷たく沈んだ。

文七は、自分が原因でこの一家が壊れかけているのではないかと、小さくなって座っている。

昌幸は報告を聞き終えると、深い沈黙ののち、ゆっくりと口を開いた。

「……………ひとまず、飯にせぬか」

「「「…………え?」」」

昌幸の言葉に、居間の全員が同時に声を上げた。

「文七というたな? そなたも腹が減っておろう。食わねば戦も知恵も働かん」

ズルッ!

あまりの肩透かしに家中の皆が見事に!同時に後ろへズッコケた。

「父上!! 今は文七の話ですよ!? なぜそこで飯なのですか!!」

源四郎が叫ぶが、昌幸はすでに上座に陣取り今か今かと飯を待っている。

「戦と飯は別腹よ。源四郎、お主がいくら憤ろうが、食わねばその【不落】も重いだけだ。……食いながら考えよ。この童をどうするか、室賀をどうするか…な。」

昌幸は、文七に向けてふわりと目を細めた。

その目には、すべてを見通すような、慈悲とも冷徹とも取れる光が宿っている。

そしてしばし後…

食卓に並んだ料理の数々に、文七の瞳はこれまでの人生で見たこともない輝きを放つ。

「これ……ホントに喰っていいの!?」

「おぅ。」

源四郎に言われ恐る恐る、しかし抑えきれない空腹に震える手で文七が箸を伸ばす。

真田の郷の食文化は、源四郎の【現代の知恵】によって、数年前から静かな革命が起きていた。

澄んだ水で育った神川のシジミの味噌汁は、疲れ切った文七の身体を芯から温め、丁寧に調理された鴨の【治部煮】の香りは食欲をそそり、源四郎が伝えた製法による、当時のものとは一線を画す滑らかな豆腐の、初めての食感。

文七は、まるで夢でも見ているかのように一口ずつ、慈しむように口へ運ぶ。

その姿を見ているだけで、源四郎の胸の奥で暴れていた殺意が、少しずつ溶けていく。

「……はらっぺらしのガキ一人増えたところでどうってことねぇよ、好きなだけ食え」

源四郎はぶっきらぼうに言い捨てると、自分も茶碗を手に取る。

しかし、その表情は先ほどまでの修羅の顔ではなく、どこか安心しきったような、穏やかなものへと変わっていた。

「……美味しい文七ちゃん?」

みおが優しく問いかけると、文七は口いっぱいに鴨肉を頬張り、涙目で何度も何度も頷く。

「……うめぇ……っ、うめぇよ……姉ちゃん……!」

その様子を、昌幸は満足げに、そして源三郎たちは少しだけ複雑な思いで眺めていた。

ただ…源四郎はそんな文七を尻目に一人、決意を新たにしていた。

(この飯を、この食卓を守るためなら……俺は何度でも手を汚そう)

真田の屋敷の食卓は、冷え切った戦国の世にあって、そこだけが別の時が流れているような温かさに包まれていた…

そんな折、ふと食べる手を止める文七。

「……おっかちゃんにも、食わしてやりてぇ」

「あっ…」

その言葉に、みおは胸を突かれたように伏し目がちになり、源四郎へ視線を送る。

二人の視線が交差する…言葉にはしなくとも、源四郎には彼女が何を望んでいるか理解できた。

源四郎は深く息を吐き、屋敷の影に潜む男の名を呼ぶ。

「……ったく、仕方ねぇ。やごろ〜。」

「はっ。ここに」

そういうとレンジャー訓練仕込みのスニーキング技術を用いて音もなく弥五郎が現れる。

「わっ!? この兄ちゃん、どっから来たの!?」

文七が目を丸くして飛び上がる。

弥五郎は表情一つ変えず、立膝で源四郎の傍らに。

「弥五郎。こいつの母ちゃん……名はなんつーんだ? どこにいる?」

源四郎の問いに、文七が少し戸惑いながら答える。

「えと、名はたけ。里はずれのあばら家で床についてると思う。一日の大半、寝て過ごしてるんだ」

源四郎は鋭く頷く。

「分かった。聞いたな弥五郎? 何人か率いて拐かしてこい。室賀の蛆虫ども相手に遠慮はいらんが……悟られぬようにな」

「了解。事後の行動にかかります」

弥五郎は立ち上がると背筋を正し、端正な敬礼を返す。

その動作は戦国の武士のものではなく、現代の精鋭そのものだった。

次の瞬間、また音もなく消え去る。

文七は、何が起きたのか理解しきれない様子で、それでもポツリと呟く。

「……兄ちゃん、ホントに、助けてくれんの?」

源四郎は笑う。

かつて【イラク】で市民を保護した時のような、どこまでも頼もしい笑みで。

「俺は、一度『助ける』と決めたら、地獄の果てまで付き合う奴だ。……食え。母ちゃんが戻る頃には、空腹なんて忘れるくらい腹を満たしておけ」

居間に残る者たちは「【特務隊】が動けば大丈夫」と言わんばかりに落ち着きはらっていた。

そして一刻ほど後…

屋敷の門前に、一糸乱れぬ統制された足音が響く。

真田特務隊の整然とした帰還だ。

「……戻りました、源四郎様」

弥五郎が報告する背後で、一人の隊員が慣れた手つきで担いできた人影を下ろす。

文七の母、たけだ。

「……おっかちぁああん!」

文七が涙目で駆け寄る。

しかし、地面に降り立ったたけは、子との再会を喜ぶ余裕などなかった。

一目散に玄関の隅へと駆け寄り、激しくえずき始める。

「おゔぇええええええ!」

その姿は、あまりに痛々しい。

いくら心が壊れていようとも、母としての羞恥心や矜持は残っていたのか。

自分の今の惨めな姿を、息子には見せたくなかったのだ。

その様子を冷ややかに、しかし怒りを込めて見ていた源四郎が、報告を終えたばかりの弥五郎の頭に強烈な拳骨を叩き込んだ。

ゴスッ!

「ごふっ!?」

「お前さぁ! ファイヤーマンズキャリーは下腹部に負担かかるから、長距離移動時はやんなって言ったろ!? 運ばれる人間の体調だって考慮しろって教育したはずだぞ!」

「す、すみませぬ源四郎様ぁ……速さに重きを置くため、つい……」

特務隊副長としての冷静さをかなぐり捨てて、涙目で頭をさする弥五郎。

源四郎は呆れつつも、たけの背中をさすりに行こうとする文七を制し、みおに目配せを送る。

「……みお、水と塩を。あと、温かい湯を入れてあげて?それと、文七」

源四郎は文七の肩に手を置く。

「今みおが水だのなんだの持ってくっから。それ飲ませて母ちゃんを落ち着かせて……今日のところは寝かせろ。……話を聞くのは、明日でもいい。」

たけの吐瀉物と、漂う泥と饐えた臭い。室賀の郷がいかに彼女を蹂躙し、壊してきたかが、その姿から嫌というほど伝わってきた。

(室賀め、ますます許しがたし。)

胸の内で室賀正武への怒りを再び燃え上がらせる源四郎………

が!

その怒りは()()()()()()()()()()()()()()()

――しばし後――

――源四郎寝所――

静まり返った寝所の闇の中で、源四郎の静かな、しかし殺気を含んだ声が。

「………。で………なんでテメェは俺とみおの間に入ってんだ、文七ぃいいいいいいいいい!」

布団の真ん中で、文七が源四郎とみおに挟まれ、すやすやと寝息を立てようとしている。

文七は源四郎の剣幕など知らぬげに、少しだけみおの方へ寄って、幸せそうに寝返りを打った。

「え? だってみお姉ちゃんが、冷えるからって」

文七の寝ぼけまなこの無邪気な回答。

それは源四郎にとって、ある種の強力な攻撃力を持っていた。

「冷えるなら俺が抱きしめて温める! その隙間は、夫婦の聖域だぞ!」

源四郎が布団から半分身体を起こして抗議するが、対するみおは、文七を愛おしそうに撫でながら、源四郎の方へ視線を流し、小悪魔のように微笑んだ。

「ふふっ♪ まぁまぁ源四郎様。文七ちゃんはまだ幼いのですから。それに……この先わたくしたちに子が出来たら、こうやって並んで寝るのですよ?今から慣れませんと♡」

その一言で、源四郎の反論はすべて霧散した。

「……っ!!」

子。その響きだけで、源四郎は顔を真っ赤にして布団に潜り込む。

「……お、俺とみおの……子……」

布団の中で、源四郎は悶々としながら天井を見つめる。

隣で寝ている文七の寝息が、やけに大きく聞こえる。

みおはすでに目を閉じており、その柔らかな寝顔はこの世のものとは思えぬほど美しかった。

(……この幸せを、当たり前の日常を、理不尽に踏みにじった室賀の連中を……のさばらせとくわけにはいかねぇな)

源四郎は文七の小さな頭を、乱暴ながらも優しく撫でた。そして、みおの袖をそっと引き寄せ、その温もりを指先で確かめる。

「……まぁまずは明日、文七母子の処遇を決めてからだな。」

源四郎はそう小さく呟くと、目を閉じた。

明日は再び昌幸らを交えて文七とたけをどうするかの話し合い。

だが、今夜は、この小さな「家族」の時間を守ろうと決めて。

文七の寝息、みおの吐息、そして源四郎の荒い呼吸が、夜の寝所に溶け合っていくのであった。

…しかし!

文七もやはりオス!!

――翌朝――

――源四郎寝所――

朝陽が障子を透かし、寝所に柔らかい光が差し込む。

最初に目を覚ました源四郎は、あくびをしつつ背伸びをしていたが…その途中で動きを止めた。

「……んん……あ、朝か……って……ッ!!」

源四郎の身体が、怒りでワナワナと震え出す。

視線の先、布団の中にいる文七の手が、なんとみおの胸元の合わせから滑り込み、あろうことか()()にすっぽりと収まっているではないか!

「……なっ、テメェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェ!!」

朝っぱらからから怒髪天をついた叫びをあげる源四郎。

源四郎の脳内で、理性が焼き切れる音がした。

文七はまだ微睡みの中。

あどけない寝顔でみおの胸を枕代わりにしている。

「……んん。……あら、おはようございます。ふふっ♪」

みおが目を覚ます。

自分の胸元に文七の手があることに気づいたようだが、彼女は驚くどころか、むしろ慈しむように文七の髪を撫でている。

「……………やっぱ、コイツ斬るか?」

源四郎の殺気が、寝所に充満する。

枕元に置いてあった【不落】の柄を掴み、鞘から数ミリ引き抜いた、その時だった。

「源四郎! 朝から騒がしいぞ、何をやっとるかこの馬鹿者ぉ!」

障子が勢いよく開き、源三郎が顔を覗かせる。

光景を見た源三郎の目が、一瞬で「またか」という色に染まった。

「ちぃ!?文七!おい文七、起きんか!!そこを退けッ!!」

源四郎が【不落】を構えて飛びかかろうとした瞬間、源三郎が飛び込む。

「だああああああああああああ! 兄者ぁ!源次郎ぉ!!手伝え!!」

「やはりこうなったか…はぁ〜…」

「おおおぉい!?童相手になにムキになっとるんだ源四郎!?!?」

駆けつけた源次郎と茂誠が、慣れた手つきで源四郎の四肢を取り押さえる。

「兄上! 兄様!兄者!離せ!! なぜ文七を守る! あのガキ、みおの谷間に手を突っ込んでるんだぞ!?」

「そんなことより、まずは落ち着けこのたわけ! 朝から屋敷を血で染めるさせる気か!?普段から屋敷を汚すなと言っておろう!」

「そうだ源四郎! 文七はまだ幼子なのだぞ!?大目に見てやらぬか!」

「そうじゃ!目の前にデカい乳があれば揉みたくなるのが…」

「「兄者!火に油注ぐ真似はやめてくだされ!!!」」

必死に宥めようとする源三郎と源次郎。

そこに茂誠が(悪気なく)男の、いやオスの()(ざが)を説くもんだから二人そろって窘める。

「知ったことかあああああああああああああ!!子供だろうが何だろうが、俺の聖域(みおの谷間、つーか乳)は譲れん!!」

源四郎が暴れ、三人の若武者がそれを必死に組み伏せる。

当の文七は、騒ぎに気づいてムニャムニャと目を擦りながら起き上がり、自分が何をしたのかも分からずに「……ん? 朝飯?」とボケたことを言っている。

その様子を眺めていたみおは、騒ぎの中で一人、優雅に髪を整えながら、源四郎の殺気すらも愛おしそうに眺めていた。

そんな中、朝の騒乱を、屋敷の廊下から昌幸はただ静かに眺めていた。

床に組み伏せられ、「文七を斬る!」と喚く源四郎。

それを必死に羽交い締めにする源三郎、源次郎、茂誠。

その騒ぎをどこか楽しむように、ふわりとした笑みで見つめるみお。

そして、自分が何を引き起こしたのかも理解せぬまま、欠伸をする文七。

その光景は、戦国を生き抜く武将の家とは思えぬほど滑稽で、同時に、これほどまでに人間臭い「家族」の姿もまた、乱世には珍しいものだった。

昌幸は、口元に薄い笑みを浮かべたまま、廊下の柱に背を預ける。

「やれやれ……」

源四郎が連れてきたその少年、文七。

昨日、みお達から聞いたあの「眼」の力……

何もない空間から距離を測り、そしてともすると風の流れや標的(目標)の動きまでも看破する異能。

それが本物ならば、真田にとってこれほど強力な武器はない。

だが同時に、文七の()()()()(忌み子と言う事実)が真田の家格を、あるいは領地の平穏を、根底から覆しかねない諸刃の剣でもある。

(……この騒がしい日々の中に、あの童の【眼】を混ぜる。さて、真田という器は溢れるか、それともより強固に練り上げられるか……)

昌幸は、文七がふと、こちらを向いたような気がした。

その瞳の奥には、子供らしい純粋さと、この世のことわりを見通すかのような底知れぬ静寂が同居している。

「果たして真田が【千里眼】となるか、それとも……」

昌幸は独りごちると、くるりと踵を返した。

騒ぎはまだ収まりそうにない。





文七母子には幸せになってほしい限り(´;ω;`)

さて、次回。

そんな文七の【眼】の真価が発揮されます!

刮目して待て!

※作者からのお願い※

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