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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第88話 ジェロール帝国【大聖堂の奥に住まう大聖女】


 皇城の脇にそびえる魔導院塔を後にすると、石造りの外回廊の向こうに大聖堂の尖塔群が姿を現した。

 幾本もの白亜の尖塔が曇天を突き刺すように天へ伸びている。


 遠目には神々しい。

 だが、近づくほどに胸の奥がざわつく。


 ヴァルドレインは正面の大扉には向かわず、建物の側面へ足を向けた。

 人目につかぬ場所に設けられた、大聖女専用の入口。


 帝国でも、ごく限られた者しか通ることを許されない扉だった。

 白銀の扉には『静寂の月冠』の紋章が刻まれている。


 中央に据えられた円環。その周囲を幾重にも巡る繊細な装飾は、月光を閉じ込めたような美しさを放っていた。

 それなのに。


 ――この先は、空気が違う。

 豪奢であるはずなのに、どこか冷たい。


 静謐に満ちているはずなのに、得体の知れない圧迫感がある。

 初めて訪れた時から、その感覚だけはどうしても慣れなかった。


 重厚な白銀の扉へ手をかける。

 そして、ゆっくりと押し開いた瞬間――空気が変わった。


 ひやりとした冷気が肌を撫で、思わず背筋が粟立つ。

 ヴァルドレインは胸の内に小さく息を押し込みながら、静かに足を踏み入れた。



 外界とは切り離されたような静寂が、大聖堂の内部を満たしていた。

 人々はこの場所を“聖域”と呼ぶ。


 だが、ヴァルドレインにはどうしてもそうは思えなかった。

 清浄であるはずの空間に、何か異質なものが混じっている。


 目には見えない。けれど確かに存在している“淀み”のようなものが、薄く空気に溶け込んでいた。

 普通の者なら気づかないだろう。


 だが、ヴァルドレインには分かる。

 彼は平民出身というだけで冷遇されていたが、本来であれば誰よりも優れた魔力量と魔法の才を持つ男だった。


 魔導院でも、その実力だけなら帝国屈指。

 帝国大魔導士卿ベルドルフですら、純粋な才能では彼に及ばない。


 もっとも、ベルドルフがその地位にあるのは、高位貴族の血筋と政治力によるところが大きい。それでも“大魔導士”を名乗るだけの力は備えていたが。


 そんなヴァルドレインだからこそ感じ取れてしまう。

 この大聖堂の奥に潜む、“何か”の異質さを。


 奥へ進むほど、その気配は濃くなっていく。

 まるで巨大な生き物の腹の中へ、ゆっくり呑み込まれていくようだった。


「……っ」

 知らず、息が浅くなる。

 ヴァルドレインは気を引き締めながら、長い回廊を進んだ。


 壁に並ぶ燭台には魔導の炎が灯されている。その青白い火は、彼の歩みに合わせるように不規則に揺れ、伸びた影を壁の奥へと這わせていた。


 通常、大聖女への謁見を許される者は限られている。

 皇帝グラリオスを除けば、大司教と帝国大魔導士の地位を持つもののみ。


 女神アーシェラの祝福を受け、女神の言葉を伝える。

 そう称えられる大聖女に、他の者が直接会うことは許されない。

 それほどまでに、彼女の存在は神聖視されていた。


 しばらく回廊を進むと、やがて天井の高い円形のロビーへと辿り着いた。

 中央には、大理石で造られた重厚な受付カウンターが静かに鎮座している。


 それはまるで、俗世と聖域を隔てる関所のようだった。

 そこに控えていたのは、二十代半ばほどの若い司教である。


 司教位の証である緋色の法衣を纏い、胸元には大粒の魔石を嵌め込んだ聖印が揺れていた。

 整った顔立ちには穏やかな微笑が浮かんでいる。


 だが、その瞳だけは違った。

 人の内側を静かに覗き込むような、妙な冷たさが宿っている。

 男はヴァルドレインの姿を認めると、流れるような所作で一礼した。


「これはこれは、大魔導士ヴァルドレイン様。ご用件を承ります」

「陛下の命により、大聖女様へお目通り願いたい」

 そう告げた途端、司教のまぶたがわずかに落ちた。


 本当に、ほんの一瞬だけ。

 見逃せば気づかないほどの変化だった。


 ヴァルドレインは何度もこの場所を訪れている。

 大聖女への書簡を届けるために。

 報告のために。


 もっとも、直接面会まで求めることはそう多くない。

「かしこまりました」


 司教は恭しく頭を下げると、袖口から小型の通信魔導具を取り出した。


 淡い光を帯びた魔石へ指を添え、誰かへ小声で確認を取る。

 やがて通信を終えると、再び柔らかな笑みを浮かべた。


「ご案内いたします」

 そう言って、司教は静かに歩き出す。


 ヴァルドレインは無言のまま、その背を追った。

 幾度も角を曲がり、さらに奥へ。


 進めば進むほど、不穏な気配に満たされていく。

 聞こえるのは、靴音と、どこからともなく響く微かな鐘の残響だけ。


 やがて辿り着いたのは、一般の信徒は決して立ち入ることを許されない区画だった。

 司教は、小ぶりな木製扉の前で足を止める。

 扉には精緻な聖印が隙間なく彫り込まれており、その細工は一種の結界術式にも見えた。


「こちらでお待ちください」

 静かな声だった。

 それなのに、この異様な空間では妙に厳かに響く。


 司教が去っていくのを見送りながら、ヴァルドレインは無意識に息を吐いた。

 この扉の向こうにいる存在を思うだけで、胸の奥がざわついていた。


「これはこれはヴァルドレイン殿。大聖女様に面会を希望されたとか。こちらへお進みください」

 扉の向こうから現れたのは、すらっとした背の男だった。


 光の教団の頂点に立つゼスト・ファン・レスタ――大司教と呼ばれている男だ。

 真っ青の長い髪を後ろでひとつに結い、月魄色のその瞳は何もうつさないように見えてもちゃんと目の前のものを捉えていた。


 いつにもまして顔色が悪く見えるが、彼はそれが通常であり、その姿はまるで死人が生き返ったようにも見えた。


 長く対面しているだけで、精神が静かに削られていくような感覚。

 大聖女にもまして、この男の不気味さはヴァルドレインでさえあまり長く対面していたいとは思えない。


「失礼いたします」

 短く告げ、ゼストの後に続いて部屋へ足を踏み入れる。


 室内は広く、甘い香が微かに漂っていた。

 奥には、豪奢な椅子に腰掛けた一人の女性がいる。


 まるで最初から彼が来ることを分かっていたかのように、薄い笑みを浮かべながら。

 ――大聖女レイラ。

 

 息を呑むほど美しい女だった。

 雪のように白い肌。


 光を受けて輝く金髪に翡翠の瞳。

 慈愛に満ちた聖女のような微笑。


 誰もが跪き、救いを求めたくなるような神秘的な美貌。

 だが、ヴァルドレインは知っている。

 この女の奥底には、人ならざる“何か”が潜んでいることを。


「大聖女レイラ様におかれましては、ご機嫌麗しゅう。陛下よりご拝命を受け、参上いたしました」

 ヴァルドレインはレイラの前まで進み、膝をついて頭を垂れた。


「まあ、そんな堅苦しい挨拶はよいのです。頭を上げてくださいな、ヴァルドレイン」

 鈴のように澄んだ声。

 その声音だけを聞けば、優しく慈悲深い聖女そのものだった。


「……はっ」

 ゆっくりと顔を上げる。


 レイラは満面の笑みを浮かべていた。

 だが、その笑顔の奥に、言いようのない“影”が揺らめいた気がして、ヴァルドレインの背筋に冷たいものが走る。

 この女には逆らってはならない。


 ――皇帝以上に。

 そんな考えが、不意に脳裏をよぎった。


「それで、本日はどのようなご用件でしょう?」

「はっ。僭越ながら、陛下よりお言葉を預かっております。近いうちに、“継命戴冠の儀”を執り行われるとのことです」


「まあ……そうですの」

 レイラは目を細め、嬉しそうに微笑んだ。


「それは、とても楽しみですわ」

 無邪気な声音だった。


 だが、その瞬間。

 彼女の瞳が、一瞬だけ紅く光ったように見えた。


「――っ」

 錯覚だったのかもしれない。


 だがヴァルドレインの本能は、はっきりと危険を告げていた。

 これ以上ここにいてはならない。


「それでは、お言葉は確かにお伝えいたしました。儀式の準備、よろしくお願いいたします。これにて失礼いたします」

 逃げるように頭を下げる。


 これ以上、この者たちと関わりたくない。

 そんな思いを押し隠しながら、ヴァルドレインは部屋を後にした。

 そして、そのまま足早に大聖堂を去っていく。


 だが――

 その背を見送る大聖女レイラの瞳が、妖しく赤い光を宿していたことに、ヴァルドレインは最後まで気づかなかった。


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