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2歳の息子と異世界転移——賢者と呼ばれた我が子の隠された秘密  作者: 梅丸みかん


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第52話 理玖は涙する

「少しここで待っていてね。いま、卵がゆを温めてくるから」

 階下へ降りると、母さんはそう言って俺をソファに下ろした。


「……うん……」

 小さく返事をする。


 母さんがキッチンへ向かう気配を背中で感じながら、俺はゆっくりと部屋を見回した。

 見慣れているはずの部屋。


 なのに、どこか他人の家みたいに感じる。

 胸の奥が、わずかにざわつく。


 あの頃――

 帝国から……逃げて……


 村……誰かと……作った……?

 ああ……そうだ……小人たちをたすけて……それから……


 思い出そうとする。

 だが、記憶はどこか曖昧で、霧がかかったようにぼやけている。

 確か――


「……ジェロール帝国……」


 その名を思い浮かべた瞬間――

 ずきり、と頭に痛みが走った。

 思わず顔をしかめる。


 そこから先を思い出そうとすると、何かに遮られる。

 大切なものを、失ったような感覚。


 優しい温もり……

 切なくて胸を締めつけるような深い悲しみ……


 そして、全てが闇に沈むような絶望感。

 胸の奥に澱のように残っているのは、そんな感覚だった。


 その時――

 ふいに、誰かの声がよぎった。


 ――「リック」

 やわらかくて、どこか愛おしむような呼び方。

 女性の声だ。


 けれど――

 顔が、思い出せない。


「……っ」

 胸の奥が、強く痛む。


 懐かしいのに。

 どうしようもなく、大切だったはずなのに。

 その面影を掴もうとした瞬間――


 記憶は、霧のように散って消えた。

 あれは……誰だったのか。


 なぜ、思い出せないのか。

 無意識に、拒んでいる……?


 それでも。

 ――思い出さなければならない。

 そんな確信だけが、胸の奥に残っていた。


「……そうだ」

 ふと、記憶の断片がつながる。

 この家にいた頃、俺は日記をつけていたはずだ。


 あれを読めば――

 何か、手がかりがあるかもしれない。


 俺はソファから静かに降りると、机の方へ足を向けた。

 一番下の引き出し――ずっと奥の方。


 指先が、わずかに迷う。

 ……あった。


 赤い背表紙のそれは、確かにそこにあった。

 これを開けば、過去の俺に辿り着ける。


 だが――

 ページをめくる手が、止まる。


 知るのが怖い。

 そんな感情が、遅れて追いついてきた。


 背表紙を見つめたまま、手を止める。

 そのとき。


「あら……? そんなところに本なんてあったかしら……」

 母さんの声。

 肩が、思わず跳ねた。


「理玖? それ、どうしたの?」

 ゆっくりと振り返る。


 母さんがこちらを見ている。


 ――落ち着け。

 今の俺は三歳だ。


「……みつけた……おくに」

 短く答える。

 いまさら隠すわけにもいかない。


 俺は少し迷いながら、日記を差し出した。

 この中に書かれている文字は、この世界のものだ。


「見つけたって……その引き出しの中に入っていたの?」

 こくり、と頷く。

 母さんは不思議そうな顔をしながら、本を受け取った。


「これは……」

 表紙の“DIARY”に気づいたのだろう。

 母さんがゆっくりとページをめくる。


「……ん?」

 眉をひそめる。

 当然、読めないはずだ。


「どうして……」

 そして、母さんは小さく呟いた。


 その反応を横目に、俺は唇を噛んだ。

 中には、帝国での記録もあるはずだ。


 それを読めば、俺の失われた記憶が蘇るかもしれない。

 だが――


 今はだめだ。

 母さんの前では。


 視線だけが、日記に縫い付けられる。

 ……今は、諦めるしかない。


「かあさん……」

「あ、ごめんごめん」

 呼びかけると、母さんは我に返ったように笑った。


「おかゆ、冷めちゃうわね。さあ、食べましょう」

 抱き上げられ、椅子に座らされる。


「はい、理玖。あーんして」

 その言葉に、思わず固まる。


 中身は、大人のまま。

 だが――今は三歳。

 じっと、母さんに差し出されたスプーンの先を見つめる。


「……理玖?」

 母さんが不思議そうに問いかける。


「お腹すいてるでしょ?」

「……おれ、自分で食べる」

 少しだけ間を置いて、そう答えた。


 本当は甘えればよかったのかもしれない。

 だけど、気恥ずかしさが胸の奥に広がった。


「大丈夫? 食べられる?」

「うん……」

 スプーンを受け取り、ゆっくりとすくう。


 口へ運ぶ。

 ――変わらない味だ。

 記憶が、静かに蘇る。


 かつての俺が、美味しいと言ったとき、母さんが自慢げに言っていたことを思い出す。

『でしょう? 塩味のだし汁に味噌と醤油を少しだけ加えるのがコツなの。入れすぎてもダメ。微妙な調整が必要なのよ』


 あの得意げな声。

 あの頃の、母さんの微笑み。


 もう会えないと思っていた人。

 気づけば、視界が滲んでいた。

 一粒、涙が頬を伝っていった。


「え……理玖?」

 母さんが驚いたように身を乗り出す。


「どうしたの? どこか痛いの?」

 心配そうな母さんの声。

 それがなおさら心を震わせる。


「ちがう……」

 俺はかすれた声で、そう言った。


「おいしくて……」

 もう一口、ゆっくりと食べる。


「あまりにも……おいしくて……」

 言葉が途切れる。

 そして、小さく続けた。


「……なつかしくて……」

 母さんの手が俺の頭をそっと撫でる。

 震える体をさすってくれる手が温かくて、涙はますます止まらなくなった。


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