第66話 白狼族との邂逅
白狼族は、結界の内へは入れない。
となれば、会う場所は必然的に――結界の外になる。
わかってはいる。
けれど――
あの時の光景が、脳裏に蘇る。
魔獣に襲われかけた、あの瞬間。
思い出した途端、身体が小さく震えた。止めようとしても、うまく抑えられない。
「イオリ様。白狼族が周囲の警護に当たるとのことです。彼らは我らよりもはるかに強い。ラザも、命に代えてイオリ様を守ると申しておりました。……ですが、もしご不安でしたら、結界を挟んで話すことも可能です。声は少し届きにくくなるかもしれませんが」
長老の言葉に、私はゆっくりと首を振る。
「いいえ……大丈夫です。白狼族が守ってくれると言うのなら――信じましょう」
そう答えた自分の声は、思っていたよりもずっと落ち着いていた。
そして翌日。
私は覚悟を決め、小海へと向かうことにした。
――理玖を連れて。
本当は、長老やロッソさんたちに預けるつもりだった。危険がないとは言い切れない以上、その方がいいとわかっていたからだ。
けれど理玖は、首を横に振って譲らなかった。
「絶対に母さんと行く」
理玖は、きっぱりと言い切った。
短い言葉。
けれど、その瞳には揺るがない意志が宿っていた。
まだ幼い理玖に、そこまでの考えがあるとは思えない。
なのに、なぜか無視できないような気がした。
ただの我儘だけじゃないような……
そんな私の思いをまるで見透かしているかのように……結局、押し切られてしまった。
不安が消えたわけじゃない。
それでも。
理玖と一緒に行く。
そう決めた瞬間、胸の奥にあった迷いが、少しだけ静かになった気がした。
長老、ロッソさん、ラフさん――三人が同行することになった。
穏やかな風が草を撫で、柔らかな陽光が降り注ぐ。道はどこまでも静かで、命の気配に満ちている。
けれど、その美しさは、今の私の心には届かなかった。
胸の奥に沈んだ不安は、少しも軽くならない。
ふと、手を握っている理玖に目を向ける。
その横顔はどこか強張っていて、年相応の幼さが消えていた。
――緊張しているのだろうか。
それとも、もっと別の何かを抱えているのか。
問いかけることもできないまま、私は視線を前へ戻した。
やがて、結界の境界が見えてくる。
その向こう側。
白髪の、屈強な男がひとり。
その隣に女性と男性が一人ずつ、さらに背後には三人の男たちが見えた。
彼らは、私たちの姿を認めると――一斉に膝をつく。
その様子に思わず足が止まる。
「イオリ様、彼らはイオリ様に敬意を払っているのですよ。さあ、イオリ様、わしらは後方で見守っておりますよ」
私の隣に並んでいた長老が静かに言った。
でも、どうすればいいのかわからない。
戸惑いながら、一歩踏み出しかけた、そのとき。
「母さん、ちょっと待って」
「理玖……?」
ふいに、握っていた手が離れた。
次の瞬間、理玖が私の前に一歩出て、横に腕を伸ばす。
私を制するように。
思わず、その背中を見つめた。
「白狼族を――中に入れる」
静かな声だった。
だが、その言葉の意味が、すぐには理解できない。
理玖はためらいなく、結界へと手を伸ばす。
――何を、するつもりなの。
問いかけるよりも先に、私はただ、呆然とその光景を見つめていた。
「理玖、どうして……」
問いかけた声は、どこか遠くへ置き去りにされたようだった。
理玖は手のひらから一瞬、淡い光を放つと、そのまま白狼族へ視線を向ける。
「入っていいよ。でも――」
語尾が、わずかに低くなった。
「母さんを傷つけたり、妙なことをしたら……許さない」
空気が、ぴんと張り詰めた。
膝をついていた白狼族の長――ラザが、ゆっくりと顔を上げる。
「……君は、イオリ殿のご子息だな」
静かな声だった。
「あのとき、我が息子を助けてくれた」
「別に」
理玖は即座に言い切る。
「あなたの息子を助けたわけじゃない。母さんを守っただけだ」
淡々とした言葉。
けれど、その奥にある意志の強さに、思わず息を呑む。
私はただ、二人のやり取りを呆然と見ていることしかできなかった。
「理玖……?」
ようやく声を絞り出す。
「あなた、今……何をしたの?」
「結界の一部を外しただけだよ」
あっさりとした返答。
「これで、中で話せるでしょ?」
「外した……って……」
言葉が続かない。
「どうして、そんなことができるの?」
「うーん……なんか、できそうな気がしたから?」
軽い口調。
まるで、当たり前のことを言っているみたいに。
――この子は、本当に……私の息子なの?
背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。
「母さん……ダメだった?」
ふと、理玖が不安そうにこちらを見上げてきた。
その表情は、ついさっきまでとは違う。
あどけない、年相応の顔。
それなのに――。
「……やはり」
ラザの声が、静かに割り込んだ。
「君は“叡智の魔力”を宿しているようだな。さすがは――癒しの魔力、いや“聖女の魔力”とも呼ばれる力を持つイオリ殿のご子息だ」
聖女の魔力……
その言葉に、胸がざわつく。
どういうことだろう……
私が問いかける間もなく、ラザは深く頭を下げた。
「イオリ殿。我らが結界の内へ入ること、許していただけるだろうか」
私は一瞬、言葉を失う。
視線は、理玖へと向いていた。
――この子が開いた“道”。
それを、どう受け止めればいいのか。
長老、ロッソさん、ラフさんに確かめるように後ろを振り返ると、彼らは無言で頷いた。
「……ええ、どうぞ」
私は結局、そう答えるしかなかった。
戸惑いは、まだ消えないまま。




