第78話 自分にできること
最近、理玖の“親離れ”が急に進んできた気がする。
今日もまた、結界の外へ出ていった。
白狼族が護衛につくとはいえ――まだ三歳だ。ラザさんの言葉を疑うつもりはないけれど、それでも胸の奥に残る不安は消えない。
そんな私に理玖が口にしたのが、“風の便り”だった。
外にいる間も、それで無事を知らせるから――。
そう言って、あの子は何でもないことのように微笑んだ。
風の精霊の加護を持つ小人族の魔法を?
どうして理玖が?
いつの間に、そんな魔法まで使えるようになったの?
驚きと戸惑いがそのまま顔に出ていたのだろう。
理玖は少し得意げに胸を張ると、「叡智の魔力を持つ者は、魔法への理解がすごいんだ」と、子どもらしい拙い言葉で難しいことを言い張った。
その瞬間、胸の奥にひとつの仮説が浮かび上がる。
――もしかして。
先代賢者も、それを使っていたのではないか。
そして理玖は、その“存在”と接触しているのではないか――と。
あり得ないと、すぐに否定するべき考え。
それでも、この世界なら、とどこかで思ってしまう自分がいる。
もし、先代賢者が理玖に魔法を教えているのだとしたら。
そして、そのことを口止めしているのだとしたら――。
不思議なほど、これまでの違和感が繋がってしまう。
結界を操ったこと。
大人びた言葉遣い。
あの、何かを知っているような眼差し。
……そう考えると、理玖はただフェイと遊びに行っているわけではないのかもしれない。
一緒に、何かを学んでいる。
誰かに導かれるようにして。
理玖は理玖なりに、この世界で生きる術を身につけようとしているのだろう。
あの日、私が魔獣に襲われかけた――あの出来事をきっかけに。
自分が守る側になるために、強くなろうとしている。
先代賢者の教えを受けて――。
そんな想像が、次から次へと頭の中を駆け巡る。
馬鹿げているはずなのに、どうしても振り払えない。
私は、静かに息を吐いた。
――ねえ、理玖。
あなたはいったい、どこまで行こうとしているの。
――それでも。
私にできることは、限られている。
理玖が何も語らないのなら、無理に踏み込むべきではない。
あの子が、自分の言葉で話してくれる日を待つしかないのだ。
そう思うのに、心が揺れる。
胸の奥の不安が、理玖に問いかけろと訴えてくる。
でも、そんなことをしたらきっと理玖はもっと心を閉ざすかもしれない。
それに、何らかの制約があるのかもしれない。
今はだめだ。
これ以上、理玖との距離を広げないためにも――今は見守るしかない。
静かにそう心に刻み、出かける支度を整える。
外へ出ると、やわらかな風が頬を撫で、髪をふわりと揺らした。
葉擦れの音がさやさやと響き、どこかで鳥が軽やかにさえずっている。
見上げれば、重なり合う枝の隙間から陽光がこぼれ落ち、足元にまだらな光の模様を描いていた。
――少しだけ、気持ちが軽くなる。
今日は、小人たちに肉料理を教える予定だ。
白狼族は狩りのたびに、私たちにも分け前を持ってきてくれる。けれど、この村の料理はまだ素朴なものが多い。魚でさえ、基本は塩焼きが中心だ。
だからこそ――今の私にできること。
それは、少しだけ“工夫”を伝えること。
同じ食材でも、調理の仕方ひとつで味も楽しみも変わる。
食卓が豊かになれば、きっと日々の暮らしも少し明るくなるはずだ。
そんな小さな願いを胸に、私は食品工房へと歩き出した。
食品工房に着くと、そこには小人族の女性たちだけでなく、白狼族の女性たちの姿もあった。
「あ、イオリ様。せっかくなので白狼族の皆さんにも声をかけたんですが……ここだと少し手狭でして。村の広場でお願いしてもよろしいでしょうか?」
顔を合わせるなり、アロアさんが少し困ったように言う。
「ごめんなさい。お声がけいただいて、つい皆で来てしまって……」
シャーレさんも申し訳なさそうに頭を下げ、周りの女性たちも同じように肩をすくめた。
「ああ、いいのよ、気にしないで」
アロアさんが苦笑混じりに言った。
「私のほうこそ考えが足りなかったわ」
確かに、この工房は小人族の体格に合わせて作られている。白狼族の女性たちには、少し窮屈どころではないだろう。
「これはもう、ラフに頼んで大きな建物を建ててもらうしかないわね」
腕を組みながらアロアさんが頷く。
その言葉に、周囲から小さな笑いが広がった。
場所を村の広場へ移し、準備が始まる。
運び出されたテーブルと椅子、並べられる食材。大きな桶に水を汲み、火の準備も整えていく。
やがて一通りの支度が整い、自然と視線がこちらへ集まった。
私は軽く息を整え、皆の顔を見渡す。
――よし。
「今日は、“ベーコンもどき”を伝授します」
そう告げた瞬間、きれいに声が揃った。
「「「ベーコンもどき?」」」
案の定、みんなが不思議そうに首を傾げる。その中で、ひときわ弾んだ声が上がった。
「ああ、昨日いただいた、あのお肉ね」
シャーレさんだ。
自然と視線が彼女に集まる。注目されていることに気づいたシャーレさんは、ふわりと微笑んだ。
「とっても美味しいのよ」
その一言で、場の空気が変わる。今度は、期待のこもった視線が一斉に私へと向けられた。
……うん、これはちょっと、ハードルが上がったかも。
「えっと……でも、本当に簡単なのよ。お肉を塩漬けにして、焼くだけというか……」
自分でも少し頼りない説明だと思いながら、軽く咳払いをひとつ。
「まあ、とにかく始めましょう」
小さな期待の気配が、じわりと背中に触れてくる。それを感じながら、私はゆっくりと手順を説明し始めた。
女性がこれだけ集まれば、話に花が咲く。
お肉を寝かせている間、お茶をしながら子供のことや夫の不満が飛び交う。
「だからさぁ、ラフってば余計なことをシュシュに教えるのよ。『お前は俺に似てるから努力しなくても何でもできるぞ』なんてさぁ」
「あらぁ、ラザもそうよ。フェイに『お前は俺に似て強いはずだ』なんて言うのよ」
アロアさんとシャーレさんはとても気が合うようだ。
「褒めすぎても調子に乗っちゃうじゃない」
「そうそう、この間なんてフェイが夜に結界の外に出ようとして、絶対に調子に乗っているわ。魔獣に襲われたばかりだって言うのに。今もラザが変なことを吹き込んでないかと心配だわ」
シャーレさんが溜息混じりに言った。
「ふふふっ、父親ってどこか無責任なところがあるからね」
私の発言にみんなが口をそろえて言う。
「「そうなのよ!」」
異世界でも、女性の話題はそれほど変わらないことに笑みがこぼれた。
「さあ、そろそろ味が馴染んだ頃かしらね」
私の言葉にみんなの顔に期待の色が見えた。
食品工房から持ち出したコンロに火を点けてフライパンの上にベーコンを並べていく。
じゅうじゅうとお肉が焼ける音と共に香ばしい匂いが広場に広がる。
青空の下、こんがり焼けたベーコンを前にしてみんながごくりと唾を飲み込んだ。
「すごく、美味しいわ」
一口かじったアロアさんが、感嘆の声をあげる。
「でしょう?」
シャーレさんは得意そうに言う。
それを見ていた他の女性たちが食べ始めると、以前、私が料理を教えた時のように絶賛する声が広場に響いた。
そのとき、ふいに風に乗って理玖の声が届いた。
『母さん、今から帰るよ。俺は無事だ。……それと、友達ができたんだ。一緒に連れていく』
「友達……?」
思わず、首を傾げる。
こんな森に、誰がいるっていうの……?
まさか……人……じゃないわよね。
人が住むのはあの山脈を越えた向こうだって小人たちは言っていた。
この場所からも見える。
私はその山脈の方に目を向ける。
高く聳える山脈は、頂上付近が白い雪で覆われている。
簡単に越えられない……長老はそう言っていたはずだ。
けれど、胸の奥に小さな不安が芽を出す。
――もし、越えられたのだとしたら。理玖が賢者だと知られたら。
帝国に目に留まれば、連れて行かれてしまうかもしれない。
ふと、かつて帝国が先代賢者を無理に働かせていたという話が脳裏をよぎる。
その記憶に触れた途端、鼓動が早まり、胸が締めつけられるような不安に襲われた。




