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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第97話 ジェロール帝国【ヴァルドレインへの指令】

 ヴァルドレインの執務室は魔導院塔の中階にあった。

 窓の外では雲がゆっくりと流れている。だが、そんなものに目を向ける余裕はなかった。


 机の上を埋め尽くす羊皮紙。

 幾重にも描き込まれた魔法陣。


 積み上がった古文書からは、乾いた紙とインクの匂いが漂っていた。

 ヴァルドレインは片肘を机につき、眉間を深く押さえる。


「……違う」

 掠れた声が漏れた。

 視線の先には、賢者が遺したとされる術式。


 何度見返しても異常だった。

 線と線が重なり合い、まるで生き物の神経のように複雑に絡み合っている。


 理屈は理解できる。

 構造も追える。

 だが、その先だ。


 これほど完成された術式をさらに発展させろなど、正気の沙汰ではない。

 羽根ペンを走らせる。

 術式を書き足す。


 消す、また書く。

 羊皮紙の上に新たな補助陣を描いた瞬間、全体の均衡が崩れた。


 舌打ち。

 ペン先が紙を強く擦る。

 インクが滲んだ。


「……くそ」

 低く吐き捨てる。

 ベルドルフの要求はいつも無茶だった。


 もっと広範囲を。

 もっと高精度を。

 もっと速く。

 もっと先へ。


 まるで不可能を当然のように押し付けてくる。

 だが、それを実現できる者がいるとすれば、自分しかいないことも理解していた。


 だから厄介なのだ。

 逃げ道がない。

 諦めるという選択肢すらない。


 再び古文書へ視線を落とした、その時だった。

 ――ブルッ。

 腕に巻かれた銀のバングルが小さく震える。


 苛立ちながら視線を向ける。

 淡い青白い光が浮かび上がり、空中に文字を描いた。

 ――至急、参上せよ――


 一瞬、執務室から音が消えた気がした。

 こめかみがぴくりと引きつる。

 ゆっくりと目を閉じる。


 吸う……吐く。

 それでも額に浮いた青筋は消えなかった。


「……今度はいったい何だというのだ」

 押し殺した声が漏れる。


 机の上には未完成の術式。

 解けかけた謎。


 あと少しで掴めそうだった手応え。

 それらすべてを放り出せと言うのか。

 握った羽根ペンが、みしりと嫌な音を立てた。


 小さく息を吐き、ヴァルドレインは最上階を目指した。

 執務室の扉を開く。

 途端に足元へ青白い光が走った。


 石床の上を這うように伸びた光は、複雑な紋様を描きながら部屋の中央へ集まっていく。淡い魔力光が揺れ、静まり返った室内に微かな魔力の唸りが響いた。


 やがて床が震える。

 中央に描かれた巨大な魔法陣の中から、円形の昇降台がゆっくりとせり上がってきた。

 ヴァルドレインは慣れた動作でその上へ乗る。


「スビール」

 短く唱える。

 瞬間、足元の術式が脈打った。


 青い光が身体を包み込み、ふわりと重力が薄れる感覚が訪れる。頬を撫でる冷たい風。衣服の裾が揺れた。

 昇降台は音もなく上昇していく。


 魔導院の塔を貫く巨大な空間。その壁面には無数の術式が刻まれ、流れるような光が脈動していた。

 やがて最上階へ到達する。


 目の前に現れたのは、重厚な青灰色の扉だった。

 中央には銀色の六芒星。

 その紋章へ手を当てる。


「入れ」

 低い声が響いた。

 直後、重い扉がひとりでに開く。


 室内へ足を踏み入れると、香木を焚いた独特の香りが鼻をくすぐった。

 窓から差し込む夕陽が床を赤く染めている。


 大机の向こう。

 ベルドルフが腕を組みながらこちらを見ていた。


「ベルドルフ様、お呼びでしょうか」

「ああ、ヴァルドレイン。早速だが、お前に賢者探索の担当を任せる」

 思わず眉が動いた。


「私に?」

 椅子の背に手を添えながら問い返す。


「その任務はエステラの管轄では?」

「ああ。だが変更だ」

 ベルドルフは机の上に置かれた書類へ視線を落とした。



「エステラには別件を任せる。幽玄の森で発見された聖女の調査だ」

「……聖女?」

 聞き慣れた単語のはずなのに、妙な引っ掛かりがあった。


「小人族の村で見つかったらしい。癒しの魔力を持つ女性だ。白狼族と共に暮らしていたそうだな」

 ヴァルドレインの目が見開く。

 幽玄の森……あの隔絶された土地で。

 なぜ……


「エステラが保護した」

「そんな場所に、なぜ癒しの魔力を持つ者が……」

「それを調べる」

 ベルドルフは短く言った。


 そして一拍置く。

「その女は黒髪だ」

 ヴァルドレインの視線が跳ね上がる。

「黒髪……」


「黒い瞳も持っている」

 空気が止まった気がした。

 胸の奥で鼓動が一度だけ大きく鳴る。


「まさか……賢者と同じ特徴を?」

「ああ」

 ベルドルフの眼差しが鋭くなる。


「先日、グラセナ山脈の向こうで観測された魔力波。あれが召喚術式の発動だった可能性がある」

 脳裏に、あの日の記録がよみがえる。


 観測装置を振り切る異常値。

 山脈全体を震わせた莫大な魔力。

 常識では説明できない波動。


 あれが……聖女の召喚。

 いや、だとしてもおかしい。

 その半年前には異界招来大円環が明滅していた。

 あれが召喚術式の発動ではなかったのか?


 それを目撃したのはヴァルドレインだけだったが、あの光景は確かに彼の目に焼き付いていた。


 だが、あの時、報告しなかった手前、いまさら言うわけにはいかない。


 その後の大きな魔力波は、召喚された賢者の覚醒によるものだと考えた方が納得がいくのだが。

 ヴァルドレインの頭の中に様々な考えが渦巻く。

 

 賢者が消えてから百年以上が経っている。

 その間、ずっとあの森に潜んでいたとは考えられない。


 それでも……叡智の魔力を持つ賢者なら……

 無意識に拳に力が入る。



「念のため賢者探索は継続する」

 ベルドルフが言った。

 彼も万が一の可能性を示唆しているのか……?


「小人族と白狼族が手を組み、何かを隠している可能性もある」

 机の上へ肘を置き、こちらを真っ直ぐ見据える。


「調べろ、ヴァルドレイン」

 沈黙が落ちた。

 窓の外で風が鳴る。

 

 赤く染まった室内……揺れる光……

 頭の中では無数の可能性が渦を巻いていた。

 やがてベルドルフが口を開く。


「任せられるな?」

「……はぁ」

 額を押さえる。


「しかし、先日ご依頼いただいた広範囲探索機がまだ完成しておりません」

「あれは中止だ」

 即答だった。


「お前自身が行け」

「私が直接?」

「ああ、できるだけ早くエステラから引き継ぎ、五日後には出発できるようにしろ」

 ベルドルフは窓の外へ目を向けた。


 夕焼けの向こう。

 遥か彼方にある幽玄の森を見ているかのように。


「……かしこまりました」

 ヴァルドレインは、内心で溜息を吐いた。


「あの森を放置してはならない。そんな気がしてならんのだ」

 ひとり言のように呟いたベルドルフの言葉にヴァルドレインは小さく目を伏せる。


 拒否権など最初からない。

 だが胸の奥では別の感情が静かに疼いていた。


 賢者、召喚、幽玄の森。

 そして……黒い髪と黒い瞳を持つ聖女。


 散らばっていた欠片が、どこかでひとつに繋がろうとしている。

 そんな嫌な予感だけが、妙にはっきりと残っていた。


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