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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第72話 桜の木の下で

 白狼族の引っ越しがひと段落すると、互いの親睦を深めるために――桜祭りを開くことになった。

 長老の話によれば、桜の木は村を中心にして小海とは反対側にあるらしい。


 つまり、私がこの世界に辿り着いた方角。

 あの軽自動車を越えた先らしい。


 それを聞いたとき、小さな違和感が胸に引っかかった。

 ――そんなはず、あるだろうか。


 ここへ来るまでの間、桜なんて一本も見かけなかった。

 それどころか、長老の話では、そこは桜の存在を隠すように巨大な岩がいくつも並んでいるのだという。


 そんな目立つもの、見落とすはずがないのに、記憶には何ひとつ残っていない。

 まるで――そこだけ、切り取られてしまったみたいに。


 拭いきれない不思議さを抱えたまま、私は列の中を歩く。

 私の腰ほどの高さしかない小人族、そして、私の身長よりもかなり高い白狼族。


 背丈はまるで違うのに、こうして並んで進む姿はどこか微笑ましい。

 小人族は小さな体でちょこまかと動き回り、白狼族はその傍を静かに歩く。


 対照的なのに、不思議と調和している。

 その光景に、胸の奥がじんわりと温かくなった。


 こんなふうに――違う種族同士が、自然に肩を並べて歩ける。

 それが、ただ嬉しかった。


「イオリさん、私、桜の花を見るのは初めてなの。この森に、こんな場所があるなんて知らなかったわ」

 弾むような声が、背後から軽やかに届いた。


 振り返ると、そこに立っていたのは――ラザさんの妻、シャーレさんだった。

 長く流れる白髪がふわりと揺れ、私よりも頭ひとつ高いその姿が、どこか凛とした気配をまとっている。


 横顔に浮かぶのは、驚くほど柔らかな光。

 ――ラザさんが、彼女はこの前までひどく衰弱していたと言っていた。


 けれど、そんなことを微塵も感じさせないように表情はとても明るい。

 自力で歩くことも難しかったと聞いていたが、彼女は今、確かな足取りで地面を踏みしめている。


 金色の瞳を輝かせながら、まるで初めて世界に触れるかのように周囲を見渡す姿に安堵する。

 ――よかった。


 胸の奥から、自然とそんな言葉が湧き上がる。

 リュミナのお茶が、少しでも役に立ったのなら、それだけで十分だった。


 話してみてわかったのだけれど、シャーレさんは私と同い年らしい。

 それに――あのとき、結界の外で魔獣に襲われていたフェイくんのお母さんでもある。


 フェイくんは理玖のひとつ上。

 きっと、いい友達になれるはずだ。


 ……もっとも、あの子は覚醒してからというもの、すっかり大人びてしまったけれど。

 そう思いながら、少し前を歩く理玖の背中をそっと見つめた。


「そういえば、ラザさんの姿が見えないけど……」

 ふと気づいて尋ねると、シャーレさんはくすりと笑った。


「ふふ、あの人ったらね。“みんなに美味い肉を食わせてやる”って言って、朝早くからユラと何人か連れて出ていったの。そのうち、獲物を抱えて戻ってくるわよ」

「獲物……?」

 その言葉に、なんとなく察しがつく。


「ええ。この森には魔獣がたくさんいるの。特に力の強い個体ほど、味がいいのよ。魔力の補充にもなるし」

 楽しそうに話すシャーレさんに、思わず苦笑がこぼれる。

体が弱っていた頃は、あまり食欲もなかったけれど……今日は、久しぶりにたくさん食べられそう」

 その声音には、確かな期待が滲んでいた。


 ――やっぱり、魔獣を狩るのね。

 内心で小さく納得する。


「母ちゃん、父ちゃん、すげー強いんだよな!」

 元気いっぱいの声が割り込んできた。


 振り向くと、フェイくんが胸を張っている。

 あのときの怪我が嘘のように、すっかり元気そうだ。


「きっとな、すげー魔獣、狩ってくるぞ!」

 その得意げな様子に、思わず頬が緩む。


「リク、お前にも父ちゃんが狩ってきた肉、食わせてやるからな!」

「うん、楽しみにしてるよ」


 理玖が素直に頷く。

 そのやり取りを見て、シャーレさんがやんわりと口を挟んだ。


「フェイ、そんな言い方しちゃだめよ」

 たしなめる声は優しくて――

 その光景が、なんだかとてもあたたかく感じられた。


 しばらく歩くと、この世界に来たばかりの頃から、ずっと置き去りになっていた私の軽自動車が見えてきた。

 思わず足を止める。


 車の周囲は木材で囲われ、簡素ながら屋根まで作られていた。

 まるで、小さな車庫のようだった。


「イオリ様、これ、俺が作ったんだ。なかなか上手くできてるだろ?」

 立ち尽くす私に、ラウロがどこか誇らしげに声をかけてくる。


「ええ、すごいわね」

 そう答えると、彼は満足そうに胸を張った。


「まあ、これって“魔導車”よね? 人間の町では普通に走っているって聞いたことがあるわ。私は見たことないけど」

 シャーレさんが感心したように車体を眺めながら言う。


「えっと、魔導車じゃないの。私がこの世界へ来る前に使っていた乗り物で、“ガソリン”っていう燃料で動くの。でも、ここじゃその燃料が手に入らないから、もう動かせないわね」


「そうなの? でも、“魔力玉”で動かせるように改良できそうじゃない?」

 シャーレさんが、目を輝かせながら身を乗り出す。


「魔力玉……ああ、家の道具を動かす燃料のことね。そんな改良、できるのかしら?」

 その言葉を聞いて、私は以前、初めて賢者の家へ案内された時のことを思い出した。


 あの時、長老は魔力玉について静かな口調で説明してくれた。

 魔力玉は、豊かな自然が残る、人の手の入っていない場所で生成される資源だという。


 この森で多く採取できるのも、その自然が今なお色濃く息づいているかららしい。

 けれど――取りすぎれば、自然そのものを傷つける。


 精霊は姿を消し、草木は力を失い、やがて土地から生命の息吹そのものが薄れていく。

 だからこそ、必要以上に採取してはいけない。

 それが、魔力玉を扱う者たちの決まりなのだと、長老は言っていた。


「ラフのおっちゃんなら、できるかもな」

 答えたのはラウロだった。


「そう……ね。ちょっと考えてみるわ」

 改良できるなら、それに越したことはない。


 けれど、この村で自動車が必要かと言われると微妙だった。

 そもそも森の中では木々の隙間を通れないし、もし元の世界へ戻れた時、二度と使えなくなってしまうのも困る。

 だから私は、曖昧に笑って答えを濁した。


 軽自動車を通り過ぎて、そのまま歩き続けると、視界の先に、私の背の倍ほどもある大きな岩が無造作にいくつも並んでいるのが見えてきた。


 まるで誰かが、どん、どん、と適当に置いたかのようだ。

 その間を縫うように進んでいく。


 すると――

 次の瞬間、視界が一気に開けた。


 そこに広がっていたのは、鮮やかな薄紅色の世界だった。

 満開の花をたたえた桜の木々が、幾本も、幾本も立ち並んでいる。


 日本で見ていたものより、ほんの少しだけ色が濃い。

 けれど、その姿は紛れもなく――桜だった。


「わぁぁぁ……綺麗……」

 隣で、シャーレさんが感嘆の声をあげる。


 けれど、私は言葉すら出てこなかった。

 ただ、立ち尽くす。


 胸の奥が、じんと熱くなる。

 どうして――ここに。


 そんな疑問さえ、今はどうでもよくなるほどに。

 その光景は、息を呑むほどに美しかった。


 ふいに、前を歩いていた理玖が足を止める。背中越しにも分かるほど、彼は完全に見入っていた。

 まるで、そこにあるものを――ただ眺めているのではなく、確かめるように。


 私はそっと歩み寄り、「桜、綺麗だね」と声をかけながら、その横顔を覗き込む。

 はっとしたように、理玖が我に返った。

 その瞳が、わずかに潤んでいる気がして、胸がざわつく。


「理玖……?」

 呼びかけに、彼は少しだけ間を置いてから、静かに言った。


「母さん、きれいだね」

 小さく浮かべたその微笑みに、私は一瞬、呼吸を忘れる。


 ――違和感が残った。

 子供らしさがない、というだけではない。


 それはまるで、長い時間を越えて、ようやく再会した誰かを見つめるような――そんな、懐かしさを帯びた眼差しだった。


「だいぶ準備が整っているようですね」

 シャーレさんの言葉に我に返る。


 桜の木の下では、小人族の人たちが忙しそうに動き回っている。

 手際よく網を広げる者、火を起こす者、声を掛け合いながら準備を整える者――その動きには無駄がなく、どこか高揚した気配が漂っている。


 やがて、ぱちり、と炭が弾ける音。

 白い煙がゆるやかに立ち上り、風に乗ってこちらまで流れてきた。香ばしい匂いが、鼻腔をくすぐる。


 ――ここで、宴が開かれる。

 長老が言っていた通り、バーベキューの準備だ。


 なんでも、先代賢者が伝えた調理法らしい。

 日本では当たり前だったそれが、こうしてこの世界に根付いている。


 その不思議さに、思わず苦笑がこぼれる。

 ふと視線を移すと、白狼族も小人族と一緒になって手伝っていた。


 種族の違いなんて関係ないかのように、自然に役割を分け合っている。

 その光景が、なんだかあたたかくて――

 胸の奥に、やさしい灯がともるような気がした。

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