第94話 大魔導士エステラ
深い闇の底から引き上げられるように、意識がゆっくりと浮上していく。
……あれ?
私、どうしたんだっけ……。
頭がひどく重い。
ゆっくりと瞼を持ち上げた瞬間、真っ先に視界に飛び込んできたのは、驚くほど澄み切った“白”だった。
「……っ……ここは……?」
ぼやけていた景色が、少しずつ輪郭を持ち始める。
刷毛の跡がかすかに残る、清潔な漆喰の天井。
室内には、ほのかに甘く、それでいて鼻の奥をすっと抜けるような清々しい香りが満ちていた。
身体を動かそうとした瞬間、肌に触れる亜麻色のシーツの柔らかさに驚く。
するりと滑るような感触が、身体を優しく包み込んでいた。
「気が付きましたか」
静かで、それでいて凛とした声がすぐ近くから響く。
私は反射的に起き上がろうとした。
けれど、身体は鉛のように重く、ほとんど動かなかった。
仕方なく視線だけを巡らせる。
ベッドの傍らには、一人の女性が立っていた。
仕立ての良い、深緑色の衣服。
華美な装飾はないのに、不思議と目を引く。
長い灰銀色の髪が、薄く開いた窓から吹き込む風に静かに揺れている。
そして、アクアマリンのような薄水色の瞳がまっすぐ私を見つめていた。
「目覚めたのね。ここはリプレア聖苑の医務室。あなたは癒しの魔力を持つ聖女様よね」
「何を……言ってるの……?」
喉が乾ききっているせいで、声が酷く掠れた。
「ああ、ごめんなさい。気づかず」
そう言うと、女性は自分の腕につけた銀色のバングルへ視線を向ける。
「水を持ってきて」
短く告げると、ほどなくして紺色のワンピースに白いエプロン姿の女性が部屋へ入ってきた。
薄茶色の髪を後ろできっちりと結え、頭には白いキャップを被っており、見るからにメイドという感じだ。
トレーの上には、透明な水の入ったグラスが乗っている。
チラリと灰色の瞳が私を見ると、水が入ったグラスを差し出す。
私はほとんど一気に飲み干した。
それほど喉が渇いていたのだ。
冷たい水が喉を通り、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻す。
気がつくとメイドの姿はもうなかった。
目の前にいるのは灰銀色の髪の女性だけ。
「ここは、いったいどこ? あなたは誰? どうして私はこんなところにいるの?」
堰を切ったように疑問をぶつける。
すると女性は、静かな口調のまま答えた。
「ここは、ジェロール帝国、大聖堂に隣接するリプレア聖苑の医務室」
ジェロール帝国……
かつて先代賢者と小人族たちを虐げていた国。
その名を聞いて足元からざわざわと冷たいものが這い上がってくるような感じがした。
そんな……あの山脈を越えてここまで連れてこられたっていうの……?
私の混乱をよそに彼女は名乗る。
「そして、私は大魔導士、エステラ・ルツカ――聖女であるあなたを、“いるべき場所”へ招いたのよ」
当然のことをしたかのような口ぶりだ。
「招いた……? どういうこと?」
「あんな森の中で、しかも蛮族どもと共に暮らしているなんて、あなたには似つかわしくないわ」
私から目をそらさずエステラは言葉を続ける。
「癒しの魔力は“聖なる魔力”と呼ばれる希少な力。あなたには、定められた使命があるのよ。だから、ここへ招いたの」
……何を言っているんだろう、この人。
話の内容があまりにも突飛すぎて、私はただ呆然と彼女の言葉を聞き流していた。
「光の教団の大聖女様は、とても慈悲深いお方よ。癒しの魔力を持つ者は、身分や種族に関係なく、このリプレア聖苑へ招かれ、教団の恩恵を受けられるの」
エステラは熱に浮かされたような瞳で続ける。
「そして、あなたたちは人々を救い、敬われる存在になるのよ」
そのうっとりとした表情に、私は若干引いてしまった。
でも――。
「そんなの、知らない」
「え?」
エステラが意外そうに目を見開く。
「勝手に連れてこられて、勝手に私の人生を決めないで」
私は彼女を睨みながら、低い声へ怒りを滲ませた。
「あなた、正気で言ってるの? あなたの力は、人々のために使われるべきなのよ。女神アーシェラ様のお導きによって」
「女神アーシェラ……?」
「そう。かつてこの国に恩恵をもたらしてくれた尊い女神様よ。大聖女レイラ様は、女神様の言葉を受け取り、私たちに伝えてくれるの。彼女の言葉は女神様の言葉なのよ」
エステラの声音は、次第に恍惚とした熱を帯びていく。
「お美しくて、慈愛に満ちたお方なの。あの方がいるからこそ、帝国は女神様の恩恵を授かっているのよ」
彼女は両手を胸の前で組み、祈るような表情を浮かべた。
見た目は綺麗なのに、話している内容がどこかおかしい。
まるで、“光の教団”とかいう怪しい宗教団体にどっぷり洗脳されているみたいだった。
……それよりも。
こんな場所にまで連れて来られて。
私には、理玖がいるのに。
きっと今頃、突然いなくなった私を探している。
いくら大人びたところがあっても、まだ三歳の子どもなのだ。
……泣いているかもしれない。
胸の奥が締めつけられる。
でも、ここで理玖のことを口にするわけにはいかなかった。
もし理玖が“賢者”だと知られれば――。
先代賢者のように、鎖に繋がれ、利用されるかもしれない。
そんな未来だけは絶対に嫌だった。
私は唇を強く噛み締め、ぎゅっと目を閉じる。
……あの時。
結界の外へ出なければ。
困っている人を見たからって、近づかなければ。
まただ。
私は、いつだって後悔してばかりしている。
理玖を守ろうとして。
そのくせ、いつも理玖に守られて。
そして今度は、突然こんな場所へ連れて来られた。
……私は、どうすればいいんだろう。
癒しの魔力があると言われたって、私にできることなんて限られている。
せいぜい、傷を治すアロウ軟膏や、体力を回復するリュミナのお茶を作れるくらいだ。
直接魔法を使って、怪我や病気を治せるわけじゃない。
周りに心配をかけて。
迷惑ばかりかけて。
そう思うほど、自分自身を許せなくなっていった。
「私を元の場所に帰して!」
「それはできないわ。癒しの魔力を持つものは光の教団で奉仕するのが務め。あなたは女神様に選ばれたのだから」
ああ、ダメだ。
この人は、光の教団とやらを盲信している。
きっと、何を言っても届かない。
悔しい……
自分に何もできないのが……
唇を噛み締める。
目の奥が熱くなる。
ポタポタと自分の手の甲に涙が零れ落ちる。
その姿を見ていたエステラが宥めるように言う。
「聖女様、今はお辛いかもしれません。ですが、きっと、ここにいればあなたは本来のお役目に目覚めるでしょう」
やっぱり……何を言っても無駄だ。
エステラの言葉は、私にそう確信させた。
気持ちを落ち着かせるため、ゆっくり深呼吸してから考える。
無理にここから出ようとしたら、行動が制限されるかもしれない。
最悪、牢のような場所に閉じ込められるかも。
ここは大人しくしていた方がいいのかもしれない。
「……私がここに連れてこられてからどれくらい時間が経ってるの?」
白木の床をぼんやり見つめながら、口を開いた。
まさか、何日も経っているとは思えないけど。
「そうね、半日くらいかしら……?」
半日……少なからず、翌日になっていなかったことに安心する。
それでも、私があの村からいなくなったことがみんなに伝わるには十分な時間だ。
みんな心配しているだろうな。理玖はどうしているだろう。
小人族も白狼族もみんないるから大丈夫だと思うけど、それでも、母親の代わりになるわけじゃない。
私は唇を噛み締め、溢れそうになる怒りや不安に耐える。
ここで感情を溢れさせても状況が変わるわけじゃない。
「さて、もう大丈夫そうね。今からあなたの部屋へ案内するわ」
「私の部屋……?」
「そうよ。ここは聖女たち専用の宿舎にある医務室なの。いつまでもここへ寝ているわけにはいかないでしょう?」
エステラは当然のように言う。
やはり、私を帰してくれるつもりはないようだ。
ここで逆らっても無駄なような気がする。
この場所はどんなところかもわからない。
理玖……
ああ、そうだ。
私は、理玖にもらったピアスの存在を思い出した。
エステラに気づかれないように左耳にそっと指を触れ、念話を送ってみる。
――理玖、聞こえる?
……返事がない。
距離が離れすぎて届かないのだろうか?
私の困惑もよそにエステラは話し続ける。
「ちょうど数ヶ月前に聖女として認定された子もいるの。最初はその子と一緒に、“癒しの魔力”の使い方を学ぶことになるわね」
――魔力の使い方を習う。
その言葉に、私ははっとした。
長老も、ラザさんも、皆が私には癒しの魔力があると言っていた。
けれど私は、その力の使い方をちゃんと理解しているわけじゃない。
今までだって、感覚的にアロウ軟膏やリュミナのお茶を作っていただけだ。
だったら――。
ここで落ち込んでいるだけじゃ駄目だ。
連れて来られたことは最悪だった。
でも、この状況を利用することはできるかもしれない。
この機会に、癒しの魔法を習得する。
そして――どうにかして、ここから逃げ出す方法を探す。
私は密かに、そう心に決めたのだった。




