第85話 理玖は大聖女の名を知る
「仕方ないだろ? あの時は、レイラを盾に脅されていたんだ。……結局、彼女を救うことはできなかったけど」
皆の視線が痛いほど突き刺さり、俺は耐えきれずに言い訳めいた言葉を口にしていた。
「レイラ……?」
メイファが、確かめるようにその名を繰り返す。
「帝国で俺が囚われていた時、いつも癒しに来てくれた聖女だ」
「聖女……」
メイファは小さく呟き、何かを考え込むように目を伏せた。
「……何か言いたいことがあるのか?」
重く落ちた沈黙に耐えきれず、俺は問いかける。
「ふむ、リック……いや、リク。お主は今の大聖女の名を知っておるか?」
「いや」
短く答える。
「でも、俺が帝国から逃げる前は、確かセーラって名前だったはずだ。まあ、百年も前の話だ。今は代替わりしているだろうが」
「そうか。妾が帝国を探っていて分かったのじゃが、今の大聖女の名は、“レイラ”というそうじゃ」
「レイラ……?」
思わず声が強張った。
「だから、なんだ? 俺が会ったあのレイラとは別人だろ? 同じ名の人間などいくらでもいる」
偶然、今の大聖女が彼女と同じ名だった――きっと、それだけの話だ。
「さて、本当に同じなのは名だけじゃろうか」
メイファが意味ありげに目を細める。
「……どういう意味だ?」
「大聖女は、金色の髪に翡翠の瞳を持つという話じゃ」
金色の髪に翡翠の瞳……
その言葉を聞いた瞬間、脳裏にレイラの姿が鮮明によみがえった。
光を受けて揺れる金色の髪。
儚げに潤んだ黄緑色の瞳。
名前だけじゃない。
容姿まで似ているというのか?
……いや、だからといって金髪に翡翠の瞳だってそれなりにいる。
俺の知っているレイラのはずがない。
違う……絶対に。
だが、そう思えばそう思うほど、心の中が荒れ狂うようだ。
気づけば、拳を強く握りしめていた。
爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。それでも力は緩まず、痺れるような感覚が腕から全身へと広がっていく。
「リク、落ち着くのじゃ。魔力が暴走しかかっておる」
その言葉に、俺ははっと我に返った。
「そうだな。その大聖女が、俺の知っているレイラなのかまだわからない」
「リク殿。そのレイラという女性について、詳しく話してはもらえぬか。大聖女レイラに会ったことはないが、彼女の話は聞いたことがあるんだ」
そう口を開いたのはラザだった。
――そうだ。
ラザは、百年前、聖女だったレイラのことを知らない。
あの頃、帝国に囚われていた小人族の長老たちなら、きっと彼女のことを知っているだろう。
だが、これから本気で帝国と対抗するつもりなら、白狼族のラザとユラにも話しておくべきだな。
「あの頃……帝国に囚われていた俺にとって、レイラと過ごす時間だけが、唯一心を休められるひとときだった……」
自然と声が低くなる。
皆の視線を感じながら、俺は静かに語り始めた。
レイラとの日々。
そして――彼女を失ってからのことを。
俺は、彼女の仇を討つため、必死になって帝国の情報を集め続けていた。
どれほど奔走しただろうか。
闇に紛れて街を歩き、噂を拾い、裏路地に潜り込み、ときには命の危険すら顧みず情報を追った。
そうして、やがて浮かび上がってきたのが――帝国皇室と光の教団の繋がりだった。
一見すれば、両者は協力関係にあるように見える。
だが実際には、力関係は皇室よりも教団の方が上だった。
光の教団は、単なる宗教組織ではない。
政界にまで深く食い込み、帝国そのものを裏から支配していたのだ。
なぜ、そこまで政治や皇室に影響を及ぼせるのか。
調べれば調べるほど、そこには人が容易に踏み込めないほど巨大な闇が広がっていた。
――光の教団。
その中心にいたのが、大聖女だ。
教団は彼女をまるで女神のように崇め、聖堂の最奥へと隠していた。
誰一人として、容易には近づけない。
異常なほどに、“大聖女”という存在だけが特別視されていた。
まるで、教団そのものが彼女を中心に回っているかのように。
そして、その守りはあまりにも堅牢だった。
最精鋭の聖騎士たち。
さらに、光の教団を束ねる大司教と司教たち。
幾重にも張り巡らされた護衛網によって、大聖女へ近づくことすら困難だった。
しかも当時の俺は、帝国に刻まれた奴隷紋を壊した代償で、魔力核を傷つけていた。
魔法を使うにも限界があり、まともに戦える状態ではなかった。
だからこそ理解した。
――今の俺では、大聖女に近づくことすらできない。
大聖女セーラ……
直接会ったことはない。
だが、黒髪に、晴れ渡った空を思わせる瞳をした女性だと聞いていた。
「なるほど。大聖女セーラ、か。容姿がまったく違うということは、今の大聖女とは別人というわけだな」
俺の話を聞き終えると、ラザが確認するように口を開いた。
「ふむ……。ということは、今の大聖女レイラは、そのセーラの後に就任した、ということじゃな」
ラザの言葉を引き継ぐように、メイファが静かに補足した。
「そうだろうな。だが、あれから百年も経っている。レイラの前にも、大聖女だった者がいるはずだ。……でなければ、今の大聖女はとんでもない年齢ってことになる」
「リク、妾たちが帝国と交易を始めて、もう五十年近くになる。じゃが、そのずっと前から大聖女は“レイラ”という名だったそうだぞ。きっと、セーラの次の大聖女がレイラじゃろう」
メイファは腕を組みながら俺の言葉を否定する。
「しかも、大聖女はいくら年を重ねても若く美しいという話じゃ。女神アーシェラの恩寵のおかげだと帝国では思われてるらしいが、妾からしてみれば、我らエルフの血脈を受け継いでおると言われた方がしっくりくるな」
俺は返す言葉を失った。
いつまでも若く美しい……?
女神アーシェラの恩寵……?
帝国民はそれを誰も不審に思わないのか……?
まあ、だとしてもその大聖女が、俺の知っているレイラとは限らない。
そうだ。
そんなはずがない。
だってレイラは――死んだと聞かされたのだから。
「のう、リック。その其方の知るレイラという聖女、本当に死んだのじゃろうか」
メイファが、とんでもないことを口にした。
……死んでいない?
あの日、レイラの死を知らせたあの幼い聖女が、俺に嘘をついたとでもいうのか?
じゃあ、最後にもらったあの遺言のような手紙は……?
頭の中で思考が激しく渦を巻く。
もし生きていたのなら?
なぜ姿を消した?
なぜ、俺の前に現れなかった?
次々と浮かぶ疑問が、胸の内をかき乱していく。
「きっと、大聖女レイラは俺の知っているレイラとは別人だ。……そうでなければ、おかしい」
縋るように言い聞かせながら、俺はメイファの言葉を強く否定したのだった。




