其之三
――時は移ろい、天正10年晩秋――
――真田の郷、源四郎寝所――
「………参ったなぁ。いやぁ参った。」
火鉢の前で一人頭を抱えごちる源四郎。
話は数日前、特務隊の【訓練検閲】に遡る。
――数日前――
――郷内、練兵場――
この日、源四郎は特務隊共々【訓練検閲】を催していた。
来賓として昌幸、源三郎、源次郎も招いた割と大規模なものである。
内容は【竹龍】および昨日完成した新兵器のお披露目だ。
【基本教練】、【分隊教練】の披露から始まり…
いよいよ【竹龍】の試射へ。
竹龍の放った最初の榴弾が、目標のかかしを木っ端微塵にした直後。
山間に爆音が収まり冷たい風だけが吹き抜ける中、昌幸は表情一つ変えず…ただ源四郎のある不備を見抜いていた。
「源四郎よ」
昌幸の低い声が響く。
「むっ?」
「父上?」
源三郎と源次郎が緊張した面持ちで控える中、父は竹龍の架台の脇に立ち、源四郎の肩に手を置いた。
「この筒、確かに面白い。だが一つ問う。敵の軍勢がこの谷の向こう、木々の影に潜んでいるとする。お主は、その敵まで何間あると読み、この竹龍の角度を定める?」
源四郎は答えに詰まる。
現代ならレーザーレンジファインダーで数秒、あるいは地図上の座標で算出できる。
だが、ここ戦国の世では【目測】だ。
地形の歪み、視界を遮る風に揺れる木々の枝葉、日差しによる陽炎。
それらすべてが視覚を狂わせる。
「……五〇間、いや、六〇間と見立てます」
「ふむ。ならば特務隊の者共に測らせてみよ」
そしてしばし後…
「「「源四郎様ぁ〜、八十間はありますよぉ~!」」」
検地竿を持たせ測量に回した隊員たちが元気よく答える。
「………外れたな」
昌幸は冷徹に言い放った。
「お主は【隔たり(距離のこと)】を数字で計ろうとしているが、戦場において【隔たり】とは己が足がどれだけ速く届くかという時のことだ。お主の【竹龍】は、敵までの隔たりを誤れば、ただの無用の長物よ。その【勘】を、お主は特務隊の者共にどう教えるつもりだ?」
源四郎は言葉を失った。
兄たちが心配そうにこちらを見ている。
【距離を測る】という軍学の基本すら、現代の道具に頼り切っていた自身には、古流の【山歩きの知恵】を教える言葉がなかった。
が、源四郎も転んだところでただでは起きない。
兄たちが気まずそうに見守る中、源四郎は乾いた喉を鳴らした。
「……父上。【竹龍】の至らなさは認めます。しかし、もう一つ……我が特務隊が用意した【伏せ駒】、ぜひご覧いただきたい。繁蔵ぉ!」
「はい源四郎様ぁ!万事整っております!!」
【竹龍】の掃射地点より離れた場所。
四〜五十ほどのかかしが縦隊(縦列)で立ち並び、その脇に待機する繁蔵。
源四郎の合図で、繁蔵が笑みを浮かべながら、地面に仕掛けた数箇所の新兵器の起爆紐を引く。
ドォォン! という爆音と共に、側方に設置したかかしが、仕込まれた無数の鉄礫で蜂の巣のように粉砕された。
ただの爆発ではない。
扇状に広がる破壊範囲と、その圧倒的な制圧密度。
そう、俗に言う【指向性散弾】である。
昌幸の目が、スッと細められた。
「……ほう。これは一体、どういう仕掛けだ?」
「……【真田籠】と名付けました。敵が山道を通る際、道の端にこれを埋めておけば、正面から突っ込んでくる敵を横合いから一掃できる。……【竹龍】のような連射は利きませんが、一撃の確かさ、仕留められる敵兵の数はこちらの方が上かと」
昌幸は安全確認がなされた後、破壊されたかかしに近づくとそれを指先でなぞり、ふっと口角を上げた。
「源四郎よ。【竹龍】で散々言ったが、これは面白い。これなら、我ら真田の数少ない兵でも、格上の軍勢の鼻を明かせる。……これは繁蔵と?」
「はい。【竹龍】は手こずりましたがこれは割とすぐ作れました♫」
源四郎がそう答えると昌幸は声を上げて笑った。
「面白い! 一瞬で敵兵を蜂の巣にする武具を作りながら…他方、【竹筒】の扱い…【目測】に苦労するか! なぁに存分に悩め源四郎!はっはっは!」
――時は戻って現在――
――源四郎寝所――
源四郎は火鉢の前で、昌幸の笑い声を思い出していた。
「……ったく。竹龍でどん底まで落としておいて、真田籠で持ち上げやがる。相変わらず食えねぇ親父だ」
源四郎は火鉢の灰をかき混ぜながら、それでも手応えを感じていた。
「だが、これでいい。【真田籠】は認められた。この成功があれば、次の【竹龍】の改善にも予算を回せるし、何より、繁蔵の自信に繋がったはずだ。……今度、酒でも奢ってやるか。………流石に遊女世話してやったらふみに殺されそうだからな」
そう小さく笑い、先ほどからずっと頭を占領していた【距離を測る】という課題に思考を戻す源四郎。
「……ああああああもう!」
寝所の床板に大の字で転がりふてくされる。
天井の木目が、まるで幾何学模様の歪んだ測距線のように見えてくる。
「このデジタル測器も精密な地図もない戦国の世で…どうやって正確な距離測れってんだよ!」
その時、障子の向こうから、鈴を転がすような、しかし芯の通った声がした。
「源四郎様、宜しいですか?」
みおの声だ。
源四郎は慌てて飛び起き、だらしない格好を正そうとするが、みおは既に静かに障子を開けていた。
ふわりと入ってきたみおの横顔。
それを見た源四郎の胸中はと言うと…
(うん!やっぱり俺の嫁は最高だな!!)
さっきまでの悩みはどこへやら。
やはりコイツ、根がスケベである。
そんな源四郎の腹の中を知ってか知らずか、みおは言う。
「なにやら根を詰めておいでのようでしたので」
「……みお。いや、大したことじゃないんだ。ただ……少しばかり、答えの出ないことに手こずっていてな」
源四郎が頭をかきながら言うと、みおは少しだけ目を細め、火鉢の横に膝をついた。
「ふふっ。でしたら源四郎様、少し郷にでも出て気晴らしなど如何ですか?」
「え?」
「ずっと部屋に籠もって唸っていては気も滅入り妙案も出ませんよ?」
みおはそう言って、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「………そうすっか」
源四郎は、小さくため息を吐き、そして観念したように肩の力を抜いた。
みおの言う通りだ。戦場の理屈だけで答えを探そうとするから、視界が狭くなる。
「……そうだな。少し外の空気を吸えば、この頭の凝りも解れるかもしれん」
彼は立ち上がり、羽織を手に取る。
更に…
「…一応持ってくか」
最近ようやく触ることが出来るようになった愛刀【不落】を腰に差す(相変わらず柄を握ると手が震え、抜けはしないが)
そうしてちらりとみおの顔を見て、少しだけ照れくさそうに笑った。
「ありがとう、みお。……お前は時々、俺の頭の中を覗いているみたいだな」
――壱刻ほど後――
――室賀との郷境の里山――
郷の喧騒を離れ、二人は緩やかな坂道を歩いていた。
かつて、みおが室賀の痴れ者共に拐かされ、源四郎が修羅となってその命を救った場所。
今は、あの時の血の臭いも、張り詰めた殺気もない。
ただ、晩秋の風が枯れ葉を転がす、穏やかな里山がそこにあった。
「ここに来ると、今でも少しだけ胸が騒ぎます」
みおが呟き、源四郎の袖をそっと引いた。
源四郎は苦笑しながら、周囲の茂みに目を配る。
レンジャーとしての癖か、山に入れば無意識に地形の起伏と射線を計算してしまう。
「悪いな、みお。連れ回して。……だが、ここなら少しは頭の中の霧も晴れる気がしたんだ」
「いいのですよ。源四郎様が悩み抜いた末に見出す【答え】、私もしっかりと見ておきたいのです」
二人は語らいながら、山の稜線が赤く染まる小道へと足を踏み入れる。
源四郎は、この穏やかな時間がいつまでも続けばいいと思いながらも、その思考の片隅では、依然として竹龍の測距問題が渦巻いていた。
敵までの距離を、いかにして正確に導き出すか。
そんな思索の最中だった。
山の奥、木々の隙間から聞こえた、乾いた風切り音。
ヒュンッ
それは、小枝を折る音とは明らかに違った。
続いて、何かが地面に落ちる鈍い音。
「……………?」
源四郎は足を止め、瞬時にみおの前に出た。
視線は、音のした方へと鋭く向く。
そこには、ボロボロの木綿の着物を纏った……歳の頃は二人より三つほど下であろうか?一人の少年がいた。
足元には、たった今仕留めたばかりの山鳥が転がっている。
少年は何事もなかったかのように山鳥と、その傍らに落ちた石を拾い上げた。
おそらくその石で仕留めたのだろう。
「おぉ!すげぇなオメェ!!」
源四郎は思わず声を上げ、驚きを隠さずに歩み寄った。
そんなに至近距離でもない、更に山鳥は動いていたはずだ。
それを、ただの石一つで。
「どうやってんだ??」
「あら!ホント!……見事な手並みですね」
みおもまた、源四郎の背後から驚きを隠せない様子で少年に歩み寄る。
少年は、唐突に現れた二人をじろりと見た。
その目は、源四郎が今まで見てきたどんな武士とも、信長や家康、島津四兄弟や又七郎に弥七郎とも違う…不思議な、深淵を覗き込むような色をしていた。
「………誰だ?兄ちゃん、姉ちゃん??」
少年は石を握り直すと、無造作に懐へ入れた。
「ん?あぁ、すまんな。俺は源四郎。真田家の三男坊だ」
「わたくしはみお。源四郎様の妻です」
二人が名乗ると、少年は首を傾げた。
「んあ?真田って……あの隣の郷の??わざわざ室賀まで来たの??」
キョトンとした少年の言葉に、源四郎は眉をひそめた。
「……あ? ここは室賀じゃなく、もう真田領だぞ? 父上と正武様の取り決めで、互いの郷の者は無用な出入りはしちゃいけねぇって決まってんだろ? 知らねぇのか?」
真田と室賀。
両家の緊張感ある関係は、領民の間でも周知の事実だ。
境界線付近での出入りは、それこそ間者と疑われても文句は言えない。
だが、少年はまるで聞いたこともないという顔をしている。
少年は少しだけ困ったように目を伏せた。
「………誰もオイラなんか相手にしないよ。それに、この山を越えるのに誰かの許しなんて……。それどころか……いや、何でもない」
「?」
言葉の端々に見え隠れする、何かを隠すような響き。
源四郎は少年の瞳をじっと見つめたが、少年はそっと視線を逸らした。
「あ、そうだ。おいらの名前は文七ってんだ。よろしくね、兄ちゃん、姉ちゃん」
「はい♪ よろしくお願いしますね、文七ちゃん」
みおは屈託のない笑みを向けているが、源四郎の脳裏では警鐘が鳴っていた。
(……誰も相手にしない? この山の中に、こんな腕前の子供が一人で? まさか、捨てられた……? いや、それ以前に……)
「文七、か。いい名前だ」
源四郎は努めて穏やかな声を作り、少年に歩み寄った。
「なあ文七。さっきの礫打ち、凄かったな。距離にしておよそ……八間強ってところか? そんな遠くの小鳥を、風を読んで落とすなんて。……誰かに教わったのか?」
源四郎は、あえて【計測】について踏み込んだ。
文七の能力の正体を知りたかった故だ。
が、文七はキョトンとして小首を傾げた。
「……教わる? わかんない。ただ、鳥がそこにいるのが分かって、石を投げればそこに届くって、それだけのことでしょ? ……兄ちゃんには、見えないの?」
その言葉に、源四郎は背筋が冷えるような衝撃を受けた。
(……見える、だと?)
「兄ちゃんには……見えないの? ここからあそこまで【糸】が」
文七の指差した先には、確かに何もなかった。
だが、源四郎の眼には、その指先からまるで照門から照星の間を結んだような、正確な【線】が延びているように見えた。
「………………!!」
源四郎の脳裏で、現代日本で聞いた眉唾ものの話が駆け巡った。
(こいつ………まさか、机上の空論と思ってた【空間認識能力者】か!?)
あまりの衝撃に、源四郎は石像のように固まってしまった。
そんな源四郎を、文七は不思議そうに小首を傾げて見上げる。
「……どーしたの兄ちゃん? 顔、真っ青だよ?」
そのキョトンとした顔を見て、源四郎は慌てて表情を取り繕うとしたが、引きつった笑みしか浮かべられない。
そこへ、みおが穏やかな声で割って入った。
「ふふっ。源四郎様は少し悩みごとがあるんです。……時に文七ちゃん?」
「ん? なんだ姉ちゃん??」
みおはしゃがみ込み、文七と目線の高さを合わせた。
「お腹減ってるなら、屋敷に来ませんか? 今日は舅様も郷にいらっしゃるので、少しばかりご馳走も並ぶのですよ??」
文七の瞳が、パァッと見開かれた。
小鳥一羽で食いつなぐ日々と、真田の屋敷の食事。
子供の思考に迷いはなかった。
「えっ? ……行っていいの?」
「おぉ、もちろんだ! そうだ、お前のその礫打ち、もっと詳しく聞かせてくれよ!」
源四郎は食い気味に返答した。
(みお、ナイスすぎる! これなら父上の前へ連れ出す大義名分が完全に立った!)
「あ、ありがとう兄ちゃん! ……あのね、本当はもっと遠くの鳥だって、【糸】が見えれば落とせるんだよ!」
無邪気にそう言って走り出そうとする文七…
が!
「!……待て文七。みおと俺の後ろへ……」
源四郎は瞬時に半身になって文七を背後に庇う。
その動きは、先ほどまでの「悩める三男坊」とは別人の、戦場の獣そのものだった。
「へっ?」
文七が何が起きたのか理解できずにいる間、源四郎の冷徹な視線は、暗い木々の茂みの一点を見据えていた。
「………殺気ダダ漏れだぞ? だったら出てきたらどうだ? 狸んとこか?? それとも相模の猫まんま野郎のとこか???」
源四郎の挑発に応じるように、ガサリと音がして、三人の影が闇から躍り出た。
「貴様! 我が殿の食事を猫まんまなどと!!」
一人の間者が激昂して叫んだ瞬間、源四郎は心の中で(……あーあ)と溜息をつく。
「………頭に血ぃ登りすぎ。自分で【北条方】ってバラすバカがあるかよ」
「!!!!!」
間者たちは、自分たちの失言に気づいて顔を青くした。
だが、もはや引き返せないと悟ったのか、殺気を剥き出しにして距離を詰めてくる。
「貴様ッ、抜かしたな! ここで消せ!」
三人の間者が同時に肉薄する!
「みお!文七ぃ!!下がってろ!」
源四郎は抜刀の構えをとった。
タイ捨流の極意、身体全体をバネのように使う体捌き。
薩摩の地で蔵人佐から「死にたくなければ己を捨てろ、【タイ】を捨てるとは【体】を捨てるとも解く。それを身体に染み込ませぃ!」と叩き込まれた、その構え。
間者の一人が、源四郎の隙のない構えにたじろぎ、一歩引く。
(いける……! 呼吸を合わせ、重心を前へ――)
しかし。
源四郎の指先が柄に触れた瞬間、脳裏に雷鳴のような衝撃が走った。
視界が歪む。
数ヶ月前、小県へ向かう道中で切り伏せた者たちの断末魔。
血飛沫。
冷えた泥の感触。
そして、あの斬り伏せても尽きることのない殺戮の記憶。
「……っ!!」
家久から賜った剛刀【不落】。
その頑強な刀身は、鞘の中で微動だにしない。
源四郎の指が、腕が…恐怖いやトラウマで!鞘から引き抜くことを拒絶しているのだ。
「――なんだ? 構えが崩れたぞ! 斬れ!!」
間者たちの殺気が一気に膨れ上がる。
源四郎は冷や汗を拭う余裕すらない。
蔵人佐直伝の足捌きで、間者の一撃を紙一重でかわす。
素手で相手の腕を絡め取り、関節を極めようとするが、刀という【牙】を失った戦士は、あまりに脆く振り払われる。
「……ッ、チクショーが!!」
源四郎は罵り、間者の顔面に掌底を叩き込んで突き飛ばした。
だが、残りの二人が両側から刃を浴びせてくる。
「兄ちゃん、危ないッ!」
背後で文七の悲鳴に近い声が上がる。
源四郎は、抜けない刀の柄をそのまま使い、相手の横面を強打して弾くのが精一杯だった。
(ダメだ……今の俺には……こいつはただの鉄の塊だ……!)
刀が抜けないという事実は、間者たちにとって、源四郎が「何か重大な隠し事(弱み)」をしていると悟らせるに十分だった。
間者たちは源四郎の迷いを見抜き、さらに獲物を追う獣のような眼光で源四郎を見やる。
その時!
「文七ちゃん! 源四郎様! 逃げて!!!」
みおが叫び、真っ直ぐに立ちはだかった。
間者の一人が歪んだ笑みを浮かべ、その眼前で無情に刃を振り上げる。
「姉ちゃん!?」
「…は?」
文七の叫びと同時に、源四郎の意識が凍りついた。
次の瞬間、脳裏をどす黒い自己嫌悪がなだれのように押し寄せる。
(何やってんだよ、俺? 使えねぇな)
(今が一番、刀を抜かなきゃならん時だろ? 腰の【不落】は、ただの飾りか?)
(このタイ捨流は……みおを守るために、みおの【妖刀・魔剣】となるために身につけたんだろう? 見かけ倒しか?信長公も呆れんぞ??)
(ほら……みおが斬られるぞ?)
恐怖が、自身への憤怒へ変わる。
過去の血の臭い、血肉を断つ感触。
そんなもんは今はどうでもいい。
目の前の惨劇を止められるのは、この世界で俺しかいない。
源四郎の瞳から、迷いが消えた。
視界が鮮明になる。
間者の肩の筋肉の収縮、小太刀の切っ先の軌道、みおの肌に届くまでの距離、すべてが静止画のように見える。
「……………………………………何してんだ、てめぇ?」
それは、源四郎自身の声とは思えぬほど、底冷えするような低い声だった。
鞘が鳴る。
愛刀【不落】が、まるで最初からそうであったかのように、吸い込まれるように抜けた。
ズバァッ!
鈍い音が響き、夜の闇に鮮血の花が咲く。
唐竹割りにされた間者は、己がどうなったのかも理解できぬまま崩れ落ちた。
「…………。」
源四郎はそのままの勢いで、残る二人の懐へ飛び込む。
大地を割らんばかりに力強く、それでいて薩摩から今に至るまで続けている風呂上がりの柔軟に裏打ちされたしなやかな踏み込み!
タイ捨流の太刀筋は、もはや躊躇いなど微塵もない。
二太刀、三太刀。
迷いなく、容赦なく…ただ一意専心、みおの敵の命を刈り取る。
静寂が戻った里山に、源四郎の荒い息遣いだけが響く。
「……源四郎、様……?」
みおの声が、源四郎を現実へと引き戻す。
見れば、刀から滴る血がその頬を朱に染め、着物を赤く汚していた。
斬り伏せた間者の血。
その生温かい温度も…今の源四郎は安土より戻った時とは違い………意に介していなかった。
「……わりぃ、みお。……遅くなった」
源四郎は【不落】を鞘に納める。
……その手は、もう震えていなかった。
そう。
源四郎は師、蔵人佐の言う【人を斬ることへのためらい】を振り切ったのである。
背後で、文七がポカンと口を開けて、その光景を呆然と見つめている。
その瞳には今、源四郎の背中から立ち昇る何かが、戦場の真実そのものに見えていたに違いない。
他方、源四郎は再びみおをまじまじと見やる…
が!
「ああああああ! みお、着物が!?」
源四郎は今しがたまで鬼、いや化け物然とした形相で間者を斬り捨てていた男とは思えぬ顔で、血に染まった妻の着物を見て狼狽した。
「ごごごご、ごめんよぉみおおお! 怖かったろ!? 怪我はねぇか? どこか斬られてねぇか!?」
オロオロとみおの身体を調べようとする源四郎。
そのあまりの慌てっぷりに、殺気で張り詰めていた空気が、まるで嘘のように溶けていく。
だが、みおはそんな夫の姿を、慈しむような瞳で見つめた。
すると血に染まった自分の着物など気にも留めず、源四郎の背中に腕を回して強く抱きつくみお。
「恐くなどありませぬ」
ギュッ、と抱きしめられる温もりに、源四郎は動きを止める。
「源四郎様のこのタイ捨流の御業。これはみおのために得た力でありましょう? なれば、怖がる道理はありませぬ」
その言葉は、源四郎が抱えていたPTSDの呪縛を、一瞬で消し去るほどの強さを持っていた。
【人を斬ること】への罪悪感すら、みおへの献身という純粋な動機で塗りつぶされる。
「……みおぉ……っ」
源四郎は、自分を受け入れてくれるその温かさに、涙をこらえて彼女を抱き締め返した。
その光景を、数歩離れた場所から、文七は呆然と見つめていた。
「……なんなんだ、この兄ちゃん姉ちゃん……」
目の前で人が斬り捨てられ、血が流れ、今度はその斬り捨てた当人たちが抱き合って愛を語っている。
九つの少年には、この「大人の世界」の理屈はあまりに理解不能だった。
(……兄ちゃんは戦うと化け物みたいに強いのに、姉ちゃんの前では……ただの情けない兄ちゃんだ)
文七は呆れながらも、なぜか胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
今まで一人で、鳥を獲って食い、誰にも見向きもされなかった日々。
そんな自分を初めて「屋敷へ来ないか」と誘い、命を懸けて守ってくれた二人。
「……ま、いっか。この兄ちゃんについていけば、面白いことが起きそうだ」
文七は懐から石を出し、ポイと空へ放った。
そうして三人は連れ立って真田屋敷へ…
――壱刻後――
――真田屋敷――
真田屋敷の居間は、重苦しい報告と、それとは対照的な「ある男」のすすり泣きで満ちていた。
郷の見張りの任より帰った源三郎は報告を聞き終えて腕を組み、頭痛を抑えるように目を閉じた。
「……あい分かった。北条の間者を三名、討ち果たしたるは真田家として大義。源四郎の武功に異存はない…ないが…………」
源三郎の言葉に、先に屋敷にいた茂誠と源次郎は安堵の息を吐く。
だが、源三郎の視線が居間の隅に飛んだ瞬間、その眉がピクリと跳ねた。
そこには、膝を抱えてシクシクと泣き崩れる源四郎の姿がある。
「……あの馬鹿は何故あんな隅で泣いておる!?」
源三郎の問いに、茂誠と源次郎は顔を見合わせ、引きつった笑みを浮かべた。
「「ええと……その………件の文七なる小僧と、みおが……今、湯殿に」」
「……は?」
源三郎の理解が追いつくより早く、源四郎が「うわああああああああああん!」と叫びながら立ち上がった。
その瞳は血走り、腰の【不落】の柄をガチガチと鳴らしている。
「みおの純心がぁあああああ!!文七のヤロー!! 俺ですら滅多に一緒に入らんつーのに……ッ!! ぶった斬ってやる!! 今すぐ叩き斬ってやるうううううううううう!!」
「源四郎、落ち着け! 文七は九つだぞ!?」
源次郎が宥めるも聞く耳持たぬ源四郎!
「関係ねぇ! あいつにゃ【眼】の才能があるとか思ってたが、好色の才もあるってか、あの野郎ッ!」
…なんとも「お前が言うか」な台詞を吐き、そのまま湯殿へ向かおうと暴れ出した瞬間、源三郎、茂誠、源次郎が三人がかりで源四郎に飛びついた。
「抑えろ! 源次郎、足だ! 兄者、腕を離すな!」
「おいっ、源四郎!血走った目で湯殿へ向かおうとするな!みおも文七も驚くぞ!?」
「そうじゃ源四郎!みおに引っ叩かれるぞ!?」
必死の形相で諭す源次郎、茂誠の言葉もなんのその!
源四郎もまた修羅の形相で返す。
「離せ! 俺は今、最高に怒っているんだ!」
源四郎が兄たちの拘束を振り切らんとしていた、その時だった。
湯殿の方から足音が響き、居間の入り口に影が落ちた。
スーッ
障子が開く。
そこにいたのは顔から完全に血の気が失せたみおと、何が起きたのか全く分からず、ただキョトンとして乾いた髪を揺らす文七の姿だった。
「……………っ」
源四郎の罵声が、喉の奥で詰まる。
兄たちの動きも止まった。
……いったい、湯殿で何があったのか?
みおが源四郎を止める間もなく、その場に漂う不穏な空気は、さきほどの殺し合いとは別の意味で極限に達していた。
※多くの人が誤解するんで補足しますが…
指向性散弾自体は現代戦でも使われてます。
要はワイヤートラップ等で【不特定多数を殺傷する地雷】としての運用が条約で禁止されているのであって【対象を目視確認し手動で起動させる指向性散弾】としての運用はその限りではありません※
さて…
湯殿で一体何が!?(; ・`д・´)
緊迫の次回を…
刮目して待て!




