第68話 息子の憂い
結界の一部を解除して、外の者を招き入れる。
――そんなことが、できるものだろうか。
魔法をまともに学んだこともない、たった三歳の子どもに。
私は、帰り道の間も、家に戻ってからも、ずっと小海での理玖の姿を思い返していた。
あの迷いのない手つき。
躊躇のない判断。
……魔法だけじゃない。
ラザさんとのやり取りも、どう考えても子どものものではなかった。
まるで――。
理玖の中に、別の誰かがいるみたいに。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がざわりと波立つ。
……まさか、そんなことあるはずがない。
そう思うのに。
ここは、異世界だ。
“ありえない”ことが、いくらでも起こる場所。
だったら――。
もし本当に、理玖の中に別の誰かがいるのだとしたら。
じゃあ、私の理玖は……どこへ?
身体から、すうっと血の気が引いていく。
指先が、小さく震えた。
――違う。
そんなわけ、ない。
私は強く首を振る。
きっと、ただ成長が早いだけ。
……少しどころじゃないけれど。
それでも、ゆっくりと視線を向ける。
そこにいる理玖は、こちらを見上げていた。
不安そうに揺れるあの子の瞳。
――ああ、間違いない。
あれは、私の知っている表情だ。
首を傾げて……今にも泣きそうで……
そう思った瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけほどけた。
「理玖……いつの間にか、大人になってしまったみたいね」
ふっと息がこぼれるように、言葉が出た。
その瞬間、理玖の目が大きく見開かれる。
――しまった。
そう思うより先に、あの子の瞳が揺れていた。
ゆらり、と。
そして、みるみるうちに潤んでいく。
「母さん……俺……」
何かを伝えようとしている。
けれど、言葉は途中で途切れてしまう。
言いたいのに、言えない。
そんな苦しさが、そのまま表情に滲んでいた。
――やっぱり、この子は。
間違いなく、私の理玖だ。
それなのに、どこかがほんの少しだけ違う。
……もしかして、未来を知っている、とでもいうのだろうか。
そんな突拍子もない考えが、ふと頭をよぎる。
でも、わからない。
何も、わからないけれど。
ただひとつ、確かなことがある。
この子は、何か――遠くのものを見ている。
それは……きっと、私が想像できないほどの憂いを含んでいて……
「ああ、理玖、どうしたの?」
気づけば、私はそう声をかけていた。
目の前で泣いているのに、何もしてあげられない自分が、もどかしい。
溢れてくる涙を、ハンカチでそっと拭う。
けれど、次から次へとこぼれてくる。
「……理玖。何か、嫌なことでも思い出した?」
できるだけやわらかく問いかける。
けれど――。
理玖は、ただ静かに首を横に振るだけだった。
きっと理玖は、私に心配をかけまいとしているのだ。
覚醒するその前から、あの子はそういう子だった。
ほんの少し指先を切っただけでも、慌ててアロウ軟膏を持ってきてくれた。あのときの仕草は、あどけなくて、年相応のものだったけれど――。
その優しさの根っこは、きっと今も変わっていない。
言えないのなら、無理に聞き出すべきじゃない。
あの子が、自分の言葉で話せる日を待てばいい。
そう決めると、不思議と胸の奥が少しだけ落ち着いた。
――だから私は、これまでと同じように接することにした。
いつものように食卓を囲み、他愛のない話をして。
そのあと、一緒にお風呂に入る。
理玖も、どこかほっとしたように笑みをこぼした。
その表情を見た瞬間、周りの空気が少しだけ温かく感じた。
――ああ、大丈夫。
そこにいるのは、間違いなく私の知っている息子だ。
そう思えたことが、何よりの救いだった。
理玖……あなたは、何を抱えているの……?
寝室で、眠りについたばかりの息子を見つめながら、胸の奥でそっと問いかける。
規則正しい寝息。
穏やかな呼吸に合わせて、小さな胸がゆっくりと上下している。
そのあどけない寝顔を見ていると、白狼族の前にいた姿とあまりにもかけ離れていた。
同じ子とは思えないほどに。
胸の奥が、じわりと痛む。
理玖の中にある“何か”。
できれば、この子には何の不安も感じさせたくない。
子供らしく、笑って、時には思い切り泣いて、感情を我慢することなくさらけ出して……
覚醒する前の理玖のように。
けれど――。
そのためにどうしたらいいのか、わからない。
手を伸ばしても、もう、この子は届かない場所に行ってしまったみたいで。
それでも、理玖を守るのは、母親である私の役目だ。
たとえ何もできなくても、傍にいることだけはやめない。
……なのに、最近はまるで逆のような気がしてしまう。
守られているのは、私の方なんじゃないかと。
思わず小さな苦笑がこぼれた。
――まずは、自分にできることから。
短く息を吐き、そう自分に言い聞かせる。
考えるべきは、目の前のこと。
そう、白狼族のことだ。
あの小海に入ることで、彼らが力を取り戻せるのなら――迷う理由はない。
できる限り、力になりたい。
そう、素直に思う。
長老も、ロッソさんも、ラフさんも、あの人たちが頭ごなしに拒むことは、きっとないだろう。
――みんな、優しい人たちだから。
その温もりを思い出しながら、そっと目を閉じる。
けれど、胸の奥に残った小さな不安は、完全には消えなかった。
白狼族に意識を向けようとしても、胸の奥に小さなしこりが残っているかのように感じる。
きっと、気のせい。
そう自分に言い聞かせると私はもう一度、理玖の寝顔に目を移した。
頭をそっと撫でると、髪の柔らかさが指先に伝わる。
私は、その余韻に浸りながら、静かな眠りへと身を委ねたのだった。




