第82話 エルフ族の女王
「長老殿、イオリ殿。こちらがエルフ族の方々です」
ラザが静かに振り返り、背後に控えていた者たちを示した。
彼らは皆、痛々しいほど傷だらけだった。
薄汚れた衣服には長旅の過酷さが刻まれ、肌には裂傷や擦り傷が生々しく残っている。
不安げに揺れる瞳には、深い疲労と拭いきれない憂いが滲んでいた。
――まるで、理玖と共にこの世界へ紛れ込んだばかりの頃の私たちを見ているようだった。
それでも彼らの瞳はまだ光を失っていないように見えた。
歯を食いしばり、懸命に自分たちの誇りを守っているという目だった。
「人間……?」
長身の男性エルフが、私を見た瞬間に警戒を露わにした。
低く押し殺した声はまるで私を糾弾しているようで、体が強張った。
その声を合図にしたように、他のエルフたちの視線も一斉に突き刺さる。
鋭く、疑うような眼差し。
警戒している……?
違う……彼らの目には憎しみが含まれているんだ。
人間に故郷を追われたのだと長老は言っていた。
そう思えば当然だ。
私だって逆の立場なら、同じような態度をとる。
喉がひりつく。
まるで針のむしろに立たされているみたいで、すぐにでもここから逃げ出したい。
けれど――。
一番前に立っていた少女だけは違った。
まんまるに目を見開き、ただじっと私を見つめている。
どうしてだろう。
彼女の目は、何かを確かめているみたいに見える。
ここで下手な言葉をかけることなんてできない。
「大丈夫」なんて無責任なことなんて言えない。
それはとても無難な言葉だけど、とても軽い言葉にも思える。
きっと彼らは私の姿を見るだけでも、身構えてしまうのだろう。
私はただ、体を硬直したまま俯くことしかできなかった。
「母さん!」
そのとき、私の耳に届いたのは理玖の声だった。
理玖が駆け寄ってきて、そのまま勢いよく私に抱きつく。
不安を感じたのかも知れない。
私はそっとその身体を抱きしめた。
「母さん……?」
エルフの少女が、信じられないものを見るように小さく呟く。
「……ああ、なるほど、失礼した。あなたはリク殿のお母上でしたか」
長身のエルフの声から、わずかに警戒が和らいだ気がした。
「あ、はい……そうです。イオリといいます」
私は戸惑いがちに答えた。
中性的で美しいエルフの男性に微笑まれると、心なしかドキマギしてしまう。
「私はエルフ族のガラン。そして――こちらが、我らエルフ族を統べる女王、メイファ様です」
長身のエルフが一歩前へ出ると、その隣にいた少女を静かに紹介した。
――女王。
私は思わず息を呑む。
紹介された少女は、あまりにも幼かった。
華奢な体に、張り詰めた表情。
その瞳には、疲労と焦燥が色濃く滲んでいる。
こんな小さな子が、一族を背負っているの……?
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
視線を巡らせれば、幼い子どもを抱きしめるエルフの女性や、疲れ切った顔で立ち尽くす男たちの姿が見える。
――人間の犠牲者。
先ほど長老が口にした言葉が、重く胸に沈んだ。
どうして、人はこんなことをしてしまうのだろう。
どうして、自分たちと違うというだけで、他種族を傷つけられるのだろう。
ふと、日本にいた頃の記憶がよみがえる。
戦争や内戦のニュースが流れるたび、胸が苦しくなった。
そして、いつだって最も傷つくのは、力を持たない子どもやお年寄り、そして女性たちだった。
――この世界でも、同じことが繰り返されている。
その現実に、怒りよりも先に、深い悲しみが胸いっぱいに広がっていった。
「ガラン、そして、メイファ殿。久しいですなぁ。この度は……何と申し上げていいやら……ですが、今度はわしらがあなたたちに尽くす番ですぞ。ずいぶんお疲れのご様子ですな。まずは、ゆっくり体を休めなされ」
長老は穏やかな声でそう告げると、続けて申し訳なさそうに眉を下げた。
「とはいえ、立派な建物を用意できるわけではありませんでな。まずは魔導機工房を休息場所としてお使いくだされ。今、仲間たちが場を整えているでしょうから」
「長老殿、温かいお言葉、痛み入ります。あなた様もご健勝そうで何よりです。では、遠慮なく休ませていただきます」
ガランさんが深く頭を下げる。
「長老殿……恩に着る。妾の民を受け入れてくれたこと、心より感謝する」
続いて、メイファちゃんも小さな体を折り、静かに礼を示した。
その姿は気丈で――けれど同時に、今にも崩れてしまいそうなほど痛々しく見えた。
「遠慮は無用ですぞ。必要なものがあれば何でも言ってくだされ。かつてあなたたちがわしらを受け入れてくれたこと、忘れてはおりませんからな」
長老の言葉にエルフ族のみんなの顔に安堵の色が広がったようだった。
でも、みんな傷だらけだ。
特に気になったのは、メイファちゃんの腕に巻かれた布だった。
白い布地には赤黒い血が滲み、痛々しく色を変えている。
足元も擦り傷だらけだ。
他のエルフたちも似たような状態だったが、幼い子どもが傷ついている姿は、どうしても見過ごせなかった。
「あの……」
気づけば、私は一歩前へ踏み出していた。
すると、メイファちゃんは小さな体でこちらへ向き直る。
「……リクのお母上――イオリといったか、其方、清浄な魔力を持っておるな」
深い森を思わせる瞳が、まっすぐ私を見据えた。
「先ほどから、ずっと妾を見ておった。何か言いたいことがあるのじゃろう?」
何度も視線がぶつかっていたことに気づいていたのだろう。
私は胸の前でぎゅっと手を握りしめ、それから意を決してリュックへ手を伸ばした。
「えっと、これ……よかったら、使ってください。他のエルフのみなさんにも……」
取り出したのは、アロウ軟膏だった。
私はそれを、そっとメイファちゃんへ差し出す。
「……これは?」
「あの、腕の傷に塗っていただければきっとよくなると思います」
「傷に……?」
メイファちゃんは小さく呟きながら、瓶を受け取った。
そして、隣のガランさんへ視線を向ける。
「ガラン、これを妾の腕に塗るのじゃ」
「本当にこれを使ってよろしいのですか?」
ガランさんの表情には、警戒が滲んでいた。
「構わぬ。先ほどから感じておったが、彼女の魔力に害意はない。それに癒しの気配を帯びておる。腕の布を外すのじゃ」
「ですが、念の為……まずは私の足の傷で試した方が――」
「ならぬ」
ぴしゃりと、メイファちゃんが言い切った。
「せっかく彼女が差し出してくれた薬じゃ。疑うような真似はできぬ。女王である妾が率先して使わねば、妾たちを受け入れてくれた者たちの信頼を踏みにじることになる」
その言葉に、ガランさんがはっと息を呑む。
幼い姿に似つかわしくない言葉。
それは、彼女は見た目だけの幼い少女ではないのだと示していた。
メイファちゃんは視線をそらさず、鋭い視線をガランさんに向けている。
やがてガランさんは静かに頷き、メイファちゃんの腕に巻かれていた布を慎重に解いた。
露わになった傷口は、思わず目を逸らしたくなるほど深かった。
ガランさんが軟膏を指先に取り、そっと塗り広げる。
――次の瞬間。
「……っ!?」
ガランさんの瞳が見開かれ、メイファちゃんも何も言わずに自分の腕を凝視していた。
裂けていた傷が、みるみる塞がっていく。
まるで時間が巻き戻るかのように、再生していく皮膚。
数秒後には、深く裂けていた傷は跡形もなく消えていた。
その光景を見た瞬間、メイファちゃんだけでなく、ガランさんや周囲のエルフたちまでもが、一斉に目を見開いたのだった。




