第90話 通信機
「母さーん!」
満面の笑みを浮かべながら走ってくる幼い息子を、私は両腕を広げて受け止める。
「理玖、そろそろ帰るわよ」
「うん。今日は母さんにお土産があるんだ。いいものを作ったんだよ」
理玖は最近、ラフさんやロッソさんと一緒に魔導機工房へこもることが多くなっていた。
なんでも、二人から先代賢者が作っていた魔導具や魔導機について教わっているらしい。
聞いただけでそんなものが作れるのだろうか、と最初は不思議だった。
けれど工房には、術式を記した設計が保管されていて、それに“叡智”の魔力を流し込むことで起動できるのだとか。
本当にそんな簡単に作れるものなのか、正直まだ半信半疑だ。
でもきっと、それも賢者特有の力なのだろう――そう自分を納得させていた。
理玖が手のひらを開く。
そこに乗っていたのは、青い小さなピアスだった。
「これを、私に?」
「うん。これがあれば、離れていても声に出さないで母さんと話すことができるんだ」
そう言って、理玖は自分の耳を指差した。
そこには、今理玖の手のひらに乗っていたものと同じピアスがついている。
え……? 声に出さないで?
あ、そういえばシャーレさんが白狼族は念話ができると言っていた。
それと、同じことができるってこと?
つまり、心の中で話せる通信機――っていうことよね?
こんなものを、理玖が作ったというの?
……いや、それより。
私は、はっと息を呑んだ。
こんな小さな子が、耳に穴を開けたという事実に。
「理玖、それ……自分でやったの?」
「違うよ。ラフのおっちゃんに手伝ってもらった」
その言葉に、私は理玖の後ろから歩いてきたラフさんをじろりと睨んだ。
「ラフさん。いくらなんでも、理玖はまだ三歳なんですよ。こんな小さな子の耳に穴を開けるなんて……」
「母さん、違う。俺が頼んだんだ」
理玖が慌てたように私の言葉を遮る。
「イオリ様、すまねぇ……」
ラフさんも申し訳なさそうに頭を掻いた。
でも、理玖本人に頼まれたのなら、賢者として理玖を崇めているラフさんは断れなかったのだろう。
そのことに思い至り、私は小さく息を吐いた。
家へ戻った私は、複雑な気持ちを抱えたまま、さっそく理玖が作ってくれた青いピアスを左耳に身につけた。
学生の頃に開けたピアス穴が塞がっていなくてよかった。
あの時は、友達同士で笑いながらピアスの穴を開け合ったんだっけ。
――そんな記憶も、今では何十年も昔の出来事のように感じる。
あれが確かに現実だったはずなのに、今ではこのファンタジーみたいな世界の方が、私にとっての“現実”になっていた。
時が過ぎるほど、この世界は自然に肌に馴染んでいく。
理玖も、私も。
まるで最初からこの世界の住人だったかのように。
……まだ、一年も経っていないというのに。
私はコンパクトの鏡を覗き込む。
片耳だけの小さなピアス。
それなのに、不思議なくらい強い存在感があった。
何の鉱石なのかは分からない。
けれど、その澄んだ輝きは静かな湖面のようで、光の角度によっては紫や銀色を淡く滲ませているようにも見える。
まるで、高価な宝石みたい――。
「まさか、サファイアとかって言わないよね……」
思わず、そんな呟きが漏れた。
「……サファイア?」
一瞬だけ目を丸くした理玖が、私の言葉を繰り返しながら首を傾げる。
……そうよね。
三歳の子が、そんなもの分かるはずないか。
その無邪気な反応に、私は思わず頬を緩めながら説明した。
「そう。サファイアってね、青くてキラキラした石なの。深い海とか、青空みたいな色をしてて、とっても綺麗なのよ。理玖がくれたこの石みたいにね」
「ふーん。きっとそれ、サファイアだよ。魔導機工房の素材倉庫にあったんだ。もっといっぱいあったよ」
「そうなの? それはすごいわね」
心の中では、まさかと思いながらも、私は理玖の言葉に合わせて頷いた。
子どもの言うことだ。
きっと、青い石は全部同じように見えたのだろう。
そう考えると、少しだけ安心できた。
「ねぇ、理玖。このピアスでお話ができるんでしょ? どうすればいいの?」
私は、理玖が言っていた“念話のできる通信機”のことを思い出しながら尋ねた。
「うん。まず、このピアスに意識を向けて、少しだけ魔力を流すんだ。それで、心の中で話しかければいいよ」
意識を向けて、魔力を流す。
言われた通り、私はそっと意識を集中させた。
――理玖、聞こえる?
そう心の中で呼びかけてから理玖を見る。
けれど、理玖はきょとんとした顔のまま、こちらを見返しているだけだった。
……どうやら、聞こえてはいないらしい。
うまく魔力を流せていないのかもしれない。
「ごめんね。理玖の言う通りにやってみたんだけど、ダメみたい」
すると理玖は少し考えるようにしてから、はっとしたように口を開いた。
「……母さん、じゃあ、ピアスに指で触れながらやってみて」
「えっと……こうかしら?」
私は左手でそっとピアスに触れ、もう一度意識を集中させる。
――理玖、聞こえる?
『うん、母さん。ちゃんと聞こえるよ』
今度は、はっきりと理玖の声が頭の中に響いた。
理玖も嬉しそうに微笑んでいる。
なるほど。こうやって使うのね。
私は胸を撫で下ろした。
これなら、離れていても理玖といつでも話ができる。
その事実に、じんわりと安心感が広がっていった。
それにしても、理玖はピアスに触れることなく自然に念話を使っていた。
改めて、叡智の魔力の凄さを思い知らされたのだった。




