第65話 ジェロール帝国【ヴァルドレインの憂鬱】
ジェロール帝国魔導院、大魔導士の一人であるヴァルドレインは、帰宅した瞬間に嫌な予感を覚えた。
――遅かったか。
胸の奥で何かが沈む。
久しぶりに戻った家で、両親はどこか浮き足立った様子で告げたのだ。
フレアが“聖女”として、「光の教団」に召集された、と。
息が詰まる。
フレアは、まだ七歳だ。
表向きは、ヴァルドレインの娘として国に届け出ている。
だが――本当は違う。
亡き姉の娘。
姉はかつて、ある高位貴族の屋敷でメイドとして働いていた。
そして帰ってきたときには、すでに身籠っていた。
その姉は、フレアを産むと、まるでそれが自分の最後の役目だったかのように命を引き取った。
父親が誰かなど、考えるまでもない。
あの屋敷の主に決まっている。
髪色こそヴァルドレインと彼の姉と同じ亜麻色であったが、瞳は皇族や高位貴族に多い薄青色をしている。
奴の血を受け継いでいることは間違いない。
だが、平民である自分たちに、それを訴える術などなかった。
だからこそ――。
出自不明として切り捨てられるのを防ぐため、ヴァルドレインはフレアを自分の娘として届け出ている。
「……母さん、父さん。どうしてフレアを渡してしまったんですか」
抑えきれない苛立ちが、声に滲む。
「どうしてって……あの子には癒やしの魔力があるのよ?」
母は悪びれる様子もなく言った。
「この前だって、私の切り傷を一瞬で治してくれたの。そんな子が聖女として認められたのよ? この家から聖女が出たなんて、すごいことじゃない。国からの優遇もあるし、報奨金だって出るわ。お店だって、きっともっと繁盛する」
「それに断れるわけないだろ? ヴァル。教会の司祭様がいらしたのだから」
父も続ける。
確かに、断れば、下手すると反逆罪になりかねない。
「名誉なことなんだ。うまくいけば、貴族に見初められて嫁ぐことだってある」
言葉が、遠く聞こえた。
ヴァルドレインは額を押さえ、深く息を吐く。
父も母も、その貴族によって、自分たちの娘が貶められ命を失ったというのに、もう忘れてしまったかのようだ。
――確かに。
世間では、聖女は尊ばれ、守られ、恵まれた存在だと、そう語られている。
だが――現実は違う。
聖女となった者は、教団に囲い込まれる。
自由は奪われ、その力は際限なく搾り取られる。
祈りの名のもとに。
救済の名のもとに。
命を削られる。
――光の教団。
表向きは聖女を崇める組織。
だがその裏で、聖女を使い潰す。
そして、帝国そのものを陰から操る、得体の知れない存在。
ヴァルドレインは、そう確信していた。
現に聖女たちの寿命は短い。
ヴァルドレインが大魔導士に任命されて約五年。
この短い間にも三人の聖女が亡くなっている。
いずれも二十代という若さで。
――父さんと母さんに、教団の内情を話すべきだったか。
ふと、そんな考えがよぎる。
だが、すぐに打ち消した。
不用意な一言が、反逆と見なされる可能性は十分にある。
ヴァルドレインは大魔導士だ。
帝国の裏側に流れる情報が、耳に入る立場でもある。
それがどれほど仄暗く、救いのない内容であっても――たとえ自分が最高位の魔導士の一人であっても――どうにかできる類のものではなかった。
軽々しく動けば、自分だけでは済まない。
家族にまで、その火の粉は降りかかる。
それだけは、絶対に避けなければならない。
ヴァルドレインは唇を引き結び、思考を巡らせる。
――どうする。
答えは出ない。
フレアの顔が浮かぶ。
あの子は、姉に似ている。
どこまでも純粋で、疑うことを知らない。
「誰かの役に立てる」と言われれば、迷いなく力を差し出すだろう。
それが、自分の命を削るものだとしても。
――このままでは、他の聖女たちと同じように、若くして消えていく。
何かに圧迫されるように息ができなくなった。
脳裏に浮かぶのは、あの光景だ。
年に一度の「光の大祭典」。
壇上に立つ、教団の頂点――大司教。
そして、その隣に控える“聖女の頂点”、大聖女。
慈悲深い微笑みを浮かべる二人に、民衆はひれ伏し、声を上げて讃えていた。
誰一人として疑わない。
だが、ヴァルドレインには見えていた。
あの笑みの奥に、確かに潜む黒い影が。
――あれは、普通の人のものではない。
背筋に冷たいものが走る。
何とかして、フレアを救い出さなければならない。
だが――。
あの二人に対抗できる術など、どれだけ思考を巡らせても見つかるはずもなかった。
翌日、ヴァルドレインは決断した。
教団の本拠――光の大聖堂へ向かうことを。
目的はひとつ。フレアに会うためだ。
たとえ取り戻せなくとも、面会くらいは許されるはずだと、そう信じて。
帝都の中心――皇城に寄り添うように建つ大聖堂は、まるで街そのものを見下ろすかのように威容を誇っていた。
幾本もの尖塔が空へ鋭く伸び、正門上に据えられた円窓は陽光を受けて、宝石のような輝きを放っている。
その姿は、まさに“聖域”と呼ぶにふさわしかった。
巨大な正門の左右には聖騎士たちが静かに立ち、訪れる者を鋭い眼差しで見極めている。
だが、ヴァルドレインの胸に刻まれた白銀六芒印――大魔導士の紋章を目にした瞬間、その視線は敬意へと変わった。
聖騎士たちは胸に手を当て、静かに頭を垂れる。
ヴァルドレインはそれに一瞥だけを返し、足を止めることなく正門をくぐった。
やがて、繊細な装飾が施された巨大な扉の前に立つ。
重厚な扉へ静かに手をかけると、鈍く低い音を響かせながら、ゆっくりと押し開いた。
――空気が変わった。
足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりつくような静けさ。
高い天井を支える柱、連なるアーチ。
壁一面に嵌め込まれたステンドグラスから差し込む光が、床に色とりどりの影を落とし、ゆらゆらと揺れている。
長い年月の信仰が積み重なった、重苦しい気配。
思わず息を潜めた、そのとき――。
「これはこれは、大魔導士様」
奥から現れたのは、司祭服をまとった壮年の男だった。
恭しく一礼しながら、にこやかに続ける。
「ようこそお越しくださいました。新たにお迎えした聖女、フレア様のお父君でいらっしゃいますね」
「ああ」
短く答える。
「娘に会わせてほしい」
「かしこまりました。こちらで少々お待ちください」
案内されたのは、簡素ながらも整えられた面会室だった。
ほどなくして、扉が開く。
「お父さん!」
弾む声とともに、小さな影が駆け寄ってくる。
「フレア……」
思わず、抱き寄せた。
確かな温もりに、胸の奥に張り詰めていたものが、わずかに緩む。
「よかった……」
「お父さん、ここすごいのよ! 私と同じ力を持ってる人が何人もいるの」
腕の中で、フレアは嬉しそうに顔を上げた。
その後ろには、二十代ほどの女性が静かに立っていた。
「それと、大司教様にお会いしたの。すごくお優しい方なの!」
目を輝かせるその様子に、胸が痛んだ。
「……そうか」
努めて穏やかに返す。
「困っていることはないか? 何でも言ってくれ」
静かに問いかけると、フレアは間髪入れずに首を振った。
「ううん、大丈夫!」
迷いのない笑顔だった。
「私、聖女になれば、たくさんの人を助けられるんだって。司教様がそう言ってくれたの。それにね――大聖女様って、すっごく綺麗な人なのよ」
「フレア、大聖女様に会ったのか?」
「ううん、遠くからお見かけしただけ。尊いお方だから、簡単には近づけないんだって。でもね……なんだか、懐かしい感じがしたの。不思議よね」
そう言って、少しだけ首をかしげる。
「あ、それでね。たくさんの人を癒せば、私も大聖女になれるかもしれないんだって」
無邪気な声音が、やけに胸に引っかかった。
ヴァルドレインは、ふいに言葉を失う。
――大聖女レイラ。
人々からは女神のように讃えられる存在。
だが、どうしても拭えない違和感がある。
何かがおかしい。
あの微笑みの奥に、何かが潜んでいるような――そして、それ以上に一番重要な何かを見落としている感覚がこびりついて離れない。
それでも。
少なくとも今は、フレアに危害が及んでいる様子はない。
その事実だけが、わずかな救いだった。
ヴァルドレインは、胸の奥で静かに息をついた。




