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信濃の修羅〜現代人の俺、存在しないハズの真田の三男坊として転生す〜  作者: ギュネイ山本
第五章【待っていろ家族よ!民よ!そしてみおよ!源四郎、信濃へ帰還すの段】

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其之四

――安土を発ち二日――

――山道から外れた広場――

焚き火の僅かな火影が、四人の影を不規則に揺らしていた。

源四郎は、腰の【不落】を外し、丹念に手入れを始めている。

その所作には一点の曇りもなく、まるで何事もなかったかのように平静を装っていた。

冗談を言い、喉を鳴らして干し肉を噛む。

だが、その笑みはどこか薄い。

まるで張りぼてのような虚勢であることは、一目瞭然だった。

松は耐えきれず、立ち上がった。

茂誠と源次郎がそれを制そうとしたが、松は首を振り、無言で源四郎の背後に回り込んだ。

「……姉上?」

源四郎が振り返ろうとしたその瞬間、松は彼の首を抱きしめ、自分の胸へと引き寄せた。

「……いいの、源四郎。もう、いいの」

松の心からの震える声に、源四郎の動きが止まる。

人の温もり、柔らかさ、そして姉の匂い。

血と泥に汚れた戦場では決して味わえぬ、人間としての「生」の感覚。

(ああ、そうだ。俺は、この温もりを守るために……)

源四郎の瞳から、冷徹な理性が揺らぎ、初めて【痛み】のような色が浮かぶ。

松は、源四郎の魂がこのままどこか遠くへ、人の心を解した【真の化生】へと消え去ってしまうことを直感していた。

だからこそ、全身全霊で【人間】の側に繋ぎ止めようと抱きしめ続けた。

その光景を、源次郎と茂誠は沈痛な面持ちで見守っていた。

(……情けない)

源次郎は、自分の拳を爪が食い込むほど握りしめた。

本来ならば、自分たちが源四郎を守り、平和な日常を歩ませるべきだった。

それが兄の務めであり、先に生まれた者としてあるべき姿だ。

しかし現実には、一行の命運を、たった一人の弟の血塗られた剣に委ねている。

圧倒的な武を見せつけられるたび、己の無力さが喉元まで込み上げてくる。

茂誠が源次郎の肩を叩いた。

茂誠もまた、同じ悔恨を噛み締めていた。

二人の視線が交差する。

そこには、言葉にはせぬ誓いが宿っていた。

(弟を、これ以上孤独な化生にさせるな)

(あいつが背負った地獄を、せめて私たちが半分、いや、全て分かち合いましょう)

源次郎がゆっくりと立ち上がり、源四郎の隣に座った。

茂誠もまた、源四郎の膝の上にそっと手を置く。

「……源四郎。疲れたなら、眠れ。明日の夜明けまでは、俺たちがその目の代わりになろう」

兄弟の温もりが、源四郎を囲む。

源四郎は、何とも言えない表情で、自分を囲む家族を見回した。

「……みんな、泣きそうな顔をしないでよ。俺は、ただ……」

「わかっている。お前は私たちの誇りだ」

源次郎の言葉に、源四郎は初めて、胸の奥底にあった氷のような重石が溶け出すのを感じた。

張り詰めていた糸が切れ、源四郎は姉の胸の中で、ようやく深い、深い眠りへと落ちていく。

焚き火の炎が、消えかけながらも、家族の絆を照らし続けていた。

小県への道はまだ続く。

だが、少なくとも今夜だけは、源四郎はただの【真田の弟】として、家族の温もりに包まれていた。

――翌日――

――信濃への道すがら――

昨夜の焚き火の温もりは、夢の跡のように消えていた。

木立の影から現れたのは、落ち武者狩りか、あるいはただの飢えた野盗か。

人としての道理を捨てた者たちの集団が、一行の行く手を塞ぐ。

「女と、いい刀を持ってるじゃねえか。置いていきな!」

茂誠が剣を抜き、源次郎も構える。

だが、源四郎は兄たちの前に歩み出た。

その足取りには、昨夜の安らぎなど一片も残っていない。

「………どきやがれ」

感情の起伏を一切排した、ただ事象を告げるだけの低い声。

野盗が嘲笑し、刃を振るったその瞬間、源四郎の【不落】が空中で鈍い銀色の円を描いた。

一瞬の、静寂。

次の瞬間、野盗の首が宙を舞い、胴体が泥の中に崩れ落ちる。

源四郎は返り血の付いた刀身を一振りし、濡れた土を払い落とすこともせず、ただ次の敵へと無機質な視線を向ける。

それは戦いではない。

ただの【駆除】だった。

茂誠の背中にしがみつき、目を覆う松。

源次郎は、弟の背中から目を逸らすことができない。

昨日よりも、さらに殺戮の所作が洗練されている。

不要な動作は一切なく、ただ最短距離で命の灯を消していく。

「…どけと言ったはずだ」

源四郎が踏み出すたびに、泥と血が跳ねる。

彼の瞳には、敵の恐怖も、兄弟たちの不安も、一切映っていない。

ただ、信濃までの道筋と、その障害物となる存在だけが、視界の中で点滅しているようだった。

殺せば殺すほど、源四郎の体温は下がっていくように見える。

昨夜、姉に抱きしめられ、兄たちに守られたはずの【心】という名の灯火が、この殺戮の繰り返しによって、再び冷たい水の中へ沈められていく。

最後に残った野盗が、恐怖のあまり腰を抜かして這いずり逃げようとする。

源四郎はただ、背後から無造作に刀を振り下ろした。

ザシュッ、という湿った音がして、源四郎は血に染まった【不落】を鞘に収めた。

「……行こう。兄様、兄者、姉上」

振り返った源四郎の表情には、怒りも哀しみもない。

ただ、機械的な疲労がわずかに刻まれているだけ。

兄たちは、言葉を失った。

彼らが守ろうとしていた弟の魂は、この瞬間も、一歩ずつ、確実に戦場という深淵の底へ沈み込み続けている。

――その日の夜――

――遇々見つけたあばら家内――

闇に紛れて横たわっても、目を閉じれば、今しがた血肉を断ち、命を刈り取った者たちの断末魔が脳内で反芻する。

飛び散る肉片、掠れた呼吸、恨みの籠もった瞳。

源四郎の意識は、すでに【今】という時間を保てなくなっていた。

眠りと覚醒の境界が融解し、脳内では絶えず戦場の情景が更新され続ける。

これが己を蝕む【人斬りの報い】なのか。

(……又七郎。なあ、又七郎……)

源四郎の唇が、震える。意識の深淵で、彼はかつての相棒を探していた。

(なんでいねぇんだよ……。おめぇがいりゃあ、野盗だ明智の手の者だなんて、物の数じゃねぇだろ。二人で背中を合わせりゃ、こんな……こんな……!)

薩摩の土の匂い。

又七郎の荒い息遣い。

どんな修羅場でも、その気配があるだけで心は凪いでいた。

だが今、彼の背中を守るのは、空虚な孤独と、冷え切った鋼の匂いだけだ。

空腹が彼を苛む。

薩摩の炊き出しの匂いが、鼻腔の奥で蜃気楼のように揺れる。

(妙ちゃん……腹が減ったよぉ)

妙の屈託のない笑い声が、遠くで聞こえる気がした。

だが、次に目を開ければ、そこにあるのは冷たい洞窟の壁と、自分の指にこびりついた乾いた赤黒い血だけだ。

源四郎は、喉が焼けつくような感覚を覚えた。

もはや【武士の矜持】などという、上等な衣は剥ぎ取られている。

ただかつての【日常】という名の救済だけを源四郎は求めていた。

(あんちゃん……)

弥七郎の姿が、暗闇の中に浮かぶ。

自分を弟分として鍛え上げ、遠く薩摩の地で「武の高み」をその背で、その腕で、その技で見せてくれた男。

(俺も武家の端くれだ。助けてくれなんて、惨めな言葉は吐かねぇ……)

源四郎の瞳から、一筋の涙が、血に汚れた頬を伝って落ちた。その涙さえ、今は何も洗い流せなかった。

(けどよ……。せめて俺の隣で、あの時みたいに笑ってくれよ。あの顔で『源四郎ぉ! こんなもんか♫』って言ってくれよおおおおおお!!)

誰にも届かない叫びが、喉の奥で詰まる。

隣で源次郎が、心配そうにこちらを見ているのが気配でわかる。

だが、源四郎は顔を上げることができない。

今、彼が顔を上げれば、その瞳が「かつて弟であったもの」から「何も感じなくなった人殺しの道具」へと変貌しかけていることを、兄に見せてしまうからだ。

薩摩の幻影は、今の源四郎にとって、唯一の「人間であるための命綱」であり、同時に、自身を深淵へ引きずり込む最大の重りとなっていた。

――その頃――

――小県、真田屋敷――

真田の郷に吹く風は、どことなく湿り気を帯びていた。

安土の情勢が不穏を極める中、源三郎は庭先でただ一人、黙々と木刀を振るっていた。

「源三郎様は……おこうさまと離れ離れとなって、淋しくはないのですか?」

縁側から声をかけたのは、みおだった。

その瞳には、嫡男として氷のように冷静であろうとする源三郎への、隠しきれない気遣いが宿っている。

源三郎は木刀を止め、鋭い眼光を夜の闇へと向けたまま、静かに口を開いた。

「……よいか、みお。家を継ぐ嫡男ともなれば、自分の情を語ってばかりはいられぬ。真田の屋台骨を背負う以上、私の一挙手一投足が、そのまま一族の命運に直結するのだからな」

その言葉には、若い身空で父・昌幸の重責を共有する者の、痛々しいまでの覚悟が滲んでいた。

「はい……」

みおは小さく頷いた。

彼女もまた、この乱世を生きる小山田の娘として、その言葉の重さを理解していた。

源三郎はふと、木刀を下ろし、遠い薩摩の方角へと視線を移した。

そこにいるであろう、弟・源四郎の顔が脳裏を過る。

「だが……源四郎は違う」

源三郎の表情が、わずかに崩れる。

それは父に対しても、家臣に対しても決して見せることのない、兄としての素顔だった。

「あやつは三男坊ゆえ、嫡男である私のように家に縛られる必要はない。いずれは自身の道を選び、己の力で身を立てるであろう。……なれば、みお」

源三郎は一度言葉を切ると、少しだけ表情を歪め、吐き捨てるように続けた。

「……不出来! かつバカタレ!! 無礼! アホンダラ! クソ生意気!……な弟ではあるが、今後とも宜しく頼む」

罵詈雑言の羅列。

しかし、その一つひとつに、どれほど弟の身を案じ、その成長を認め、そして何より愛しているかという熱がこもっていた。

「……ぷっ! はい、分かりました♫」

みおの肩が震え、鈴を転がすような笑い声が静寂を破った。

嫡男としての仮面が剥がれ落ちた、源三郎の不器用すぎる愛情表現。

それに触れ、みおの心にあった不安もまた、スッと溶けていく。

「ふふっ、源三郎様……本当に、源四郎様のことが大好きなんですね」

「……うるさい。……少し冷えてきたな、このくらいにするぞ。」

そう言うと源三郎は再び武士の顔に戻った。

その身から放たれる気は、真田の家の行く末を一身に背負って立つ兄の、頼もしきものだった。

遠い空の下、遠くの弟を案じながら、兄は今日もまた、家族を守るための刃を研ぎ続けている。

――数日後――

――小県、真田の郷――

どれだけの命を刈り取り、どれほどの屍を積み上げただろうか?

源四郎と一行は遂に小県は真田の郷へと辿り着く。

「源四郎!見えたぞ、郷だ!」

「おぅ!源四郎、あと少しだ!」

だがそれでも源四郎の目に光は戻らない。

目の前に広がる真田の郷。

帰るべき場所を目の当たりにしながら、源四郎の体は動かなくなった。

「兄様、兄者ぁ……刀が……【不落】が、指から離れねぇ」

その声は悲鳴に近かった。

郷の直前、折悪く遭遇した滝川の物見を斬った時より抜き身で持ち歩きたる【不落】。

源四郎の右手は、まるで見えない万力で締め上げられたかのように、その柄を握りしめている。

「「なにィ!?」」

源次郎と茂誠が駆け寄り、源四郎の手を強引に開こうと力を込める。

二人の男の筋骨がミシミシと鳴るほどの力。

だが、源四郎の指は石像のように動かない。

それは、単なる筋力の問題ではなかった。

幾度も敵の命を刈り取り、そのたびに【武器】であることに固執しすぎた魂が、肉体に命令を下し続けているのだ。

(殺さなきゃ……殺さなきゃ……)

源四郎の脳裏では今も果てなく、殺戮の光景が繰り返されている。

武器を捨てれば、自分の中に残る空洞に殺した者たちの叫びが流れ込んでくる……その恐怖が、指を離すことを拒絶させていた。

「源四郎! 手を放せ! 郷だ! 真田の郷なんだぞ!」

源次郎の叫びも、源四郎の耳には届かない。

その時、背後で着物の裾が風を切る音がした。

「松!?」

「姉上!?」

松は、振り返ることもせず、屋敷の方角へ向かって一直線に走り出していた。

(源四郎が……源四郎が壊れかかってる!!)

彼女の頭の中には、ただ一つの希望しかなかった。

(みおを……みおを呼ばなきゃ!!)

姉としての直感。

血に染まった弟の心を、【化生】へ落ちかけている源四郎を【人】へと引き戻せるのはみおしかいない……その確信が、松を駆り立てる。

屋敷へ向かって走る松の背中を見つめ、源次郎は歯を食いしばった。

弟の右手から血が滲み出ている。

指先から溢れた鮮血が、島津が曰く付きたる【不落】の柄を濡らしていく。

「……源四郎、耐えろ。……みおが、すぐ来る」

源次郎の言葉に、源四郎の瞳がわずかに揺れた。

だが、その瞳に宿るのは、未だ絶望的なまでの虚無。

郷の平和な空気が、逆に源四郎の精神を削り取る。

安土を離れてもなお、源四郎の中の【退き口】は終わっていない。

――同刻――

――真田屋敷――

朝餉後の静寂の中で、源三郎は茶を啜り、みおは静かに針を動かしていた。

その静寂を、乱暴に突き破る音がした。

バタン!

勢いよく障子が開き、荒い息を吐きながら松が飛び込んでくる。

「みお! みお!! 源四郎が! 源四郎が!!!」

彼女の姿はあまりに異様だった。

髪は乱れ、服には泥と、他者のものと思われる赤黒い血がべっとりとこびりついている。

その鬼気迫る表情に、源三郎は持っていた茶碗を滑らせ、畳に盛大にぶちまけ、更に口の茶も吹き出した。

「ぶーーーーーっ!? あ、あああ、姉上ぇ!? 兄者共々安土におられたのでは!?」

驚きで言葉を失う源三郎を尻目に、松はみおに歩み寄り、彼女の肩を掴んで激しく揺さぶった。

彼女の瞳には、安土の地獄を見てきた者だけが持つ、痛々しいまでの焦燥が宿っている。

源三郎は一瞬で事の重大さを悟り、青ざめた。

「い、今なんと……『源四郎』と仰られましたか!?!?」

源三郎の問いに、松は答える余裕すらなく、ただ必死に郷の入り口の方角を指差す。

その瞬間だった。

それまで静かに事の成り行きを見ていたみおが『源四郎』の名を聞くなり、立ち上がり走りだしていた!

「「みお!」」

源三郎と松の呼び声も、彼女の耳にはもう届いていない。二年間、ただひたすらに待ち続けた名。

季節が二度巡り、その度に強めてきた祈り。

みおの足は速かった。

草履も履かず真田の郷の土を蹴り、草をなぎ倒し、彼女はひたすらに…ただただ最愛の(ひと)、源四郎の元へ。

郷の入り口に辿り着いたみおの目に映ったのは、この世のものとは思えぬ惨状であった。

返り血に塗れ、鬼神のような様相で右手を固く握りしめたまま、虚空を見つめる源四郎。

「げんしろぉさまああああああああ!」

彼女の叫びが、真田の郷に木霊する。

その声を聞いた瞬間、源四郎の肩が小さく震えた。

「…………み………お?」

光を失いかけた源四郎の瞳に…

最愛のみおが映る。

本当にみおなのか?

それすら認識出来なくなりかけた源四郎にみおは抱きつく。

自分を抱きしめる温もりに触れてなお、反射的に右手に力を込める源四郎。

【不落】の柄に指が食い込み、自身の掌から血が滴る。

「……だめだよ……血が……汚れちゃう……」

それは源四郎としての最後の理性が放った、悲痛な拒絶だった。

自分が今、何を成してきたか。

どれだけの命を奪い、どれほど深く地獄の淵に浸かっているか。

この清らかな少女を、自分のその手で穢してしまうことへの恐怖だけが、彼を支配していた。

だが、みおは抱きしめる力をいっさい緩めない。

みおの涙が、源四郎の血に塗れた胸を伝っていく。

「もうよいのです……もうよいのです、源四郎様!」

みおの叫びは、戦場の咆哮とは違う。

祈りのような響きを持って、源四郎の耳の奥へと染み入った。

「ここは戦場ではありませぬ! ここは……源四郎様の大好きな故郷、真田の郷です!!」

その言葉が、源四郎の意識を揺さぶる。

遠い遠い記憶の底…かつてじっちゃまに抱かれ、共にその身に浴びた穏やかな真田の風が吹いた気がした。

「郷……?」

源四郎の視界が、ぐらりと揺れる。

目の前の少女は、まごうことなき、二年間焦がれ続けた最愛の(ひと)みおだった。

その肌の温もり、郷の草花の匂い、そして溢れ出る涙の熱さ。

それらが、殺戮の記憶を、手応えを、一時とは言え忘れさせる。

ここには、敵はいない。

ここには、守るべき日常がある。

カシャン。

鈍い金属音が、郷の静寂に吸い込まれていく。

それは、源四郎を縛り付けていた呪縛の鎖たる【不落】がその手から()()()音であった。

「みおぉ……みおおおおおおおお!」ギュウウウウウ

堰を切ったような慟哭。

それが郷の空に響く。

そしてみおを強く…本当に強く抱き寄せる源四郎。

「源四郎様……源四郎様ぁ!」ギュウウウウ

みおもまた源四郎の血まみれの背中を汚れることも厭わず、全身で抱き寄せる。

二人の愛の形は、もはや武士の作法などという範疇を遥かに超えていた。

「げんしろおおおおおおおお!」

そこへ、駆けてきた源三郎が飛び込んだ。

源四郎の風貌、そして松の形相から何があったのかを一瞬で察するも…

今はただの「兄」として、その逞しい腕で二人をまとめて強く抱き寄せる。

「すまぬ! すまぬ源四郎!!」

源三郎の声は切実な響きを持っていた。

「私が……嫡男たる私が郷を離れられぬばかりに……お主に、かような! かような地獄を!! 許してくれ、許してくれ源四郎おおおお!」

源三郎の頬を伝う涙が、源四郎の顔に落ちる。

ずっと一人で地獄を背負っていた弟に、兄として何もしてやれなかった無力さ。

その悔恨が、源三郎の心をも引き裂いていた。

「兄……上………あにうえええええええ」

源四郎は、兄の胸の中で子供のように泣きじゃくる。

かつての「頼もしい兄」の体温。

そして、自分をこの地獄から救い出してくれた妻の温もり。

周囲で見守っていた茂誠も、屋敷より戻った松も、そして源次郎声を殺して泣いていた。

戦国乱世。

昨日まで味方だった者が今日には敵となり、血縁さえも駒として扱う非情な世界。

だが、今のこの真田の郷には、そんな殺伐とした世界とは無縁の、ただの家族の絆があった。

(俺……帰ってきたんだ……)

源四郎の中で、化生としての【機能】が完全に停止し、人間としての「生」が再び脈動を始める。

高く昇った陽が彼らを長く影で結ぶ。

その姿は、これから始まる更なる乱世を、真田という血の絆で乗り越えていくことを誓う、一つの強固な塊のように見えた。

そしてみお、源三郎に抱きしめられ、二人の涙をその身に受けた源四郎の瞳から最後の力が抜けていく。

「……みお、俺……。やっぱり、もう……」

鉛のように重い瞼がゆっくりと下りていく。

安土から向こう、張り詰め続けた神経が、急激に弛緩していく。

「………疲れちった。」

それは、【化生】の言葉ではない。

かつて【いくさごっこ(想定戦)】で遊び疲れたあの日、幼い源四郎が漏らしたのと同じ、無防備で正直な独白だった。

そんな一行に近づく影が。

真田家の主、昌幸だった。

冷徹な策略家として知られ後に【表裏比興の者】としょうされる男が、今、源四郎の前に膝をついている。

昌幸は、血と泥に汚れた三男の横顔を見つめ、静かに、しかし確かな意志を込めて言った。

「なれば、わしが久々におぶってやろう」

その声は、かつて足が疲れたと駄々をこねた幼き日、父が背中を向けた時と同じ、低く厚い響きだった。

源四郎の意識が、深い霧の中へと沈んでいく。

今、自分の胸が触れたのは、かつて恐れ、そして何よりも焦がれた、あの強大な父の背中だ。

(父上……?)

夢なのか、現なのか。

父の背中の、硬く、そして温かい感触。

源四郎は、安心していいのだとようやく理解した。

殺さなくていい。

隠れなくていい。

戦国乱世という名の泥沼から、自分は確かに帰ってきたのだ。

源四郎の呼吸が深く、静かになる。

その姿を、兄たちも、松も、そしてみおも、ただ息を呑んで見守っていた。

多くの命を刈り取り、化生にまで墜ちかけ、それでも最後には家族の懐へと帰り着いた息子を、父は背負い、一言…

「源四郎、よく戻った。大義である。」

そして一行は真田の屋敷へと歩き出す。

――数刻後――

――真田屋敷、源四郎の寝所――

「ん……んん〜……」

ぼんやりと開いた瞳に、屋敷の天井が見えた。

獣の殺気も、鋼の冷たさも、そこにはない。

ただ、灯火の柔らかな光と、懐かしい、あまりに懐かしい者たちの気配があった。

源四郎が上体を起こしかけたその時、目の前に広がる景色に息を呑む。

「「「源四郎!」」」

枕元には、祖母・おとり、母・薫、そして姉・松。

誰もが涙を溜め、彼が再び目を開けたことを、震える声で喜んでいる。

だが、源四郎の瞳は、さらにもう一人の存在を捉えて見開かれた。

「お帰りなさい……源四郎。…………けほっ」

聞き間違いようのない、少し掠れた、しかし愛おしい声。

柔らかな微笑みを浮かべてそこにいたのは、滝川の人質になっていたはずのおこうだった。

生来の気管支の弱さゆえの、いつも通りの、あの咳払い。

二年間、遠い薩摩の地で煤にまみれ島津の猛者たちにシバキ回されて来た源四郎にとって、それはこの世で最も尊い、日常の音だった。

「……えっ。…………おこう姉様……」

幻ではない。

おこうが優しい笑みでもって源四郎を見つめる。

「……おこうねぇさまぁああああああ!」

源四郎は、蔵人佐のもとで培った研ぎ澄まされた動きなどすべてかなぐり捨て、おこうの胸元へ飛び込んだ。

ダーッ、と溢れ出る涙。

かつて自分が薩摩へ向かう前、最後まで見送ってくれた彼女の姿が、記憶の中で今の姿と重なる。

殺すたびにこびりついた冷たい血の感触が、彼女に抱きしめられることで、嘘のように溶けていく。

おこうは、自分の胸で号泣する弟を、慈しむように細い指で撫でた。

「あらあら♪ 我が真田家の末子は、こんなに泣き虫でありましたか……けほっ」

いつもの優しい咳払い。

その一つひとつが、源四郎の心に「お前はもう、誰も殺さなくていいのだ」という安らぎを刻み込んでいく。

屋敷の寝所には、家族たちのすすり泣く声だけが響いていた。

ここは、化生が牙を収める場所ではない。

源四郎がようやく、自分自身を取り戻すための聖域だった。

「……しかし何故? おこう姉さまは滝川の人質になられたと……」

そんな源四郎の問いに答えたのは、寝所にう入ってきた昌幸だった。

その足取りは重く、しかし自信に満ちている。

「………わしがただ手をこまねいていただけと思っとるな、このたわけは」

昌幸は鼻で笑うと、おこうの枕元へ歩み寄り、我が子の無事を確認するように一瞥した。

「父上!」

源四郎は身を起こしかけたが、おこうに「まだ休んで」と手で制される。

「元より岩櫃ごとおこうを奪い返す算段をしておったのよ。滝川の連中め、真田が嫡男の嫁を人質に取ればわしが言いなりになると思ったらしいが……大した勘違いよ」

昌幸はそう言って、悪戯っぽく、しかし鋭い眼光を源四郎に向けた。

「ま、そこで都合よくおぬしが滝川の物見を叩き斬ってくれたおかげで、連中は乱れ、守りは瓦解した。おかげで奪還は更に首尾よく運んだという訳じゃ。おぬしの無茶が、わしの策を大きく早めてくれたようだな」

その言葉の裏には、父なりの息子への「褒め言葉」が隠されている。

だが、それを聞いた源四郎は、せっかくの感動もどこへやら、口を尖らせた。

「……ちぇっ。せっかく俺が姉上を救い出そうと血みどろになって帰ってきたのに。結局、父上の手の上かよ」

源四郎の不満げな呟きに、寝所の中が一瞬、張り詰めた空気を忘れて温かな笑いに包まれる。

松も、おとりも、薫も、そしておこうまでもが、くすくすと肩を震わせた。

「あらあら、源四郎。舅様がどんなことにも策を講じるなんて、今更でしょう?…けほっ」

おこうの茶化すような言葉に、源四郎は顔を真っ赤にしてうつむく。

地獄のような逃避行。

化生になりかけた自分。

その全てが、この父の描いた大きな絵図の一部だったのかもしれない。

そう思うと腹立たしくもあるが、同時に、これほど【日常】の会話が愛おしいこともない。

昌幸は、息子を睨みつけるようなフリをしながら、満足げに髭を撫でる。

この男にとって、息子や娘たちは駒ではない。

奪い返すために盤面を支配し、最後は自らの懐へ引き戻すための、愛すべき家族なのだ。

「文句があるなら、次はもっと上手くやってみせろ。……時に源四郎?」

「はい?」

「おぬし………………臭い。」

言い放った昌幸は、深々と溜息をつき、扇子でパタパタと自分の鼻先を仰ぐ。

その動作があまりに真剣なため、一瞬の沈黙の後、寝所の空気が爆発した。

「あ、確かに」

薫が即座に鼻をつまみ、源四郎から数歩の距離を取る。

「……源四郎、ばっちゃまは常々、武士の身だしなみというものを説いてきたつもりですよ? 汗と泥と、何より得体の知れぬ血の臭い……。これではおこうの着物まで台無しではありませんか」

おとりが心底呆れた顔で腰を叩く。

いや、あの壮絶なる安土からの道を駆け抜けてきたのだから無理もないのだが、この祖母には「戦場の日常」という理屈など通用しない。

「やだげんしろぉ! 一緒に帰ってきた私まで臭いって思われるじゃない!!」

松は自分の袖を激しくパタパタと振りながら、露骨に嫌そうな顔をする。

「姉上……俺、姉上を守るために……」

「守ってくれたのは感謝するけど! 臭いのは別問題!」

容赦のない姉の追撃に、源四郎の目が泳ぐ。

唯一の希望であるおこうも、先ほど抱きしめられた自分の着物の胸元を、恐る恐る嗅ぎ始めた。

「…………着物に匂いついてないでしょうか……けほっ」

彼女の純粋かつ無慈悲な確認行動。

泥と返り血にまみれ、死線を超え、それでも家族の元へ帰ってきたのだ。

殺した者たちの亡霊を追い払い、ようやく手にした安らぎの場所で、源四郎は今、人生最大の恥辱という名の試練に立たされていた。

源四郎は目元を真っ赤にし、涙と鼻水を垂らしながら、力なくうなだれる。

「………みんな、酷くね? 俺、頑張ったんだよ? ………俺、死ぬ気で生きて帰ってきたんだよ?」

鼻をすすりながら漏らす、本気の訴え。

しかし、家族の反応は冷淡だった。

「頑張ったのと、風呂に入っていないのは別じゃ!」

昌幸のその一言で、今度は部屋中に爆笑が広がった。

源四郎はうつむいたまま、自分の服を嗅いでみる。

確かに、鼻を突くような鉄錆の臭いと、獣のような汗の匂いがした。……だが、それを家族が「臭い」と笑ってくれることの幸福を、源四郎は噛み締めていた。

この汚れた臭いこそが、自分が「生きて帰ってきた」という何よりの証拠なのだ。

「……わかったよ……風呂だろ、風呂に入ればいいんだろ……」

その言葉を聞くや昌幸はじめ皆一様にニヤニヤしだす。

「………んだよ! 皆、気持ち悪いぞ!?」

「「「「「まぁまぁ。つべこべ言わず!」」」」」

源四郎の抗議などどこ吹く風。

背中を押され、蹴り出されるようにして、彼は屋敷の奥にある湯殿へと放り込まれた。

湯殿に入れば、懐かしき真田の湯(裏山の源泉から引っ張ってきてる)の香りが立ち込めている。

源四郎は呆れながらも、まず真田自慢の【石鹸(無論愛用の竹炭石鹸)】で身体を洗い…

心地よい温度の湯に身体を解放した。

湯船に身を沈め、長い溜息と共に筋肉の緊張が解けていく。

「……あぁ、生き返る……」

殺戮の記憶も、血の臭いも、この湯が、【石鹸】が、すべて洗い流してくれるような気がした。

そんな折…

「お背中流しましょうか……源四郎様♡」

蕩けるような甘い声が、湯煙の向こうから響いた。

「えっ……?」

振り返った源四郎は、心臓が口から飛び出るほどの衝撃に襲われる。

そこに立っていたのは、二年前の記憶にある、あどけなさを残したみおではなかった。

産まれたままの姿で、湯煙を纏い、妖艶な微笑みを浮かべる女性。

「み、みみみみみ……みおさんっ!?」

源四郎の声が裏返る。

それもそのはず、目の前のみおは、二年という月日の中で劇的な変貌を遂げていた。

かつての可憐な少女の面影はそのままに、成長期という名の爆弾を全身に受けたかのように、その肢体は豊潤そのもの。

まさに【ボンキュッボン】の極み。

湯煙の中で揺れるそのダイナマイトな曲線美に、源四郎は薩摩でも、蔵人佐の厳しい稽古の中でも!

経験したことのない、真っ白な頭の真っ白な思考に陥った。

「……やはり、柳腰のおなごの方がお好みですか、源四郎様?」

湯気の中で、みおがいたずらっぽく小首を傾げる。

その問いかけは、二年間、ただひたすら夫の帰りを待ちわびた彼女なりの、精一杯の【甘え】だった。

しかし、今の源四郎にとって、それは急所を直接突かれるに等しい一撃。

「………。」

源四郎は言葉を失い、完全に思考を停止させていた。

その瞳は、先程まで数多の敵を射抜いた鋭さを完全に喪失し、ぽわんと熱を帯びたまま、目の前の豊潤な曲線から一瞬たりとも逸らすことができなくなっている。

スケベここに極まれり。

が!

「源四郎様? きいて……」

みおが心配そうに身を乗り出した、その瞬間だった。

「……はぅ」ブッ!

鈍い音と共に、源四郎の鼻から鮮やかな赤い飛沫が飛び散った。

戦場で浴びた返り血ではない。

若さゆえの、あまりに純情で情けない、真っ赤な愛の雫。

「!?」

脳の許容量を遥かに超えた視覚的刺激、そしてあまりの緊張の糸の切れ方に、源四郎の意識は急降下した。

バシャン!

湯船にその身体が沈み込む。

武功に優れ、地獄を潜り抜け【佐土原が対の化生】とまで恐れられた男が、妻の色香に当てられ、鼻血を流して湯船の底で白目を剥いて沈んでいる。

「きゃー!? 誰かー!!」

みおの悲鳴が、屋敷中に木霊した。

数秒後。

湯殿の戸が激しく開け放たれ、昌幸、源三郎、薫そして松がなだれ込んでくる。

「どうした、刺客か!?」

「源四郎! ……って、なんじゃあその姿は!!」

湯船の中で、鼻から血を流し、湯気の中でピクリとも動かない源四郎を、家族は呆然と見下ろした。

「……あぁ、なるほど。刺激が強すぎたか」

昌幸が深く納得したような顔で、溜息と共に肩をすくめる。

源三郎は、弟の鼻から流れる血を見て、思わず額を押さえた。

「嫡男たる私ですら、こんなに無様な姿は晒したことがないぞ……。源四郎、おぬし、二年間何をしてきたのだ……」

「とりあえず、湯から上げないと溺れるわよ! 母上! お水!」

松がバシャバシャと湯船に手を突っ込み、源四郎を引きずり上げようと格闘する。

湯殿は、真田家始まって以来の大騒動。

修羅はついに、戦場ではなく、湯殿で「妻」という名の最強の敵に完敗し、完全に沈黙したのであった。

そしてしばし後…

――再び源四郎の寝所――

「う〜ん……」

源四郎の意識を覚醒させたのは、鼻先をくすぐる柔らかな感触と、どこか懐かしい【石鹸(金木犀の香り)】の匂い。

(……ん? なんだ、この……柔らかい、モノは……)

夢うつつの中で頭を巡らせた直後、源四郎の目が大きく見開かれる。

視界のすべてを覆うのは、豊満な曲線を描くみおの胸の谷間。

なんと源四郎!ふとんの中でみおに抱き寄せられ、その柔らかき聖域に顔を完全に埋めていたのである!!

「あっ。源四郎様、お目覚めですか?」

みおが源四郎の頭を愛おしそうにギュッと引き寄せ、さらに距離を詰めてくる。

「も、もがぁ!?(み、みおぉ!?)」

言葉にならない抗議の声。

あまりの密着度に鼻が潰れ、息が通らない。

「もが! もがぁ!!(ちょ、苦しいってば!)」

「あ! 申し訳ありません」

みおがスッと身体を引くと、源四郎は「ぷはぁ!」と大きく息を吸い込んだ。

二年間の薩摩修行の中で、これほどまでに死の危機(窒息)を近くに感じたことがあっただろうか?

しかし、呼吸を整えた源四郎の脳裏を過ったのは男としての抗いがたい本能であった!

迷うことなく、再びポフッとみおの胸へ顔を埋める源四郎!!

やはりコイツ、スケベである。

「……なに食ったらこうなんだよぉ♫」

満足げに呟く源四郎の声は、戦士の響きではなく、ただの愛おしさに満ちた小年のそれだった。

「さぁ? 何でしょう、ふふっ♫」

いたずらっぽく微笑むみおに、源四郎は心から、薩摩へ行く前の自分、あるいはそれ以上に穏やかな自分が蘇ってくるのを感じていた。

「…………ただいまぁ、みお♡」

源四郎がみおを抱き締め返すと、みおもまた、更に愛おしそうに源四郎を包み込む。

「はい、おかえりなさいませ源四郎様♡」

そんな二人のやりとりを障子一枚隔て聞いている源三郎。

「…まったく。」

そう吐き捨て見て見ぬふりを決め込む源三郎。

死線をくぐり抜け最愛の妻との再会を享受する弟の邪魔をするなんて無粋な真似…いかに堅物と言われる源三郎と言えど流石にできはしなかった。

こうして真田の郷に【源四郎のいる日常】が帰ってきた!

――第五章、完――





遂に真田の郷へ帰還する源四郎。

が!その【代償】は大きくて……

次回を刮目して待て!!

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