第45話 魔獣の脅威
「さて、かなり採れたようだ。今日はこのくらいにしましょう。みんな、撤収だ!」
ロッソさんの合図で、小人たちがそれぞれ帰る準備を始めた。
網籠をまとめたり、もぎ取った実を運んだりと、森の中はにわかに慌ただしくなる。
「イオリ様。これから工房に行って、米の塊を砕いて乾燥させるんです」
「まあ、そうなの? 私にもお手伝いできるかしら?」
「もちろんでさ。米の塊を砕くのに力はいりませんし、イオリ様が手伝ってくれるなら百人力ですなぁ」
ラフさんは、相変わらず大袈裟だ。
「おれもてつだう」
理玖が元気よく手を挙げる。
「おお、リク様も手伝ってくれるんですな。それは頼もしい!」
そう言われて、理玖はぱあっと顔をほころばせた。
「あっ、あっちにも落ちてる」
理玖が木々の間にいくつかの米の実を見つけたようだ。
「イオリ様、もう撤収しますよ」
「ええ、ごめんなさい。先に行ってていいわ。理玖が、あそこにあるものも拾いたいみたいなの」
私はそう言ってラフさんに軽く手を振ると、理玖の後を追いかけた。
「ラフ、先に行っててくれ。すぐ追いつく」
「ロッソ、わかった。じゃあ先に行ってるぞ。みんな、工房に戻るぞー!」
ラフさんが声を張り上げると、一行はぞろぞろと木々の間へと消えていった。
「これ、おれがとった」
理玖は小さな両手にいくつもの米の実を抱え、満足そうに胸を張る。
「さあ、俺たちも行きますか」
「ええ……」
ロッソさんに返事をしかけた、そのときだった。
――白い影が、目の端に映る。
「あれは……」
結界の向こう。
森の木々の間に、ひとつの影が立っていた。
以前見たことのある、白狼族の子だ。
今日もまた、ひとりで結界の外からこちらを見ている。
もしかしたら、親の目を盗んで来ているのかもしれない。
「ああ、白狼族の子ですなぁ」
私の視線に気づいたのか、ロッソさんがちらりとそちらを見て言った。
「まあ、どうせこっちには来られませんよ」
そう言って肩をすくめる。
けれど――
なぜだろう。
私はどうにも、その姿が気になって仕方がなかった。
「え……?」
一瞬だった。
白狼族の子どもの背後。
結界の向こうの木の上で、黒い影が動いた。
気のせい……?
そう思った次の瞬間だった。
葉の隙間から、赤い光が覗いた。
二つ。
ぎらり、と。
その奥で、黒い巨体が枝に張りついている。
「あれは……」
ロッソさんの声が低くなる。
「まちがいねぇ。棘背豹だ」
「スパインパンサー?」
「ああ。獰猛な肉食の魔獣だ。ああやって木の上から獲物を狙う」
獲物。
その言葉に、私の視線が白狼族の子どもへ落ちた。
小さな体……そして、その子の後ろには……
まだ魔獣に気づいていない。
「このままじゃ……あの子が……」
胸がどくんと鳴る。
「危ない……!」
「イオリ様」
ロッソさんが静かに首を振った。
「だとしても俺たちにはどうにもできねぇ。助けられるほど、俺たちは強くない」
わかっている。
でも――
木の上で、影が動いた。
枝がわずかに軋む。
赤い瞳が、ゆっくり細くなる。
今にも飛びかかる姿勢だった。
どうしよう……
私にはどうすることもできないの……?
目の前で、あの子が……
「ロッソさん!」
私は振り向いた。
「理玖を見てて!」
「イオリ様!?」
「かぁしゃん?」
「ごめんね、理玖。あの子に知らせるだけよ」
言い終わるより早く、私は走り出していた。
「いけない! イオリ様!」
「結界の外には出ないから!」
ロッソさんの声を振り切る。
結界の向こう、白狼族の子どもへ向かって――
「逃げてー!」
懸命に駆けながら、思いきり声を張り上げた。
そのときだった。
木の上で、黒い影が大きく動いた。
白狼族の子が、びくりと体を震わせる。
そして、はっとしたように後ろを振り返った。
その瞬間――
魔獣が飛びかかる。
子どもは必死に体をひねった。
黒い影がすれ違い、かろうじて直撃は避けたように見えた。
だが。
衣服が大きく裂けた。
次の瞬間、爪で切り裂かれた背中から血が噴き出す。
子どもは、よろめきながらもなんとか立っていた。
けれど、全身がぶるぶると震えている。
今にも倒れそうだった。
血に染まった体。
数メートル先で、魔獣は再び身を低くした。
枯葉の上で、長い爪がきしりと音を立てる。
喉の奥から、低い唸り声が漏れた。
赤い瞳が、まっすぐに獲物を見据えている。
唇を噛み締め、今にも倒れそうなあの子に目を向ける。
だめだ。
黙って見てられない。
私は一瞬だけ迷った。
だが――
気づいたときには、結界へ向かって飛び出していた。
「イオリ様ー! そっちはダメだー!」
後ろからロッソさんの声。
わかってる。
外に出れば危険だ。
心の奥底でもう一人の私が叫ぶ。
でも足は止まらなかった。
空気の膜に触れた瞬間、びりりとした抵抗が腕を走る。
次の瞬間、私は結界の外に立っていた。
血に染まった白狼族の子。
その少し離れた先に、黒い巨体の魔獣。
そして――
気づけば、私はその間に立っていた。
自分でも信じられなかった。
どうにもできないとわかっているのに、体が勝手に動いていたのだ。
ただ一つ。
あの子を助けたい。
それだけだった。
視線の先にいる魔獣は、私の倍以上の大きさはあるだろうか。
黒い巨体がゆっくりと体勢を低くする。
背中には棘のような突起がずらりと並び、毛の間から鈍く光っていた。
口から見える鋭い牙が剥き出しになる。
棘背豹。
その赤い瞳と目が合った瞬間、背筋が凍る。
ガクガクと足が震えた。
逃げろ、と本能が叫ぶ。
どうしよう。
私には――理玖がいるのに。
「イオリ様ー!」
ロッソさんの声が遠くに聞こえる。
「かあしゃん」
理玖の声が胸に刺さる。
逃げるべきだ。
けれど。
もし理玖があそこにいたら?
もし、あの小さな背中があの子だったら――
私は、きっと同じことをする。
だから、私は一歩も退かなかった。
魔力を高める。
攻撃する魔法なんて使ったことがない。
成功するわけがない。
そんなことは分かってる。
でも、今できるだけのことをするしかない。
そう思ったときだった。
魔獣が、飛びかかってきた。
世界が、ゆっくりになる。
黒い巨体。
迫る爪。
すべてが、スローモーションのように見えた。
逃げられない。
両手を前に出し、魔力を放出する。
でも、やはりなんの魔法も発動しない。
もう、ダメかもしれない。
私は、思わず目を閉じた。
ああ――理玖、ごめんね。
その瞬間だった。
「かあしゃーん!」
声が響く。
結界の向こうから、理玖がこちらへ駆けてくるのが見えた。
「ダメっ、理玖!」
叫んだ、その刹那――
空気が震え、眩い光が、世界を包み込んだ。




