第53話 理玖は考える
おかゆを食べ終えた俺は、母さんに抱き上げられ、そのままベッドへ運ばれた。
やさしく布団をかけられ、額に触れる手のぬくもりを感じながら俺は目を閉じ、寝たふりをした。
母さんの足音が遠ざかり、扉が静かに閉まる音を聞いてから目を開いた。
一人で、ゆっくり考えたかったから。
ベッドに横たわったまま、天井を見上げる。
そこには満天の星が散りばめられ、静かな夜空のように輝いていた。
自分自身があの夜を忘れないように施した装飾だった。
……あの夜……?
ふと、頭をよぎったその言葉に俺は首を傾げた。
あの夜っていつのことだ……?
「うっ……」
思い出そうとすると頭が締め付けられるようだ。
仕方がない。
今は過去のことよりも今後のことを考えよう。
ここにいる母さんは、記憶の中の姿よりもずっと若い。
けれど確かにここにいて、三歳の俺を守ろうとしている。
その姿は、あの頃――最初の人生と重なる。
もっとも、その頃の俺には三歳の記憶なんてあるはずもないが。
それでも、母さんが亡くなる前の十二歳の記憶ははっきりと残っている。
母さんは、女手ひとつで俺を育ててくれた。
看護師という過酷な仕事の実情も知らないまま、俺は遊びの約束を突然断られて、不貞腐れたことがある。
「ごめんね、理玖。ごめんね。でも、患者さんは小さな女の子なの。緊急手術が必要で……どうしても明日は休めないの」
申し訳なさそうにそう告げる母さんの顔が、今も浮かぶ。
「母さんは、俺よりその患者の方が大事なんだ!」
そう言い放って、母さんを困らせた。
あのときの母さんは、ただ何度も謝るだけだった。
それでも俺は、楽しみにしていた旅行がなくなったことだけを恨んで……
胸の奥が、じわりと熱を持った。
それが何なのか、うまく言葉にできないまま――
そんな幼い自分を思い出しながら、俺は小さく息を吐いた。
「……ごめん、母さん」
天井の星に向かって、誰にも届かない声が落ちていった。
そんな出来事があった数日後、母さんは事故に遭い、そのまま帰らぬ人となった。
子供を庇って命を落とすという、いかにも母さんらしい最期だった。
失って初めて母さんのありがたみが分かった。
それから、俺は父親に引き取られることになったのだが、奴にはもう既に新しい家族が存在していた。
その中に後から入り込んだ俺は、どう見ても邪魔者でしかなかった。
あからさまに虐げられていたわけではなかったが、その家の空気が、俺に居場所はないと告げているようだった。
そして、高校卒業と共に家を飛び出したその日、気がついた時には、この世界に召喚されていた。
それがすべての始まりだった。
だが、召喚されてから帝国で過ごした頃の記憶だけが、どういうわけか曖昧なままだ。
小人たちと共に暮らし、俺自身が死に至るまでの記憶だけは頭の中にぼんやりと浮かび上がる。
そして、今回、母さんと俺が共にこの世界へ転移してきた。
巻き込んだのは、俺だ。
いや――違う。
あのまま母さんだけを残していれば、きっと俺が消えたあとを必死に探し回って、悲しませていたはずだ。
それに、仮に転移してこなかったとしても、元の運命が続いていたのなら……母さんは十年後、あの事故で命を落としていた。
だから、これで良かったのかもしれない――。
そうやって、自分を無理やり納得させてみた。
けれど、小海でのあの出来事を思い出す。
――あの時の光景が、頭から離れない。
白狼族の子供が魔獣に襲われかけた瞬間、母さんは迷いなく結界の外へ飛び出した。
自分の命が危ういとわかっていても、躊躇いひとつ見せなかった。
その姿を見たとき、俺は――
まだ記憶を取り戻していなかった俺は、気づけば母さんの後を追っていた。
そして、無意識のうちに——自分の中に眠っていた魔力を解き放っていた。
あの瞬間だけは、今もはっきりと覚えている。
母さんは、何も変わっていなかった。
目の前に困っている人がいれば、迷うことなく手を差し伸べる。考えるよりも先に、体が動いてしまう人だ。
純粋で、正義感が強い。
その一方で、深く考え込むのは少し苦手で、たいていのことは「なんとかなる」と信じているところがある。
そんな母さんの在り方に、俺は安心すると同時に、どこかで危うさも感じていた。
この村は平和だ。
けれど、あの山脈の向こうに広がる帝国の中で生きていくとなれば――同じようにはいかない。
ふと、長老の言葉が頭をよぎる。
母さんには癒しの魔力がある、と。
その瞬間、胸の奥がざわりと波立った。
その力は――知られてはいけない。
特に人間たちには……
そう、直感がはっきりと警告していた。
――母さんを、守らなければ。
俺が助ける。
今度こそ、俺が――。
思いつきなんかじゃない。
きっと、最初から決まっていたんだ。
俺はグッと拳を握り、静かに決意を固めたのだった。
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