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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第92話 理玖は母の失踪を知る

 チリリッ――

 左耳のピアスが、焼けた針を押し当てられたかのように、一瞬だけ熱を帯びた。


 嫌な予感が胸を貫く。

 ――母さんに、何かあったのか?


 魔導具工房での作業がようやく一区切りつき、休憩でも取ろうとしていた矢先だった。

 俺は弾かれるように工房を飛び出す。


 すると、通りの向こうからシャーレとラザがこちらへ駆けてくるのが見えた。二人とも息を切らし、その表情には隠しきれない焦りが浮かんでいる。


 ただ事じゃない。

 二人の顔を見た瞬間、それだけは嫌でも理解できた。


「リク殿! イオリ殿が消えた!」

 ラザが叫ぶように言った。


「なに……? 母さんが……? どういうことだ?」

 喉がひどく乾く。


「イオリさんが……イオリさんが、いなくなっちゃった……!」

 シャーレも涙をこらえるような声で訴えた。


 告げられた言葉が頭の中で反響した瞬間――思考が凍りつく。

 視界がぐらりと揺れた。

 まるで世界そのものが歪んだかのような感覚に襲われながら、俺は呆然と二人を見つめ返していた。


 今日、母さんは彼女たちと一緒に、パンの実を採りに小海へ行っていたはずだ。

 なのに――そこで行方不明になったという。


 そんな馬鹿な。

 何の痕跡も残さず、突然消えるなんてあり得ない。


 だが、母さんは死んだわけじゃない。

 この対のピアスはまだ砕け散っていない。


 母さんの魔力が途切れた時、それに呼応して壊れるよう術を組み込んである。

 なら、生きている。


 少なくとも――まだ。

 さっきの異変。


 あのピアスの反応。

 母さんに何か魔術がかけられたのか。


 精神干渉……認識阻害……あたりか……

 指先に力が入る。


 呼びかける。

 だが返事はない。


 沈黙が焦りを呼ぶ。

 意識を失っているのか……それとも結界か何かで遮断されているのか。


 嫌な想像ばかりが脳裏をよぎる。

 駄目だ。


 深く息を吸う。

 風に乗って森から流れる樹脂の匂いが肺に入り込んだ。


 こういう時こそ冷静になれ。

 今すぐ駆け出したい衝動を抑え込み、拳を握る。


「とりあえず、工房で詳しく話を聞こう」

 そう言った時には、ラザたちの後ろへ白狼族の仲間たちが集まり始めていた。


「リク様、何かあったんですかい?」

 工房へ入るなり、ラフが不安そうに声を掛けてくる。


 作業を止めた小人族たちも、手にした道具を握ったままこちらを見ていた。

 室内に重い沈黙が落ちる。


「母さんがいなくなった」

 その一言で空気が凍った。


 誰かが息を呑む音が聞こえた。

 俺はゆっくりと椅子へ腰を下ろし、シャーレへ視線を向ける。


「話してくれ。何があったのか一つ残らず」


「ごめんなさい……イオリさんは小海の近くにある木陰にいたはずだったの。潜っていたのは十分前後よ。でも、私たちが小海から上がった時には姿が見えなくて……嫌な予感がして……すぐ念話でラザに知らせて、探してもらったんだけど……結局、見つからなくて」


 シャーレが唇を強く噛んだ。

 膝の上で握られた手が小さく震えている。


「我らはイオリ殿の匂いを辿り、森中を駆け回った」

 低く押し殺した声でラザが続ける。


「だが、微かな気配すら感じられなかったのだ」

 背筋を冷たいものが這い上がった。


 白狼族が見失う?

 彼らの鼻は数十メートル先にいる魔獣ですら逃がさない。

 

 匂いも、気配も、何も感じられないほど遠くへ瞬時に移動できるなんて……

 膝の上で握った拳が軋む。


 爪が掌に食い込む痛みだけが、かろうじて意識を現実へ繋ぎ止めていた。

 何が起きている……?



 突然、村から消えてピアスに反応がない……

 だが、微かに母さんの魔力は感じる。


 母さんが自ら進んで消えるわけがない。

 俺を置いてどこかへ行くなんて不自然だ。


 その瞬間、不意に脳裏へある記憶が蘇った。

 帝国に囚われていた頃。


 俺が魔導飛行船へ取り付けた、“隠蔽魔法”の術式。

 存在そのものを周囲から認識しづらくし、気配や匂いすら薄める魔法。


 ……まさか。

 あの術式を応用した魔導具が使われたのだとしたら。


 ぞわりと背筋が粟立つ。

 俺は、自分がかつて作り上げた術式が、あらゆる場面で悪用されていることに強い怒りを覚えた。


 帝国に対して。

 そして――そんなものを生み出してしまった、自分自身に対しても。


「……悠長にしている場合じゃなかったな」

 低く押し殺した声が、無意識に口から漏れた。


 小海は、結界にも近い。

 おそらく――何らかの方法で誘き出されたんだ。


 脳裏に、以前フェイを助けようとして、俺自身が結界の外へ飛び出した時のことがよみがえる。

 もし目の前で誰かが窮地に陥っていたなら、母さんは見捨てたりしない。


 だからこそ、自分から結界の外へ出た。

 そう考えれば辻褄は合う。


 ……母さんは、そういう人だ。

 目の前で困っている人間を放っておけない。


 だが――解せない。

 なぜ、母さんが攫われた?


 “ただの人間だから”では説明がつかない。

 まして、母さんが“叡智”の魔力どころか癒しの魔力にさえ気づくはずがない。


 百年前の時点、帝国は魔力測定器を所有していた。

 だから、俺はあのピアスに魔力の質を隠蔽する術式も組み込んだんだ。


 測定器を使われたとしても、魔力の質までは正確に判別できない。

 つまり、“癒しの魔力”だとは分からないはずだ。


 なのに攫われた。

 不要な人間を、わざわざ連れ去る理由はない。


 ……そうだ、母さんは……俺と同じ黒目、黒髪。

 賢者と間違えられた……?


「……帝国……だな。帝国が攫っていったに違いない。きっと、隠蔽の魔導飛行船、隠蔽の魔導具、それらの製造に成功したんだ」


「帝国が……隠蔽の……」

 ラザが息を呑む。


「まさか、あの山脈を越えてきたというの……?」

 シャーレが呆然と呟いた。

 俺は、その言葉を流して疑問を口にする。


「賢者に間違えられたのかも知れない。帝国は、異世界から召喚された賢者が黒目黒髪だと知っているはずだ。たとえ魔力測定器を使われたとしても、ピアスに組み込まれた術式で、魔力の質までは測れないが、その姿だけで攫われたのだとしたら」


「そうなのかもしれないけど……でも……」

 その時、シャーレが小さく声を漏らした。


「なんだ?」

 俺は鋭く問い返す。


「あの時……クスカが海蛇に噛まれて、イオリさんがアロウ軟膏で手当てしていたわ」

 その言葉に、俺は息を呑んだ。

 ……ならば、賢者としてではない。


「……まさか……聖女として攫われたのか……」

 ぎり、と奥歯を噛み締める。


 母さんの癒しの力を――誰かに見られたんだ。

 あの場所は結界の近くだった。


 もし隠蔽系の魔導具を使って監視していたのなら、姿を見られずに様子を窺うこともできる。

 そして、母さんの力を知った。


 ……聖女候補として。

 胸の奥がどす黒く冷えていく。


 もし、母さんが“聖女”として連れて行かれたのだとしたら。

 すぐに殺されることはない。


 だが――力が枯渇するまで使い潰される。

 あの頃のレイラのように。


「……帝国に乗り込むしかないな」

 俺は虚空を睨みつけたまま、決意を固めるように呟いた。


「リク殿。無論、我らも協力する。何でも言ってくれ」

 ラザが真っ直ぐこちらを見据える。


「ラザの言う通りよ。私もできる限り力になるわ。イオリさんは恩人でもあるし、私の大切な友人でもあるんだから」

 シャーレも強い口調で続けた。


「リク様。もちろん、おいらたちも協力するよ。なぁ、みんな」

「「「ああ、もちろんさ!」」」


 ラフの言葉に、魔導機工房で作業していた小人族たちも、一斉に声を上げる。

 気づけば、皆いつの間にか俺の周りへ集まっていた。


「リク! イオリ殿が消えたと聞いたのじゃが!」

 その時だった。

 勢いよく工房の扉が開き、メイファが飛び込んでくる。


「メイファ様、お待ちください!」

 その後ろから、慌てた様子のガランも続いて入ってきた。

 さらにその後も、母さんがいなくなったという話を聞きつけた村の者たちが次々と集まってくる。


「リク、俺もリクの母さんを探すぞ!」

 フェイが拳を握り締めながら叫ぶ。


「リク。俺も、お前の兄ちゃんとして何とか力になる」

 ラウロも真剣な表情で言った。


 皆の視線が俺へ集まる。

 不安……怒り……焦り。

 様々な感情が渦巻く中、俺はゆっくりと口を開いた。


「みんな。俺の母さんが、帝国に攫われたかもしれない」

 一瞬、工房の空気が張り詰める。


「助けるために――力を貸してほしい」

 その言葉を聞いた途端、工房の中にいた皆が力強く頷いてくれたのだった。

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