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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第93話 ジェロール帝国【幽玄の森の聖女】

 皇城を見下ろすようにそびえる魔導院の塔。

 その最上階にある執務室には、傾き始めた陽光が窓から流れ込んでいた。


 重厚な書棚が壁を埋め尽くし、窓から差し込む薄い光がぼんやりと部屋の中を照らしている。

 漂うのは古い羊皮紙と魔導触媒の匂い。静まり返った室内には、カチカチと時計の振り子が刻む乾いた音だけが響いていた。


 その沈黙の中心に、ベルドルフは座っていた。

 巨大な机に肘をつき、組んだ指先の上に髭で覆われた顎を乗せている。


 対するエステラ・ルツカは、一歩下がった位置で背筋を伸ばしている。

 薄水色の瞳はわずかな緊張に揺れ、ベルドルフの言葉を待っていた。

 無意識に左手の報告書に力が入り、今にもくしゃりとシワがよりそうだった。


「それで、幽玄の森で癒しの魔力を持つ聖女を発見したというのか」

 低い声が部屋の空気を震わせる。


 エステラには、室内の温度が少しだけ下がったように感じられた。



 琥珀色の瞳が、まるで獲物を値踏みする猛禽のような鋭さでエステラを射抜く。


 急所を探るような視線に思わず目をそらしそうになる。


 エステラの喉がわずかに鳴る。

 責められているわけでも、叱られているわけでもない。


 なのに、心臓を素手で掴まれたような息苦しさがあった。

 この男の前では、嘘も言い訳も意味を持たない。

 そんな錯覚を覚えるほどに。


「はい」

 短く答える。


 唇も喉も枯れて、掠れた声だった。

 緊張を解くように少しだけ息を整えて、エステラは続ける。


「はい、幽玄の森の奥には小人族の村があり、そこには白狼族も共に暮らしているようでした」

 その瞬間。

 ベルドルフの目が細められる。


「白狼族……?」

 椅子の肘掛けを叩く指先が止まった。


「数年前、我らが制圧したアクアウッドの原住民だった白狼族か?」

「はい。間違いありません」

 エステラは頷く。


「その集落の中に紛れていたのです。聖女様が……」

 時計の音だけがやけに大きく聞こえた。

 やがてベルドルフが口を開く。


「まさか、白狼族の残党があの山脈を越えていたとは……本当にその女は癒しの魔力を持つ聖女なのか?」

 探るような声音。

 疑念というより、確信を得るための確認だった。


「間違いありません」

 今度は即答した。


「怪我を負った白狼族を治療していました。結界越しでしたが、裂けた傷口が視線の先で閉じていくのを確認しております」


 あの光景が脳裏によみがえる。

 聖女が白狼族の腕を撫でた瞬間、淡い光が傷口を包んでいた。


「その治癒速度は、ここにいる聖女たちが民を癒す姿とは比較になりませんでした。一瞬――本当に一瞬で」

 静まり返った執務室に、窓を叩く風の音だけが響く。


「さらに――」

 エステラは懐へ手を入れた。


 取り出した小瓶を静かに掲げる。

 透明な小瓶の中に入った薄緑色の膏薬が、窓から差し込む光を受けて淡く輝いた。


「その聖女が所持していた薬です」

 ベルドルフの視線が小瓶へ落ちる。


「薬……だと? それは聖女が作ったのか?」

「鑑定済みです」

 エステラは頷いた。


「膏薬の中に、癒しの魔力が溶け込んでいました」

 ベルドルフは小さく顎に手を添えた。


「なるほど」

 呟きとともに、琥珀色の瞳がわずかに光を帯びる。


「聖女の作る薬には癒しの魔力が宿る。ゆえに通常の薬師が調合した薬より効力が高い」

 そこで言葉を切った。

 指先が机を一度だけ叩く。


「もっとも、それができる者は限られるがな」

 そう言いながら、ベルドルフはエステラから薬が入った瓶を受け取った。


 自分の手元に移った瓶をじっくりと眺める。

 それは、まるで宝石でも鑑定するような眼差しだった。


 透き通った薄緑色の表面が静かに煌めいた。

 長い指先がガラスをなぞる。


「どれほどの効き目があるか確認する必要があるな」

 ベルドルフは独り言のように呟いた後、目を細めた。


 コトン……

 机の上へ小瓶を置く小さな音が静まり返った執務室に響いた。


「彼女を発見できたのは暁光でした」

 エステラは自分の功績を誇るように口角を上げる。


 本来なら見つからなかったかもしれない。

 幽玄の森の奥深く。

 白狼族に守られるように暮らしていたあの聖女を。


「確かに……そうだな」

 ベルドルフは指先を組み、視線を窓の外へ向ける。

 グラセナ山脈の向こう――幽玄の森がある場所へと……


「それで?」

 不意に視線が戻る。


「その聖女は今どうしている」

 エステラは姿勢を正した。


「眠りの魔術を施したまま連れて参りました」

 一瞬だけ、あの時の光景が脳裏をよぎる。


 静かに眠る黒髪の女性。

 何も知らず。

 何も疑わず。


「現在はリプレア聖苑の医務室に寝かせています。そろそろ目を覚ます頃かと」

 ベルドルフはゆっくりと革張りの椅子に背をもたれた。


 短い吐息。

 窓の外では風が吹いているのか、塔の高窓がかすかに鳴っていた。


 ベルドルフは再び口を開く。

「賢者の気配はなかったのか?」


 その言葉に、エステラの背筋が伸びた。

 そもそも、あの山脈を越えて幽玄の森を調査していたのは賢者を探すためだった。


「はい」

 迷いのない返事だった。


「確認できませんでした」

 ベルドルフは何も言わない。

 ただじっとエステラの次の言葉を待っているように。


「もしかすると――」

 エステラは慎重に言葉を選んだ。


「あの時、召喚されたのは賢者ではなく、あの聖女だったのかもしれません」

 重い沈黙。


 肯定とも否定とも判断がつかない。

 だがエステラは続けた。


「我々が感じた魔力の波も、賢者本人ではなく、賢者が仕込んでいた術式の発動だった可能性があります。幽玄の森で発見した聖女は黒髪に黒い瞳。その昔、召喚されたという賢者様と特徴が同じだと言えます」


「なるほど。異界から聖女が召喚されたというわけか。だが……その意図はなんだ……」

 ベルドルフは自分に問いかけるように呟いた。


 彼の指先が肘掛けを軽く叩く。

 一度、二度と規則正しい音が部屋に響く。


 ベルドルフが思案する時によく見せる癖だった。

 エステラは何も言葉を発しないベルドルフに黙って耐えるしかない。


 部屋の空気が微かに冷たい。

 古い書物の匂いがいつもより強く感じる。


 時計の針はそれほど進んでないのに、やけに時間が経ったように感じる。

 エステラは身じろぎ一つせず立ち続けた。


「……わかった」

 やがて、ベルドルフが口を開いた。

 やっと空気が動いた気がした。


「聖女のことは君に任せよう」

 琥珀色の瞳がまっすぐエステラを捉える。


「とにかく丁重にもてなせ。とりあえず、他の聖女たちと同じ待遇でだ。後で、その聖女本人から話を聞くことにしよう」


 穏やかな口調。

 だが、その目は少しも穏やかではない。


「お前はその間――その聖女の力を見極めろ」

 静かな声音だけど、絶対的な指示だった。


「教団には私から報告しておこう」

「かしこまりました」

 エステラは深く一礼する。


 踵を返し、背中に視線を感じながら執務室の扉へ向かう。


 重厚な扉が閉まった途端、エステラはホッと息を吐いた。

「怒ってはいない……たぶん」


 でも、賢者が見つからなかったことにもそれほどがっかりした様子はなかった。

 だからといって、エステラの説明で納得はしていないだろう。


 きっと、あの森の調査はまだ続く。

 エステラが最高責任者として任命されていたが、聖女のことを任されたからには責任者が代わる可能性が高い。


「まあ、いいか。どちらかというと、森の調査より聖女様にお仕えしたほうがいいし……」

 そう小声で呟くと冷たい石造りの廊下を進む。


 鈍い足音が廊下へ響いた。

 窓から差し込む夕暮れの光が長い影を落としている。


 リプレア聖苑。

 そこに、あの聖女がいる。


 エステラは足を止めなかった。

 石畳を打つ靴音だけが、静かな回廊に規則正しく響き続けていた。

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