第98話 リプレア聖苑
フレアちゃんと一緒の部屋には、ミニキッチン、洗面所とトイレ、それにシャワールームまで備え付けられていた。
豪華というほどではない。
けれど、普通に生活するには十分すぎるほど整っている。
……少なくとも、牢屋のような場所へ閉じ込められるわけではないらしい。
私は少しだけ安堵しながら、フレアちゃんにこのジェロール帝国について尋ねてみることにした。
話によると、この国を治める皇帝グラリオス三世はかなり高齢らしい。
だが、その名は人々から畏怖を込めて語られているという。
そして――その皇帝の後ろ盾になっているのが、“光の教団”。
大聖女を“女神”として崇める宗教団体らしかった。
「大聖女様って、どんな人なの?」
そう聞くと、フレアちゃんは目を輝かせた。
「遠くから少しだけ見ただけなんだけど……とっても綺麗な人だったわ」
うっとりした声で続ける。
「大聖女レイラ様の言葉は、女神アーシェラ様の言葉と同じなんだって。女神様の言葉を聞けるのは、大聖女様だけなのよ」
……女神の声を聞く……?
本当に?
私は、あまり神様や宗教を強く信じるタイプではない。
まあ、それは多くの日本人と同じだと思う。
クリスマスにはケーキを食べて、お正月には神社へ行く。
楽しそうな文化なら、外国のものだって自然に取り入れてしまう。
そういう柔軟な感覚の中で育ってきた。
だから今さら、“光の教団”とかいう宗教を信じろと言われても困る。
たとえここが異世界だったとしても。
……とはいえ、頭ごなしに否定するつもりもない。
信じることで救われる人がいるなら、それを馬鹿にしたいとも思わない。
ただ、私にも同じように信じることを強制しないでほしい。
そう願うだけだった。
「イオリさん、クローゼットの中に聖衣があるわ」
「聖衣……?」
「うん、聖女たちが着る服なの。イオリさん、着替えた方がいいわ。その服も……素敵だと思うけど……」
私は、フレアちゃんの言葉に自分の姿を見下ろした。
マーラさんが働く、服飾工房の職人たちが作ってくれた生成のチュニックに濃緑のパンツ姿。
とても素敵とは言えない格好だ。
真っ白な壁に囲まれたこの部屋の中では、ひどく場違いに見える。
私は苦笑を浮かべた。
「そう……ね。着替えるわ」
観念してクローゼットへ向かう。
木製の扉を開いた瞬間。
「……え」
思わず動きが止まった。
ほのかに洗いたての布の匂いが漂う。
中に並んでいたのは、同じ形のワンピースが三着。
首元は白く、胸元から下は淡い若葉色。裾は長く、足首まで届きそうだった。胸には銀糸で刺繍された聖樹の紋章が光を受けて静かに輝いている。
まるで修道女の服だ。
いや、もっと綺麗で。
もっと清楚で。
そして――私には似合いそうにない。
しばらく無言で眺める。
本当に、これを着るの?
私が?
頭の中で何度も同じ言葉がぐるぐる回った。
今までワンピースなんて着たことがない。
あ、一度だけあったか。
友人の結婚式に呼ばれた時に。
慣れないヒールで足を痛めて、早く帰りたいとばかり考えていたあの日。
そんな記憶がよみがえる。
視線を下に向けると、引き出しがついていた。
何気なく開けてみる。
白くて飾り気のないお腹まですっぽり隠れるほどのショーツと、ちょっと厚めの布でできた胸当てっぽいの。
これ……もしかしなくても下着ってことだよね。
かなりダサいけど……
これを身につけろと……?
いや、着替えがあるだけありがたい。
そう考えよう。
まあ、勝手に連れてこられたんだからそんなの当然だと思わなくもないけど。
私は額を押さえた。
窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らし、さらりと頬を撫でていく。
「イオリさん……?」
私の様子を見ていたフレアちゃんが心配そうに声をかけてきた。
「あ、えっと着替えるわね」
いけない。こんな幼い少女にそんな顔をさせちゃ。
そう思って、私は少しだけ高い声で続ける。
「シャワー室、借りるわね」
「うん、使い方教えるね」
私の言葉にフレアちゃんは、安心したように答えた。
シャワーを浴びて少しだけ落ち着いてきた……ような気がする。
洗面所の横にある姿見に聖衣姿の私が映っている。
なかなか似合っている……と思う。
たぶん……たぶんね。
「あ、イオリさん、靴はベッドの下にあるよ」
フレアちゃんが教えてくれた。
うん、この清楚なワンピースにスニーカーは合わないと思っていたのよ。
あれ、でもサイズは?
まあ、とりあえず履いてみて合わなかったら交換してもらえる……?
私は、そう考えてベッドの下を覗いた。
皮でできたような白いブーツっぽい靴。
さっそく履いてみる。
「よかった。ぴったり」
「あのね、そのブーツ、自動調節するんだよ」
フレアちゃんの言葉に動きが止まった。
……なるほど、さすが異世界……というべきか。
感心していると、不意に音が鳴る。
ポロロロン、ポロロロン……
聞き慣れないけど、とても澄んだ綺麗な音。
いや、聞き惚れている場合ではない。
「なんの音……?」
机の上で、本を読んでいたフレアちゃんが私の方を振り向いた。
すると、再び音が鳴る。
ポロロロン、ポロロロン……
まるで薄いガラスを指先で優しく弾いたような透明で柔らかな音だ。
壁や天井に反射しながら、部屋に鳴り響く。
フレアちゃんの顔が緩む。
「イオリさん、今のは食事の時間を知らせる音なの」
「ああ……そうだったのね」
返事をしながら窓に目を向ければ、差し込む光はいつの間にか黄色から橙色に変わっていた。
白いカーテンが夕陽を受けて、部屋の中に長い影を落としている。
もうそんな時間……
――夕食……
その言葉に胸の奥がきゅっと締めつけられる。
理玖……ちゃんとご飯、食べているかしら。
不安が波のように押し寄せた。
無意識に服の胸元を握る。
喉の奥が詰まる。
美味しそうにご飯を頬張る理玖の姿が脳裏に浮かぶ。
――母さん、これ、おいしいね。
あの笑顔はここにはない。
いつもそばにいるのが当たり前だった理玖の姿が見えない。
あの光景がとても遠くに感じる。
窓越しに夕焼けに染まる空に視線を向ける。
あの向こうにきっと理玖はいる。
きっと、今頃、私を探している……
「母さん」って呼んで、寂しさに耐えているのかも知れない。
幼い子どもにとって母親は精神安定剤と同じだ。
どうすることもできない自分に歯痒さを感じる。
胸が痛い。
今すぐ帰って理玖を抱きしめたい。
胸元で拳を握りしめ、あの子を思う。
ピアスに手を当てながらもう一度だけ、念話をためしてみる。
――理玖、聞こえる?
……やっぱり返事はない。
目の奥がじんわりと熱くなる。
瞬きしてみても瞳が潤んでくるのを抑えきれない。
「イオリさん……?」
私の顔を覗き込んで、フレアちゃんが心配そうな声を上げた。
大きな薄青の瞳が揺れている。
「大丈夫? 具合が悪いの?」
私はなんとか笑顔を作り、返事をする。
「ううん、なんでもない」
少しだけ声が掠れた。
誤魔化すように口角を上げる。
ちゃんと笑えているだろうか。
「じゃあ、行こうか」
「そうね」
私が返事をすると、フレアちゃんが扉に向かって歩いていく。
その姿を追いながら、私は深く息を吸った。
部屋の中に微かに漂うハーブのような香りが鼻を抜けた。
息を吐き出し、気持ちを切り替える。
――理玖は一人じゃない。
そう、一人じゃない。
小人族も、白狼族も、エルフ族もいる。
きっと誰かが、ちゃんと面倒を見てくれているはずだ。
たとえばシャーレさんとか。
白狼族の家は比較的広いし、フェイくんも理玖と歳が近い。
だから、きっと寂しくない。
……大丈夫。
そう、自分へ言い聞かせた。
私はもう一度、窓の外の夕陽に目を向けた。
あの空の下にいる理玖に向かって話しかける。
――理玖、母さんは大丈夫だよ。だから、待っていて……必ず戻るから……
鼻の奥がつんとしたけど、もう一度深呼吸をして私はフレアちゃんの後ろを追いかけたのだった。




