第46話 覚醒
一瞬、目の前が真っ白になり、周囲の景色がかき消えた。
――世界が静まり返る。
理玖の足元から、幾何学模様の魔法陣が広がっていた。
地面を這う光の線が、静かに森の影を押し退けていく。
次の瞬間。
空気が弾けるような衝撃が走った。
魔獣の巨体が、まるで透明な壁に弾かれたかのように吹き飛び、大木へと叩きつけられる。
鈍い音が森に響いた。
私はその場に立ち尽くしていた。
目の前で起きたことを、理解するのに時間がかかった。
理玖の小さな体から、なおも淡い光が溢れている。
血だらけの白狼族の子は、呆然とその光景を見つめていた。
だが、立っているだけで精一杯のようだった。
肩が小刻みに震え、呼吸が荒い。
背中の裂けた衣服から血が流れ、枯葉の上にぽたり、ぽたりと落ちている。
やがて光は、ゆっくりと弱まっていく。
そして。
糸が切れたように、理玖の体が地面へと崩れ落ちた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「理玖ー!」
私は思わず駆け出し、倒れた理玖を抱き上げた。
「ああ、理玖……何が起こったの? 理玖! 目を覚まして!」
必死に呼びかける。
胸が早鐘のように鳴り響いていた。
もし理玖に何かあったら――
その時、私ははっとした。
自分が看護師だったことを思い出したのだ。
まずは落ち着いて、状態を確認する。
理玖の呼吸を確かめる。
……大丈夫。
ちゃんと息をしている。
顔色も悪くない。
脈も正常だ。
よく見ると、ただ眠っているだけのように見えた。
私はほっと息を吐き、理玖の額にかかった髪をそっと払った。
「……もう、びっくりさせないで」
小さく呟きながら、理玖を胸に抱き寄せる。
まだ幼い体は、いつもと同じ温もりだった。
私はようやく周囲の様子へと目を向けた。
あの凶暴な魔獣は、大木に激突した衝撃のせいか体が変なふうに捩れたまま動かない。
あれではもう生きてはいないかもしれない。
それより――
あの子は大丈夫だろうか。
白狼族の子供の方へ視線を向けた。
「精霊が……人間を助けた……? そんな」
呆けたように呟いている。
何のことだろう……?
私は首を傾げた。
その時、森の奥からがさりと枝を踏む音がした。
振り向くと、白髪の男が立っていた。
がっしりとした体格で、私より頭ひとつ以上は背が高い。
鋭い金色の瞳が、こちらを静かに見据えている。
その視線が――
まず、血まみれの子供へ向けられた。
男の表情が、わずかに変わる。
そして次に、絶命している魔獣。
最後に、理玖を抱きしめている私。
男はゆっくりと歩いてくる。
一歩。
また一歩。
森の空気が、ぴんと張り詰めていく。
私は思わず理玖を抱きしめた。
やがて男は、血まみれの子供の前で足を止めた。
「……フェイ」
低い声で、そう呼ぶ。
子供がかすかに顔を上げた。
「父……ちゃん……」
男は一瞬だけ目を閉じ、深く息を吐いた。
それから、ゆっくりとこちらへ視線を向ける。
「……この子を助けたのは、お前たちか」
低く、落ち着いた声だった。
「あなたは……?」
私がそう尋ねると、男はわずかに首を傾ける。
「そうか。名乗っていなかったな」
一拍置いてから、静かに言った。
「私の名はラザ。白狼族の長だ」
思っていたよりも穏やかな声だった。
その響きに、張り詰めていた緊張がほんの少しだけ緩む。
白狼族の長――ラザ……さん。
ラザさんが私に視線を地面に向けると言葉を続ける。
「そこに血まみれで倒れているのは、私の息子――フェイ」
私は思わず、彼の視線の先を辿る。
そこには血に染まった体で座り込む子供の姿があった。
胸がきゅっと痛む。
小さな子が傷ついている。
どうしたら……
私の様子に気づいたのか、ラザさんは小さく息をついた。
「ああ、心配はいらん。子供といえど、白狼族は元々頑丈にできている」
そう言って、フェイを一瞥する。
「まだ意識があるようだ。傷さえ治れば問題はないだろう」
「でも……」
私は言葉を飲み込んだ。
あれだけ血まみれなのに、本当に大丈夫なのだろうか。
知らない子とはいえ、やはり心配になる。
――そうだ。
私は背負っていたリュックを開き、小さなガラス瓶を取り出した。
以前作っておいたアロウ軟膏だ。
理玖が怪我をしたときのために、いつも持ち歩いている。
「あの……そんな大きな傷に効くかどうかは分からないんですけど」
瓶を差し出す。
「これを塗ってみてください。少しは傷の治りが早くなるかもしれません」
これまでこの軟膏が効いたのは、あかぎれや小さな擦り傷、切り傷くらいだ。
でも――何もしないよりはいいはず。
そう願いながら、私はラザへと差し出した。
ラザさんは一瞬、驚いたようにその瓶を見つめた。
「……これを、私に?」
「ええ。あの……実は、私が作った薬なんです」
「君が……?」
ラザさんの目が、わずかに細められる。
「聖なる魔力を持つ君が……そうか」
小さくうなずくと、静かに瓶を受け取った。
「すまない。感謝する」
そして、ふっと表情を緩める。
「よかったら、あなたの名を教えてはくれまいか」
「……伊織です。この子は理玖」
あまりにも落ち着いた声に素直に応じてしまう。
ラザさんは、理玖の方を見るとなぜか驚いたように一瞬目を見張った。
「……なるほど……もしかして、さっきの光はその子か……」
彼は納得したようにそう呟いた。
その言葉にどんな意味が含まれているのかわからない。
「あの……」
私は言葉を詰まらせる。
「礼は、後ほど必ず届けよう」
そう言うとラザさんはフェイのそばへ歩み寄り、軽々とその体を担ぎ上げた。
血まみれの息子を背負ったまま、振り返ることもなく森の奥へ消えていく。
白狼族の長の背中を見送りながら、私は腕の中の理玖を見つめた。
小さな体は静かに眠っている。
けれど――
さっき確かに見た。
理玖の足元に広がった、あの魔法陣を。
あれはいったい、何だったのだろう。
それに、ラザさんのあの言葉の意味は……
ここまで読んでいただきありがとうございます。
とうとう、理玖が覚醒しました。
今後は理玖視点でも書いていく予定です。
ブックマーク、評価、リアクション、とても嬉しいです。
まだまだ続きますので、今後ともよろしくお願いします。m(_ _)m




