第99話 リプレア聖苑の聖女たち
白い漆喰の廊下を、夕暮れの光がやわらかく染めていた。
天井近くの小窓から差し込む橙色の光が床へ細長く伸び、歩くたびにその帯を踏み越えていく。
磨かれた床はかすかに光を返し、足音だけが静かな廊下に小さく響いた。
「こっちだよ」
前を歩くフレアちゃんが振り返り、十字路をひょいと右へ曲がる。
「あ、待って」
慌てて後を追う。裾がふわりと揺れ、少しだけ早足になる。
「ここ、結構広いのね。一人で歩いたら迷子になりそう」
口にした途端、自分でも情けなくなって頬を掻いた。
「私も最初はそうだったの」
フレアちゃんがくすりと笑う。どこか困ったように眉尻が下がっていて、その表情に少しだけ安心した。
……やっぱり。
左右を見ても、前を見ても白い壁。
曲がり角も似たような形ばかりで、さっき通った場所と言われても信じてしまいそうだった。
立ち止まって振り返る。
遠くまで続く白い廊下。静寂の中、窓から流れ込む涼しい風。
目印になりそうな絵も置物もない。
案内板の一つくらいあってもいいのに。
胸の内でぼやきながら歩く。
これは当分、一人で出歩けそうにない。
そんなことを考えているうちに、前方に大きな白い扉が見えてきた。
両開きの扉は左右へ開かれたままになっていて、その向こうから人の話し声が微かに漏れてくる。
ふわりと流れてきたのは、焼きたてのパンにも似た香ばしい匂い。
思わず足が速くなった。
「あら、聖女フレア。そちらは……?」
声の方に顔を向ける。
食堂の入り口近くに立っていたのは、私とそう歳の変わらない女性だった。
肩口まで流れる赤みがかった金髪。夕陽を受けて、水色の聖衣がきらりと光る。整った顔立ちの中で、鳶色の瞳だけがじっとこちらを見つめていた。
「聖女カティア様。こちらは新しい聖女のイオリ様です」
フレアちゃんが紹介する。
すると、カティアと呼ばれた女性の視線が私の頭から足先までゆっくりと滑った。
値踏みするように。
その視線に、思わず背筋が強張る。
「新しい聖女……?」
小さく呟いたあと、彼女は片眉を上げた。
「それにしては、随分年がいき過ぎじゃないの?」
――は?
一瞬、耳を疑った。
食堂のざわめきが遠のく。
木製の椅子が擦れる音。食器の触れ合う音。焼きたてのパンの香り。
全部聞こえているのに、頭の中だけ妙に静かだった。
いやいや。あなたと私、そんなに年齢が離れているようには見えませんけど?
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
ぎゅっと唇を結ぶ。
ここへ来て早々揉めるわけにはいかない。
……たぶん、たぶんだけど、私の顔に何か出ていたのだろう。
カティアさんは肩をすくめるように続けた。
「普通、聖女として認定されてここへ来るのは十代前後なの」
さらりとした髪を耳にかけながら言う。
「それから聖女としての教育を受けるのよ。もちろん例外はあるわ。かなり大人になってから力が目覚める子もいるもの」
そこで言葉を切る。
鳶色の瞳が細くなった。
「それでも、大抵は二十歳になる前なのだけど」
視線が絡む。
逃げ場のないまま、まるで珍しい動物でも見るみたいに。
私は思わず拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
「あなた、この国の人? 黒い瞳に黒い髪なんて珍しいわね」
カティアさんの視線が私の髪をなぞる。
「聖女というより――悪魔みたい」
ぴたり、と空気が止まった気がした。
遠くで食器の触れ合う音が鳴る。
焼きたてのパンの香りが漂う。
なのに、その一言だけが妙にはっきり耳に残った。
悪魔――初対面の相手に向ける言葉としては、なかなかの破壊力である。
思わず口元が引きつりそうになる。
いや、ちょっと待って。
私、何かした?
まだ挨拶すらまともにしていないんだけど。
助けを求めるようにフレアちゃんを見る。
彼女は小さく目を伏せていた。
白い指先が聖衣の裾をそっと握っている。
言いたいことはある、でも言えない。
そんな様子だった。
再びカティアさんの顔に目を向ける。
夕陽に照らされた肌は白い。
いや、白いというより。
血の気が薄い。
目の下にはうっすらと影が落ち、笑っているはずの口元にも余裕が見えなかった。
ひどく疲れているのだろうか。
それとも――考えかけたところで、カティアさんが髪を払った。
「まあ、いいわ」
吐息を混ぜるような声。
「私はここで最上位の聖女。周囲からは次の大聖女になるだろうと言われているの」
当然の事実を口にするような調子だった。
けれど、その細い肩が、不思議と重たげに見えた。
「こちらへいらして。皆に紹介するわ」
そして視線をフレアちゃんへ向ける。
「聖女フレア。あなたはご自分の席へ」
「はい……」
フレアちゃんが返事をする。
それでもすぐには動かなかった。
心配そうな空色の瞳がこちらへ向く。
大丈夫。
そう伝えるように、私は小さく微笑んだ。
すると彼女はようやくほっとしたように頷き、自分の席へ向かっていった。
食堂の中央へ足を踏み入れる。
室内は想像していたより広かった。
白いテーブルクロスが掛けられた長方形のテーブルが二列。
磨かれた木の床に夕陽が差し込み、窓辺の椅子の影を長く伸ばしている。
香ばしいパンの匂い。
野菜を煮込んだ優しい香り。
それでも、理玖のことを思えば、食欲が湧かない。
でも、体力を維持するためにちゃんと食べなきゃね。
そう自分に言い聞かせて、ちらりとフレアちゃんを見る。
彼女は扉側の席の先頭に腰掛けていた。
その向かいの席だけが空いている。
たぶん、あそこだ。
私が座る場所。
カティアさんはテーブルの中央で立ち止まり、席についていた聖女たちへ向き直った。
十代後半から二十代前半くらいだろうか。
色とりどりの髪。
穏やかな顔立ちの人もいれば、興味深そうにこちらを見つめる人もいる。
何人かは小声で何かを囁き合っていた。
「皆さん」
カティアさんの声に視線が集まる。
「こちらは新たな聖女のイオリさんよ。まだ聖女教育を受ける前のようだから、色々教えて差し上げて」
十数人の視線が一斉に向く。
さすがに少し緊張する。
背筋を伸ばし、一歩前へ出た。
「イオリです。よろしくお願いします」
一礼する。
さらりと髪が肩を滑り落ちた。
一瞬の静寂、それから……
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
あちこちから柔らかな声が返ってくる。
思っていたよりずっと優しい響きだった。
少しだけ肩の力が抜ける。
示された椅子へ手を添える。
木の背もたれはひんやりとしていて、静かに腰を下ろした。




