第79話 理玖は白狼族と連携する
結界を越え、森の奥へと踏み入れる。
白狼族は一斉に獣化し、しなやかな白い影となって木々の間を駆け抜ける。枝を避け、根を飛び越え、まるで風そのもののように進んでいく。
フェイはというと、獣化したラザの背に乗せられていた。まだ四歳のあいつは、自分では獣化できないらしい。できるようになるのは五歳を過ぎてからだと聞いた。
五歳を過ぎてその力が目覚めれば、いつでも自由自在に獣化できるようになるらしい。
もっとも、狩りの時以外はほとんど人の姿で過ごしているようだが。
――そして。
なぜか俺も、ユラの背に乗せられている。
納得がいかない。
魔法を使えば、この程度の速度には十分ついていける。そう説明したはずなのに、聞き入れてもらえなかった。
「お前はまだ身体が小さいからな」
その一言で片付けられた。
いくら俺の見た目が三歳だからといって……過保護すぎるだろ。
ユラの背は安定していて、振り落とされる心配はない。むしろ、景色が流れるように後ろへ消えていくこの感覚は、悪くないとすら思う。
だが――
自分の足で進めるのに、それを許されないもどかしさが胸に残る。
風を切りながら、俺は小さく息を吐いた。
森の奥へ進むにつれ、気配が変わっていく。
本来なら、このあたりは魔獣の縄張りだ。だが――白狼族の存在を察しているのか、気配はあっても姿は見えない。どれも警戒して、距離を取っている。
やがてラザたちが普段狩り場にしている場所へと辿り着くと、彼らは一斉に獣化を解いた。
「いいか。ここからは我らの気配を消す。魔獣を誘き寄せる役はお前たちだ。フェイ、できるか?」
「もちろんさ。ちゃんと練習したからな」
ラザの問いに、フェイは胸を張って答える。
まだ獣化はできないが、最近は風魔法を扱えるようになったらしい。その成長もあって、今回の狩りに連れてこられたのだろう。
ラザは満足げに頷くと、視線をこちらへ向けた。
「リク殿は?」
「ああ、問題ない」
短く答える。
正直に言えば、この森の魔獣程度なら、どれだけ強かろうと俺ひとりでどうにでもなる。
だが――今回の目的はそれじゃない。
白狼族と連携を取ること。
いざというとき、呼吸を合わせて動けるようにするための“慣らし”だ。
静かに息を整え、周囲の気配を探る。
森が、わずかに息を潜めた。
俺とフェイを残し、他の白狼族は音もなく木陰へと散っていく。
――囮。
役割は単純だ。気配を完全には隠さず、あえて魔獣を誘き寄せる。
「リク、心配するな。俺がついてるさ」
フェイが胸を張る。どこか得意げなその様子に、思わず小さく息をつく。
「ああ、期待してる」
軽く返すが、もちろん本気で頼るつもりはない。魔法を覚えたばかりのフェイより、戦力としては俺の方が上だ。
――そのときだった。
背後の茂みから、肌を刺すような気配が走る。
空気が変わった。
魔獣――しかも、かなり強い。
いきなり大物を引き寄せたらしい。運がいいのか悪いのか。
ざざ……と、低く草を擦る音が近づく。
俺は無意識に腰を落とし、意識を一点へと研ぎ澄ませた。
次の瞬間。
木々の隙間を押し分けるようにして、それは姿を現した。
巨大な赤い熊。
血を浴びたような濃紅の毛並みを持つ魔獣――レッドベア。
その巨体が一歩踏み出すたび、地面が鈍く震える。
「ぐぉぉぉぉっ!!」
腹の底まで響く咆哮が森を揺らした。
「任せて!」
フェイが前へ飛び出し、風の刃を放つ。
鋭い一閃が一直線にレッドベアへ走った。
だが――。
レッドベアは全身の毛を逆立て、その一撃を真正面から受け止め、弾き散らした。
「くそっ、もう一度――」
「待て、フェイ!」
制止の声と同時に、レッドベアの体毛が逆立ち、爆ぜるように膨れ上がる。
次の瞬間、無数の硬質化した体毛が赤い針となり、空気を裂いて襲いかかってきた。
視界が赤で埋めつくされる。
――まずい。
反射的に防御魔法を展開する。
透明な障壁に赤い針が次々と叩きつけられ、鈍い音を立てて弾かれた。
衝撃の余波で、フェイが体勢を崩し、その場に尻餅をつく。
「リクっ、今、何した!?」
「防御魔法だ。フェイ、下がってろ。こいつは俺が倒す」
「リクには無理だ!」
「いいから黙って見てろっ!」
叫ぶと同時に、俺は右腕を掲げる。
脳内で魔法式を高速で組み上げながら、静かに呼吸を整えた。
「……っ」
その瞬間だった。
背後から、肌を焼くような凄まじい魔力の奔流を感じる。
反射的に振り返ると、木々を押し退けるようにして、もう一匹のレッドベアが姿を現した。
しかも、でかい。
最初の個体より、さらに一回りは大きな巨体だった。
地面を踏みしめるたび、重たい振動が足元を揺らす。
「やれるか……」
フェイに防御魔法を維持したまま、俺は次の攻撃魔法の構築に入る。
だが――。
「こっちは我らに任せろ」
低く響く声とともに、木陰から獣化したラザたちが現れた。
緑の森に白い毛皮を纏った最強の獣たちが音もなく散っていく。
「父ちゃん、俺もまだやれる!」
フェイがすぐに立ち上がり、悔しそうに叫ぶ。
だが、巨大な白い狼――ラザは厳しい顔で首を振った。
「だめだ。あの針には毒がある。無理をするな。そっちはリク殿に任せろ」
「どうして……っ」
フェイは唇を強く噛み締める。
その悔しさが痛いほど伝わってきた。
だが次の瞬間、白狼たちが一斉に動いた。
見事な連携だった。
互いの動きを完全に把握している。
無駄のない足運びで一気に間合いを詰め、死角へ回り込み、わずかな隙を逃さず牙と風の刃を叩き込む。
わずかな攻防の末、巨大なレッドベアが地面へ崩れ落ちていた。
速い。
しかも、正確だ。
その間にも、俺はフェイの前にいるレッドベアへ魔法を展開していた。
手のひらの上に拳大の火の玉を顕現させる。
「リク、炎は森に広がるぞ!」
フェイの焦った声が飛ぶ。
「問題ない」
答えると同時に、俺は火の球を放った。
灼熱の火球が一直線にレッドベアへ突き進む。
同時に、その周囲へ防御膜を展開した。
轟、と炎が爆ぜる。
だが火は外へ漏れない。
防御膜の内側だけが灼熱の牢獄へと変わり、レッドベアの巨体を容赦なく焼き尽くしていく。
「グォォォォォッ――!!」
断末魔が森に響き、やがて巨体が地面へ沈んだ。
炎が消える。
森に再び静寂が戻った。
「見事だな。異なる魔法を同時展開するとは」
ラザが感嘆混じりに声を漏らす。
だが、体が重い。
魔力量が足りない。
「まだまだだな……」
俺は軽く息を吐きながら、焼け跡へ視線を向けた。
「リク殿。こちらの処理も頼む」
ラザは、自分たちが仕留めたレッドベアへ視線を向けながら言った。
レッドベアは食用には向かない。
肉には強い毒素が残っており、放置すれば、その臭いに釣られて別の獣まで呼び寄せてしまう。
だから、穴を掘って燃やし、完全に処理する必要がある。
もう息絶えているなら、燃やすのに大した魔力は要らない。
ラザが風魔法で作った竜巻で地面を抉るように穴を掘り、同じく風魔法でレッドベアの巨体を浮かせて投げ入れる。
俺は掌に小さな炎を灯し、それを静かに放った。
やがて赤黒い炎が立ち上り、巨体を呑み込んでいく。
その熱を背に受けながら、俺たちは再び森の奥へと足を踏み入れた。
枝をかき分け、湿った土を踏み締め、道なき道を進んでいく。
森は静かだった。
だが、その静けさの奥に、何か得体の知れない気配が潜んでいる。
ふいに、空気が変わる。
ぴたりと風が止まり、森の匂いが薄れた。
代わりに流れ込んできたのは、これまでとはまるで違う、澄みきった気配。
「……?」
胸の奥がざわつく。
知っている。
以前、どこかで感じたことがある。
そんな感覚が脳裏をかすめた。
俺はゆっくりと視線を向ける。
そして――言葉を失った。
息を呑んだのは、俺だけじゃない。
周囲の白狼族たちも同じだった。
その視線の先。
木漏れ日の差し込む森の奥で、彼らもまたこちらに気づき、目を見開いていた。
互いに動けないまま、静寂だけが流れる。
そこにいたのは――。
忘れるはずのない、澄んだ魔力を感じる懐かしい顔だった。




