第96話 ジェロール帝国【皇太子の苦悩】
執務室の扉が、重い音を引きずるように閉じた。
その響きが石造りの廊下へ溶けていくのを聞きながら、グラリオス・レグルス・ジェロールはようやく息を吐いた。知らぬうちに息を詰めていたらしい。
肺の奥が痛い。
高窓から差し込む陽光が淡い金髪を照らしている。磨かれた床に落ちた光は暖かいのに、指先だけが妙に冷えていた。
握ったままの拳に、爪が食い込む。
父から告げられた言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
――継命戴冠の儀の日取りが決まった。
たったそれだけなのに、まるで処刑宣告のように胸へ沈んでいく。
レグルス――それが今の名だった。
だが、玉座に座る日が来れば、その名は消える。
ジェロール帝国の皇帝は皆、“グラリオス”を継ぐ。先代から次代へ、血と共に受け継がれてきた名。栄光の象徴であり、鎖でもある。
皇帝になった瞬間、レグルスという人間は歴史から静かに消える。
残るのは――グラリオス……
いずれ来ると分かっていた日だった。
皇太子として生まれた以上、逃れられぬ運命でもある。
だが、理解していることと、受け入れられることは違った。
廊下の窓から吹き込んだ風が外套の裾を揺らした。遠くで衛兵の足音が規則正しく響いている。帝城は今日も変わらない。
変わるのは、自分だけだ。
まだ十八歳。
帝国を背負うには、あまりにも若い。
国境の情勢も、貴族たちの思惑も、帝国全土の民の暮らしも、知識としては学んできた。誰よりも厳しく叩き込まれてきた自負もある。
だが、学んできたことと、実際に統べることは違う。
皇帝の椅子は、あまりにも重い。
重く静まり返った廊下の空気の中、レグルスは無意識に拳を握り締めた。
皇帝になる覚悟は――まだ、完全には定まっていなかった。
レグルスは目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、父の威厳ある横顔。
――逃げたいわけではないが、ほんの少しだけ怖かったのだ。
その日の午後、園庭を吹き抜ける初夏の風は心地よく、花々の甘い香りが白いガゼボを満たしていた。薔薇にラベンダー、それから季節の百合。香りが重なり合い、どこか夢のような空気を作っている。
本来なら、穏やかな時間のはずだった。
週に一度だけ設けられた婚約者との茶会。
銀のティーポットから注がれた紅茶は琥珀色に透き通り、立ち上る湯気には柑橘の香りが混じっている。
だというのに、レグルスはもう何度目か分からない溜息を落としていた。
カップの表面に映る自分の顔が、ひどく冴えない。
「まあ、レグルス様。そんなに溜息をついて、どうなさったのですか?」
柔らかな声が、重く沈んだ沈黙をそっと揺らした。
そこでようやく、彼は顔を上げた。
向かいに座る婚約者が、心配そうに青い瞳を細めている。
話しかけられていたことに、今さら気づく。
「あ……いや」
言葉が続かない。
喉まで上がってきた本音は、口の手前で止まった。
皇太子が弱音を吐くな――幼い頃から何度も聞かされてきた言葉が、鎖のように舌へ絡みつく。
遠くで小鳥が鳴いた。
噴水の水音が静かに耳へ届く。
穏やかだ……あまりにも穏やかで、だからこそ、その胸の内だけがひどく騒がしかった。
白い丸テーブルの向こう側でアンディーナ・リラ・コーディアンは、小さく首を傾げていた。
陽光を受けた濃茶の巻き髪が艶やかに揺れる。琥珀色の瞳は磨き上げられた宝石のように澄んでいて、そこに映る自分の顔が、ひどく冴えなく見えた。
十六歳。
二つ年下の婚約者は、昔から不思議なくらい落ち着いていた。
皇太子妃として必要な礼儀作法も、政務の知識も、幼い頃から叩き込まれてきた。
大魔導士卿の娘である彼女は、皇太子妃となるため、コーディアン侯爵の養女となり、誰の目から見ても未来の皇妃に相応しい立場を得ている。
それなのに昔と変わらない。
庭で転んだ幼い日のように、今も同じ目でこちらを見る。
「アン……」
口を開いた途端、喉が引っ掛かった。
紅茶を一口含む。僅かな渋みと柑橘の香りが舌に広がったが、味はほとんど分からない。
「いよいよ父上が、私に王座を譲ると仰った」
言葉にした瞬間、その重さが増した気がした。
カップを受け皿へ戻す。
かすかな音が、やけに大きく響いた。
「父上も、もう七十に近い。以前から聞かされてはいたんだ。……だが」
そこで言葉が止まる。
視線が自然と庭へ流れた。
風が花々を揺らしている。噴水の水飛沫が光を弾き、小鳥の囀りが遠くで重なった。
「私に、務まるとは思えない」
ぽつりと落ちた声は、自分でも驚くほど弱かった。
皇太子らしくない声音だった。
「まあ、レグルス様ったら」
アンディーナがくすりと笑う。
責める響きは、欠片もない。
白い手袋をはめた指先がティーカップの縁に触れた。
「心配なさらなくてもよろしいのですわ」
その声は春の風のように柔らかいのに、不思議と芯がある。
「そのために、わたくしがおりますもの」
迷いがないまっすぐな言葉。
レグルスは思わず瞬きを忘れる。
「わたくしは幼い頃から王妃教育を受けて参りました。皇帝となったあなた様をお支えする覚悟も、とっくにできています」
まるで明日の天気を話すようにさらりと言う。
だが、その言葉の裏に積み重ねてきた年月を、レグルスは知っていた。
遊びたい盛りの年頃も、舞踏会の夜も、彼女は未来の皇太子妃として学び続けてきた。
自分の隣に立つために。
「きっと大丈夫ですわ」
アンディーナが微笑む。
花びらが風に舞い、その髪に一枚だけ白い花弁が落ちた。
「あなたは今の陛下とは違いますもの」
一瞬、レグルスの肩が僅かに揺れた。
「民の声を聞こうとなさる。使用人にも分け隔てなく接する。そんな方を、誰が恐れるでしょう」
恐れるでしょう――その言葉が胸に引っ掛かる。
父なら違う。
父が廊下を歩けば、侍従たちは息を潜める。
謁見の間に立つだけで、空気が凍る。
誰もが視線を伏せ、震えながら言葉を選ぶ。
それが皇帝グラリオス三世だった。
幼い頃から見続けてきた、絶対の支配者。
レグルスは知らず指先に力を込めた。
爪が掌へ食い込む。
厳格な父の顔が脳裏に浮かぶ。
冷えた黄金の瞳。
失敗した官僚へ向けられた、あの一言。
――下がれ。
ただ、それだけで一人の人生が終わる。
切り捨てることを躊躇わない。
そうして父は、この巨大な国に君臨してきた。
でも、自分は失敗した者を見れば、理由を探してしまう。
罰を下す前に、もう一度だけ機会を与えたくなる。
泣いている者がいれば、見過ごせない。
助けを求める声があれば、耳を塞げない。
皇帝には不要な情だと、何度言われてきただろう。
甘い、頼りない、と。
分かっているのに救える命を見捨てる強さだけは、どうしても身につかなかった。
花の香りが風に乗って静かに流れていく。
向かいではアンディーナが穏やかに微笑んでいた。
まるで、この先に待つ未来を少しも疑っていないように。
幼い頃から、ずっとそうだった。
勉学でも、礼法でも、人の機微を読むことでも、気づけばいつもアンディーナの方が一歩先を歩いていた。
幼い頃、宮廷教師が出した難問に頭を抱えていた時もそうだ。レグルスが答えに辿り着くより先に、彼女は静かに解法へ辿り着いていた。
けれど、決してそれを誇らなかった。
まるで最初から、目立つつもりなどなかったかのように。
庭を渡る風が花の香りを運びながら、白いテーブルクロスを揺らした。
アンディーナがティーポットを傾ける。
琥珀色の液体が細い糸となって流れ、静かな音を立ててカップを満たした。
「レグルス様」
呼ばれて顔を上げる。
琥珀色の瞳が真っ直ぐこちらを見つめていた。
曇りも迷いもない。
「わたくし、身分の低い方々にまで心を配れるあなた様を、本当に尊敬しておりますの」
その言葉に、レグルスのカップを持つ指先が僅かに止まった。
幼い頃からアンディーナは嘘が下手なのを知っている。
だからこそ、その一言の重みが胸へ落ちる。
「あなた様は、きっと素晴らしい皇帝になられますわ」
その声音には不思議なほど確信が宿っていた。
「わたくしが保証いたします」
かたん。
知らぬ間に強く握っていたカップが、小さな音を立てて受け皿へ戻った。
その音で、自分の肩に力が入っていたことに気づく。
ふ、と息が漏れた。
ほんの少しだけ胸を締めつけていた重石が軽くなる。
思えば自分はずっと、父の背を見上げてきた。
絶対の皇帝。
揺るがぬ支配者。
誰よりも強く、誰よりも恐れられる男。
幼い頃、失態を犯した貴族へ父が冷たい視線を向けた場面を、今でも覚えている。
広間の空気が凍った。
あの男は膝をついたまま、顔を上げることすらできなかった。
父は一度も声を荒げなかった。
それでも誰も逆らえなかった。
帝国を統べる者とは、ああいう存在なのだと、ずっと、そう思っていた。
だから、同じになれない自分は、皇帝に向いていないのだと。
風に乗った白い花びらがひらりと舞い、アンディーナの髪へ落ちる。
彼女は気づかない。
そのまま穏やかに微笑んでいる。
不意に、肩から力が抜けた。
ああ、そうか。
同じである必要など、なかったのか。
父には父の帝国があった。
ならば、自分には自分の帝国がある。
完璧な皇帝になれなくてもいい。
ただ、民の声を聞き、守るべきものを守り、隣に立つ者を信じる。
それでも、皇帝になれるのなら。
レグルスはゆっくりと息を吐いた。
肺に溜まっていた重苦しい空気が、少しずつ外へ流れていく。
一か月後――継命戴冠の儀。
帝国の歴史を継ぐ日。
その後には、大聖堂で大聖女レイラより祝福を授かる神聖な儀式が待っている。
女神アーシェラの代行者。
神意を地上へ伝える聖女。
幼い頃から何度も聞かされてきた名だ。
その祝福を受けた時、自分は本当に皇帝になるのだろう。
レグルスは視線を上げた。
向かいにはアンディーナがいる。
いつだって、そこにいた。
幼い日から、転んだ日も、叱られた日も、落ち込んだ夜も……
振り返れば、いつも。
「アンディーナ」
呼ぶ声が、自分でも驚くほど穏やかだった。
「君のおかげで……ようやく決心がつきそうだ」
レグルスの青灰色の瞳が細められる。
今度の笑みは、無理に作ったものではなかった。
「これからも――私のそばにいてくれるね」
アンディーナの長い睫毛が震えた。
琥珀色の瞳が僅かに潤む。
「レグルス様……」
その声は、とても静かだった。
けれど確かに震えていた。
「もちろんですわ」
白い手袋の指先が、そっと彼の手の甲へ重なった。
「わたくしは、そのためにおりますもの」
遠くで鐘の音が鳴った。
風が花の香りを運ぶ。
レグルスは眩しそうに目を細め、柔らかな陽光の中で微笑む少女を見つめた。
きっと彼女と一緒なら……どんな未来でも乗り越えられる。
その時、レグルスは初めて、未来を恐れず見つめられる気がした。




