第77話 理玖は結界の外へ足を踏み出す
寝室から階下に降りると香ばしい匂いとともに母さんの明るい声が飛んできた。
「あ、理玖、おはよう――じゃなかった、遅よう。ご飯、すぐ食べる?」
俺の返事も聞かずにテーブルの上に食事を並べていく母さん。
遅ようとはなんだろう。俺が起きたのが遅かったから、か。
そういえば、母さんは昔からこんなお茶目なところがあったのを思い出した。
――「早起きは三文の徳、遅起きは……何徳だったかしらね」
寝坊した俺にそう言って、母さんはわざとらしく首をかしげてみせた。
「徳なんてないだろ」
「あるわよ。ほら、私に朝ごはん作ってもらえる特別待遇」
得意げに胸を張るものだから、思わず吹き出したのを覚えている。
けれど――十二で母さんを失って、そして――この世界に来てから、どんなに母さんの味が恋しかっただろう。
当たり前のことが当たり前のことじゃなかったと気づくのはいつだって失ってからなんだ。
「……理玖?」
呼ばれて、はっとする。
現実へ引き戻されると、目の前には今の母さんがいる。
不思議そうに、こちらを覗き込んでいた。
同じように笑っているはずなのに。
胸の奥だけが――静かに、軋んだ。
「理玖、最近、よく寝るわねぇ。育ち盛りだからかしら」
椅子に座る俺に、母さんは軽い調子で話しかける。
もちろん、眠っている時間が増えたわけじゃない。母さんが寝たあと、外で魔法の訓練をしているせいだ。
大人だった俺は、夜更かしをしてもここまで寝過ごすことはなかった。けれど――この身体は違う。三歳児の体は、容赦なく眠気を訴えてくる。抗えず、気づけば昼近くまで眠ってしまう日も増えていた。
ふと視線を上げると、ソファ前のローテーブルに、乾燥したリュミナの花が山のように積まれているのが目に入る。
そういえば――もうすぐその花の季節が終わるから、と母さんがせっせと乾かし、砕いていたのを思い出した。作り置きして村に配り、残りは貯蔵庫へ回すつもりらしい。
「理玖、どうぞ」
「パン……?」
皿の上にはバターロールのような丸いパンが二つほど乗せられていた。
「そう、シャーレさんにいただいたの。なんと、このパン、小海から採れるんですって。信じられないわよね」
そう言って、母さんは肩を小さくすくめた。
その言葉に、かつて短い間だけ滞在していた白狼族の村でのことを思い出す。
そうだ――あの時も、同じパンを食べたことがあった。
それぞれの家の前には、小さくて白い丸いものがたくさん干されていて――何だろうと思って尋ねたら、採ってきたばかりのパンの実を見せられたんだった。
それは、白い半透明のブヨブヨしたもので、それを乾燥して焼くとふわふわのパンになるなんて、あの時はにわかには信じられなかったっけ……
俺は、昔を思い出しながらそのパンにぱくりとかぶりついた。バターの香りが鼻を抜ける。
自然に頬が緩んでしまう。
海から採れるというのに、潮の香りがしないのは今でも不思議に思う。
そんな俺の顔を見て満足そうに頷いた母さんは、「じゃーん」と声を弾ませながら、次の皿を差し出す。
その皿の上には目玉焼きと、こんがりと焼かれた肉が二枚並んでいた。
「母さん、これ……」
「そう、ベーコン。まあ、正確にはベーコン“もどき”だけどね。試しに作ってみたの」
どこか誇らしげに笑う母さん。その顔は、俺の反応を待っている。
――なら、期待には応えてやらないとな。
そう思いながら一口かじる。
塩気の効いた肉の旨みが、じわりと口いっぱいに広がった。
日本で食べていたものとは少し違う。それでも、不思議と懐かしさが込み上げてくる。
朝、あの香ばしい匂いで目を覚ましていた日々――当たり前だった時間。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びた。
それをごまかすように、少し大袈裟に声を上げる。
「母さん、すごく美味しいよ」
すると母さんは、ほっとしたように目を細めて、柔らかく微笑んだ。
「よかったわ」
その微笑みは――かつての記憶と、寸分違わず重なった。前の生で、同じように食卓を囲んでいた頃の母さんの顔だ。
胸の奥が、不意にざわめく。
俺はなぜか耐えきれず、そっと視線を逸らした。
食事を終えた頃、部屋の天井が点滅し、訪問者を知らせた。
――フェイだ。
最近の俺は、白狼族とともに結界の外へ出ることが多い。
彼らは狩りや食材の採取を行っており、フェイもそれを学ぶためについて回っている。だから俺も同行することにした。
表向きは手伝いだが、本当の目的は別にある。
魔法の実戦訓練。自分の力で魔獣を狩り、その威力と精度を確かめるためだ。
当然、最初は母さんが強く反対した。
そりゃあ、そうだ。
中身はともかく、母さんからしてみれば俺はまだ三歳。
こんな小さな体で、獰猛な魔獣が跋扈する場所に行かせるなんて、正気の沙汰じゃない。
でも、俺は夜だけじゃなく昼間の森の様子を把握しておきたかった。
それに魔獣を狩りながら、彼らと呼吸を合わせる訓練をすることもできる。
だから、なんとかラザに母さんを説得してもらおうと協力を仰いだ。
そして、複数の仲間とともに同行すること、必ず俺を守ると約束したことで、ようやく許可が下りた。
それでも母さんは不安は拭えないらしい。
だから俺は、外に出ている間も“風の便り”で無事を知らせると伝えた。
その言葉に、母さんは目を丸くしていた。無理もない。本来それは小人族が扱う精霊魔法だ。
だが俺のそれは、似て非なるものだ。精霊の力ではなく、自分の魔力だけで風に音を乗せる術式――前の生で組み上げたものだ。
そんな経緯もあって、ようやく外へ出る許しを得たわけだが……
出かける直前になると、母さんは決まって、どこか心細げな顔をする。
本当なら言ってやりたい。白狼族よりも、俺の方がよほど強いのだと。もう守られる側じゃないのだと。
けれど――それは言えない。
もっと母さんに不安を抱かせてしまうだろうから。
それ以上に、自分が俺を置いて死んでしまったことに罪悪感を覚えてしまうだろうから。
今の次元ではそんなことは訪れないかもしれないというのに。
それでもきっと母さんは自分を責める。
そんな母さんの悲しい顔は見たくないんだ。
「……母さん、ごめん」
声には出さず、心の中だけで呟く。
そうして俺は、今日も白狼族とともに結界の外へ足を踏み出した。
だが――このとき、俺はまだ知らなかった。
この先で、思いがけない再会が待っていることを。




