第63話 理玖はあの娘を思い出す
『――単刀直入に言おう。ジェロール帝国は、この大陸に存在したあらゆる国を手中に収めた』
低く響く声が、重く胸に沈んでいく。
俺は目を瞑り、ミズチの話す言葉を受け止める。
『ある国は滅び、ある国は属国となっておる。今や、人族の国で帝国に従っておらぬものは存在せぬ。……お主が生み出した魔導兵器、その力によってな』
胸の奥が鈍く軋んだ。
ミズチはわずかに間を置き、続ける。
『もっとも、亜人たちが統べる小さな国までは完全に取り込めておらぬ。奴らは帝国を刺激せぬよう身を潜め、今なお細々と生き延びておる。誇りだけは捨てずにな』
俺は無意識に唇を噛み締めていた。
……予想していなかったわけじゃない。
あれほどの兵器だ。こうなる未来くらい、考えなかったわけではないのだから。
「……俺のせいだ。俺が、あんなものを作らなければ……」
喉の奥から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ミズチが静かに目を伏せる。
『リックよ……いや、今はリク、であったな』
その声音には責める色はなかった。
『お主は帝国に囚われておった。それに――弱みも握られておった』
「弱み……?」
掠れた声で問い返す。
ミズチはわずかに間を置いてから口を開いた。
『お主が救えなかったと言っていた娘のことだ』
「娘……?」
胸が、どくりと脈打つ。
『……まさか、覚えておらぬのか?』
「ミズチ、その娘って――」
言葉の途中で、心臓が激しく跳ねた。
全身の血が逆流するような感覚が走る。
違う。
忘れていたんじゃない。
思い出せないように、心の奥底へ押し込めていたのだ。
『確か、人間たちはあの娘を“聖女”と呼んでおった。お主が助けようとして……救えなかった娘だ』
「聖女……うっ」
鋭い痛みに頭を押さえる。
地面にうずくまり、その痛みに耐える。
今――思い出さなければ……
『リク……?』
「大丈夫……だ」
その瞬間。
淀んだ記憶の底から、澄み切った声が響いた。
――リック、大丈夫よ……。
――私は、みんなを救いたいの。もちろん、あなたも。
優しく微笑む少女の姿が脳裏に浮かぶ。
淡く透き通る薄緑の瞳は、触れれば消えてしまいそうに儚く揺れ、長く流れる金の髪は光を受けて静かにきらめいていた。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。
心の底に沈んでいた悲壮感が、じわじわと全身に広がっていく。
「……救われるべきだったのは、君の方だったじゃないか……」
深淵の底から這い上がるような声が、夜の森へ静かに溶けていく。
視界が滲む。
気づけば、大粒の涙がぽたり、ぽたりと地面を濡らしていた。
『リク……思い出したのか』
見上げると、ミズチの瞳が切なげに揺れていた。
「ああ……」
震える息とともに答える。
レイラ……彼女の儚げな笑顔。
あの牢獄の中で、彼女だけが俺にとって唯一の慰めで――希望だった。
最初、帝国は俺の身体を痛めつけることで従わせようとしていた。
肉を裂かれ、骨を砕かれる。
そして傷つくたび、聖女が癒やしに来た。
そう、レイラが……
だが――やがて俺が、自分の命などどうなっても構わないと抵抗し始めると、帝国は方法を変えた。
今度は、彼女を盾にして俺を脅すようになったのだ。
聖女であったレイラを。
――だから、俺は考えた。
どうすれば彼女を救えるのか。
どうすれば、あの地獄のような帝国から逃げ出せるのかを。
そして辿り着いた。
奴隷紋を破壊する。
それしかない、と。
俺は密かに計画を立て、それを彼女に打ち明けることにした。
だが――。
『だめよ、リック』
レイラは一瞬、瞼を伏せ俺から目を逸らすと、静かに首を横に振りながら躊躇いがちに言った。
『私がいなくなれば、困る人がいるもの。……逃げられるなら、あなただけ逃げて』
理解できなかった。
困っているのは、君の方じゃないか。
日に日に痩せ細っていく身体。
青白くなっていく顔。
癒やしの力を使うたび、彼女の命が削られているのは明らかだった。
――このままじゃ、君の方が先に壊れてしまう。
俺は何度も説得した。
何度も。
何度でも。
だが、彼女が首を縦に振ることは、最後までなかった。
そして、ある日。
俺は度重なる実験と拷問、魔力の酷使による疲労で意識を失った。
次に目を覚ましたとき――そこにいたのは、レイラではなかった。
見知らぬ聖女だった。
レイラよりも幼い聖女――十歳前後かもしれない。
彼女の瞳の中に憂いが見えた。
その瞬間、背筋を冷たいものが走る。
嫌な予感がした。
いや――違う。
本当は、理解してしまったのだ。
もう二度と、彼女には会えないのだと。
震える声で問いかける俺に、その聖女は俯いたまま告げた。
彼女は、死んだのだと。
そして……その幼い聖女は、俺に一通の手紙を差し出した。
「……聖女レイラから……です」
躊躇いながらそれを受け取った。
彼女らしい、丁寧で優しい文字だった。
そこに記されていたのは――。
自分のことは気にせず逃げてほしい、という言葉。
そして、もし余裕があるのなら、帝国に囚われている他の種族たちも助けてあげてほしい、と。
……最後まで。
最後の最後まで、彼女は自分のことより他人を案じていた。
人族ですらない者たちのことまで。
どうして、そんなふうに生きられるんだ。
どうして、自分が壊れる寸前まで誰かのために笑えるんだ。
胸の奥が焼けるように痛んだ。
何もできなかった自分。
帝国以上に無力な自分に、憤りが込み上げた。
でも、いまさら何をしてもレイラは俺の前に現れることはない。
あの透き通るような声で俺の名を呼ぶことも、儚げな笑顔を俺に向けてくれることも、永遠に……
彼女の願い。
それだけが、あの地獄に残された俺の唯一の意味になった。
――もはや、帝国に従う理由はない。
守るべきものは、もう失われてしまった。
だから俺は決めた。
この身に刻まれた奴隷紋を破壊し、帝国から脱出すると。
そして、必ず帝国にはこの報いを必ず負わせてやるのだと。
あのとき、囚われていた小人族を救い出したのも、他の亜人たちを解放したのも、すべて彼女の願いを叶えるためだった。
ここまで呼んでいただきましてありがとうございます。m(_ _)m




