表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
信濃の修羅〜現代人の俺、存在しないハズの真田の三男坊として転生す〜  作者: ギュネイ山本
第五章【待っていろ家族よ!民よ!そしてみおよ!源四郎、信濃へ帰還すの段】

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/40

其之三

――天正10年、6月初旬――

――堺の港――

「くっそ!なんてついてねぇんだ!まさか風待ちでこうも時間取られるとはなぁ!!!」

堺の港に降り立った源四郎を待っていたのは、潮風ではなく、焦げ付いた臭気と、死んだような静寂だった。

街の空気が、異常だった。

人々は口を噤み、堺の商人たちさえもが商いを放棄し、虚ろな目で京の方角を見つめている。

「……おい、嘘だろ」

源四郎は、信じられない思いで通りすがりの商人の肩を掴んだ。

「京で何があった! 信長公は!? 本能寺はどうなった!!」

商人の瞳から光が消えていた。

「……もう、終わりました。あのお殿様も、明智の謀反にて……本能寺の露と消えたのです」

世界が、音を立てて崩れた。

6月初旬。

信長という巨星が堕ちて、すでに数日が経過していた。

源四郎の手が震え、腰の【不落】が鞘の中で鈍く鳴る。

(嘘だろ……あんたは、ここで死ぬような(タマ)じゃねえはずだ)

脳裏に浮かぶのは、民主主義、自衛隊を熱く語った時の、あの不敵な笑み。

出自など関係ない、能力こそが世界を切り拓くという、あの狂ったような、しかし理にかなった現代的な視点。

源四郎にとって信長は、単なる織田の殿様や遠い存在ではなかった。

孤独な異邦人である自分に、この戦国の世でも「未来」は作れると信じさせてくれた、魂の共鳴者だったのだ。

源四郎は走った。

泥のような焦燥感とともに京へと直走っていた。

(おっちゃん! あんたが死んだら、この日ノ本はまた旧態依然とした血縁の檻に戻っちまうんだぞ!)

足から血が滲む。

なぜ風を待った?

なぜもう少し早く、薩摩を蹴り出さなかった。

後悔が胸を焼く。

だが、それ以上に源四郎を突き動かしたのは、「もし生きていたら」という極めて低い、しかし捨てきれない一縷の望みだった。

源四郎は走った、夜通し走った。

そして京の入り口が見えてくる。

――夜明け頃――

――京、本能寺前――

そこには、灰に塗れた焼け野原が広がっていた。

かつて、未来の礎になると信じた男が燃やされた場所。

源四郎は、その黒焦げの地獄を前にただ茫然と立ち尽くした。

「……ほんとに、灰になっちまったのかよ、おっちゃん……」

乾いた灰が、風に舞って源四郎の頬に張り付く。

それは、源四郎がかつて夢見た【この戦国で創り出せるはずだった未来】が、燃え尽きた証のように見えた。

絶望の淵で、源四郎は初めて【時代が変わる】ことの本当の恐ろしさを知る。

織田信長という【歴史のバグ】とも言える漢が消えたこの世で、自分はこれから何を軸にして生きていけばいいのか。

源四郎の瞳に、怒りとも悲しみともつかない、暗い火が灯り始めていた。

「なんでだ……なんで! なんでおっちゃんを討った明智ぃいいい! うあああああああ!!」

源四郎の叫びは、焼け残った寺の柱に虚しく吸い込まれていった。

土に額を叩きつけ、灰にまみれてもなお、源四郎は立ち上がることができない。

力さえあれば…未来さえ知っていれば、この男だけは救えたはずだ。

歴史を動かす最強の合理主義者を守り抜けたなら…みおとの平穏はもっと、ずっと早く訪れたのではないか。

そんな自惚れさえ、この凄惨な光景が粉々に砕いていく。

喉が裂けるほどの悲鳴を上げた時だった。

焦げ付いた空気を切り裂いて、震えるような声が届いた。

「……げん……しろう……?」

源四郎が弾かれたように顔を上げる。

灰まみれの瓦礫の向こう側、そこには呆然とした表情で立ち尽くす一人の若者の姿があった。

凛とした面立ち、しかし今はただの弟を見るような深い困惑を浮かべた瞳。

小県にいるはずの、会えるはずのない男。

「あに……さま…………兄様ぁ!!!!!」

呼び声は、もはや武士のそれではなく、ただ幼き弟の叫びだった。

源四郎は灰の中に足を取られながらも駆け寄り、兄・源次郎の胸に飛び込んだ。

「あにさま……兄様ぁ……!」ポロポロ

薩摩での二年、死線を越え、猛者たちに揉まれ、重い兄弟刀を携え、どんな修羅場でも涙を見せなかった源四郎が、子供のように兄の肩で泣きじゃくる。

源次郎もまた、弟の背に手を回し、その震えを全身で受け止めていた。

「……まったくこやつめ。兄上へのたまの文にて、お前が薩摩で元気にやっておるとは知っていたが……まさか、このような場所で会うとはな」

「兄様、しかしなにゆえ京に……小県はどうなったんです!? 父上は!?」

「それはな源四郎…」

源次郎の口から紡がれる言葉は、まるで冷たい雨のように源四郎の心を濡らした。

本能寺の惨劇に揺れる京の片隅。

二人が隠れるようにして身を寄せた屋敷の軒先で、源次郎は淡々と、だが隠しきれない無念を込めて真田の現状を語り始めた。

「……おこう姉さまが、滝川一益の人質となられた」

「そんな…せっかく元気になられたのに!」ギリッ

源次郎の言葉に、源四郎は拳を硬く握りしめた。

穏やかで、真田の家を柔らかな灯火で照らし健気にも身体を丈夫にし真田の、源三郎の為に生きてきた大好きな兄嫁。

そんなおこうが、かつての主家筋とはいえ、今は織田の威を借りて信濃を牛耳る滝川の手に落ちた。

それは真田にとって、手足を縛られるに等しい。

「さらに、姉上と兄者も……」

源次郎は一呼吸置き、言葉を絞り出した。

「安土にて、織田本家の人質となった。私は二人を安土へ送り、その帰りに京の異変を聞きつけここへ来た…と言う訳だ。」

その言葉の重みに、源四郎は息を止めた。

松と茂誠。

彼らが安土にいるということは、信長亡き後、安土という火薬庫の中に直接放り込まれたも同然だ。

「そんな……姉上に、兄者まで……! 兄様ぁ! みおは!? みおはどうしているのです!?」

源四郎の叫びは、京の湿った夜風に震えて消えた。

真田家を護るための、あまりに過酷な代償。

源次郎が告げた事実に、源四郎の膝が崩れかける。

源次郎は、落ち着いた、しかしどこか慈愛に満ちた声で答えた。

「案ずるな源四郎。みおは小県でお前の帰りを待っている。……そもそも本来であれば、みおが滝川の元へ行くはずだったのをおこう姉さまが……」

源次郎はそこまで言い、視線を源四郎の瞳に定めた。

「『小県で源四郎を待つのがみおの務め』と。……おこう姉さまが自ら、滝川の元へ向かわれたのだ」

その言葉が、源四郎の胸を刃のように刺し貫いた。

おこうの穏やかな笑顔。

いつも自分を信じ、影で支えてくれた義姉の姿が脳裏に浮かぶ。

彼女がどれほどの覚悟で、滝川という名の檻に自ら足を踏み入れたのか。

その光景を想像するだけで、心臓が握りつぶされそうになる。

「……おこう姉様……おこう姉様ぁあ!!」ポロポロ

源四郎の喉の奥から、慟哭が漏れた。

ギリギリ、と硬い音がしたのは、拳が締め上げられた音だった。

爪が手のひらに食い込み、灰にまみれた肌から赤い血が滲む。

だが、その痛みさえも、おこうが味わっているであろう恐怖や屈辱に比べれば、あまりに軽すぎる。

(俺のために……俺という弟の幸せを願うために、姉様は……!)

怒りではない。それは、自分の無力さに対する猛烈な自己嫌悪と、大切なものを守れなかった自分への激しい憎悪だった。

そうして更に源四郎は問う。

「して兄様!父上と兄上はなんと!なんと仰られているんですか!?」

源四郎の問いに、源次郎はすぐには答えなかった。

彼は小さく息を吐き、視線を少しだけ上へ逸らした。

京の明けの空は雲に覆われ、わずかな光さえ届かない。

「……父上は、ただ一言。『時を待て』とだけ仰せられた」

「時を待て……? 姉上やおこう姉様がかような目に遭っているというのに、ですか!」

源四郎の声が裏返る。

だが、源次郎はそれを制するように、さらに低く、重い声で続けた。

「父上の目が、あの夜から変わったのだ。……まるで、冷たい水の中に沈み込んだような、あの恐ろしいまでの静寂。滝川の顔色を窺い、恭順の姿勢を見せつつも、その内側で何万通もの策を巡らせている」

源次郎の脳裏に、父・昌幸の姿が浮かぶ。

滝川の重臣を前にしても微塵も動じず、酒を酌み交わしながらも、その瞳の奥で確実に敵の急所を狙い定めているあの「策士」の顔を。

「父上はこう仰った。『おこうの身を捧げて稼いだこの時間は、ただの猶予ではない。真田が天下の棋盤きばんを覆すための、最期の隙だ』とな」

それは、冷徹なまでの判断だった。しかし、源四郎は知っている。

父がその裏で、どれほど歯を食いしばり、枕を濡らしているのかを。

真田の当主として、個人的な感情を押し殺し、一家の全滅を避けるために非情な決断を下したのだということを。

「では、兄上は……兄上はなんと!?」

源三郎という名は、源四郎にとって「真田の誠実さ」そのものだった。

「……兄上は、何も言わなかった」

源次郎は、苦い笑みを浮かべた。

「ただ、黙々と刀を研いでおられる。一日のうちの半分は、屋敷にて刀を振っている。……その刃筋があまりに鋭く、そして悲痛すぎて、誰も声をかけられぬほどだ」

「……兄上……」

源四郎の目頭が熱くなる。

源三郎という男は、理屈ではない。

言葉では語れぬ怒りを、全て己の武芸に昇華させ、その研ぎ澄まされた刃を、いつか必ず滝川の首へ届けることだけを考えているのだ。

源次郎は、源四郎の目を真っ直ぐに見据えた。

「父上は『知』で滝川を籠絡し、源三郎兄上は『武』でその時を待つ。……源四郎、お前はどうする。この盤上のどこに、お前という駒を置く?」

答えは明白だった。

源四郎の背筋に、冷たい武者震いが走る。

「決まっています! 全部ひっくり返して見せます!! 父上の知略も、滝川の狙いも全部! 全部ひっくり返しておこう姉さまを救い出しまする!」

灰まみれの顔で、源四郎は真っ直ぐに兄を見据えた。

その瞳には、もはや泣き言など欠片もない。

ただ、燃え盛るような生存と救出の執念だけが宿っている。

源次郎は、その言葉を聞くや否や、肩を揺らして笑った。

「ははは! お前ならそう言うと思ったぞ!」

笑い終えた源次郎の表情からは、先ほどまでの沈痛な色が消えていた。彼は源四郎の肩を、砕けんばかりの力で叩く。

「なれば源四郎!次はどう動く?」

源次郎の問いに、源四郎の瞳には迷いのない【炎】が宿る。

「まずは後顧の憂いを断とうよ兄様! 信長公が討たれ織田が瓦解したとなれば、最早義理立ては不要! 安土の姉上と兄者を連れ、小県へ帰りましょう!!」

その言葉は、単なる救出劇の提案ではない。

それは、織田という巨大な磁場が消滅した空白地帯で、真田が最初に打つ【独立宣言】の第一手でもあった。

「……やはり安土か。敵の喉元に飛び込むというわけだな」

源次郎が口角を上げ、不敵に笑う。

源次郎もまた、父昌幸の息子だ。

無理難題であればあるほど、その血が沸き立つ。

「ええ。本能寺の変を知った安土の城代共は、今頃、自分たちの処遇に頭を抱えているはず。混乱に乗じる……薩摩で俺が学んだのは、敵の【揺らぎ】を最大まで引き延ばす戦術だぜ!」

源四郎は腰の【不落】を確かめた。その重みは、彼に絶対的な自信を与えていた。

(安土は、おっちゃんが築いた城だ。……その場所で、おっちゃんが灰となったってのにのうのうとしてる連中の鼻を明かしてやる!)

二人は京を離れ、街道へと馬を走らせた。

――数刻後――

――安土城下――

安土の城下は、まさに死に体となった巨人のような様相を呈していた。

織田の権威が失墜したことを察知した商人たちが店を閉じ、足軽たちは脱走を企て、城を守るべき城代たちもまた、右往左往している。

源四郎たちは、農民に紛れ、時には織田家家臣を煙に巻きながら、安土の城へと肉薄した。

「あそこに姉上が……」

遠目に見える城の周囲には、未だ厳重な警備が敷かれている。

だが、その城代達の顔には、隠しようのない恐怖と焦燥が浮かんでいた。

源四郎は、潜伏先で兄と視線を交わした。

「兄様、囮役は頼みます。城代共を引きずり出し、城の裏門を割る時間を……ほんの数分、稼いでください」

「……無事に戻れよ、源四郎!」

「ええ。姉上たちと…それからみおと!また一緒に飯を喰うまで死ねません!」

二人が同時に動き出す。

源次郎が「火事だぁ!」と城代共の気を引き隊列を乱すと、源四郎は影のようにその隙を突き城内へ至った。

かつて真田の郷で弥五郎と鍛えた隠密術と、薩摩で又七郎と共に空挺体操に明け暮れ得た身体能力。

源四郎は、音もなく廊下の家臣達を沈め、松と茂誠が幽閉されている一室へと辿り着く。

障子をゆっくりと開く。

部屋の隅に座り、震える松と、その傍らで必死に剣を握りしめて守る茂誠の姿があった。

「……姉上、兄者。……迎えに来ました」

障子の隙間から、明かりが差し込む。

灰まみれの顔に、源四郎はいつものような、人懐っこい笑みを浮かべた。

「……二人の大好きな可愛い弟、源四郎!! 薩摩より帰ったよ、ただいま♫」

その声を聞いた瞬間、松と茂誠の時間が止まった。

薩摩という遠き地に赴き二度と会えないとさえ思っていた弟が、まるで何事もなかったかのようにそこに立っている。

「……げ、げん……」

「げんし……ろう……?」

二人の声が重なる。次の瞬間、彼らの瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。

「「げんしろおおおおおおおお!!!」」

茂誠は床を蹴って飛び出し、松はその背中を追うようにして源四郎に縋り付いた。

二人とも、源四郎の首に腕を回し、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっている。

「もう……もう二度と会えぬかと! 松は……松は……!!」

「よぉ戻った! よぉ戻ったげんしろおおおお!」

茂誠の逞しい腕が、源四郎の背中を何度も何度も叩く。

その掌からは、幽閉されていた間の恐怖と、弟の生還を信じきれなかった自分への苛立ち、そして何よりあふれんばかりの愛おしさが伝わってくる。

弟の逞しくなった肩と、薩摩の荒波を越えてきた体躯。松はそれが現実であることを確かめるように、源四郎の胸元に顔を埋めて震え続けていた。

「二人とも……ちょっと、痛い。死んじゃうって!」

源四郎は笑いながらも、その温かな重みを全身で受け止めた。

薩摩でどれほど強くなろうと、どれほど【不落】の重さを背負おうと、この温もりだけは、何にも代えがたい【自分】という存在の拠り所だ。

茂誠が涙を拭い、照れくさそうに笑う。

「いやはや、見苦しい姿を見せたな……だが、源四郎。お前、一体全体どこでそんなに大きくなったんだ?」

「それは小県でたっぷり話すよ。……さあ、安土は空気が悪すぎる。帰ろう!みんなで!!」

窓の外では、源次郎が「今度はあちらで火事だぁ!」と城下の混乱をさらに煽っている。

その声を背に、源四郎は姉夫婦を庇うように立ち上がった。

かつて郷をさわがせた「真田の手のかかる三男坊」は、もういない。

守るべき家族という宝をその手に取り戻した源四郎の瞳には、かつてないほど強固な決意が宿っていた。

「……行こう。小県が…みおが!俺たちを待ってる!!」

兄源次郎、そして姉夫婦。

真田の血を分かち合った者たちが、今まさに安土の闇を切り裂き、信濃へと続く帰還の道を歩み始める。

そうして城を脱出し、安土の山を下りる道すがら。

源四郎はふと足を止め、広がる安土城を見つめた。

かつて信長が天下布武を掲げ、この城で夢見たのは、古き慣習が支配する日ノ本に風穴を開けることだった。兵農分離、競争社会、自由交易……それらは源四郎にとって、遠い未来の母国で見てきた社会システムの残滓だった。

(おっちゃん……あんたは早すぎたんだよ)

炎に包まれる安土を見つめる源四郎の瞳に、激しい感情が渦巻く。

悲しみではない。それは、意志の継承。

(あんたがやろうとしたこと、俺ならその先まで行ける!民が支配者に隷属するんじゃねえ。民が自ら法を選び、自らを守る……そんな社会だ!)

源四郎は、腰の【不落】に手を添えた。

この重い刀は、ただ敵を斬るためだけのものではない。戦国という終わりのない暴力の連鎖を、物理的に断ち切るための「礎」だ。

(あんたの見た夢の、その先だ。……【民主主義国家】と、それを守るための防人たる【自衛隊】。そんなものがこの時代に存在しうるのかは分からねえ。だが、俺がやる)

狂気じみた決意だった。

しかし、薩摩で死線を越え、猛者たちにその力を認められた源四郎にとっては、もはや妄想ではない。それは「実現すべき工程表」だった。

(おっちゃんが切り開いた道を、俺が完成させてやる。戦国の世を終わらせるだけじゃねえ。二度と戦国にならねえ国を、俺が創ったらぁ!)

「源四郎! どうした、置いていくぞ!」

茂誠の声が闇から響く。源四郎は、安土に小さく敬礼した。

それは、かつて上官に向けたものであり、今は死した変革者・織田信長に向けたものだった。

「……うん、すぐ行くよ!」

源四郎は踵を返した。

源四郎の歩む道は、信濃の家族を救うための旅路から、いつしかこの広大な日ノ本を塗り替えるという、あまりに巨大な「革命」の道へと変わっていた。

暁の風が、彼の背中を力強く押す。

その一歩は、武士としてではなく、一人の「現代の魂を持つ設計者」としての第一歩だった。

戦国乱世という名の泥沼の中で、源四郎という名の種火が、静かに、しかし凄まじい熱量で燃え上がり始めていた。

――更に数刻後の夜――

――安土より落ち伸びる道すがら――

闇に紛れ、静寂を縫うように進んでいた一行の前に、突如として松明の明かりが灯った。

獣のような気配を纏い、潜んでいた明智の残党が、蜘蛛の子を散らすように四方を囲む。

「織田の人質か! 大人しくせい!」

嘲るような男の声。

松が小さく悲鳴を上げ、茂誠が震える手で刀を抜く。

源次郎が弟の前に立ちふさがろうとしたその瞬間だった。

源四郎の全身から、空気が重くなるほどの【熱】が噴き出した。

(やらなきゃ……俺がやらなきゃ! 殺さなきゃいけねぇんだ!)

脳裏に、薩摩での日々が走馬灯の如く走る。

蔵人佐の厳しい指導、又七郎との死に物狂いの稽古。

『人を斬ることへのためらいがある』

蔵人佐のその言葉を、源四郎は自分の中の倫理観という名の枷ごと、物理的に殴り捨てた。

「あああああああああああああ!!」

それは、人間の声ではなかった。

獣の咆哮。

魂が肉体の限界を突破する断末魔。

源四郎が地を蹴る。

視界が真っ赤に染まる。

襲いかかる明智の兵の刀を、腰の【不落】が受け流すのではなく、その質量で根元から粉砕した。

「――ッ!!」

驚愕に目を見開く兵の喉元に、源四郎の刃が吸い込まれる。

身体は、薩摩で叩き込まれたタイ捨流の(ことわり)を完璧に体現していた。

無駄な動きは一つもない。

ただ、効率的に、機械的に、眼前の敵を肉塊へと変えていく。

鮮血が源四郎の顔を塗り潰す。

生温かい感触。

命が散る音。

かつて自衛官として抱いたはずの「人命尊重」の理念が、今やただの古い殻として弾け飛んだ。

「……死ね。ただただ……死ねぇえ!!!」

次の瞬間には、源四郎の前に立っていた三人目の男が、その胴を真っ二つに割られて絶命していた。

源四郎の背後では、源次郎が呆然と立ち尽くしている。

かつての弟の面影はそこにはない。

ただ、冷徹に、そして狂おしいほどに激しく、命を刈り取る【化生】が一匹、そこに立っていた。

茂誠が息を呑む音が聞こえる。

そうこうする間に…

「へへへ!明智の連中の後をつけてみりゃあ♫」

「おうよ!こいつら生け捕り、いや首さえ持ってきゃ侍大将よ♫」

今度は功名に逸る地侍(野武士)達!

間髪入れずに襲い来る下賤の輩に源四郎が叫ぶ!

「………死んどけ、てめぇらぁああ!」

左右から躍りかかってきた地侍の小刀を、源四郎は防ごうともせず、腰を落とす動作だけで躱した。流れるような体捌きで懐に入り込み、一撃でその顎を砕く。続くもう一人の心臓を、【不落】が冷徹に貫く。

技に迷いはない。思考には血も涙もない。

薩摩で「命のやり取り」を経た源四郎にとって、目の前の地侍たちは「障害物」でしかなかった。

その様を、茂誠の腕の中で松は見ていた。

茂誠は腰に手を当て、いつでも松を隠せるようにと身構えている。

しかし、そんな茂誠の瞳にもまた、源四郎のあまりの変貌に対する戦慄が隠しきれない。

「……あぁ、あぁ……」

松の目から、止めどなく涙が溢れる。

松が知っているのは、茶目っ気があり、姉たちを気遣い、ただただ優しい家族の源四郎。

今、目の前で血に濡れた刃を振るっている【それ】は、人の姿をしていながら、内側が真っ黒な何かに塗り替えられていた。

「源四郎が……源四郎が……化生(けしょう)になっちゃう……」

絞り出すような松の声は、戦場のかん高い金属音にかき消される。

源四郎が敵の首を跳ねるたびに、松の心の中で「弟」という像が崩れ去っていく。

辺りには、先ほどまで笑い声を上げていた地侍たちの屍が転がる。

全てを片付けた源四郎が、ゆっくりとこちらを向いた。

その顔は返り血で赤く染まり、瞳孔は収縮し、ただ一点、自分たちを守るべき対象を見つめている。

「……姉上、兄者。もう大丈夫。行けるよ」

源四郎の声は驚くほど平坦だった。

「自分を見てください」と鏡を見せるように、当たり前の事実を告げるだけの声。

そこに、先ほど松が聞いた「ただいま♫」という少年の響きは、微塵も残っていなかった。

他方、源次郎は、その場に釘付けになっていた。

目の前の光景は、もはや武士の戦いではない。

それは、あまりに静かで、あまりに速く、そして圧倒的に死を撒き散らす「現象」そのものだった。

(武の高みとは……美しきものだと、私はずっと信じていた)

武の道に生き、剣を磨き、いつか父のような名将になることを夢見ていた源次郎にとって、武とは洗練された知略であり、鍛え抜かれた精神の結晶だった。

しかし、今の源四郎はどうだ。

その剣筋には、「美」など微塵もない。

躊躇も、慈悲も、敵への敬意も、あるいは殺意という感情さえも削ぎ落とされている。

そこにあるのは、ただ命を刈り取るための最適解だけだ。

(なんだ、あれは……。ただただ命を刈り取る化生……!)

源次郎の視界が歪む。弟が血を滴らせながら、平然とこちらを振り返る。

茂誠の腕の中で泣き崩れる松と、恐怖に引き攣った茂誠の顔。

その全てが、源四郎という存在の周囲だけ、冷たく凍りついているように見える。

源次郎は、誰にも聞こえない声で、遥か遠く信濃にいるであろう父へと呟いた。

「……父上。我らは、弟を……ただの剣鬼に落としてしまったのかもしれませぬ」

それは、父の策を、考えを誰よりも信じていた次兄の、初めての裏切りに近い嘆きだった。

薩摩へ赴きたいと言った源四郎。

それを認めたのは自分たちだ。

源四郎に「生きて戻れ」と願い、そのために「強くなれ」と背中を押したのは、真田家という一族の業だ。

だが、その業がこれほどまでに弟を塗り潰すとは。

源四郎が「家族のために化生になる」ことを選んだのだとしても、それを強いた自分たちの手が、既に血に染まっていることに気づいた時、源次郎の背中に言いようのない寒気が走った。

「源次郎……?」

松の震える声に、源次郎はハッと我に返った。

見れば、源四郎が、血のついた指先を服で拭いもせず、こちらへ近づいてくる。

地面には、先ほどまで息をしていた者たちの成れの果てが転がっている。

その中心で、源四郎はまるで庭先で木の実でも拾ったかのような、穏やかな笑みを浮かべた。

「さて、片付きましたよ兄様♪ 行きましょう」

その声色には、幼い頃に母に甘えた時のような、無邪気な柔らかさがあった。

だが、その微笑みと、返り血で真っ赤に染まった顔面とのあまりの落差に、源次郎は吐き気を催すほどのめまいを覚えた。

(ああ……御仏よ。この目は何だ。……何も映していない)

弟の瞳の奥には、憎しみもなければ、高揚感もない。

ただ、空っぽの虚無が広がっている。

まるで、人間としての感情のすべてを、血の海に捨て去ってきたかのように。

源次郎はたまらず、血に汚れた源四郎の肩を強く抱きしめた。

「……すまぬ、すまぬ! 源四郎!!」

抑えきれない嗚咽が、源次郎の喉から漏れる。

自分が、自分たちが、この愛おしい弟をこんな形に変えてしまったのだという罪悪感が、堰を切って溢れ出した。

だが、源四郎はきょとんとした表情で、血塗れの首をわずかに傾げる。

「? 何を謝るのです兄様??」

その問いかけには、微塵の邪念もなかった。

兄がなぜ泣いているのか、なぜ謝っているのか……その論理が、源四郎の今の脳内には存在しないのだ。

「おかしなこと言うなぁ。ここは敵地だよ? 襲ってくる奴らを排除するのは、俺の……いや、真田の剣としての務めです。兄様を、姉上を、兄者を、父上を、家族を、そしてみおを守るためなら、これくらい当然のこと……」

彼は、まるで天気の良い日に空を見上げるような調子で、そう断言した。

「謝るなんて、兄様らしくないよ」

最後にそう言って、源四郎はふわりと笑う。

その笑顔のなんと残酷なことか。

兄を慰めようとするその慈愛さえも、修羅と化した彼にとっては、ただの【機能】の一つに過ぎないのだ。

源次郎は、弟を抱きしめる腕を緩めることができなかった。

抱きしめれば抱きしめるほど、源四郎の身体が、氷のように冷たく感じられる。

兄は悟った。

自分が謝るべき相手は、もうこの世のどこにもいないのかも知れない。

ここにいるのは、真田を守るためだけに最適化された、冷酷で慈悲深き【化生】だけなのだということを。

「……ああ、そうだな。……行こう、源四郎」

源次郎は涙を拭い、仮面のような穏やかさを取り繕った。

弟という名の【武器】を抱え、真田の家名という名の鎖に縛り付けられ、彼らは再び歩き出す。

暗闇の中、源四郎の背中だけが、月明かりを弾いて異様に輝いてていた。







血まみれの【退き口】、ここに開幕。

次回を刮目して待て。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ