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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第95話 小さな聖女

 エステラは再び、腕につけた銀色のバングルへ声をかけた。

 すると、先ほど水を持ってきてくれたメイド姿の女性が静かに部屋へ入ってくる。


「ヘルダ。この子は新しい聖女の……えっと」

 そこでエステラが、こちらへ視線を向けた。


 ……そういえば、名前を言っていなかった。

 勝手に連れて来られた相手に、わざわざ名乗る必要があるのかとも思う。

 けれど、ずっと“聖女様”と呼ばれ続けるのも妙に落ち着かなかった。


「……私の名前は、イオリです」

 渋々そう名乗る。


「そう。ではヘルダ、“聖女イオリ様”を部屋へ案内して」

 ……結局、頭に“聖女”はつくんだ。


 私は小さく嘆息しながら、ヘルダの後について歩き出した。

 医務室の扉が、静かに開かれる。


「さあ、聖女イオリ様。こちらへどうぞ」

 ヘルダに促され、外へ足を踏み出した瞬間――私は思わず目を細めた。


 磨き抜かれた白い石床が、淡く光を反射している。

 その長い廊下は、まるで静かな水面の上を歩いているようだった。


 継ぎ目ひとつ見当たらない白い漆喰の壁と天井。

 ここが俗世から切り離された場所なのだと、空間そのものが無言で語っている。


 天井近くには小さな窓が規則正しく並び、黄金色の陽光が斜めに差し込んでいた。

 薄いレースのような光の帯が、白い床の上へ静かに落ちている。

 あまりにも現実離れした光景に、私は一瞬、夢の中へ迷い込んだような錯覚を覚えた。


「……イオリ様?」

 ヘルダの声で、はっと我に返る。


 私は促されるまま、どこまでも続くような長い廊下を無言で歩き始めた。

 ヘルダの後を追いながら、もう一度左耳のピアスに触れる。


 ――理玖、聞こえる?

 やはり、返事はない。

 

 理玖に何かあった……とか。

 いいえ、あそこは結界で守られた場所。

 

 まさか、結界の外に私を探しに行って……魔獣に襲われたり……

 いや、白狼族がきっと理玖を一人で行かせたりしない。

 

 一緒に外に行って万が一魔獣に出会ったとしても、彼らはそう簡単に魔獣にやられたりしないはず……

 いろんな想像が頭の中をぐるぐる回る。

 どんなに考えても仕方がないのに、見えない不安はいつまで経ってもなくならない。


 しばらく廊下を歩いていると、ふと、ハーブのような香りが漂っていることに気づいた。

 甘さの奥に、どこか清らかな冷たさを感じる香りだった。


 その香りに意識を引かれているうちに、等間隔で扉が並ぶ場所へ辿り着く。

 ヘルダはそのうちの一つの前で立ち止まり、扉の横についていた茶色のボタンを押した。


「……はい」

 少し間が開いて、小さな声が聞こえた。


「聖女フレア様。同室になられる聖女イオリ様をお連れしました」

「どうぞ」

 扉の向こうから少し高めの幼い声と共に扉が開く。


「では、聖女イオリ様。お入りください」

 私は足を一歩踏み入れて、目を見張った。 

 正面に立っていたのは幼い少女。

 亜麻色の髪、晴れた空のような薄青の大きな瞳。私の胸のあたりまでしかない小さな背。

 この子が……聖女フレア……?

 まだ十歳にもなっていないんじゃないかしら……?

 そんな私の内心を知らずにヘルダが目の前の少女に告げる。


「フレア様、こちらが聖女イオリ様です。色々教えて差し上げてください」

「黒い髪に黒い瞳……」 

 少女――聖女フレアは私をじっと見つめたまま、動きを止めた。


「聖女フレア様?」

「……えっと、聖女イオリ様ですね。わかりました」

 ヘルダが声をかけると少女はハッとして笑顔で答えた。


「聖女イオリ様、どうぞお入りください」

「ありがとう。よろしくね」

 私は目の前の聖女フレアと紹介された少女に向かって笑顔で答えた。


「それでは私はこれで失礼します」

 ヘルダが立ち去ると、私は部屋の中に目を向けた。


 その先に広がっていたのは、廊下と同じく白を基調とした部屋だった。

 漆喰の壁は柔らかな陽光を受けて淡く輝き、窓辺では薄い白布のカーテンが静かに揺れている。 


 窓の外は少しずつ茜色に染まり始めていた。

 窓際には、小さな本棚と祈祷台。

 そして室内には、簡素なベッドが二つ、向かい合うように置かれていた。


「こっちが私のベッドなの。だから、えっと……聖女イオリ様はそっちのベッドだよ」

「え、ええ、ありがとう」


 私はなるべく優しい顔で微笑んだ。

 それにしても、こんな幼い少女が親元を離れて、こんなところで過ごしているの?

 

 まさか、私みたいに突然攫われてきたんじゃないでしょうね。

 そんな考えが、心の底から怒りの感情を呼び起こし、耐えるようにぎゅっと奥歯を噛み締める。


 少女は、まんまるの瞳を大きく見開き、じっとこちらを見つめている。


 すると――。

 その瞳が、次第に潤み始める。


 ぽろり、と一粒の涙が頬を伝った。

 ……え?

 ちょ、ちょっと待って。


 どうして泣いてるの?

 私、まだ何もしてないよね?

 まともに話もしていないのに。


 も、もしかして私の笑顔が引き攣っていて怖かったとか……?

 いやいや、そんなはずない……


「ど、どうしたの? どこか痛いの?」

 思わずそう尋ねる。

 できるだけ優しい声で。


 けれど少女は、小さく首を横に振った。

 そして、静かな声で答える。


「……違うの……。私にもわからないの。でも……あなたの瞳を見ていたら、とても温かくて……やっと会えた気がして……でも、どうしてそう思うのかわからないの。泣いちゃって、ごめんなさい」

 言っている意味はよく分からなかった。


 けれど――。

 ……もしかして。


 この子、ずっと親と離れて寂しかったのかもしれない。

 年上の女性を見て、お母さんを思い出したのかも……

 私は何も言わず、その小さな体をそっと抱き寄せる。洗いたてのシーツの匂いと、花のような甘い香りがふわりと鼻をくすぐった。


「フレアちゃん……そう呼ばせてもらっていい? だから、私のことはイオリと呼んでちょうだい」

 耳元で優しく問いかける。


「聖女なんてつけなくていいわ。もっと気軽にいきましょう」

「……うん」

 泣き声の名残を含んだ小さな返事。


「これから同じ部屋になるみたいだから、よろしくね。いろいろ教えてね」

 そう言うと、フレアちゃんは慌てて目元を擦った。

 長い睫毛に残っていた雫が光を弾く。


「……うん……イオリ……さん」

 たどたどしく答える返事は少しだけ明るかった。


 はにかむように唇が緩む。

 その笑顔を見て、私もつられて微笑んだ。


 ふと、窓辺に置かれた白い鉢植えが目に入った。

 そこに咲いていた花に、思わず視線が止まる。


 深い青――吸い込まれそうなほど鮮やかな色だった。

 昼の光を受けてなお色褪せず、まるで小さな海を閉じ込めたように揺れている。

 ――青いバラ?


 思わず息を呑んだ。

 人工の青いバラとはまるで違う。


 店先に並んでいたものは、もっと不自然だった。切り口から染料を吸わせた花は茎にまだらな青が浮き、どこか無理やり色を塗り込めたような痛々しさがあった。


 けれど、この花は違う。

 根を張り、土に生きている。


 花弁の一枚一枚にまで濃い蒼が宿っていた。

 青いバラは自然界には存在しないと聞いたことがある。


 でも、この世界ではそれは当てはまらないのかもしれない。

 ……どこかで見たことがあるような……


 胸の奥がざわりと波立つ。

 記憶を辿る。


「あ……」

 思い出した。


 召喚されたあの日。あの不思議な空間を舞っていた青い花びら。

 道路の上の青いバラのアーチ。

 あれと同じ花だ。


「フレアちゃん。その花ってバラだよね?」

 私の視線を追うように、フレアちゃんも窓辺へ顔を向けた。


「バラ……?」

 きょとんと首を傾げる。


「それってなあに?」

「え?」


「そこにある花はアクアローザっていう花なのよ」

「アクアローザ……?」


「うん」

 フレアちゃんは頷くと、少しだけ嬉しそうに花を見た。


「お父さんが仕事で海に行った時に持ってきてくれたの」

「海?」


「うん。アクアローザは海の近くに咲くんだって」

 窓から吹き込んだ風が青い花を揺らした。

 花弁がかすかに触れ合い、さらりと音を立てる。


「海岸沿いに落ちていて、青くて珍しい種だからって。私、お花を育てるの好きだから、お土産だって」

 フレアちゃんの声が少しずつ柔らかくなる。


「最初は何の花かわからなかったの。でも咲いた時、お父さんが教えてくれたんだ。これはアクアローザだよって」

 青い花を見つめるその瞳は、父親の思い出をなぞっているようだった。


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