第42話 リュミナの花
家に帰ってからも、私はラフさんが言っていた白狼族のことが気になって仕方がなかった。
長老は「しばらく様子を見る」と言っていた。
けれど――森の結界の外で、あれほどの数が並んでひざまずくなんて、ただ事ではない。
よほど逼迫した事情があるのではないだろうか。
でなければ、そんな姿勢を取るとは思えない。
ふと、以前聞いた白狼族の遠吠えを思い出す。
あの声には、どこか物悲しさが混じっていた。
それに、小海の森で見た彼らの目――。
あれは獣特有の獰猛さというより、こちらに何かを訴えているようにも見えた。
……あれは、気のせいだったのだろうか。
「痛っ……」
私は思わず手を止めた。
夕飯の支度でジャガイモの皮をむいていた指先から、赤い血がじわりと滲んでいる。
考え事をしながら包丁を使っていたせいだ。
集中していないと、こういうことになる。
「かあしゃん、どうしたの?」
私の声を聞きつけたのだろう。
理玖が心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「理玖、なんでもないわ」
「ち、かあしゃん、てから、ち、でてる」
「うん、ちょっとだけ切っちゃった。でもすぐに止まるから大丈夫だよ」
そう言うと、理玖はハッとしたように目を見開き、くるりと机の方へ向かった。
小さな手で何かを掴む。
そして、戻ってきた理玖の手にあったのは――アロウ軟膏だった。
「かあしゃん、これ、ぬって」
両手で大事そうに抱え、それを私に差し出してくる。
きっと覚えていたのだろう。
先日、理玖が転んで膝を擦りむいたとき、これを塗ってあげたことを。
「ありがとう、理玖」
私は微笑みながら軟膏を受け取り、親指にそっと塗った。
すると、傷はみるみるうちに塞がっていき、じんとした痛みもすぐに消えていく。
……自分で作ったものながら、やっぱりすごい効き目だ。
そこで、ふと思い立つ。
これだけ効果があるなら、他の薬も作れるんじゃないだろうか。
それに、村の人や理玖だってこれから先、怪我をしたり、病気にかかることがあるかもしれない。
もちろん、私だって同じだ。
……理玖を危険にさらすようなことは、したくない。
この子と、この村の人たちを守ることが、まず先だ。
それでも――
万が一、白狼族が追い詰められているのだとしたら。
そのまま放っておいていいとも、思えなかった。
あの人たちは、怪我や病に苦しんでいるのかもしれない。
もし、私の作る薬で助けられるのなら――
そんな考えが、頭に浮かんだ。
確か……植物図鑑があったはず。
私はその日の夜、棚の奥からそれを引っ張り出しながら決めた。
しばらくの間、薬草を利用した薬作りに本腰を入れてみよう――と。
植物図鑑のページをめくっていると、ある花の項目で手が止まった。
――リュミナの花。
体力回復、免疫力上昇。生育時期は春先。
挿絵には、黄色い小さな花が描かれていた。
花びらは幾重にも重なり、直径は二センチほど。野にひっそり咲く、小ぶりな花のようだ。
効能は、まさに私が探していたものに近い。
しかも春先に咲くなら――今の時期、どこかで花を開いていてもおかしくない。
ただ、この村の周りに生えているかどうかまではわからない。
どうしよう。
花のことはわかった。けれど、肝心の咲く場所がわからないのでは探しようがない。
……でも。
もしかしたら、村の誰かが知っているかもしれない。
森や野に詳しい小人たちなら、見たことがある可能性は高い。
明日、聞いてみよう。
そう決めると、私は図鑑を閉じ、静かに灯りを落とした。
理玖が眠るベッドの隣に静かに横たわると、ほどなくして眠気がゆっくりとまぶたを覆っていった。
森の朝は、胸いっぱいに吸い込みたくなるほど気持ちがいい。
今日は、さっそく理玖と一緒に村へ行き、薬草が生えている場所を聞いて回ることにした。
家を出ると、ひんやりとした空気の中に、湿った土と若い草の匂いが混ざっていた。
遠くでは小鳥のさえずりが響き、木々の間から差し込む朝の光がやわらかく揺れている。
その中を、理玖が小さな足を一生懸命動かしながら、早足で進んでいく。
どうやら走りたいのを我慢しているらしい。
以前、私が「坂道は止まれなくなるから走っちゃダメよ」と言ったのを、律儀に守っているのだろう。
小さな体を前に傾け、必死に歩幅を広げている姿がなんとも可愛らしい。
村に近づくとどこか落ち着かない空気に包まれていた。
昨日の白狼族の話が頭をよぎる。
心配しても仕方がないけど、どうしても気になってしまう。
私は心を覆う翳りを振り払うように頭を振って、気持ちを切り替える。
今は自分のできることをするしかない。
リュミナの花で薬草を作ることに集中しよう。
まずは亀の甲より年の功。こういうときは、村で一番物知りの人に聞くのが早い。
――というわけで。
「えっと……確か、この家だったはず」
以前、窓から顔を出していたお婆さんの家の前で足を止める。
ゼン婆さん。
たぶん、この村で一番の物知りだ。
すると隣で理玖が、ぱっと顔を上げた。
「かあしゃん、おれ、とんとんしゅる!」
やる気満々である。
「ふふ、分かったわ。やさしくトントンするのよ」
「うん!」
理玖は嬉しそうにうなずくと、小さな手を伸ばし――
コンコン。
木の扉を一生懸命ノックした。
「どなたですかな」
中からしわがれた声が聞こえてきた。
「こんにちは、ゼン婆さん。朝早くからすみません」
「こんにちは、ぜんばあしゃん」
私の言葉をそのまま真似するように、理玖も元気よく挨拶する。
最近はずいぶん流暢に話せるようになってきたけれど、どうしても“さ行”だけは少し苦手らしい。
「おやおや、誰かと思ったらイオリ様とリク様ではありませんか。よかったら、お茶でも……と言いたいところですが、イオリ様には小さすぎる家だから難しいですかねぇ」
扉の隙間から顔を出したゼン婆さんが、申し訳なさそうに言った。
「あ、大丈夫です。ゼン婆さんには、ちょっと聞きたいことがあっただけなんです」
「聞きたいこと?」
「ええ、植物についてなんですが……もし知っていたら教えてほしくて」
そう言うと、ゼン婆さんは目を細め、ふふんと胸を張った。
「ほうほう、さすがイオリ様。いいところに目をつけましたなぁ。植物のことなら、この村であたしの右に出る者はおりませんよ。庭いじりも花を愛でるのも、あたしの長年の趣味ですからな」
「そうなんですか? よかったぁ」
思わずほっと息をつく。
「実は、春先に咲くという“リュミナの花”の場所を知りたくて。黄色くて花びらがたくさんついている花らしいんですが……」
私は植物図鑑に載っていた、疲労回復の効果があるという薬草の名前を挙げた。
「リュミナの花ですか? それなら、畑の周りに毎年この時期、たくさん咲いておりますなぁ」
「本当ですか?」
思わず声が弾む。
「じゃあ、今から行ってみます」
「お待ちなされ、イオリ様は白狼族のことを耳にしておいでかな」
私はゼン婆さんの言葉に胸がドキリとした。
「……ええ、昨日、長老と一緒にラフさんの報告を聞きました」
「そうかい、あやつらはきっと助けを求めているのでしょうな。イオリ様は、ならば話を聞いてあげればいいと思っているのではないですかな」
私は自分の考えを言い当てられたようで何も言えなかった。
「まあ、ソールは慎重派ですからな。ですが、彼は村人全員の生活を背負っているのですよ。万が一の危険も冒せないのです」
ゼン婆さんは、苦しげに目を伏せた。
その言葉とは裏腹な緑の匂いを乗せた暖かな風が頬を撫でる。
「もちろん、長老のお気持ちは分かってます」
私はゼン婆さんを安心させるように、顔全体で笑みを作った。
「じゃあ、ゼン婆さん。教えてくれてありがとうございました」
「ありがとうございました」
理玖もぺこりと頭を下げる。
ゼン婆さんは、理玖が私の真似をして頭を下げる様子を、目を細めて微笑ましそうに見つめていた。




