第54話 ジェロール帝国【正体不明の魔力観測】
理玖が小海のほとり――結界の境界で内に秘めた魔力を解き放った、その直後。
ジェロール帝国魔導院は、かつてないほどの緊張に包まれていた。
異変は即座に観測され、すぐさま最高位魔導士たちへ緊急招集がかかる。
当然、大魔導士ヴァルドレインの名もその中にあった。
やがて、魔導院の大会議室には大魔導士五名を筆頭に、魔導士長たちが一堂に会する。
総勢百二十名――帝国の中枢を担う魔導の精鋭たちである。
その中にあって、ヴァルドレインは紛れもなく頂点に近い存在だった。
一同が会する中、上座の豪奢な椅子に腰掛けるベルドルフ大魔導士卿が、静かに口を開く。
「諸君。魔力観測機が、これまでに例のない規模の魔力波動を捉えた」
一瞬の沈黙。
「発生地点は――グラセナ山脈の向こう側だ」
その言葉が落ちた途端、室内にざわめきが広がった。
「前例のない魔獣の出現か?」
「天変地異の前触れではないのか」
「どこかの国が、魔法兵器の実験を――」
抑えきれない憶測が、次々と飛び交う。
だがその中で、ヴァルドレインだけは別の思考に囚われていた。
――半年前。
大広間に設置された異界招来大円環が、一瞬だけ明滅したあの現象。
彼自身が見間違いとして片付けた、あの不可解な揺らぎ。
……いや、まさか……
あれは一度きりの異常だったはずだ。
今の事態と結びつく理由など、どこにもない。
それでも。
関係がないと切り捨てようとするほどに、その記憶は妙に鮮明さを増し、思考の奥にこびりついて離れなかった。
「魔力波の解析結果が出た」
ヴァルドレインの思考を断ち切るように、ベルドルフの声が割って入る。
「発生源は――人である可能性が高い」
その一言に、思考が止まった。
人、だと――?
疑念が浮かんだその瞬間、正面のスクリーンに観測データが映し出される。
波形は、見慣れたものだった。
魔導士が放つ魔力特有の、規則性を帯びた揺らぎ。
だが。
規模が、異常だった。
視覚化された波は、常識を逸している。
この場に集う誰一人として、あの出力に届く者はいない――そう断言できるほどに。
室内の空気が、目に見えぬ圧に押されるように重く沈む。
そして。
「この魔力は――賢者級と判断される」
ベルドルフの低い声が、床を這うように広がった。
次の瞬間。
ざわめきは、消えた。
まるで波が引くように、室内が一斉に静まり返る。
誰かが息を呑む音だけが、やけに大きく響いた気がした。
「まさか……」
誰が最初に漏らしたのかもわからない呟きが、静寂にひびを入れた。
それを合図に、再びざわめきが広がる。
「賢者だと……? 誰が召喚した?」
「いや、召喚とは限らん」
「この世界に元から存在していた者が、覚醒した可能性もある」
推測が飛び交うが、どれも確証には遠い。
だが――ヴァルドレインの胸中では、別の疑念が確かに形を取りつつあった。
やはり……あの時の円環の明滅は――
結びつきかけた思考を、
「諸君、静粛に!」
ベルドルフの一喝が断ち切る。
室内は一瞬で押し黙った。
「諸君も承知の通り、観測地点であるグラセナ山脈は世界最大級だ。踏破は容易ではない。加えて、あの一帯には未確認の魔獣が生息しているとの報告もある。現時点での直接調査は不可能だ」
ベルドルフは一同を見渡し、続ける。
「魔導機製作部、魔導士長。例の計画はどこまで進んでいる」
「はっ。閣下、完成までは……なお数年を要する見込みです」
「遅いな。一年以内に仕上げろ」
一瞬、空気が張り詰める。
「……善処いたします」
苦渋を押し殺した声で答え、魔導士長は敬礼とともに下がった。
ベルドルフはわずかに間を置き、締めくくる。
「各員、引き続き任務に当たれ。観測部は記録の再解析を進めよ。――例の魔導機が完成次第、大魔導士の中から選抜し、グラセナ山脈の調査に向かわせる」
低く、重く。
「その時に備えよ。以上だ」
短い宣告とともに、緊急会議は幕を下ろした。
だが――
ヴァルドレインの胸に残った違和感だけは、消えなかった。
彼は足を止め、わずかに思考を巡らせる。
あの規模の会議が開かれた以上、すでに皇帝陛下への報告は済んでいるはずだ。
ならば、この先の方針はおおよそ見えている。
――賢者の捕縛、あるいは管理。
だが。
もし、あの魔力が……覚醒直後の賢者によるものだとしたら……
喉の奥が、わずかに乾く。
到底、敵う相手ではない。
この場にいた上級魔導士たちが総力を挙げたとしても――結果は見えている。
かつてこの国が賢者を召喚した際も、その危険性を理解していたからこそ、覚醒前に奴隷紋で拘束したのだろう。
だが、今回は既に覚醒している可能性が高い。
記録によれば、賢者が有するのは叡智の魔力……
ならば取るべきは、対立ではない。
むしろ、穏便に接触し、こちらへ引き入れる道を探るべきだ。
だが、その考えがこの国で通るかどうか。
ジェロール帝国は力で他を従え、支配することで成り立ってきた国家だ。
未知の存在に対してさえ、その姿勢を崩すとは思えない。
……危ういな。
胸の内で、静かに言葉が沈む。
もしあの魔力が本当に賢者のものならば――
誤れば、この国そのものが滅びかねない。
ヴァルドレインは、拭いきれない不安を抱え、重い足取りのまま、その場を去った。




