其之一
――時は再び移ろい天正10年、5月半ば――
――川辺峠頂上付近――
「がはははは!今日もいい稼ぎばなったのぉ!」
「ほうじゃほうじゃあ!なははははは!!!」
川辺峠山頂近くの山中は山賊どもの根城。
今日も今日とて道行く旅人や行商人から金品を巻き上げそれを肴に酒盛りをする。
「しっかしお頭ぁ♫」グビグビ
「おぉなんじゃ??」グビグビ
「【二年ほど前のガキ共】にノされてから向こう、あっしらの運もドン底だったのが…やっと上向いて来やしたね♫」
手下の一人、側近風の輩の言う二年ほど前の【ガキ共】…
言わずもがな源四郎、又七郎、そして今は筑前に帰った弥七郎の三人である。
思い出して頂けただろうか?
そう、コイツらは源四郎達が硝石蔵での【暑気払いの宴】の折に知覧で手に入れた【鶏】を狙った不届き者である。
あの時三人にノされて命からがら逃げ帰ったと言うのにまた懲りずに山賊稼業勤しみ今日は割といい金品が…というわけである。
「ブーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!?」
「うぇ!きたねぇ!!!!」
その話題に触れられ飲んでいた酒を噴き出す山賊の頭。
「ば、ばば、ばばばばば…馬鹿野郎!?あのガキ共の事ば思い出させるんじゃなかとぞ!?!?」
「そうじゃっど!!奴らにノされてから…近隣の若衆から追い立てられるわ、行商人共の用心棒に斬られかかって這々の体で逃げる羽目になるわ…ほんッッッッッッとに散々だったんだんど!思い出させるんじゃなかっど!!」
「ほうじゃほうじゃ!!」
山賊どもの中では源四郎達の話題はタブー化しているのであろう、触れた瞬間にブーイングの嵐である。
さて、そんな山賊共から距離が空くこと三十間(約55メートル)。
眼光鋭く山賊どもを見据える者たちがあった。
源四郎、そして又七郎に藤兵衛を含む島津の者総勢5名である。
手には件の山賊どもをひっ捕らえるべく木刀や棍に荒縄、藤兵衛に至っては真剣も携える。
そうして当年とって数え12の若武者に成長した又七郎が言う。
「ひぃふぅみ………敵ん数ば焚き火ん外で見張りばやっとるんがおるとみても…9人てとこじゃろな。」
「いい見立てじゃねぇか又七郎。んで………あ〜、ついてるな。弓はねぇみたいだ。」
「それは重畳よ源四郎。して、どのように奴らばひっ捕らえるとじゃ??」
「ほうじゃっど源四郎。まぁおはんにかかればあんな有象無象、物の数ではなかとか。」
月明かり無き曇り空の闇の中、藤兵衛と又七郎が源四郎に問う。
「こらこら又七郎、人に期待してくれるのはやぶさかではねぇけど油断は禁物だぜ?お師さんも言ってんだろ??」
対して源四郎は期待して貰ったことを喜びつつ油断を見せた又七郎を諌める。
「おっとこりゃすまんのぉ。お師さんからも言われとるとに…」
又七郎も成長してるのであろうか。
以前ならば「あんじゃと!?」くらいのことを言いそうなところ、素直に源四郎の言葉を受け止める。
「まぁいい。で、どうやってひっ捕らえるかだが…又七郎、こないだの兵法の座学でお師さんが【愚の骨頂】と断じてたの、なんだ?」
「んぉ?そりゃ源四郎【物見でもないのに兵を小出しにすること】…おはんの言う【戦力の逐次投入】じゃろうて?」
「よく覚えてんじゃねぇか♫そうだ。が、その【戦力の逐次投入】…手勢にやらせるなら愚の骨頂だが敵にそう仕向けさせるにゃこれほど効果的な手はねぇ。そうだろ?その為の【礫】さ♪」ニヤリ
ニヤリと笑う源四郎。
それを見て藤兵衛もほくそ笑む。
「ふっ!なるほどの、げに恐ろしきことを考えよるな。」
「はん!敵に兵法の愚の骨頂ばやるように仕向けさせるとか!!流石最近こん薩摩までその名ば轟き出した【武田が謀将】、真田安房守の倅じゃな!」
声を抑えた又七郎の言が夜の峠に弾ける。
武田が謀将。
その言葉は、源四郎の脳内に、教科書通りの「歴史の幕引き」を呼び起こした。
武田勝頼、天目山にて自害。武田家、滅亡。
その事実は、歴史オタクであり今もって戦国の世を生きる源四郎にとって、単なる歴史上の出来事ではない。既に確定した「死の宣告」であり現在進行系の【家の危機】。
(又七郎、お前は知らないんだよな……)
遠く離れた薩摩の地で、誰もが武田の威光を信じ、父・昌幸をその一翼として畏れている。だが、当の主家は既に、去る三月に消滅した。
源四郎だけが、「勝者は織田で、武田はもういない」という結果を知っている。
この情報の圧倒的な孤独は、どれだけ知識があっても埋めようのない深い溝だった。
又七郎の褒め言葉は、どこか歴史の遺物に対する称賛のように響く。
かつての栄光の影を追いかけているのは自分だけではないか、という胸を刺す空虚感に苛まれる源四郎。
「……おぅ、源四郎。どうしたとじゃ?」
又七郎が、笑みの混じった声音で覗き込んでくる。
源四郎の表情が、一瞬だけ歴史の深淵を見たような冷徹な色を帯びたことに気づいたのかもしれない。
源四郎は、喉の奥にこみ上げる苦い感慨を、前世のレンジャー訓練で叩き込まれた【無感情な仮面】で押し殺した。
史実を知っていることの強みなど、この泥臭い戦国乱世においては、ただの呪いに過ぎない。
「なんでもねえよ。ただ、父上の名をそんな風に呼ばれると、少しだけ背筋が伸びるだけだ」
源四郎は、指先で礫を弾いた。
「……俺たちが今、ここで何をすべきか。歴史書には載らねえ『小さな捕物』に集中しようぜ、又七郎」
「……よぉ分からんが、おはんがそう言うなら、ここがわいらの戦場ってことじゃの!」
源四郎は小さく頷き、闇を睨みつける。
歴史の結末を知る者として、自分がこれから何を為すべきか。
武田という旗印を失った今、源四郎は「武田の、父の軍略」ではなく、「自分の戦術」でこの戦国を生き残ることを、その眼差しで決意していた。
「さて、なれば行きましょうぞ…」
源四郎が短く告げると、又七郎たちは音もなく闇へ溶け込んだ。
焚き火を囲む山賊たちは、九人。
彼らは肉を焼き、酒を回し、夜の峠を自分たちの庭だと思っている。
だが、その灯りが彼らにとっては一番の「棺桶」であることに気づいていない。
源四郎達は音もなく近づき…焚き火から十間(約18メーター)ほど離れた闇の中に潜み、持ってきた【礫】を指先で弾いた。
コツン。
乾いた音が、山賊たちの背後の茂みを叩く。
焚き火の光で暗順応(いわゆる夜目)を失った山賊の一人が、「ん?」と首を巡らせ、火の輪の外へと足を踏み出した。
山賊が藪を分けた瞬間、背後の闇が動いた。
藤兵衛の影。
悲鳴すら上がらない。
ただ、肉が鈍く叩かれる音がし、山賊の気配が闇に吸い込まれた。
まずは一人。
源四郎は数拍おいて、今度は焚き火の反対側へ、二つ目の【礫】を投げる。
カツン。
今度は三人が連れ立って立ち上がった。
「誰だ?」と声を上げ、光の外へ踏み出す。
闇の向こうで、木刀の柄が顎を打ち、あるいは鳩尾に突き刺さる。
倒れる音を草木が吸収し、焚き火のパチパチという音だけが、呑気に平穏を装っている。
こうして二人、三人…そうして四人。
焚き火の周りに残る人間が減るにつれ、山賊たちの表情に動揺が広がり始める。
「……おい、あいつら戻らねえぞ」タラリ
山賊の頭が冷や汗混じりに言う。
焚き火を囲むのは、残り五人。
彼らは背中を合わせ、恐怖に引き攣った顔で闇を凝視し始めた。光の中にいるはずなのに、彼らの顔色は土のように青い。
源四郎は残りの【礫】をすべて地面に捨てた。
もう、誘導の必要はない。
「又七郎、仕上げだ」
源四郎が闇を蹴る。
驚異的な速度で距離を詰め、恐怖で硬直する山賊の視界に飛び込む。
「何だ、こいつらっ!?」
最後の一人、頭が声を上げるよりも早く、又七郎の棍が荒々しく焚き火の火勢を消し飛ばした。
舞い上がる火の粉が、闇の中に浮かぶ山賊たちの怯えた目を見せ、そして……すべてを漆黒の闇が塗り潰した。
峠に帰ってきたのは、ただの静寂と、山賊たちのうめき声だけだった。
そうしてかかる後…
焚き火の残火に、島津の家臣たちが駆けつける松明の明かりが重なった。
九人の山賊は全員、手足を縛られ、人によっては顎を的確に砕かれた状態で地面に転がされている。
抵抗も虚しく縛り上げられた頭目が、悔しげに顔を上げた。
その視線が、闇から姿を現した二人の若者……源四郎と又七郎に向けられた瞬間、頭目の顔から血の気が失せた。
「……おまえら、まさか」
記憶の底に眠っていた「恐怖」が蘇る。
二年前、知覧からの帰路。
たかだか元服前後の「ガキ」だと侮り、数倍の人数で取り囲んだ若造たち。
あの日、返り討ちに遭い、なす術もなく泥の中に叩き込まれたあの屈辱と痛みが、頭目の脳裏に鮮やかに去来した。
「……あー! あんときの……! あの時のガキ共ぉ!!」
頭目は引き攣った声で叫んだ。それは憤怒というより、理解不能な「バケモノ」に再会したという震えに近い。
「…忠告しておくぜ?島津の地で狼藉を働くということは、武家という巨大な牙を怒らせるということだ。今回のお沙汰がどうなるかは知らねぇが、次に見つかれば……島津家の法度に従い、山賊の末路として相応しい扱いを受けることになる。……二度と俺たちの前に姿を見せるなよ??」
源四郎は冷ややかに言い放つと、手元の木刀を肩に担いだ。
「また俺たちを見かけても、次は関わらねえことだ。死ぬことにならなくても、一生消えないもんを背負わされるぞ。」
隣で又七郎がケラケラと笑う。
「源四郎、こやつらば二年前はもっと勢いがあったとぞ? 今日はちと物足りんかったの♫」
到着した島津の家臣たちが、事の顛末を察して呆れと苦笑を交えながら賊を回収していく。
縄を引きずられながら去り際、頭目は未だ信じられないといった様子で源四郎たちを振り返った。
その目は、恐怖に加えて「自分たちがなぜこれほどの差をつけられたのか」という混乱に満ちている。
源四郎は、その背中を見送りながら小さく息を吐いた。
二年前、自分はまだ「ただ火薬調合を習う異邦人」だった。
だが今は違う。
己が戦術を、そしてレンジャーの殺意を内包した「武」、「兵法」として、この薩摩という土地で確かなモノを築きつつある。
(……そうか。二年で、俺も変わったんだな)
自分の変化を、敵の反応で知る。
それは戦場での奇妙な自己確認だった。
――翌日――
――内城一室――
翌日、源四郎と又七郎は、蔵人佐に呼び出されていた。
昨夜の川辺峠での一幕、山賊を闇に引きずり込み、一人残らず無力化した「戦術的制圧」の報告を聞いた蔵人佐は、珍しく満足げに深く頷いていた。
「……山賊相手とはいえ、闇を制し、損害を出さず捕縛せしめたその手際。源四郎、おぬしの異能の理と、又七郎の荒ぶる才が噛み合った結果と見た。二人には、これよりタイ捨流『大目録』を授ける」
蔵人佐が恭しく巻き物を差し出した。
門人なら誰もが震えて受け取るはずの、大目録である。
が!
二人は顔を見合わせると、同時に肩をすくめた。
「「んだよ大目録かよぉ(大目録とかぁ)!?お師さんのケーチ!」」
同時に放たれた不満の声。
源四郎が溜息交じりに続ける。
「お師さんよぉ?俺ら夜通し山の中を駆けずり回って、手加減して捕縛してやったんだぜ? せめて『免許』くらいくれてもバチは当たらねえだろ!」
又七郎も負けじと、あぐらをかいたまま悪態をつく。
「せっかく知覧の山賊掃除ば完璧にやってのけたとに、たったこれだけとか! わいらぁ、あんたん直弟子ぞ? もっとこう……『皆伝』とか、景気の良いもん出しちくりゃいいとに!」
蔵人佐の顔から、さっきまでの満足げな色が消えた。
額の青筋がピクピクと動き、差し出した巻物を持つ手が微かに震える。
「……こんバカタレどもめ」
絞り出すような低い声。
「大目録を渡してやれば、次は『免許』だと? 貴様ら、剣の道を何と心得る!皆伝を授かるというのは、己の死と向き合う覚悟を認められた者のみが至る場所ぞ!!」
蔵人佐が怒りにワナワナと体を震わせると、源四郎と又七郎は【ヤバい】と悟って、同時に立ち上がった。
「うわ、お師さんの顔色がやべえ! また袋竹刀でケツ叩かれるぞ!」
「逃げろ源四郎! 大目録ば持ち逃げだ!」
「待て貴様ら――!!」
しばし後…
チーン。
たんこぶを作った二人が蔵人佐の前に正座する。
「全く、おぬしらは!!」
蔵人佐の怒号が道場を揺らした。
空気が凍りつく。
そうしてワナワナと指先を震わせながら、二人を交互に射抜くような目で睨みつけた。
「才は認める。だが、なぜおぬしらに皆伝を授けぬか、己らの胸に問うてみよ!」
まず、蔵人佐は又七郎を指さした。
「又七郎! おぬしの剣は天性のものだ。だが、すべてが【雑】よ! 敵を斬ることに悦びを見出し、ただ力任せに命を刈り取る。それは剣の道にあらず、ただの獣の振る舞いだ。己の荒ぶる魂を研ぎ澄まさぬ限り、おぬしの剣は万人の上には立てん!」
又七郎は、いつもなら返すはずの軽口を封じ、悔しげに唇を噛んだ。図星だった。
次に、蔵人佐は源四郎の眼を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、源四郎が隠し続けている「何か」を見抜くような鋭さがあった。
「そして源四郎。おぬしは冷静で、戦術に長け、戦場を俯瞰する才がある。だが……おぬしの剣には、決定的な『欠落』があるわ」
源四郎の背筋が冷たくなる。
蔵人佐は声を潜め、重々しく告げた。
「おぬしはこの先様々な戦場で戦おう。だが、心の奥底で常に『人を斬ること』を拒絶しておるな。……まるで、剣を持つ資格など自分にはないと言わんばかりの、奇妙な遠慮がおぬしの剣には宿っている。それは慈悲でもなければ、道徳でもない。剣を振るう者として、己の刃をどこか他人事のように扱っておるのだ」
源四郎は言葉を失った。
(人を斬る、ことへの忌避……)
現代日本で叩き込まれた、人命を救い、法を守るという自衛官としての倫理観。その「人としての正しさ」が、戦国という血で血を洗う世において、武士としての源四郎の歩みを阻む鎖になっていた。
そんな中…蔵人佐はしばらく押し黙っていた。
先ほどまでの怒りはどこへやら、そのは瞳には確かな悔しさと焦燥感を宿しているように見えた。
「……すまぬな、源四郎」
絞り出すような声だった。
そこには…ただ弟子を救えぬことの無力さに打ちひしがれた、一人の武人の哀愁があった。
「おぬしの【人を斬ることへのためらい】……。その答えを、この丸目蔵人は教えてやることは出来ぬ」
蔵人佐は、我が手を見るようにして拳を握りしめた。
「剣の理は説ける。技も教えよう。だが、己が魂をどこに据えるか、その迷いを断ち切る道筋は、他人が指し示すものではない。それはおぬしがこの先、戦場という修羅の巷で、泥水を啜り、誰かを守り、あるいは誰かの命を奪うという痛みを通して、己の血で導き出さねばならぬ答えだ」
悔しそうな、それでいて源四郎の将来を案ずる、寂しげな響きだった。
源四郎が俗に言う【転生者】であると知らない蔵人佐にとって、源四郎の躊躇は、彼が抱える「生まれ持った優しさ」か「高潔すぎる己の理(倫理)」のように映っているのかもしれない。
「……皆伝が欲しいか? ならば、その迷いを殺してこい。己を殺して剣を振るうのではない、己がすべてを引き受けた上で、それでも人を斬れると覚悟を決めた時、その時こそがおぬしの剣が【成る】時だ」
蔵人佐は力なく笑った。
「弟子を迷わせたままでは、師匠失格よな。源四郎、おぬしは必ずや己が答えを見つけるはずだ。だが……どうか、その答えを見つけた時、おぬしの【魂】まで濁らせることだけはしてくれるなよ」
それは剣術の指導を超えた、呪いのような、あるいは祝福のような言葉だった。
源四郎は、師の言葉の重みに足元が揺らぐのを感じた。自分の中にある、決して誰にも言えない「現代人の魂」の輪郭を、このお師さんだけが、その鋭い眼光で撫でたような気がしたからだ。
――そして、その夜――
――内城広場――
夏も近づく夜の熱気が、広場に広がっていた。
「ったく、何が【雑】じゃ! お師さんめ!! おいの剣ば雑っちうなら、一体どうすれば良かっちゅうんじゃ! 雑草のごとく斬り伏せてやるのがおいの良さじゃろうて!」ブン!
又七郎が袋竹刀を振り回しながら、憤慨して吠えている。その隣で、妙が呆れたように着物の裾を直しながら、彼を嗜めていた。
「……そういうところじゃない?」
「んあ?」
「又七郎は、いつも【どう倒すか】しか考えてないでしょう? 蔵人佐様が仰ったのは【どうして倒すか】ということじゃない?」
「うぐっ…」
妙の的確な一言に、喉を詰まらせる又七郎。
その様子を、源四郎は少し離れた場所で、静かに眺めていた。
日中、蔵人佐に言われた言葉が、まだ胸の奥で重く澱んでいる。
『自分を殺してまで剣を振るうのか』
『自分を濁らせるな』
去る三月、武田が滅び、信濃の真田の家もまた、風前の灯火だ。
父昌幸は生き延びる道を探っているが、そんな最中で自分一人、ここ薩摩で島津の客分として安穏としていていいはずがない。
二人が息をついた瞬間、源四郎は静かに口を開いた。
「又七郎、妙ちゃん…」
自分の声が、夜風にやけに低く響いた。
「俺、信濃に帰るわ」
又七郎は、袋竹刀を止めたまま、何事もなかったかのように…
「ほぉか」
そう短く返した。
思考が追いついていないのか、それとも源四郎の決意を無条件に受け入れたのか。
そうしてまた袋竹刀を構え直し、何でもないことのように月を見上げる。
「……ん。分かった」
妙も続く。
一瞬、ほんの一瞬。
薩摩を吹く風が、庭の草木を一度だけ激しく揺らした。
その沈黙が破られた瞬間、空気が凍りついた。
「「………………………はぁああああ!?」」
又七郎の絶叫と、妙の信じられないというような悲鳴が重なった。
「か、帰るったっておはん!」
「そ、そうよ!急にどうしたの源四郎!?」
困惑する二人に源四郎は懐から書状を取り出す。
封には長兄源三郎の花押。
だが、その中身は島津の面々が信じている「武田の威光」など微塵も残っていない、冷徹な現実だった。
「……見てくれ」
突き出された文に、又七郎と妙は目を走らせる。
そこには、天目山にて武田勝頼が果てたこと、信濃が織田の軍勢に蹂躙されつつあることが、簡潔に記されていた。
又七郎の表情が、驚愕から深い困惑へと変わる。
「武田が……滅んだ……? まさか、あの甲斐の武田が」
「ああ。もう武田の旗はどこにもない。俺の家も、今は織田の足元で首の皮一枚で繋がっているようなモンだ。」
源四郎は言葉を切った。
そして更に続ける…
「又七郎には一度話したよな?俺が信長公から受けた【命】のこと。」
「…おぅ。」
「ちよ!?源四郎!?あんた信長公と…」
「ちょっとだぁっとれ妙!」
妙を制する又七郎。
それを見た源四郎は又七郎を諭す。
「おいおい又七郎、妙ちゃんに凄んでも仕方ねぇだろ?」
「う…」
「あ、あたしのことは良いって源四郎…」
たしなめられシュンとする又七郎におずおずとしだす妙。
そうして【一人の男】としてやわらかな光の宿った瞳で語る源四郎。
「俺はかつて安土で信長公に【みおの敵を討ち滅ぼす剣となれ】って命を受けたんだ…皮肉なモンだよな?その命を下した人が俺の主家討ち滅ぼすんだからよ。」
息をのむ妙と又七郎。
『みおの剣たれ』、そう命じた張本人がそのみおが暮らす信濃を脅かす…
戦国の世の無常とは言えあまりにも非情な現実。
が!
源四郎はそんな二人に不敵な笑みを浮かべて言い放つ!!
「けどよ……妙ちゃん、又七郎。逆に考えてみろ」
源四郎は、自分の胸元を指で軽く叩いた。
「俺がいつか、みおを守るために、あの人の喉元にその剣を突き立てるかもしれない。そんな未来を、あの人は最初から織り込み済みで、俺にその【命】を下したのかもしれないな…つくづく、デケェおっさんだよな! 自分の首を刎ねるかもしれねえ俺と言う【剣】に、わざわざ【女房の敵を悉く叩き斬れ】なんて命を下すんだぜ?ははは!」
乾いた笑い声が、夜の庭に高く響いた。
又七郎は、そのあまりに豪胆な解釈に、開いた口が塞がらない。
恐怖と尊敬。その狭間で、又七郎は震えるような興奮を覚えていた。目の前にいる源四郎という男は、もはやただの真田の倅ではない。織田信長という怪物を相手取り、自分の愛と矜持を賭けて戦おうとする、とんでもない【馬鹿】と言うか【傾奇者】と言うか…なのだ。
が…その興奮はすぐに霧散する事になる。
「……源四郎。おはん、そん時は本当に、信長を斬るつもりとか?」
又七郎の問いに、源四郎は一瞬だけ瞳を夜の闇のように深く濁らせ、すぐにいつもの不敵な笑みに戻った。
「ったりめぇよ!信長公に命じられたからじゃねぇ!みおの命を脅かす奴は誰であろうとブッ殺す、それだけだ!!!」
喉の奥から絞り出したその言葉には、鬼気迫る響きがあった。だが、その叫びを聞いた又七郎の瞳は、まるで冷たい川底のように静まり返っていた。
又七郎は鼻で冷たく笑い言う。
「……お師さんに【人を斬ることをためらっておる】と言われたおはんがか?」
吐き捨てるようなその一言に、源四郎は言葉を失った。
獣のように感情を剥き出しにしてみせた今の自分の叫びが、鏡のように己の「迷い」を映し出していることを、又七郎は一瞬で見抜いていたのだ。
「……口で殺すと喚くのは簡単じゃど?だが、その目は全く笑っておらんし、何より迷っちょる。おはんがそんな【覚悟】で信濃ば戻れば、真っ先に斬られるのはおはん自身じゃぞ…」ザッ
又七郎は背を向け、一切の未練を見せずに闇の中へ歩き出した。
その背中は、普段の豪快な親友のものではなく、一人の厳しい武士のものだった。
「……又七郎!」
妙が慌てたように源四郎に一礼し、又七郎の後を追った。
彼女の足音さえ遠ざかると、広場には再び不気味なほどの静寂が戻った。
源四郎は立ち尽くしたまま、己の掌を見つめた。
又七郎の言う通りだ。
自分は「殺す」と叫ぶことで、己の中の「殺したくない」という本能をねじ伏せようとしていたに過ぎない。
自衛官として、人を救うために生きてきた魂が、今も悲鳴を上げている。
……信濃へ帰れば、本当に人を斬れるのか?
妻のために、誰かの命を奪うという泥を、本当にその手で被れるのか。
又七郎が去った方向を見つめることもできず、源四郎はただ、自分がこれから踏み込もうとしている「修羅の道」の深さに、初めて足がすくむのを感じていた。
そうして広場の静寂の中、源四郎は一人ごちる。
「……ったく。普段はノータリンのくせして、肝心な時だけ芯を食った物言いしやがって」
言い捨てた言葉は、自分自身に跳ね返ってくる。
又七郎の指摘は、まさに源四郎の「自分の弱さ」そのものだった。
蔵人佐の言葉が、又七郎の鋭い刃のような問いかけが、源四郎の中でゆっくりと混ざり合い、一つの【覚悟】へと形を変えていく。
「……ためらい、か」
彼は夜空を仰いだ。
信濃の空も、今こうして見上げている薩摩の夜空も、結局は同じ月が照らしている。
武田の滅びを知りながら、それでもなお、この時代に足掻こうとする自分。
誰かを殺すことへの忌避感を、【人としての矜持】として抱えたまま、この修羅の道を往く。
それが、他ならぬ【真田源四郎】という男の、この戦国での生き様だ。
答えはまだ見つからない。
だが、信濃へ帰るという選択だけは、揺るぎようもない。
源四郎は静かに広場を背にする。
遠くで夜風が、木々を揺らしている。
それはまるで、これから始まる終わりのない戦を告げる戦鼓の音のように聞こえた。
振り返ることなく、暗闇の中へと歩き出す源四郎。
薩摩での日々という、温かく心地よい微睡みを振り切って。
遂に訪れた天正10年、武田家滅亡!
そして源四郎は信濃へ戻る決断を下す!
次回を刮目して待て!!




