第73話 けじめ
やがて、ラザさんたちが戻ってきた。
両腕に抱えた大量の肉を携えて。
――といっても、もはや元の姿はどこにも残っていない。
川辺で解体してから運んできてくれたのだという。
正直、ほっとした。
もし目の前で捌かれていたら……きっと、素直に食べることはできなかったと思う。
「棘背豹だ」
ラザさんがそう教えてくれる。
その名を聞いた瞬間、胸の奥に小さな緊張が走った。
――あのとき。
フェイくんを襲い、深い傷を負わせた魔獣。
つまりこれは、彼なりの“けじめ”なのだろう。
息子を傷つけた存在への。
……とはいえ。
本当に同じ個体なのかどうかは、もう確かめようもない。
それでも、こうして命をいただく以上、無駄にはできない。
そう思い直す。
火にかけられた肉は、香ばしい匂いを立ちのぼらせていた。
一口食べれば、じゅわりと旨味が広がる。
――美味しい。
素直に、そう感じた。
「すごいな……これがあの魔獣の肉か」
ラフさんが感嘆の声を漏らし、
「こんな肉、百年ぶりだぞ」
ロッソさんも目を輝かせている。
ラウロや他の子どもたちは、初めて口にする肉に大はしゃぎだった。
無理もない。
先代賢者がいなくなってから、小人族だけでは魔獣を狩ることができなかったのだという。
だからこそ――この光景は、きっと特別だ。
火を囲み、種族を越えて同じものを分け合う。
その当たり前のようでいて、当たり前ではなかった時間が、今、この場所に確かに流れていた。
薄紅色の花びらが、風に乗ってひらひらと舞う。
その下で、小人族と白狼族があちこちで言葉を交わしていた。
笑い声が混ざり合い、穏やかな時間が流れていく。
――こんな光景。
今ごろ、日本でも広がっているのだろうか。
桜の季節になると、テレビには決まって同じような風景が映し出されていた。
木の下に集まり、お弁当を広げ、ときにはお酒を酌み交わして。
笑い声に、子どもたちのはしゃぐ声が重なっていく。
理玖を連れて、まだ一度も花見に行けていなかった。
けれど、いつか。
三人で――この景色の中に混ざれたらと、そう願っていた。
夫の裏切りを知るまでは。
もし、あのまま日本にいたなら。
理玖と二人で桜を見に行っていたのかもしれない。
そんな“もし”に意味なんてないと分かっているのに、考えずにはいられなかった。
初めて満開の桜を見た理玖は、どんな顔をしただろう。
きっと、さっき浮かべていた表情とは違う顔で笑ったのではないか――そんなことまで想像してしまう。
胸の奥が、静かに揺れた。
私は、日本へ帰れるのだろうか。
もし帰れたなら、理玖は“三歳らしい理玖”に戻るのだろうか。
それとも――もう、戻れないのだろうか。
叶うはずのない遠い夢のようで。
むしろ、日本で過ごした日々のほうが幻だったのではないかとさえ思えてくる。
桜が美しければ美しいほど、心は乱れていく。
この穏やかな光景さえ、都合よく見ているだけの願望なのだとしたら。
本当の私は――本当の理玖は、いまどこにいるのだろう。
答えのないことばかりが、私の頭の中に溢れる。
「リク、お前、もっと肉食って大きくなれ!」
賑やかな声に、思考が引き戻される。
ラウロが、いつもの調子で胸を張っていた。
「そうだぞ、リク。いっぱい食わないと、俺みたいに大きくなれないからな!」
フェイも負けじと続く。
「……俺、ちゃんと食ってるけど」
理玖は小さくため息をつきながら答える。
子どもらしくない返しに、思わず苦笑した。
それでも、三人で並んでいる姿は、確かに子ども同士のそれで。
その光景が、ただ静かに――愛おしく思えた。
「イオリ殿、たくさん食べてくださいね」
子どもたちの様子を眺めていると、不意に頭上から声が降ってきた。
見上げると、ラザさんが穏やかな表情で立っている。
「ええ、いただいてます。魔獣のお肉なんて最初は驚いたけれど……とても美味しいわ」
そう答えると、ラザさんは満足そうに頷いた。
「それはよかった。今後も、折を見て獲物を仕留めてきましょう」
「ラザ、よくやったわ。これでフェイのリベンジも果たせたわね」
横から、シャーレさんが誇らしげに微笑む。
「当然だ。狙った獲物は逃がさない主義でね」
ラザさんは胸を張り、少しだけ得意げに続けた。
「もっとも……イオリ殿への礼には、まだ足りないくらいだが」
「お礼だなんて……」
思わず首を振る。
「私はただ、みんなが仲良く、穏やかに暮らしていければそれでいいんです」
「なるほど……さすが、癒しの魔法を持つ“聖女様”だ」
「聖女様……?」
その呼び方に、少し戸惑う。
「そういえば、最初に会ったときも、そう呼んでいましたよね」
「ええ。人間の社会では、癒しの力を持つ女性は“聖女”と呼ばれるそうです」
ラザさんは静かに説明する。
けれど――。
「そんな大それたものじゃありません」
私は苦笑しながら、もう一度首を振った。
「ただ少し、皆さんが元気になる手助けをしただけで……」
「……やはり、噂に聞く通り聖女様は、こうして謙虚なのだな」
ラザさんは、どこか感心したように目を細める。
「あの……」
少しだけ、言いにくさを覚えながら口を開く。
「私のことは、これまで通り“イオリ”と呼んでください。聖女様なんて呼ばれると……なんだか、自分のことじゃないみたいで」
一瞬の間のあと、ラザさんはふっと柔らかく笑った。
「わかりました。では、これからもイオリ殿とお呼びしましょう」
ラザさんはそう言って穏やかに微笑んだ。




