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信濃の修羅〜現代人の俺、存在しないハズの真田の三男坊として転生す〜  作者: ギュネイ山本
第六章【雌伏の時。源四郎、郷にて力を蓄えるの段】

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其之一

――壮絶なる帰還より幾日か――

――真田屋敷――

「………………。」

真田屋敷の一室。

夏も近づく爽やかな日差しが、畳の上に置かれた剛剣【不落】を照らしていた。

源四郎は、その前に座していた。

抜いたわけではない。

ただ、鞘に収まったその刀に手を伸ばそうとするだけで、全身から脂汗が吹き出し、視界が歪む。

(……触れられねぇ)

指先が近づくたびに、脳裏にあの日の光景が鮮烈に蘇る。

明智の兵たちの断末魔。

血の海を渡ったあの冷たい感触。

自分が屠った者たちの、恨みが籠もった瞳。

「う、うぅ……っ」

喉の奥から、獣のような嗚咽が漏れる。

これまで己の手足のように信頼していた【不落】が、今はまるで、地獄の業火を凝縮した塊のように見えた。

刃に触れれば、再びあの地獄の底へ引きずり込まれる……

そんな本能的な恐怖が、彼の右手を金縛りに遭わせる。

源四郎の背中は、寒気と焦熱で激しく波打っていた。

その様子を、庭先からじっと見守る者がいた。

障子を全開にした先。

庭で源三郎が黙々と木刀を振るっていた。

鋭い風切り音が響くたび、彼の鍛え抜かれた肉体が躍動する。だが、その眼差しは常に、部屋の中にいる弟へと向けられていた。

(やはり、か……)

源三郎は木刀を止め、ふう、と深く息を吐く。

弟が抱える【呪い】の深さを、兄として痛いほど理解していた。

戦場から帰還すれば、それで終わりではない。

修羅の道を通った者には、平穏という名の【日常】こそが、最も残酷な治療の場となる。

庭の木々が風に揺れ、木々の枝葉がかすかにざわめく。

源三郎は無言のまま、再び木刀を構え直した。

今、ここで源四郎に声をかけても、その言葉は弟の苦悩の前には届かない。

(源四郎。……その刀を再び握る時、お前がどうあろうと、この兄が隣に立ってやる。それまでは、存分に苦しむがいい)

あえて何も言わず、ただ弟のために素振りを続ける源三郎。

庭から響く木刀の規則正しい音が、源四郎の荒れた呼吸を、少しずつ、ゆっくりと真田の郷の調和へと引き戻そうとしていた。

部屋の中に漂う重苦しい空気と、庭で流れる健全な汗の匂い。

真田の屋敷は、弟の精神が再び人間に戻るための、静かな戦場となっていた。

他方そんな苦しみの最中、庭から響く規則正しい木刀の風切り音。

それが源四郎には、どこか自分を責める拍子のように聞こえていたのか…

自分の手は震え、刀に触れることさえままならないというのに、目の前の庭先では源三郎が涼しい顔で修練に励んでいる。

その対比が、源四郎の卑屈な心に火をつけた!

「……兄上はいいよなぁ」

畳に爪を立てながら、源四郎は誰に聞かせるでもなく、しかし兄の耳に届くようにはっきりと吐き捨てた。

「棚からぼた餅で、おこう姉さまが帰ってきて」

沈黙。

庭の風切り音が、ピタリと止まった。

源三郎の背中が、わずかに震える。

その肩は、怒りで鋼のように硬く盛り上がっていた。

「………あ゛?」

低く、地を這うような野獣の唸り声。

源三郎がゆっくりと振り返る。

そのこめかみには、青筋がピクピクと脈打っていた。

(こんクソガキぃ……!)

源三郎の心の中で、理性という名の堤防が決壊する音が響く。

おこうを奪還するために、どれほどの情報網を張り巡らせ、どれほどの神経をすり減らしたと思っているのか。父・昌幸の策とはいえ、その過程でどれほど胃に穴が開く思いをしてきたか。

源三郎は、ゆっくりと木刀を地面に突き立てると、凄まじい殺気を放ちながら縁側に立った。

「おい、源四郎。……今、なんと抜かした?」

兄の顔は、先ほどまでの「弟を見守る慈愛の表情」など微塵も残っていない。

血染めの道を通った弟にも劣らぬ、真田の嫡男としての恐ろしいまでの【怒気】が部屋を支配する。

「棚からぼた餅だと? 私が…おこうが滝川の人質となっている間、どれだけおこうの安否を気遣い、父上の策を補佐し、神経を磨り減らしてきたと思っておる!」

源三郎の一歩が、畳を大きく踏みしめる。

「それをおぬしは……地獄から戻ったばかりの被害者面をして、この兄を馬鹿にするか! よかろう、その腐った根性、この兄が直々に叩き直してやる!」

「え? はっ?? ちょ……あにう……」

源四郎の額から、滝のような脂汗がダラダラと流れ落ちる。

しまった、という顔をした時にはもう遅い。

目の前では、さっきまで優雅に素振りをしていた兄・源三郎が、今や鬼の形相で木刀を振り回しながら迫ってきていた。

「そこになおれと言っておるんじゃこの馬鹿! アホ! スカタン! おたんこナス!!」

怒りのあまり語彙が爆発した源三郎の罵詈雑言。

「……っ、俺の口癖うつってんじゃねぇか! この暴力長兄ぇええええ!!」

源四郎は反射的に畳を蹴り、後ろへ飛ぶ。

身体が勝手に反応する。

蔵人佐のもとで培ったタイ捨流の体捌き。

だが、今の源四郎は【不落】を抜くこともできず、ただ素手で兄の猛攻を捌くしかない。

バン! バンッ! と、源三郎の木刀が畳を叩く。

「何が棚からぼた餅じゃ! 何が地獄の被害者じゃ! お主が抜けた穴を誰が埋め、誰が領地を守り、誰が父上の理不尽な命令を倍返しで捌いてきたと思っておる!!」

兄の突きが、源四郎の鳩尾をかすめる。

怒りの中にも、長年連れ添った兄弟だからこその【間】が込められている。

それは単なる暴力ではなく、源四郎の緩みきった(あるいは固まりきった)魂に対する、兄なりの強烈な「活」だった。

「うっせぇ! それでも兄上は俺より恵まれてるだろ! 俺は安土で……!」

源四郎が言い返した瞬間、源三郎の木刀が源四郎の側頭部ギリギリをかすめて襖を突き破った。

「恵まれておるだと? お主が安土で泥を啜っている間、私はこの真田の郷で、いつ父上がおこうを切り捨てるような策を打つか、いつ滝川と戦になるか……毎日が地獄のようじゃったわ!!」

障子を突き破った木刀の先で、源三郎が源四郎を指差す。

その瞳は、怒りに燃えながらも、同時に嫡男としての深い悔しさに潤んでいた。

「お主だけが地獄を見てきたと思うな! 待たされる側の地獄を、お主は少しでも考えたか、この大馬鹿者が!!」

「……!」

源四郎は言葉を失った。

「自分だけが苦しい」という甘え。

その歪んだ思考を、兄のストレートな怒りが粉々に打ち砕いていく。

自分の苦難だけを見て、家族の苦悩を忘れていた自分。

源四郎は木刀を弾き飛ばすと、兄の懐へ思い切り飛び込んだ。

技ではなく、ただの体当たり。

「……うぐっ!」

兄弟が組み合い、畳の上を転がる。

殴り合いに近い揉み合いの中で、源四郎の肩から力が抜けていく。

結局、何年経っても自分たちはこんな兄弟だ。

源三郎の怒号が、源四郎の中で澱のように溜まっていた「戦場の記憶」を、現実の、泥臭い兄弟の絆へと引きずり戻していく。

畳の上は、喧嘩の残り香と、古びた畳の匂い、そして兄の汗の匂いで満ちていた。

荒く鳴っていた源三郎の呼吸が、ゆっくりと穏やかなものへと変わっていく。

先ほどまで源四郎を殴りつけようとしていた手で、今度は乱れた弟の頭を不器用に、しかし優しくポンポンと叩いた。

その手つきには、嫡男として背負ってきた重圧と、何より大切な弟を失うまいとした必死の執着が滲んでいた。

「……まぁおかげで【待つ】のはなれたわ」

源三郎は天井を見上げたまま、自嘲気味に笑った。

「源四郎、焦るな。おぬしが再びその【不落】なる剛剣を抜けるようになるまで……私や、兄者、源次郎、そして父上達やみおに至るまで、いくらでも待ってやる」

突き放すような怒りの裏側にあったのは、圧倒的な肯定と、根底にある揺るぎない信頼でした。

「お前には帰る場所がある」

「お前が戻るまで、我々はここから動かない」

それは、どんな言葉よりも重く、源四郎の冷え切った心を温める呪文のような言葉であった。

源四郎は、兄の言葉を反芻する。

「いくらでも待ってやる」というその重みが、泥のように重かった自分の心を、羽のように軽くしていくのが分かった。

(……そうか。俺が地獄で足掻いている間、兄上はずっと、この【待つ】という戦いを続けていたんだ)

おこうが人質に取られてから向こう、自分が薩摩で厳しい修行を乗り越えて来たのと同じように…兄は「戻らぬ者」を想って耐え抜いてきたのである。

「……うん。」

源四郎の言葉は、ただそれだけだった。

だが、その一言には、すべての葛藤に対する降伏と、家族に対する深い感謝が詰め込まれていた。

窓からは、真田の郷の風が吹き込み、二人の髪を揺らす。

源三郎は、弟の返事を聞いて満足そうな顔になった。

焦ることはない。

今はまだ、刀を握れなくてもいい。

家族という名の【絆】が、弟という名の化生の魂を、ゆっくりと時間をかけて「人間」に戻していく。

それが真田の流儀なのだ。

畳の上、無骨な兄弟の沈黙の中に、確かな絆が再び灯っていた。

………が!

その余韻を切り裂くように、又従兄弟の矢沢三十郎が悲鳴を上げながら駆け込んできた。

「げ、源三郎さまぁ〜……あああああ! 源四郎様あああああ!」

明け放たれた縁側から転がり込み、三十郎は汗と涙にまみれた顔で床に突っ伏した。

「んぉ? ただいま三十郎ぉ♫」

「おぉ、三十郎。どうした、そんなに慌てて」

呑気に返す二人に、三十郎は鬼の形相で立ち上がった。

「な・に・が! 『ただいま三十郎ぉ♫』ですか!!! 源三郎さま! それに源四郎さま!!! 滝川とのゴタゴタのおかげで、兵站の整理もつかぬ上に【帳簿付け】がまだまだ終わりませぬ!!!」

その言葉を聞いた瞬間、源三郎の顔から血の気が引いた。

「あ。」

額からタラリと冷や汗が流れる。

思い出したのだ。

源四郎が薩摩へ向かう際、各地で行商人の丁稚に扮して【営業】をかけていたあの【真田ブランド】。

洗練された香りの各種【石鹸】と、軽くて温かい鴨の羽を使った【羽毛どてら】。

あれが爆発的な売れ行きを見せ、真田の台所を潤していたことを。

そして、その利益の計算が、戦乱の混乱の中で完全に滞っていることを。

「…………。」タラー

源四郎もまた、兄と三十郎の怒りの矛先が自分たちに向いていることを悟り冷や汗もの。

猫のように音もなく立ち上がると、ソロリ……と背後へ逃げ出そうとした。

だが、その背中に、地獄の業火よりも恐ろしい二つの影が重なる。

「逃がすか、たわけぇ」ガシッ!!

「逃がしませんぞ」ガシッ!!

左右から三十郎と源三郎の鉄の爪が、源四郎の両肩をガッチリと捕らえた。

「源四郎、おぬしが撒き散らした利益だ。おぬしがケリをつけぬ道理はあるまい?」

「左様です。さあ、帳場へ参りましょうぞ源四郎様?今夜は徹夜で石鹸の棚卸しとどてらの売上の計上…一銭の狂いもなく照らし合わせるまで、部屋からは一歩も出しませぬぞ!」

三十郎の目は笑っていない。

かの【退き口】ではどんな敵をも恐れなかったはずの源四郎が、今、算盤そろばんを突きつけられ、青ざめて立ち尽くしている。

真田の郷に、戦よりも過酷な【事務の夜】が始まろうとしていた。

――翌日――

――真田屋敷縁側――

日差しが燦々と降り注ぐ座敷。

縁側に転がり込んだ源四郎は、性も根も尽き果てただ天を仰いでいた。

「おつかれさまでした、源四郎様……」パタパタ

傍らで、みおが優しく、リズミカルにうちわを動かしている。

その心地よい風が、徹夜で火照った源四郎の頬を撫でていく。

「ったく……父上ってばさぁ!」

源四郎はうちわの風に目を細めながら、不満を爆発させた。

「算盤まで出来んのかよ、あの親父!! しかも出来るんなら、あんな夜明け前にわざわざ顔を見せて『ふむ、ここが合わぬな』なんて嫌味を言う前に、最初から手伝えってんだよ! ちょちょいと計算しやがって……!」

徹夜の合間にヒョイと現れ、複雑極まる収支を一瞬で紐解いて去っていった昌幸の背中が、今も瞼に焼き付いている。

昌幸にとって、領地経営も兵站管理も、戦術の一つに過ぎないのだ。

「ふふっ、昌幸様はお忙しいんですよ」

みおは、まるで幼子をあやすような笑みを浮かべる。

(……お忙しい、ねぇ)

源四郎は再び大きく息を吐き出す。

薩摩とのやり取りで家中の皆が必死に書き溜めた記録。

その細かな利益の積み重ねが、今は冷徹な数字となって自分たちの生活を支えている。

戦場で命を懸けていた自分と、後方で緻密に金を数えていた家族たち。

「……なぁ、みお。俺がいない間、皆はずっとこんなことをしてたのか?」

源四郎の問いかけに、みおのうちわを動かす手が止まった。

彼女は少しだけ切なそうな、けれど穏やかな目で源四郎を見下ろす。

「……戦いだけが戦いではありませんもの。源四郎様が遠くで命を削っている間、私たちはここで、明日を繋ぐために必死に生きていたのですよ」

その言葉は、徹夜明けの源四郎の胸に、重く、深く突き刺さった。

「……そうだな。ごめんよ、みお。これからは……俺も、その『明日を繋ぐ戦い』の片棒を担ぐよ」

源四郎は、泥だらけの化生だった自分から、少しだけ「真田の一員」へと歩を進めた気がした。

「あ、でも……次の帳簿付けは、源三郎兄上と交代してほしいなぁ……」

最後の最後で漏れたその情けない一言に、みおは「ふふっ」と声を上げて笑った。

真田の郷の、のどかな昼下がり。

帳簿という名の戦いに敗れた男は、今、極上の風と妻の笑顔に包まれながら、ようやく本当の日常を噛み締めていた。

そんな折…

穏やかな昼下がりの縁側に、突然の怒鳴り声が響き渡った。

「源四郎様ぁ! お戻りなられたと聞きましたぞぉ! 源四郎様ぁ!!」

障子を突き破らんばかりの勢いで飛び込んできたのは、郷が誇る天才エンジニアにして、浮気と土下座の名手たる繁蔵だった。

「……ぁあああああ! んだよ繁蔵ぉ!! 帰ってるよ、ただいま!」

源四郎はガクリと肩を落とす。

姿を見れば、相変わらずどこか浮ついた足取り。

「おぉ! 変わらぬお姿! 流石は真田の男児! 安土の地獄から生還されるとは、あなた様には感服いたしますぞ!」

繁蔵は感極まった様子で、大仰に源四郎の手を握りしめた。

「おべんちゃらはいい! 用件はなんだ? また女房のふみに浮気の咎でおいたてられてるから匿えってか?? 悪いが今は、俺も徹夜明けで死にそうなんだよ……」

源四郎がジト目で問うと、繁蔵は顔を真っ赤にして首を激しく横に振った。

「んなこたぁありませんよ! そんな恐ろしいことはいたしません!」

(ホントかぁ?懲りねぇくせに…)

訝しむ源四郎を気にもとめず、繁蔵はわざとらしく周囲を見回すと、声を潜めてニヤリと笑った。

「……弥五郎がお待ちですよ、源四郎様♪」

弥五郎。

その名を聞き源四郎の全身に電撃が走った。

「!!!」

燦然と目を輝かせる源四郎!

「……そうだ。俺は、あいつに……」

その身体から徹夜明けの気怠さが完全に消え去った。

代わりに宿ったのは、かつて現代日本で仲間を、同期率いたあの鋭く、熱い猛禽の眼光。

「繁蔵! 弥五郎は!? 弥五郎は何処にいるんだ!」

源四郎は繁蔵の胸ぐらを掴みかねない勢いで詰め寄る。

そのあまりの形相に、普段は軽薄な繁蔵も、流石に冗談めかした笑みをひっこめ、背筋を正した。

「……里の広場で【手勢】とお待ちです」ニヤリ

繁蔵は今度は悪巧みではなく、戦士を送り出すような誇らしげな笑みを浮かべて答えた。

――真田の郷、広場――

源四郎が駆けつけると、そこには異様な光景があった。

揃いの【草木染めのカーキ色(むしろ明るめのオリーブドラブ色)】の装束に身を包んだ者たちが、静寂の中に整然と佇んでいる。

そしてその中心に弥五郎はいた。

そしてこちらに気づくと…

「……気をつけぇ!」

弥五郎の張り上げた声が、広場を鋭く切り裂いた。

バッ!

乾いた音が一つになった。

隊員たちが、大地を根底から踏みしめ、背筋を真っ直ぐに伸ばして不動の姿勢を取る。

その一挙手一投足に、無駄な揺らぎなど微塵もない。

(……嘘だろ。ここが、戦国時代の信濃だというのか?)

源四郎の目に映るのは、確かに自分が愛した魂の故郷の誇り高き防人……

現代日本の自衛隊、その精強なる兵たちの姿そのものだった。

霧に包まれた富士の山中、泥にまみれた練馬の営庭。

あの過酷なレンジャー教育の記憶が、弥五郎の作り上げたこの規律と重なる。

源四郎は、抑えきれない高揚感とともに部隊の中央へ躍り出た。

自分の体は、かつて後輩たるレンジャー学生を指導した時の【助教】としての反応を思い出していた。

「【部隊長】にた〜いし……かしら〜なか!」

弥五郎の号令が飛ぶ。

バッ!

隊員たちが一斉に顔を向け、源四郎を直視する。

その眼差しは、ただの主君を見る目ではない。

自らの隊長、自らの命を預けるに足る者を見る、敬意と信頼に満ちた【戦士の目】だった。

答礼する源四郎。

「なおれ!」

バッ!

弥五郎の号令、再び揃う動作。

源四郎の心臓が激しく脈打つ。

弥五郎が歩み寄り、軍隊式の礼をとりながら、声を震わせて報告した。

「弥五郎以下【レンジャー】総員31名……編成完了致しました……おかえりなさいませ、源四郎様」

弥五郎の頬を、熱い一筋の雫が伝う。

彼はこの二年間、源四郎の不在を埋めるために、どれほどの孤独と重圧と闘ってきたのだろうか。

源四郎が託した目録を文字通り「血の滲むような修行」に変え、真田の郷にこの精鋭を育て上げたのだ。

源四郎は、こみ上げる感情を必死に飲み込み、弥五郎の前に立った。

「よくぞ!………よくぞやってくれた、弥五郎!」

源四郎が弥五郎の肩を叩いたその時、弥五郎は膝から崩れ落ちるようにその場に跪いた。

「申し訳ありませぬ! 源四郎様!」

ポロポロと大粒の涙をこぼし、弥五郎は地を伏せて慟哭した。

「なっ!? ど、どーした弥五郎!?」

困惑する源四郎。

自分が訓練をつけた男は、常に冷静沈着な男だった。

何が彼をここまで追いつめたのか。

まさか、訓練中に何か致命的な失敗があったのかと、源四郎の脳裏に最悪のシナリオが過る。

だが、弥五郎の口から出てきた言葉は、源四郎の予想を遥かに超えていた。

「薩摩より戻る折、源四郎様は『一年で20人育てばよい』と仰られました……。しかし、それがしは全力を尽くしたにも関わらず、二年で育てられたのは僅か30人……」

弥五郎は顔を上げ、悔しさに唇を噛みしめる。

「……それがしは、源四郎様が教え示した道筋を、この二年間一日たりとも忘れたことはございませぬ。にもかかわらず、このザマです。あと10人は鍛え上げられたはず……それがしが不甲斐ないばかりに、真田の牙はまだこれっぽっちなのです」ギリッ

拳を固め言う弥五郎に源四郎は不敵に、本当に不敵にほくそ笑み言う。

「よい。気に病むな弥五郎」

厳格だが温かい響きに、弥五郎がハッと顔を上げる。

「レンジャー訓練とはそれほど苛烈極まるもの……。その過酷さは俺が一番よく知っている。脱落した者も、残った者も、そして何より、この者たちを導きレンジャーとして育て上げたお前自身にも、何の落ち度もない。それどころか、見ろ!」

源四郎が大きく腕を広げると、そこには30名の不動の隊員たちがいた。

「この鉄の規律で統率された一団を! お前が俺の目録、その内容を命を賭けそれを守り抜いてくれた賜物ぞ。お前は俺の想像を超えた。誇れ、弥五郎!」

その言葉は、弥五郎にとって何よりも重い「勲章」だった。

「自分は期待に応えられなかった」という二年間の呪縛が、源四郎の肯定によって音を立てて崩れ去る。

「げ、源四郎様ぁ〜……っ!」

弥五郎は先ほどまでの悔し涙とは違う、溢れ出る安堵と歓喜の涙をボロボロとこぼした。

彼は源四郎の膝に額を押し付け、子供のように泣きじゃくる。

周囲の30名の隊員たちも、その光景を直立不動で見守りながら、誰一人として目頭を熱くしていない者はいない。

「……戻ってきてくださった。本当に……本当に、戻ってきてくださったのですね」

弥五郎の嗚咽を聞きながら、源四郎はかつて自分が自衛隊で受けた指導を思い返していた。

上官が部下にかける言葉一つで、組織は強くなることもあれば、脆く崩れることもある。

今、真田の郷で、真の「部隊」が産声を上げたのだと源四郎は確信した。

「泣くのはそこまでだ。……お前の仕事はまだ終わっていない。この30名の『牙』を、さらに研ぎ澄ますのが我らの務めだろう?俺の右腕…【レンジャー助教】、弥五郎よ。」

源四郎の言葉に、弥五郎が涙を拭ってガッと立ち上がる。

その眼差しには、もう迷いなどない。かつての冷徹な訓練官の顔が戻っていた。

「はっ! 仰せのままに、源四郎様!」

そして源四郎は再び隊員たちに向き直り言う!

「お前ら! 今日より我らは【真田特務隊】を称する! 今後とも心身を鍛え! 技能をみが……ああああああ!?」

訓示の途中で、源四郎の声が裏返った。

目の前に並ぶ隊員たちの胸元を見て、【あるべきもの】が無いことに頭を抱えた。

「……弥五郎?」

「はい?」

「おめぇ! 一番大事なもん忘れてんぞ!!」

「え?」

「ひ・だ・り・む・ね! ……【き章】だ、き章! 誇りだぞ、誇り!目録にも図案書いてあったろ!?」

弥五郎は「あっ!」と顔を覆う。

レンジャーたる者、胸に刻まれる証なくしてどうしてその矜持を保てようか。

「あぁっ!? し、失礼いたしました……! 我ら、ただひたすらに力と技を磨くことにのみ頭が……!」

「あー! もう! 完璧な訓練をしておきながら、そういうとこが抜けてるんだよお前は……!」

源四郎はイライラと頭を掻き回すと、即座に繁蔵を呼んだ。

「繁蔵ぉ!」

「はい?」

「郷の暇してるかかぁ捕まえろ! 【針仕事】だ、【針仕事】! 刺繍だ、刺繍!!代金は………あとで兄上に請求すりゃいい!!」

「刺繍……でございますか?」

「そうだ! ほれ、こんな感じに……!」

源四郎は地面に枝を突き立て、スラスラと図案を描き上げる。

砂地に刻まれた【ダイヤに月桂樹】。 それは戦国の人々にとっては見慣れぬ図形であったかもしれないが、源四郎の描く線には、迷いのない「レンジャーの誇り」が宿っていた。

「この形! とにかく、レンジャーたる証を胸に縫い付けろ!」

その光景を見ていた隊員たちの顔つきが変わった。

指揮官が自分たちに「固有の紋章」を与えようとしている。

それは、彼らがただの足軽ではなく、特別な選ばれし者であるという証明に他ならなかった。

「……源四郎様」

弥五郎が地面の図を凝視したまま、震える声で呟く。

「これぞ、我らが戦う理由になります。……ただの真田の兵ではなく、源四郎様が率いる【特務隊】であるという証……!」

繁蔵もまた、その図案の精緻さにエンジニアとしての血を騒がせている。

「ほう……! これはただの布飾りではありませんな。この図案、どこか呪術的ですらある。ふみにも相談してみましょう。郷の女衆、皆で腕によりをかけて仕上げさせますぞ!」

源四郎の描いたダイヤと月桂樹が力強く輝く未来。

針仕事など、戦の役には立たぬと鼻で笑う者もいるかもしれない。

だが、この小さな「布の紋章」が、30人の心に火をつけた。

砂の上に描かれたたった一つの図案が、真田特務隊という組織を、真の意味で一つに結びつけた瞬間であった。

――しばし後――

――真田の郷、繁蔵の工房――

「源四郎様はお松様を血みどろになってこの郷まで連れ帰った剛の者!そんな方の手勢が胸につける証……! 恥ずかしい仕事はできないよ! みんなぁ、気合入れなぁ!!」

繁蔵の妻・ふみの掛け声に、集まった郷のかかぁたちが一斉に返事をする。

「「「「「はいっ!!」」」」」

凄まじい気迫である。

まるで戦の前の出陣式か、はたまた砦の守りを固めるかのような熱量。

かかぁたちは布を広げ、針を研ぎ、まるで刃物を扱うかのように鋭い眼差しで刺繍に取り掛かった。

「お、おぅふ……」

普段は戦場を駆け抜ける源四郎も、この圧倒的なまでの「主婦の殺気」には気圧され、思わず後ずさる。

(……す、すげぇ。戦場より緊張感があるんじゃねぇか……?)

そこへ、郷の見張りを終えた源次郎が、涼やかな顔で戻ってきた。

彼は地面に描かれた【ダイヤに月桂樹】の図案と、熱狂する女性陣を交互に見て、ふっと口元を緩める。

「源四郎、また面白いことをする気だな?」

「はい、兄様♫」

源四郎は胸を張って答える。

彼にとって、この紋章は部隊の士気を高めるための、至極真っ当な【軍事投資】であった。

…が!

源四郎はまだ気づいていない。

この刺繍に必要な上質な絹糸、そしてき章を隊員の装束の色合いと合わせる為の草木染の原料。

それらの仕入れ費用を、全て「兄上の帳場」へ押し付けるという、ある種の【戦略的判断】を下したことを。

工房の隅では、繁蔵が冷や汗を流しながらも、かかぁたちの熱意に押されて必要な資材の一覧を書き連ねている。

その一覧の末尾には、しっかりと『真田家嫡男・源三郎様宛』と書かれていた。

数刻後。

この「特務隊の証」の請求書を見た源三郎の反応など、源次郎も源四郎も、そして繁蔵でさえ想像していなかったのである。

「………額が額だけにまた帳簿付けが大変になったではないか、このクソバカぁ!!!」

という、真田屋敷を揺るがすであろう怒号が、すぐそこまで迫っていることも知らずに。

そんな中…

「源四郎様?」

喧騒の中で、繁蔵がふと、声をかけてくる。

「おん?」

忙しなく刺繍の細部を確認していた源四郎が顔を上げる。

「あなた様が身につけたのは……決して【人斬りの技】だけではありませぬよ」

繁蔵のその言葉には、源四郎が今、鞘に収め寝所に置いた剛剣……【不落】を手に取れずにいる苦悩への、最大限の気遣いが込められていた。

彼は知っていたのだ。

源四郎が地獄の情景に囚われ、刃を握るたびに手が震えるほどの【呪い】を抱えていることを。

「そうだな……」

源四郎は小さく苦笑を漏らし、そのまま背を向けて工房入口に歩み空を見上げた。

抜けるような真田の空。

雲一つない青空の下で、彼は胸中で自らに言い聞かせる。

(そうだよな……。例え今は、刀を……【不落】をまともに手に取れなくとも)

弥五郎を導き、三十の牙を育て、郷の女衆と共に誇りを作り上げた。

かつて自分が自衛隊で学んだ「レンジャー」の真髄は、相手を切り伏せることではなく、仲間を守り抜き、組織を機能させ、不可能を可能にする「生存の術」だったはずだ。

(俺の武器は刀だけじゃない。この知識も、この経験も、そしてこの仲間たちも……俺が前世とこの戦国の地獄で見つけてきた宝だ)

刀を握れぬ弱さを責めるのではなく、今の自分にできる「戦い」に目を向ける。

それは、源四郎が血濡れの化生から、一人の指揮官、一人の指導者へと生まれ変わるための重要な一歩であった。

(……さて、と)

源四郎は胸の内で小さく息を吐き出す。

焦ることはない。

今は算盤と向き合い、刺繍を愛で、部下を鍛え上げる。

そのすべてが、いずれこの不穏な戦国を生き抜き、終わらせるための「備え」となる。

こうして、戦士・源四郎の【雌伏の時】が幕を開けた。



源三郎と三十郎、マジ苦労人(´・ω・`)

ここからしばらく真田の郷での日々となります!

次回を刮目して待て!

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