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三年間無能を演じ続けたアンジェリカ、断罪をプロデュースする  作者: 薄氷薄明


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2/2

後編

 別邸は、想像より良い場所だった。

 

 二時間の道のりの先に現れたのは、小さいながらも手入れの行き届いた石造りの屋敷だった。使用人は三人——老夫婦の管理人と、若い女中一人。三人ともアンジェリカのことを知らず、最初は「侯爵の娘が療養に来た」とだけ聞いていたようだった。

 

 老管理人のグスタフは、朴訥だが誠実な人物だった。最初の挨拶の後、「何か不便があれば何でも言ってください」とだけ言って、余計なことは何も聞かなかった。その潔さが、アンジェリカには心地よかった。

 

 女中のロッタは十六歳で、最初はひどく緊張していた。アンジェリカが「ロッタ、一緒に庭の野菜を確認しない?」と言ったとき、「え、令嬢様が?」と目を丸くしてから、「はい!」と元気よく答えた。その素直さが可愛かった。

 

 別邸での生活は、侯爵邸より——静かに言えば——楽だった。

 

 誰かの顔色を読む必要がなかった。「無能令嬢」を演じなくていい。グスタフは仕事を淡々とこなし、ロッタは明るくよく喋り、老妻のマルタは黙って美味しいご飯を作った。アンジェリカはその食卓で、久しぶりに食事をちゃんと味わった。

 

 マルタのシチューが——テレーズのとは違うが——美味しかった。冬の根菜がほっくりして、スープがよく染みていた。

 

 食べながら少し泣きそうになった。なんでシチューで泣きそうになるんだ、と思いながら笑えた。


 別邸での一ヶ月、アンジェリカが実際にやっていたことがある。

 

 まず、メレディスとの連絡を確立した。彼は月に二回、「地方視察」という名目で別邸の近くまで来た。書簡の文体は「旧友への挨拶」という体裁で、内容は暗号だった。

 

 最初の書簡でメレディスが送ってきた情報に、アンジェリカは深く息を吸った。

 

 クロイツ伯爵家が、三年前から王太子側近のひとりと接触していた記録がある。クロイツ家は「王太子妃候補を変えることで政治的な影響力を確保したい」という意図を持っており、ライラはその道具として見つけられた。しかしライラ自身はこれを知らない可能性が高い——。

 

 アンジェリカはしばらく動かなかった。

 

 父が知っていた。薄々ながら、気づいていた。それでも娘を守らなかった。

 

 怒りよりも、悲しみに近いものだった。父が弱い人間だということは、知っていた。でも知っていると、実際にそれを突きつけられるのは、別のことだ。

 

 次に、告訴状を書いた。三日かかった。書き直しを五回した。

 

 王国大法廷への告訴は、被害を受けた市民なら誰でも直接行うことができる。告訴状は自分で書ける。弁護人を立てることは必須ではない。読み返すたびに少し震えた。これが成立すれば——本当に変わる。成立しなければ——逆に自分が終わる可能性もある。

 

 震えながらも、書いた。

 

 書き終えた夜、ロッタが「令嬢様、夜食はどうですか」と部屋に来た。アンジェリカは「ありがとう、いただく」と言って、告訴状を封筒に入れた。

 

 シチューが美味しかった。今夜も、少し泣きそうになった。

 

 人間は複雑だと思う。告訴状を書いた手で、シチューのスープをすくいながら、泣きそうになれる。それが人間というものだ。アンジェリカはそれを悪いことだとは思わなかった。むしろ——そういう自分が、少し好きだった。

 


 別邸での日々が一ヶ月を超えた頃、メレディスから「動きがある」という書簡が届いた。

 

 内容を復号すると——クロイツ伯爵家が、アンジェリカの「追放」を既成事実化しようとしていた。侯爵家からの正式な縁切り宣言が行われれば、アンジェリカは法的に「アッシェリマン家の人間ではなくなる」。それは同時に、王国大法廷への告訴人資格を失うことを意味した。

 

 タイムリミットが見えた。

 

(縁切り宣言が出る前に動かなければならない。ということは——今週中に告訴状を提出する必要がある)

 

 アンジェリカは翌朝、グスタフに馬車の準備を頼んだ。ロッタが「お土産、なんか甘いものをお願いします!」と明るく言った。アンジェリカは「分かった、買ってくる」と答えた。帰れたら、の話だが——帰れるように、全力でやる。

 

 王都に着き、アンジェリカは王国大法廷の受付窓口へ向かった。

 

 受付の文官は若い男で、アンジェリカの顔を見て少し目を見開いた——婚約破棄で話題になった令嬢だと気づいたのだろう。しかしすぐに表情を戻し、「告訴状の提出でしょうか」と聞いた。

 

「はい。受理されますか」

 

「内容と証拠書類を確認した上で、受理の可否を判断いたします」

 

 封筒を渡した。三年分の思いが入った封筒を。手が震えなかったのは、震えを許さなかったからだ。

 

 三時間待った。そして——受理の通知が出た。

 

 建物の外に出た。王都の昼の光が、目に少し眩しかった。

 

 帰り道、約束通り、甘い菓子を買った。ロッタが喜ぶ顔を想像しながら。

 


 法廷の前夜、アンジェリカはメレディスと落ち合った。

 

 場所は王都郊外の古い宿屋。人目につきにくく、常連客が多い、適度に喧騒がある場所だ。メレディスはすでにいた。アンジェリカが座ると、ほっとしたような顔を、一瞬だけした。

 

「顔に出てます、心配してたって」

 

「出すなという方が無理です」

 

 飲み物が来た。アンジェリカはぬるいスープを頼んだ。法廷の朝は早いので、今夜は腹に何か入れておきたかった。

 

 メレディスが最終確認の資料を出した。被告として呼ばれる人間のリスト。証拠書類の一覧。法廷での手順の確認。アンジェリカはそれを一つ一つ確認しながら、頷いた。全部、頭に入っている。三年かけて準備したことは、体に染みついている。

 

「……緊張していますか」

 

「していない、と言えば嘘になります。でも——やれると思っています。本当に。これは強がりじゃなく、三年分の準備があるから言えることです」

 

「分かっています」

 

「……メレディス。ありがとう、と言わせてください。今夜」

 

「礼には及びません」

 

「いいえ、言わせてください。三年間、信じてくれたことへの礼です。強がらなくていい相手が一人いるだけで、人間は随分と保てるものだと——あなたが教えてくれました」

 

 メレディスはしばらく黙っていた。目が少し、違う方向を向いた。アンジェリカはそれを見て、この人も照れるのだと思った。それが可愛かった。

 

「……法廷が終わったら、話したいことがあります」

 

「終わらせます。必ず」

 

 スープを飲み終えた。宿屋の喧騒が、遠くで続いていた。



 王国大法廷は、王宮に隣接する石造りの建物だった。

 

 高い天井、大理石の床、両側に傍聴席。中央に証言台、その向かいに判事席、左右に原告・被告の席。この日の傍聴席は、招待状を持つ者で埋まっていた。

 

 被告には、アッシェリマン侯爵、クロイツ伯爵、そして王太子の側近として不正に関与したとされる二名の貴族が含まれていた。

 

 被告の中に、ダライアス王太子の名前はなかった。これは意図的な選択だった。殿下は利用された側だとアンジェリカは判断していた。正直な目を持った人間が、嘘の上に立たされていた。そこには怒るより、救い出す必要があった。

 

 傍聴席がざわめく中、アンジェリカは原告席に座った。

 

 かつて婚約破棄を公衆の面前で言い渡された、あの令嬢が——今、原告席に座っている。その事実だけで、傍聴席の半分は「何が起きるのか」という顔をしていた。

 

 被告席に父が座った。アンジェリカは父の方を見なかった。見れば——何か揺れてしまう気がしたから。

 

 ライラが証人席に座った。アンジェリカはそちらを見た。ライラの顔は青白かった。ライラがアンジェリカを見た。アンジェリカは、静かに頷いた。大丈夫だ、という意味を込めて。ライラの目が、少し揺れた。

 

 そして——判事が入廷した。

 

 アンジェリカは背筋を伸ばした。今日の自分は、「無能令嬢」ではない。三年間演じてきたその仮面は、今日、ここで置いていく。

 

 深く、一度だけ息を吸った。

 


 法廷は、最初の一時間を淡々と進んだ。

 

 判事による案件の確認。被告それぞれへの罪状の読み上げ。原告の告訴内容の概要提示。これは法的な手順であり、アンジェリカには口を挟む場面がなかった。ただ座って、聞いていた。

 

 被告側の弁護士が立った。クロイツ伯爵側が雇った、王都でも名の通った法律家だ。

 

「まず、原告の立場を確認させていただきます。アンジェリカ様は、婚約を解消された不満から来る、根拠のない申し立てとも見えますが?」

 

 傍聴席がざわめいた。

 

 アンジェリカは立ち上がった。

 

「ご指摘はごもっともです。感情的な動機が全くないとは言いません。私は人間ですので。ただ、感情と証拠は別物です。感情があっても、証拠が事実であれば、告訴の正当性は変わらない——それが法の原則かと存じますが、いかがでしょうか」

 

 判事が答えた。

 

「原告の言う通りです。感情の有無は、証拠の正当性に影響しません」

 

 被告側弁護士の顔が、わずかに固まった。傍聴席で、誰かが小さく「あれが無能令嬢……?」と囁いた。

 

 弁護士は立て直して続けた。

 

「では、具体的な証拠とやらを伺いましょう。侯爵に対する『不作為による共謀』という主張から。侯爵が何かを『しなかった』という事実が、共謀の証拠になりますか」

 

「王国刑事法第四十七条、不作為共謀罪の規定をご確認ください。『当事者が違法行為の存在を知りながら、それを防止する立場にあったにもかかわらず意図的に行動しなかった場合、共謀と同等の責を負う』とあります。父——侯爵は、ライラがクロイツ家の手によって侯爵家に送り込まれた経緯を、少なくとも部分的に知っていました。その証拠をこれから提示します」

 


 アンジェリカは証拠書類の第一束を提出した。三年かけて収集した記録の、最初の部分だ。

 

「これは……侯爵の書簡ですか。しかしこれだけでは——」

 

「第一束はサンプルです。同内容の書簡が十四通、日付を変えながら存在します。この書簡の宛先がクロイツ伯爵家の当主であること、そして日付がライラが侯爵邸に来た直前と直後に集中していることをまず確認いただきたい。偶然にしては、精度が高すぎる」

 

「では、クロイツ伯爵に対する証拠も伺いましょう」

 

「第二束をご覧ください。クロイツ伯爵家と王太子側近のヴィナー男爵、リーデル子爵の間でやり取りされた書簡の写しです。内容は——アッシェリマン家の影響力を王室から排除するための、段階的な計画書です。ライラの存在を利用すること、婚約破棄を誘導すること、アッシェリマン家の財産を再分配する計画が書かれています」

 

 今度の沈黙は、先ほどより長かった。傍聴席が、静まり返った。

 

「それは偽造だ! 私の家の書簡を、どこで手に入れたというんですか——!」

 

 クロイツ伯爵が立ち上がった。判事が制した。

 

「入手経路については、証人のメレディス・モンテイン王国騎士団員が証言します。彼は騎士団の規程に基づく内部告発として、これらの文書を収集しました。騎士団の内部告発制度では、収集した証拠は法廷に提出する義務があります。つまり、これは騎士団の公式文書として扱われるべきものです」

 

 クロイツ伯爵の弁護士が、メモを取る手を止めた。

 

「内部告発」という言葉が、法廷の空気を変えた。これを覆すには、騎士団制度そのものに異議を申し立てなければならない。

 


 法廷の中盤、証人尋問が始まった。

 

 最初の証人はメレディスだった。彼は淡々と、三年間の文書収集の経緯を証言した。感情を排した、事実の積み重ね。それがかえって、重みを持った。

 

 次の証人は、ライラだった。

 

 ライラが証言席に立ったとき、法廷がざわめいた。この案件のきっかけとなった人物が、今まさに話すのだ。

 

 アンジェリカは、ライラに向かってゆっくりと尋問を始めた。声を、意識して柔らかくした。

 

「ライラ、ここで話すことは大変だと思います。でも、正直に答えてください。あなたが侯爵邸に来ることになったのは、誰に言われたからですか」

 

「……あのおじさんに、です。クロイツさん……の、使いの人が来て、『良い場所がある、アッシェリマン侯爵家に行けば安定した暮らしができる』と言って。私の育った孤児院に来て、言ってくれたんです。私は……信じました」

 

「その人は、何か条件を言いましたか。あなたに何かをするよう、頼みましたか」

 

「……殿下に、仲良くするように、と言いました。自然に。無理にじゃなく、普通に接すれば良いって。でも……私は本当に、殿下のことが好きになってしまって……それは自分の気持ちで……でも、最初の動機が——こういう場に呼ばれることになるとは……」

 

 ライラの目から、涙が落ちた。

 

「ライラ。あなたは道具にされた。それは事実です。あなたの気持ちが本物だったことも、事実だと思っています。私はここで、あなたを責めているのではありません。ただ——事実を確認しています」

 

「お姉……様……」

 

 法廷が、静かになった。傍聴席の何人かが、目を拭った。



 最後の証人が呼ばれた。

 

 ダライアス・マチェロヴァ王太子が、証言席に立った。

 

 広間が緊張した。王太子が証人台に立つのは、極めて稀なことだ。彼は感情を押し殺した顔をしていた。アンジェリカと目が合った。その目が——右にずれた。いつものように。嘘をつくときのずれではなく、今回は——後悔のずれだった。

 

「殿下、一点だけ確認させてください。婚約解消をご決断された際、その判断は——ご自身の純粋な意思によるものでしたか。あるいは、何者かの助言や誘導がありましたか」

 

「……ヴィナー男爵から、複数回、アッシェリマン家の政治的立場についての説明を受けた。その中で、婚約の解消が王室にとって好ましいという意見を、繰り返し聞かされた。私は——自分の意思だと思っていたが、今となっては……どこまでが自分の判断だったのか、自信が持てない」

 

「ありがとうございます。以上です」

 

「……アンジェリカ。私は——」

 

「殿下。証人尋問はこれで終わりです。後のお話は、法廷の外でいたしましょう」

 

 そして——最終陳述の機会が、アンジェリカに与えられた。

 

 彼女は立ち上がった。

 

 傍聴席の全員が、彼女を見ていた。かつて婚約破棄の場で涙を流した令嬢。社交界で失敗続きの「無能」と呼ばれた令嬢。追放同然に別邸に送られた令嬢が——今、王国大法廷の原告席で、正面を向いて立っている。



 アンジェリカは、ゆっくりと全員を見回した。

 

 判事。被告たち。証人たち。傍聴席。この場の全てを、一度確認した。

 

 それから、口を開いた。

 

 声が——変わった。

 

 社交界でのやや頼りなげな声ではなく。困った顔をするときの少し揺れた声ではなく。落ち着いて、低く、よく通る声で、彼女は言い始めた。

 

「三年間、私は社交界で無能な令嬢を演じてきました。失敗し、転び、的外れなことを言い、困った顔をする令嬢を。そうすることで、私は動けた。誰にも気づかれずに、記録を集め、法律を学び、証拠を揃えることができた。今日ここで申し上げることの全ては、その三年間の結果です」

 

 傍聴席が、水を打ったように静まった。

 

「私が今日、法廷に求めることは三点です」

 

「一点目——クロイツ伯爵家による、貴族の権力を利用した人身操作と、婚姻制度を悪用した政治工作の罰則適用。王国刑事法第三十二条、第三十三条、第四十七条に基づきます」

 

「二点目——ヴィナー男爵とリーデル子爵による、王太子への不当な働きかけと、貴族権利の濫用に対する罰則適用。同法第二十八条に基づきます」

 

「三点目——アッシェリマン侯爵による不作為共謀への相応の対処。ただし父への告発については、罰則よりも事実の公式認定を優先して求めます。父はこの件で最も大きな利益を得た者ではなく、状況に流された者だからです。罰よりも、事実を認めることの方が、この件の解決に必要です」

 

 法廷が、完全に静まった。



「最後に、一点だけ付け加えます」

 

 アンジェリカは続けた。

 

「この件において、私は被害者であることは確かです。しかし私が今日ここに来たのは、自分の傷を訴えるためだけではありません」

 

「ライラは道具にされました。殿下は誘導されました。私の父は弱さから流されました。これらは全て——権力を持つ者が、その権力を人の感情に対して行使したことで起きた結果です」

 

「感情は、こういう形で利用されるべきではない」

 

「それを、この法廷で記録として残していただきたい。判決の内容がどうあれ、この事実が記録されることが——最も重要だと、私は考えています」

 

 長い沈黙の後——。

 

 判事が、書類を置いた。傍聴席の誰かが、息を呑んだ。クロイツ伯爵が、初めて、弁護士ではなくアンジェリカを見た。

 

「原告の主張を認めます」

 

 判事の声が、大理石の天井に響いた。

 

「本法廷は、クロイツ伯爵家による人身操作および政治工作を王国刑事法違反と認定します。ヴィナー男爵、リーデル子爵についても同様に認定します。アッシェリマン侯爵については、不作為共謀の事実を公式記録とし、処分は別途審議とします」

 

 傍聴席が割れるようにざわめいた。

 

 アンジェリカは座ったまま、目を閉じた。一秒だけ。それから開いた。

 

 終わった。三年間が——終わった。

 

 胸の中がどんな状態かというと、爆発でも歓喜でもなかった。静かだった。溜まっていた水が、ゆっくりと流れ出るような感覚だった。

 

 メレディスが傍聴席から立ち上がり、アンジェリカを見た。何も言わなかった。ただ頷いた。アンジェリカも頷いた。それで充分だった。



 法廷の後のことを、簡潔に記す。

 

 クロイツ伯爵は爵位の一部権限を停止され、王国からの政治活動を五年間禁じられた。ヴィナー男爵とリーデル子爵は、王太子側近の地位を剥奪された。この処分は、法廷の判決よりも、判決を受けてダライアス殿下が自ら下した決定の方が大きかった。殿下は誤導されたと公式に認め、二人の側近との関係を断った。

 

 アッシェリマン侯爵は、法廷の数日後、アンジェリカを侯爵邸に呼んだ。二人で向き合って、しばらく沈黙した後、父は頭を下げた。

 

「すまなかった」

 

 それだけ言った。

 

「分かりました」とアンジェリカは言った。「許す、ということとは少し違いますが、分かったということです」

 

 それで良いと思った。全てが元通りになるとは思っていない。でも事実が認められた。それで、今日のところは充分だ。

 

 ライラは——しばらく侯爵邸に留まることになった。彼女を孤児院に戻すのは、さすがに可哀想すぎると、アンジェリカが言ったからだ。「彼女はちゃんとした居場所を持つべきです。ここは彼女の家でもある」と。

 

 ライラとアンジェリカは、法廷の後に一度だけ二人で話した。

 

「……お姉様、私は——」

 

「ライラ。謝らなくていい。今は」

 

「でも……」

 

「あなたが道具にされたことは、あなたのせいじゃない。でも——これからどう生きるかは、あなたが決めることです。誰かの言葉じゃなく、自分で。それだけ覚えていてください」

 

 ライラは黙って頷いた。その目が、初めて会った日より、少し大人の目をしていた。

 


 法廷から三週間後、アンジェリカは侯爵邸の庭に出た。

 

 あの白い薔薇が、まだそこにあった。枯れかけていたが——根は生きていた。庭師の老人が、丁寧に手入れを始めていた。切り戻しをして、肥料を入れて、支柱を立て直していた。

 

 アンジェリカは老人の隣にしゃがんだ。

 

「お嬢様。……また咲きますよ、この薔薇は。根がしっかりしてますから」

 

「そうですね」

 

 二人で、しばらく薔薇の前にいた。

 

 その後、アンジェリカは侯爵邸に戻った。ただし、完全に元通りというわけではなかった。彼女は法律の知識を活かした、市民への法律相談の仲介役を始めた。正式な弁護士ではないが、法律が分からない人々と弁護士の橋渡しをする役割。小さな仕事だが、アンジェリカにはそれが合っていた。人の話を聞き、行間を読み、問題の根っこを探す——三年間で磨いた能力が、ここで生きた。

 

 メレディスとは——月に一度か二度、会うようになった。ある夜、アンジェリカが先に言った。

 

「法廷の後に、話したいことがあると言っていましたね。あれは、まだ有効ですか」

 

「……有効です」

 

「では聞かせてください。あなたから言ってほしいです」

 

 メレディスは少し間を置いて、答えた。

 

「……あなたと、もっと一緒にいたいと思っています。それだけです」

 

「……それだけ、で充分です」

 

 宿屋のスープが美味しかった。アンジェリカはそう思いながら、またカップを手に取った。

 

 後日、法廷の記録を読み直す機会があった。自分の最終陳述を、他人の書いたものとして読むのは不思議な感覚だった。「感情は、こういう形で利用されるべきではない」——あの言葉を言いながら、少し震えていたことも覚えている。

 

 感情は、弱さではない。感情があるから、人は繋がれる。テレーズのシチューで泣きそうになれる。ロッタの笑顔が嬉しい。メレディスの言葉が、胸に落ちる。

 

 アンジェリカは窓から庭を見た。あの白い薔薇が、小さな蕾を一つ、つけていた。まだ咲いていない。でも——もうすぐ咲く。

 

 根は、ずっと生きていたのだから。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

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