第48話 白狼族の希望
伊織と理玖の姿が見えなくなると、ラザは静かに息を吐いた。
次の瞬間、彼の体が大きく歪む。
人の姿は消え、白い毛並みの大きな狼へと変わっていった。
森を駆け抜けるには、この姿の方が都合がいい。
ラザは風の精霊魔法を使い、フェイの体をふわりと持ち上げると背に乗せた。
そして――
一目散に森を駆け出した。
風を裂くように木々の間を走り抜ける。
やがて洞窟が近づくと、仲間たちが次々と姿を見せた。
血の匂いに気づいたのだろう。
「ラザ! これは……」
最初に声を上げたのはユラだった。
「心配ない」
足を止め、獣化を解いた。そして静かに答える。
「血はもう止まっている」
「いったい、何があったんだ?」
周囲からも不安げな声が上がる。
「魔獣だ。大したことはない」
ラザは短く答えた。
「それに――イオリ殿から薬をもらえた」
「イオリ殿……?」
ユラが不思議そうに首を傾げる。
「ああ。聖なる魔力の持ち主だ」
ラザは静かに言葉を続けた。
「もしかしたら……」
その先は言わず、洞窟の奥へ足を踏み入れる。
その時だった。
「……血の匂い?」
洞窟の奥で横たわっていたシャーレが目を覚ました。
不安に駆られたように、重い体をゆっくりと起こす。
そして、ふらつきながら匂いを辿って歩き出した。
やがて視界に入ったのは――
血に染まった小さな体だった。
一瞬、呼吸が止まる。
「……フェイ?」
震える声が漏れた。
シャーレは思わず駆け出した。
血まみれの息子を抱えたラザのもとへ向かう。
だがその途中、足がもつれた。
体が前へ崩れ落ちる。
「シャーレ!」
ラザが慌てて声を上げる。
「だめじゃないか。無理をするなと言っていただろう」
「でも……フェイが……」
震える声でシャーレが言う。
「ああ、大丈夫だ」
ラザは落ち着いた声で答えた。
「いまから、イオリ殿にもらった薬を使う」
「薬……?」
シャーレが戸惑ったように呟く。
「いいから、見ていろ」
ラザはフェイの裂けた衣服をそっとめくった。
そして、小さなガラス瓶を取り出す。
イオリ殿から渡されたアロウ軟膏だ。
軟膏が触れた瞬間――
フェイの体が、びくりと跳ねた。
「……?」
裂けていた皮膚が、ゆっくりと動く。
吸い寄せられるように――
閉じていく。
まるで見えない糸が傷口を縫っているかのように。
「……うそ……」
シャーレの声が震えた。
シャーレは目を見開いたまま、瞬きすら忘れていた。
ラザはその光景を静かに見つめ、やがて小さく呟いた。
「……やはり、そうか」
ラザの声が低く落ちる。
まるで、何か思い当たる節があるようだった。
「父……ちゃん……」
「フェイ、気がついたか」
震える瞼をゆっくりと開いたフェイに、ラザが安堵を滲ませて言った。
「フェイ……」
シャーレの声が震える。
「よかった……本当に……」
その目から、静かに涙がこぼれた。
「シャーレ、フェイはもう大丈夫だ。お前も休め」
ラザが静かに言うと、フェイも弱々しく笑った。
「そうだよ、母ちゃん。もう休んで。俺は大丈夫だから」
「……分かったわ」
安心したようにうなずくと、シャーレはゆっくりと立ち上がり、洞窟の奥の部屋へと戻っていった。
その背中が闇に溶けた頃。
「ラザ、フェイはどうだ?」
背後から声がかかった。
振り向くと、心配そうな顔のユラが立っていた。
「ああ、もう大丈夫だ」
ラザは静かに答える。
「傷は塞がった。フェイの意識も戻った」
「おいおい、塞がったって……」
ユラは呆れたように肩をすくめた。
「そんなに早く治るわけないだろ?」
「本当だよ。ユラおじさん、ほら」
フェイはそう言うと、服をめくり上げて背中を見せた。
その瞬間――
ユラの動きが、ぴたりと止まる。
「……何だ、これは」
眉が深くひそめられる。
さらに身を乗り出し、フェイの背中をじっと見つめた。
「まさか……どういうことだ?」
信じられないといった顔で、もう一度確かめる。
「さっき、確かに見たはずだ」
ユラの声が低くなる。
「裂けた服の隙間から……あの傷が」
鋭い爪で引き裂かれたような、深い傷。
あれほどはっきりと見えていたはずだった。
だが――
今、そこには何もない。
傷跡どころか、皮膚はすっかり元通りになっていた。
まるで、最初から傷など存在しなかったかのように。
「父ちゃん……俺、なんだか眠くなってきた」
呆然と立ち尽くすユラの横で、フェイが目をこすった。
「ああ、そうだな。血を流したんだ。疲れただろう」
ラザは息子の頭を軽く撫でる。
「フェイはもう休め。ユラ、少しこっちで話そう」
そう言って、まだ状況を飲み込めていない様子のユラの腕を引き、少し離れた場所へ移動した。
ラザは懐から小さな瓶を取り出す。
「この薬だ」
手のひらに乗せたガラス瓶を、ユラへ差し出した。
「その薬で……傷があっという間に治ったっていうのか?」
ユラは半信半疑のまま瓶をのぞき込む。
「ああ」
ラザは淡々とうなずいた。
「聖なる魔力の持ち主――イオリ殿の薬だからな」
ユラはしばらく黙り込んだ。
「……それ、聖女の奇跡みたいだな」
「聖女?」
「人間社会の神殿に囲われてる、癒やしの奇跡を使う連中だよ」
ユラは首を振った。
「だが、あいつらはこんな所に来ない」
その言葉を聞き、ラザはしばらく黙り込んだ。
やがて、低く呟く。
「……聖女、か」
ラザは手の中の瓶を見つめたまま、静かに首を振る。
「いや――」
そして、ゆっくりと言葉を継いだ。
「もしかすると、それ以上の存在かもしれぬな」
ユラが眉をひそめる。
「それ以上?」
「ああ。あの子供も、普通ではなかった」
「子供……?」
ユラは少し考え、はっと顔を上げる。
「ああ、あの潮の匂いがする湖で見た子供のことか?」
「そうだ」
ラザはうなずいた。
「おそらく、彼女の子だろう。あの時は気づかなかったが……」
ラザの目が、遠い記憶を辿るように細められる。
「あの子供の魔力は――」
一拍置き、静かに続けた。
「親父が語っていた“叡智の魔力”に近かった」
「叡智の魔力……?」
ユラが目を見開く。
「ああ。一つの属性に縛られず、虹が混ざり合ったような眩い白。複数の色を纏う魔力だ」
「ということは……まさか……!」
ユラの声が思わず大きくなる。
ラザは静かにうなずいた。
「ああ。かつて、俺たち一族を救ったという――」
低く、重い声で続ける。
「『賢者』と同じ力を持つ者かもしれない」
「あの子供が……?」
ユラは呆然と呟いた。
「聖なる魔力を持つ母親」
ラザは指先で瓶を軽くなぞる。
「そして、叡智の魔力を纏う子供」
洞窟の奥から、かすかな風が吹き抜けた。
ラザは遠くを見るように目を細める。
「もしかしたら――」
低く、しかし確信を含んだ声で言う。
「彼女たちは、俺たち一族が救われる希望となるかもしれない」




