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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第87話 ジェロール帝国【皇帝の野望】

 薄闇に沈む巨大な空間――そこは、ジェロール帝国において皇帝のみがその頂に君臨する、謁見の間であった。

 蘇芳を帯びた深紅の絨毯が、天へと続く階段の上を玉座まで長く伸びている。


 その先に据えられた黒銀の玉座には、絡み合う棘を思わせる意匠が精緻にして禍々しく刻まれていた。天井から差し込む淡い光が、その異形の輪郭を静かに照らし出している。


 玉座の左右には、豪奢な金刺繍を施した近衛兵たちが長槍を携えて直立していた。張り詰めた静寂の中、ただ一人、中央に君臨する男だけが、この空間そのものを支配している。


 ジェロール帝国皇帝――グラリオス・ジェロール三世。

 白銀に近い淡金の短髪。冷え切った鋼を思わせる青灰色の双眸。


 彼が身にまとう漆黒を基調とした礼装には、まるで血を封じ込めたかのような紅玉が幾重にも散りばめられている。肩を覆う深紅の外套には白銀の毛皮があしらわれ、その姿は、獣王の威を纏う支配者そのものだった。


 その視線が玉座の下を見下ろすだけで、空気が凍りつく。

 そこには、絶対者特有の、決して揺るぐことのない王者の風格が漂っていた。


 だが、その外套に包まれた体躯は驚くほどに細く、微動だにしない。

 玉座の影に沈む顔からは感情という感情が削ぎ落とされ、老いた眼窩の奥に宿る鋭い眼差しだけが、謁見の間のすべてを支配するかのように光っていた。


 誰一人として、逆らうことは許されない。

 帝国大魔導士卿ベルドルフでさえ、玉座の前では知らず息を詰めていた。


「ベルドルフよ。例のものはどうなった?」

 玉座から降ってきた低い声に、ベルドルフは深く頭を垂れる。

 琥珀色の瞳が、深紅の絨毯に落ちる。


「陛下。間もなく完成する予定にございます」

 老皇帝は、白銀の毛皮に埋もれた顎をわずかに引いた。


「『間もなく』、か」

 漆黒の上衣に散りばめられた紅玉が、彼のわずかな呼吸に合わせて鈍く輝いた。静まり返った謁見の間に緊張感が漂う。


 ベルドルフの額から冷たい汗が床へ滴り落ちるまでの時間を、皇帝はただ楽しむように見下ろしていた。


「その言葉、信じても良いのだな?」

「はい、もちろんでございます」

 ベルドルフは頭を下げたまま慎重に答えた。


「そうか。これで、“叡智の魔力”を持つ者を手に入れられそうか」

「はい。魔導飛行船が完成すれば、グラセナ山脈を難なく越え、幽玄の森へ辿り着けましょう」

 ベルドルフは静かに言葉を続ける。


「きっと、そこには叡智の魔力を持つ者が存在しております。百年前、このジェロール帝国に仕えた者――それと同じ力を持つ者が」


「ふむ……」

 玉座に深く身を沈めたグラリオスが、頬杖をついたまま目を細めた。


 広大な謁見の間に沈黙が落ちる。

 高窓から差し込む淡い光。その光さえ届かぬほど遠い天井の闇。冷えた石床から這い上がる湿気が、衣の裾を重くした。


 やがて皇帝の口元がゆっくりと歪む。

「ならば、あの地に眠る資源も手に入るのだろうな」

 低く落とされた声が、石壁に反響する。


「近頃は特に魔力玉の不足が深刻だ。エルフ族の地から奪った分だけでは到底足りぬ」

 ベルドルフの奥歯がわずかに鳴った。


 先日の遠征。

 炎に染まる森。

 崩れ落ちる白い樹々。

 運び出された無数の魔力玉。


 だが、それだけだった。

 肝心の採掘地は最後まで見つからなかった。


 隠されたのか。

 それとも――。

 考えかけて、ベルドルフは思考を打ち切る。


 答えなど、今さら何の意味も持たない。

 鼻腔の奥によみがえる焦げた木々の臭い。


 風に混じって聞こえた悲鳴。

 あの日の光景が脳裏をかすめ、無意識に指先へ力が入った。


 自然の守護者――そう呼ばれるエルフ族への侵攻には、当然のように異論が上がった。

 魔導院もまた、その一つだった。

 だが、会議の席で誰かが口にした警鐘は、酒席の冗談でも聞くような笑い声にかき消された。


『迷信だ』

『古い伝承に怯えてどうする』

 そんな言葉だけが残った。


 皇帝の決定は覆らない。

 誰一人として覆せなかった。


 ベルドルフは拳を握る。

 爪が掌に食い込む。


 それでも声は上げなかった。

 上げられなかった。


 魔導院の頂点に立つ大魔導卿。

 誰もが羨む地位。


 莫大な権力。

 数え切れぬ栄誉。


 それらを手放してまで皇帝に刃向かう覚悟が、自分にはない。

 ずっと前から知っていた。


 グラリオスが欲しているものを。

 隣国でもない。


 資源でもない。

 富でもない。


 もっと先だ。

 もっと遠い……世界そのもの。


 その果てまで己の支配下に置こうとする飢え。

 底の見えぬ欲望。


 玉座の上の男を見上げながら、ベルドルフはゆっくりと唇を結ぶ。

 胸の奥で何かが軋んだ。

 だが、その音を聞いたのは――彼自身だけだった。


「もちろんでございます。あの地は未だ人の手がほとんど入っておりません。ゆえに、魔力玉をはじめとした資源も豊富に眠っているものと思われます」


 その言葉に、皇帝の口元がわずかに歪む。

「ならば――海の向こうを含めた全ての国々も、亜人どもも、いずれ我が支配下に置けるというわけか」

 冷えた青灰色の瞳に、底知れぬ欲望が滲む。


「叡智の魔力と、尽きぬ資源。その二つがあればな」

「はい。陛下のおっしゃる通りにございます」

 ベルドルフが再び深く頭を下げる。


 それを見下ろしながら、グラリオスは満足げに頷いた。

 しばしの静寂が、謁見の間を支配した。

 重苦しい空気の中、不意にグラリオスが口を開く。


「ならば――そろそろ継命戴冠の儀を行うか」

 ぽつり、と。


 あまりにも何気なく落とされたその一言に、ベルドルフの喉がひくりと鳴った。

 玉座の間は静かだった。


 高窓から差し込む夕陽が赤く磨かれた床を染め、重厚な緋色の絨毯の上に長い影を落としている。燭台の炎が揺れ、溶けた蝋の匂いが微かに鼻を刺した。


 継命戴冠の儀。

 次代の皇帝を定める儀式。


 その言葉だけで十分だった。

 世界征服という狂気じみた覇業が現実となりつつある今、なぜ。


 なぜ、このタイミングで。

 胸の奥を掠めた疑問は、しかし口の中まで上がってこない。


「私も老いた」

 玉座にもたれたグラリオスが呟く。


 その声音は穏やかだった。

 穏やかすぎて、不気味なほどに。

 皇帝は肘掛けに頬杖をつき、黄金の瞳を細めた。


「これからは若い者に任せたほうがよいだろう。……ベルドルフ、お前はどう思う?」

 心臓が跳ねた。


 不意に胸倉を掴まれたような感覚。

 ベルドルフは一瞬だけ呼吸を忘れた。


 皇太子。

 唯一の後継者。


 三人目の妃がようやく産んだ皇子。

 だが――。


 脳裏に浮かぶ青年の姿に、奥歯がわずかに噛み締められる。

 優秀ではある。


 愚かでもない。

 だが足りない。

 圧倒的に。


 グラリオスが持つあの底知れぬ覇気も、人を震え上がらせる狂気もない。

 世界を己のものにしようなどと本気で考え、そのまま実行してしまう怪物の器。


 そんなものは微塵も持ち合わせていない。


 海の向こうに広がる未知の大陸。

 異国。

 諸王国。


 すべてを踏み潰し、一つの帝国の旗の下に跪かせる。

 そんな途方もない野望を、本当に背負えるのか。


 それよりも……

 ベルドルフの指先がわずかに動く。


 皇太子が即位する。

 それはつまり、アンディーナが皇妃になるということだった。


 先日……侯爵家を継いだ兄の養女となったベルドルフのたった一人の娘。

 まだ十六。


 幼い頃から厳しく教育した。

 礼儀も、政治も、帝王学もそつがないように。


 凡庸な皇太子を支えられるように。

 そして……皇妃として恥じぬように。


 泣きながら机に向かった夜もあった。

 震える手で難解な書物を読み続けた日もあった。


 その姿を思い出す。

 すると胸の奥が妙に重くなった。


 本当に大丈夫なのか。

 いや、それを口にすることなど許されない。

 この男の前では絶対に。


「――はっ。おっしゃる通りにございます」

 頭を垂れる。


 だが声が僅かに遅れた。

 自分でもわかるほどだった。


 背中を冷たい汗が伝う。

 衣の下がじっとりと湿る。


 失態だった。

 不敬と取られてもおかしくない。


 玉座の上の男が沈黙する。

 たった数秒。


 それだけで永遠のように長かった。

 やがて。


「ふっ」

 低い笑い声が響く。


 グラリオスは面白そうに口元を歪めた。

 獲物を前にした獣のような目だった。

 その黄金の瞳だけは、老いなど欠片も感じさせなかった。



「そうか。ならば、儀式の準備を進めよ。大聖女にもそのことを伝えるのだ」

「御意」

 皇帝の命令に、逆らうことはできない。


 たとえ、その先にどれほどの不安が待っていようとも。

 ベルドルフは溜息を堪えながら、謁見の間を後にした。



 それから間もなくして、ベルドルフはヴァルドレインを呼びつけた。

「大聖女様へお伝えしろ。陛下が“継命戴冠の儀”を執り行われる」

 命を受けたヴァルドレインは、思わず目を見張る。


「……この時期に、ですか」

 驚きは隠せなかった。


 彼もまた、世界征服へ向けた計画が進むこの状況で、なぜ今になって継命戴冠の儀を行うのか理解できなかったのだ。


 だが、皇帝の言葉は絶対である。

 そこに疑問を挟む余地など存在しない。


「余計な詮索はするな。ただ伝えればよい」

「……はっ」

 短く頭を下げながらも、ヴァルドレインの表情はわずかに曇っていた。


 教会。

 そして、大聖女。


 魔導院の頂点に立つベルドルフでさえ、あの場所とは必要以上に関わろうとはしない。

 そのためか、いつも連絡役はヴァルドレインに任されていた。


 それほどまでに、教会は異質だった。

 ヴァルドレインは気の重さを覚えながら、皇城の隣にそびえる大聖堂へと向かうのだった。

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