第60話 理玖は百年前を想う
村へ続く坂道を、俺はゆっくりと降りていく。
その少し後ろを、母さんがついてくる。
時折、風が髪を掠め、森の匂いを運んでくる。
見上げると枝に生い茂った葉の隙間からかすかに青空がのぞき、光と影が織りなす模様が静かに揺れていた。
——この道。
賢者と呼ばれていた頃、何度も行き来した場所だ。
つい最近のことのように思える。
——だが、あれから百年……
何も変わっていないように見える。
そんな懐かしさに浸っていると、村の方から赤髪の小人の少年が駆けてくるのが見えた。
——ああ、確か……ラウロ、だったか。
三歳の俺は、どう呼んでいた?
一瞬考え——すぐに思い出す。
「兄ちゃん」
自然と、その呼び方が口をついて出た。
「おお、リク。元気になったんだな。よかった」
俺の顔を見るなり、ラウロはほっとしたように表情を緩める。
——どうやら、心配をかけていたらしい。
「うん」
安心させるように、俺は小さくうなずいた。
当たり前のようにそこにいるが、前回は存在していなかった少年。
変わらない景色の中で、そのことだけが浮かんで見えた。
……俺より年上、か。
そっと視線を逸らす。
「ラウロ、理玖のお見舞い?」
後ろから母さんが声をかける。
「ああ、それもあるけど——じいちゃんに頼まれてさ。理玖が目を覚まして、大丈夫そうなら、イオリ様に相談したいことがあるって」
「相談?」
「白狼族のことだって」
その言葉に、俺の意識がぴくりと反応する。
——そうだった。
あのとき。
母さんが魔獣に襲われかけて、助けようとした俺は——制御しきれない魔力を溢れさせて、覚醒した。
そもそも、あの場面に至ったのは、母さんが白狼族の子供を助けようとしたからだ。
だが——
なぜ、白狼族がここにいる……?
白狼族が、自分たちの縄張りを離れる?
——ありえない。
違和感が、胸の奥でじわりと広がる。
そのとき、頭の奥に眠っていた記憶が、断片的に浮かび上がった。
——彼らがいたのはこの場所じゃない。
頬を撫でた風が、わずかに潮の匂いを運んできた気がした。
——違う。ここは森の中だ。海のはずがない。
だが、その違和感に引きずられるように、記憶が浮かび上がる。
白い海岸沿い。
一面に広がる緑の森……
遠い記憶の映像が蘇る。
——ああ、そうだ。
アクアウッド。
あの時——
気づいたときには、もう遅かった。
——白い影が、海辺に立っていた。
白い毛並みが風になびき、夜の海岸に現れた群れ——
鋭い瞳に大きな体躯。
まともに対峙して勝てるかどうかわからない。
たとえ、魔法に長けた俺でも魔力が保たないかもしれない。
背筋を流れる冷たい汗。
俺は必死で伝えた。
敵対する意思は全くないのだと。
そして、なんとかわかってもらえたが、あの時の射抜くような鋭い眼差しは——今でも忘れられない。
だけど、思い出せるのはそこまでだ。
——ああ、あともう一つ。
絵画のように美しい景色だ。
白狼族がこの地にいるということは、その場所はどうなってしまったのだろうか。
俺はそんなことを考えながら、ぼんやりとラウロが風の頼りで長老に伝言を飛ばすのを眺めていた。
空気がわずかに震えた。
あのときと、同じ感触だ。
母さんとラウロが話をしながら工房への道を進んでいく。
そんな中、俺は歩を進めながらただ白狼族に意識を向けていた。
気がつくと、工房の前まできていた。
小人たちが大勢集まっている。
マーラやアロアが母さんに話しかけている。
あの頃、若かった彼女たちは今はすっかり母親としての貫禄を身につけているようだ。
心配げな眼差しが俺と母さんに注がれる。
すると、小人族の後ろから耳慣れた声が聞こえる。
「ああ、イオリ様。お呼び立てしてしまい、申し訳ありませんな。リク様も元気になられたようで、何よりです」
長老ソールだ。
彼はあの頃と全く変わらないように見える。
その瞳が俺の姿を捉える。
視線が交差した。
ソールの目が見開かれる。
気づかれたか……
彼はあの頃からまるで全てを見通せるかのように勘が鋭かった。
「なるほど……賢者としての魔力が、さらに高まっておるようですな。それに……」
そう呟きながら母さんの方へチラリと目を向けた。
そして、すぐに視線を俺の方へ戻す。
「……まあ、今はよいでしょう」
……やはり、気づいているらしい。
魂に刻まれた俺の記憶が戻りつつあることを。
白狼族の話は魔導機工房の中で行われることになった。
ここの工房群の中でも一番大きな建物だ。
ここなら、集まってきた村中の小人たちも中に入れるというソールの思惑だろう。
足を踏み入れると、かつて小人たちと様々な魔導機を開発していた頃を思い出した。
何度も失敗し、やっと完成させた喜びを彼らと何度も分かち合っていたあの頃。
その映像が頭の中にスッと蘇ってくる。
あの穏やかな日々が……
「イオリ様、リク様。目を覚まされたようで安心しましたよ」
昔に思いを馳せていると、ロッソの声が聞こえた。
彼もあの頃と変わらず人の良さそうな表情で穏やかに言葉を話す。
「ああ、あの時のリク様の防御魔法……まるで先代賢者と同じで、驚きましたよ」
続いて現れたのはラフだ。
相変わらず飄々とした物言いだが、余計なことを言うな、と内心で舌打ちする。
母さんがなにやら考え込んでいるように見える。
「さあさあ、イオリ様。こちらへどうぞ、腰をかけてくだせぇ」
ロッソ……助かった。
母さんの思考が途切れたようだ。
だが、ホッとしたのも束の間。
「リク、お前はこっちで大人しくしてるんだ」
今度はラウロの声だ。
大人たちの邪魔をしないように声をかけてきたのだろうが、余計なことを、と思わずにはいられない。
「おいで、リク様。サーシャもいるから、こっちで遊ぼう」
「おいで、リク」
続けてシュシュとサーシャも手招きしている。
——だけど、
「俺、母さんと一緒にいる」
俺は甘えるようにぎゅっと母さんにしがみついた。
「わかったわ、理玖。母さんのそばで、大人しくしていてね」
母さんの言葉に頬を緩ませて「うん」と答えた。
——これでいい。
ソールの話は、きっとただの相談では終わらない。
白狼族と小人族の今後の関わり方にも関係してくるだろう。




