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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第75話 パンの実

 桜祭りが終わってからというもの、ラザさんは時折、大きな肉の塊を抱えて家を訪ねてきてくれるようになった。

  煮込みにしても焼いても美味しく、料理の幅がぐっと広がり、魚や貝ばかりだった我が家の食卓も、肉が加わるだけで随分と華やかになった。


 今日も昼過ぎになると、ラザさんはフェイくんを連れてやって来た。

 その姿を見つけた瞬間、理玖の顔がぱっと輝く。


 最近の理玖は、白狼族のみんなと一緒に結界の外へ出かけるようになっていた。

 フェイくんが魔法の練習や狩りの訓練をしていると聞き、「自分も行きたい」とせがんだのだ。


 もちろん、最初は反対した。

 三歳の子どもを、あんな恐ろしい魔獣が跋扈する場所へ行かせるなんて考えられない。


 けれど、ラザさんが「必ず守る」と約束してくれたこと。

 そして理玖自身も、風の便りで無事を知らせると約束したことで、私は渋々ながら許すことにした。


 最初は、その“風の便り”を理玖が使えることにも驚いた。

 賢者の魔法というのは、きっとそういうものなのかもしれないけど……


 そんな私の心配などどこ吹く風で、理玖はフェイくんと一緒に、あっという間に外へ駆け出していく。

 その後ろ姿を見送りながら、私は苦笑を漏らした。


 ラザさんは私に肉を手渡すと、そのまま子どもたちを追いかけるように足早に去っていった。

 遠ざかっていく背中を見つめていると、自分だけがこの場に置き去りにされたような気がして、胸の奥を冷たい風が吹き抜けていく。


「理玖が元気なら、それでいい……今は」

 自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。


 もし、あのまま日本にいたなら――。

 きっと今頃、理玖は幼稚園へ行く準備をしていたはずだ。

 ……いや、違うか。


 夫と離婚していれば、私はシングルマザーになっていたのだから、もう保育園に通わせていたかもしれない。

 それから小学校に入って、中学、高校、大学へ進んで――。


 もちろん、すべてが思い通りになる保証なんてない。

 それでも、ある程度は先の未来を想像できた。


 どんな悩みがあって、どんな不安を抱えるのか。

 ぼんやりとでも、道筋は見えていたのだ。


 けれど、この世界は違う。

 理玖は、このままでは学校に通うことすらできない。


 その先にどんな未来が待っているのかも、何ひとつ分からない。

 未来が見えないというのは、こんなにも心を不安にさせるものなのか。


 考えないようにしていた。

 でも、一人になると、どうしてもそんな答えのないことばかり考えてしまう。


「……今は、自分にできることをするしかない。今は」

 もう一度、自分に言い聞かせる。


 私は気持ちを切り替えるように、まな板の上の肉へ視線を落とした。

 脂が綺麗に層になった、見事なバラ肉だ。


 ――そうだ。

 今は、このお肉をどう美味しく料理するかを考えよう。

 そう思考を切り替えた瞬間、不意にひとつの考えが頭をよぎった。


 ――これ、もしかして。

 私はぱちりと目を瞬かせる。

 ベーコン、作れるんじゃないかしら。

 とはいえ、きちんとした作り方なんて知らない。


 記憶の中にある曖昧な知識を手繰り寄せる。

 たしか……塩をすり込んで、しばらく寝かせて。


 それから火を通す。蒸し焼きみたいにすれば、それっぽくなるはず。

 それに――お肉を柔らかくするなら、酵素も使えた気がする。

 台所を見回すと、ニンニクと玉ねぎが目に入った。


 よし、と頷く。

 それらをすりつぶして、塩と一緒に肉へ丁寧に擦り込む。

 じっくり味をなじませてから、蒸し焼きにする。


 完璧じゃなくてもいい。

 きっと――美味しくなるはずだ。

 そう思いながら、私は手を動かし始めた。


 もしうまくできたら――みんなにも分けてあげよう。

 そんなことを考えながら手を動かしていると、今度はシャーレさんが訪ねてきた。


 リュミナのお茶のお礼がしたい、と言って。

 差し出されたのは、丸くて小さなパンだった。


 手のひらに収まるほどの、バターロールに似た形。

 ふわりと立ちのぼる香ばしい匂いに、思わず頬がゆるむ。


「こんなものしか作れないけど……」

 遠慮がちに言うシャーレさんに、私は慌てて首を振った。


「そんな、とんでもない。すごく嬉しいです」

 本心だった。


 この世界に来てからというもの、小麦粉を使ったものは一度も口にしていなかったのだから。

 ふと気になって尋ねる。


「これ、小麦粉はどこで手に入れたんですか?」

 すると、シャーレさんはきょとんとした顔で首を傾げた。


「……こむぎこ?」

 その反応に、今度は私が戸惑う番だった。


 え、まさか――。

 頭の中にいくつかの可能性が浮かぶ。


 米粉? それとも、この世界には小麦自体が存在しない?

 恐る恐る聞いてみると、返ってきた答えは――予想の斜め上だった。


「これは、“パンの実”を焼いただけなの」

「パンの……実?」

 一瞬、思考が止まる。


 なにそれ。

 さらに話を聞いて、私は目を丸くした。


 パンの実は、なんと海の底に生える植物――正確には、海藻に近いものらしい。

 小海に潜って採ってきたのだと、シャーレさんは何でもないことのように言う。


 ……いや、ちょっと待って。

 海の底にあるのに、パンになるの?


 びしょびしょにならないの?

 思わず矢継ぎ早に聞くと、ツルツルした表面が水を弾く性質を持っていて、乾燥させて焼けばこうしてパンになるのだと教えてくれた。


 なるほど――なるほど、じゃない。

 理解はしたけれど、納得が追いつかない。


 米の実に、パンの実。

 知っている“常識”が、軽々と裏切られていく。


 ……さすが、異世界。

 思わず苦笑しながら、私は改めてこの世界の不思議さを噛みしめていた。


 せっかくだから、とシャーレさんを家に招き入れ、一緒にお茶をすることにした。

 焼きたてのパンも、さっそくいただく。


 彼女は森で採れたベリーのジャムも持ってきてくれていて、それをたっぷり塗って口に運んだ。

 ――驚いた。


 見た目だけじゃない。

 これは、ちゃんと“パン”だ。


 ふわりとした食感に、ほんのりと広がるバターのような香り。

 とてもじゃないけれど、海の底から採れたものだなんて思えない。


 思わず、もう一口と手が伸びる。

 ひとしきり味わったあと、今度は私の番だ。

 出来上がったばかりのベーコンを切り分けて、シャーレさんに差し出す。


「これ、よかったら」

「まあ……」

 興味深そうに受け取り、一口。

 その表情が、ぱっと変わった。


「こんな食べ方があるのね……!」

 目を見開いて感心するシャーレさんに、思わず笑みがこぼれる。

 でも――。


 パンの実に比べたら、こっちのほうがずっと“普通”な気がする。

 私があまりにもパンの実に驚いていたせいか、シャーレさんはくすりと笑って言った。


「今度、一緒に採りに行きましょうか?」

 思いがけない誘いに、胸が少し弾む。

 未知のものに触れるのは、少し怖くて――でも、どこか楽しみでもあった。


 しばらくして、ラザさんが理玖を送り届けてくれた。

「ラザさん、わざわざありがとう」

 玄関の前でお礼を言う。


「ああ、気にしないでくれ。リク殿も、フェイのいい遊び相手になってくれているからな」

 そう言って、ちらりと理玖へ視線を向ける。


 ――今の、なんだか含みがあるように感じた。

 ほんの一瞬のことなのに、妙に引っかかってしまう。


「母ちゃん!」

 そのとき、私の背後から顔をのぞかせたシャーレさんに気づき、フェイが声を上げた。


「シャーレ、ここにいたのか」

「ええ。イオリさんにパンを届けに来ていたの」

「ああ、あれは美味いからな」

 ラザさんの言葉に、私は慌てて頭を下げる。


「本当に美味しかったです。お肉までいただいているのに、パンまで……ありがとうございます」

「いや、これくらいでは受けた恩には到底及ばない。それに――」

 ラザさんは、隣のシャーレさんへ目をやる。


「海に潜ってパンの実を採ってきたのは、こいつだからな。こいつは、ああ見えて海の底に潜るのが得意なんだ」

「ふふ、そうなの」

 少し照れたように笑ってから、シャーレさんが続ける。


「ねえラザ、今度イオリさんも一緒に、パンの実を採りに行こうと思うの」

「それはいいな。海の底には、他にもいろいろな恵みがある」


 その言葉に、胸がふわりと弾む。

 未知のものへの期待が、じんわりと広がっていく。


「母さん、俺も行く」

 理玖がすぐに口を挟む。


「ええ、もちろんよ」

「母ちゃん、俺も!」

 フェイも負けじと声を上げた。


「そうね。みんなで行きましょう」

 そう答えるシャーレさん。


 その光景に、自然と笑みがこぼれる。

 賑やかで、あたたかな時間が、またひとつ増えていく気がした。


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― 新着の感想 ―
パンの実の話で昔ペリリュー島で食べたのを思い出しました。海中産だと塩バターパンみたいなのかな… リク君は早々にお母さんにカミングアウトした方が、変に悩んで病んだりせずにそうって思うんだけれど。不幸な話…
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