第76話 自然の守護者エルフ族
人間と対等に渡り合える――そんな思い違いを、いつから抱くようになったのだろう。
森が育む貴重な資源を、疑いもなく彼らに差し出し、取引と呼び始めたのは、いったいいつからだったのか。
約百年。
人の世では歴史のページをいくつも繰る歳月だが、長命なるエルフ族にとっては、指の間から零れ落ちほどの短い歳月に過ぎない。だからこそ、その過ちもまた、つい昨日のことのように胸に刺さる。
「……真か。帝国が、軍を率いてこの国へ向かっているというのは」
低く澄んだ声が、静まり返った謁見の間に静かに落ちた。
幽玄の森の奥――グラセナ山脈を越えた先の麓に、深い森に抱かれるようにして、エルフ族の小国は存在している。
――アダの国。
外界から切り離されたその地は、長きにわたり静寂と均衡を守り続けてきた。
玉座に座しているのは、この国を統べる女王――メイファ。
淡く光を宿した銀緑の髪が肩を流れ、森の深淵を映したような神秘の瞳が、静かに正面を見据えていた。
その姿だけを見れば、人間なら十代前半の少女としか思わないだろう。
儚げで、触れれば消えてしまいそうなほどに美しい。
だが、その美貌から本当の年齢を測れる者はいない。
人間たちは囁く。
三百年か、あるいは五百年以上を生きているのではないか、と。
しかし実際の彼女は、まだ百二十を数えたばかりだった。
エルフとしては若く、統治者としても経験は浅い。
女王の座に就いて、まだ百年。
メイファが帝国との交易を始める決断を下したとき、退位したばかりの先代女王は静かに告げた。
――決して、人間を信じすぎるな。
それでも、交易を始めなければならない理由があった。
一つは、帝国の不穏な動きを探るため。
一つは、亜人たちへの冷遇を少しでも改めさせるため。
だが、その選択には常に危うさが付きまとっていた。
人間は、笑顔で手を差し伸べながら、その裏で利益を量る。
友好を口にしながら、都合が悪くなれば、ためらいなく牙を剥く。
先代女王は、それを誰よりも理解していたのだろう。
だからこそ、人間が交流を求めてきても、その穏やかな言葉の奥に潜む欲望や打算を決して見逃さなかった。
何十年、何百年ものあいだ、人間との深い関わりを避け続けてきたのだ。
だが、このまま静観していれば、帝国はいずれ亜人たちの住処にまで手を伸ばしていただろう。
この大陸だけではない。
やがて世界そのものを呑み込んでいたはずだ。
――その背後に潜む、得体の知れない“何者か”の手によって。
慎重に動かなければ、こちらの思惑を悟られる。
だからメイファは、この百年、帝国の裏で糸を引く存在を密かに探り続けていた。
そして、ようやく辿り着いたのだ。
光の教団。
その頂点に立つ大司教。
そして、大聖女。
彼らこそが、帝国に強い影響を与えている存在だと。
それなのに――。
「裏をかいているつもりが……逆に、裏をかかれておったということか」
透き通るようなメイファの声は、今は重く沈み、冷えた空気を這うように広間へ響いていく。
ぎり、と握り締められた拳。
その細い指先に宿る怒気が、周囲の魔力を微かに震わせた。
メイファは、虚空を睨む。
その眼差しは、もはや迷いではない。
迫り来る敵を迎え撃つ覚悟そのものだった。
エルフの寿命は個体ごとの差が大きい。
宿す魔力量にも、天と地ほどの開きがある。
だが、ただ一つだけ、すべてのエルフに平等に与えられた理があった。
――四大元素を操る資格。
王は血筋で決まらない。
誰よりも膨大な魔力をその身に宿した者こそが、王として森に選ばれる。
特に女性は、男性よりも強大な魔力を持って生まれることが多かった。
それが、力に優れた男たちへ対抗するため神が与えた加護なのか――その真実を知る者はいない。
そして、先代女王の娘であるメイファもまた、常軌を逸した魔力量を宿して生まれた存在だった。
「陛下……どうか、お逃げください」
侍従の声は震えていた。
それは進言ではない。
主だけでも生き延びてほしいと願う、悲鳴にも似た懇願だった。
だがメイファは、静かに目を細めるだけで答えない。
「戦力を前線へ集中せよ。幻覚魔法を展開し、敵の目を欺け。森そのものを牙とするのじゃ」
「……その間に、どうか――」
重ねられた言葉を、メイファは静かに遮った。
「ならぬ」
短い一言。
だが、その声音に揺らぎは一切なかった。
メイファは玉座から立ち上がる。
その動作は風のようにしなやかでありながら、同時に岩のような不動の意志を感じさせた。
「これは妾の責よ。忠告を受けながら、それでも人間へ歩み寄る道を選んだ」
銀緑の髪が、ふわりと揺れる。
「森を……民を守れなかった。その報いから逃げるなど、あってはならぬ」
そして次の瞬間、その瞳に燃え上がる憎悪が宿った。
「人間ども……よくも妾たちを謀ったな」
一歩、前へ踏み出す。
空気が軋む。
膨れ上がった魔力に呼応するように、広間の精霊たちがざわめいた。
「その報い――この森ごと、思い知らせてやろうぞ」
だが――その願いは、あまりにも無力だった。
帝国は、一切の躊躇なく牙を剥いた。
進軍してきたのは、魔導騎士団と帝国正規軍を合わせて五千。
対するアダの国は、民の数ですら数千に届かぬ小国に過ぎない。
それだけでも戦の趨勢は明らかだった。
にもかかわらず、帝国はさらに切り札を投入してきた。
――魔導兵器。
魔力に優れたエルフであろうと、多勢に抗う術などない。
まして敵が手にしていたのは、常軌を逸した代物だった。
魔力を増幅する装置。
そして、その対となる――魔力を根こそぎ奪い尽くす兵器。
かつて帝国に囚われ、“賢者”と呼ばれた男が生み出した禁忌の結晶。
それは戦場そのものを歪めた。
エルフたちの誇りである魔法は、放つほどに奪われ、自らを追い詰める枷へと変わっていく。
森は焼かれた。
精霊たちの歌は途絶え、同胞は次々と血に沈んでいく。
悲鳴と炎だけが、森に満ちていた。
やがて――アダの国に残された者は、百人にも満たなくなっていた。
その惨状を、メイファはもう見ていられなかった。
王としてではない。
ひとりのエルフとして、彼女は剣を取った。
そして、自ら前線へ立つ。
奔流のような魔力を解き放つ。
だが、その力は放たれた瞬間から喰われていった。
霧が吸い込まれるように、膨大な魔力が消えていく。
抗う術などない。
魔導兵器は、彼女の魔力そのものを容赦なく奪い取っていた。
「魔法は効かぬ! 剣を取れ! 決して怯むな!」
叫びとともに、メイファは最前線へ駆け出した。
彼女は魔法だけでなく、剣にも秀でていた。
だが、その身体はどう見ても十代前半の少女のものに過ぎない。
自分より遥かに大柄な人間たちの剣撃を、受け続けられるはずがなかった。
激突のたび、腕が痺れる。
骨が軋み、足元が揺らぐ。
それでも彼女は退かなかった。
「ふははははっ! この国はもはや我らのものだ!」
敵将の嘲笑が戦場に響き渡る。
「エルフどもよ、帝国にひざまずけ! 我らに逆らうことは許さぬ!」
「……たとえ死しても、人間にひざまずくことなどない!」
メイファは血を吐きながら叫び返す。
だが次の瞬間、重い斬撃が叩き込まれた。
一撃。
さらにもう一撃。
受け止め切れず、ついに膝が崩れ落ちる。
視界が暗く染まっていく。
それでも護衛たちは最後の力を振り絞った。
「陛下をお守りしろ!」
傷だらけの身体で女王を抱え上げ、戦場から離脱する。
それは敗走ですらなかった。
もはや――逃走だった。
森を捨て。
国を捨て。
ただ、生き延びるためだけに。
だが、その先にあるものは、あまりにも乏しい。
いかに思考を巡らせても、反撃の道筋は浮かばなかった。
沈黙が重く落ちる。
「……一月ほど前、山脈の向こうから、大きな魔力波を感じた者がいたはずだ」
口を開いたのは、側近のガラン。
メイファに次ぐ魔力量を持つ、寡黙な男だった。
「もしや、あれは“賢者様”のものではないか。ならば――助力を乞えるかもしれん。あのお方もまた、人間に裏切られた身だ」
かすかな希望。
だが、それはすぐに疑念に覆われる。
「……百年も前の話だ。人間が生きているはずがない」
「仮に存命でも、かなり老いているだろう。戦えるとは思えぬ」
次々と上がる否定の声。
それは誰もが胸の内で理解している、あまりにも現実的な指摘だった。
だが、メイファは静かに目を細める。
「では、いったいあの巨大な魔力波は何だったのか?」
ガランのその一言に、場が再び静まり返った。
「そうじゃな。リックはこの百年間、成りを潜めておった。何か思惑があったとしても不思議ではない。その魔力波は、もしかしてリックが仕掛けておった何らかの術なのかも知れぬな」
「陛下、では!」
縋るような声が上がる。
メイファはゆっくりとうなずいた。
「確証はない。じゃが……賭けてみるしかあるまい」
その言葉に、エルフたちは息を呑む。
「山脈を越えるぞ」
静かなはずの宣言は、妙に大きく周りに響いた。
――山脈を越える。
その先に希望がある保証など、どこにもない。
それでも、滅びを待つよりはましだった。
かくして、わずかに生き残ったエルフたちは、すべてを失い、わずかな希望を求めて未知の地へと歩み出した。
ガランに背負われたメイファは、炎に沈む母国を振り返った。
彼女は小さく体を震わせながら、その光景を決して忘れまいと目に焼き付けるのだった。




